第5話

 本当は愛されたくて仕方ないくせに、誰かに好意を抱かれることを怖がっている。

 わたしは、そんな風に自分でも自覚ができるほど、この上なく面倒くさくて不器用な性格だ。自分が嫌いで、でもプライドだけは一丁前に高くて。誰かに認めてもらいたくて、だけど自分の全てを晒し出すのが怖くて。

 誰かからの好意を、素直に受け入れることができない。

 海野くんの言うとおり、中学時代に亡くなった母親の影響が少なからずあるかもしれない。もしくは小学生時代、わたしへどうしようもない劣等感を植え付けた人が――わたしと同じ名前を持つ美しいクラスメイトが、人生に未だ影を落としているからなのかもしれない。

 どのみち、わかることは一つ。

 『山月記』の主人公――李徴りちょうみたく発狂して虎になってしまうのは、海野くんじゃない。むしろ、わたしのような人間だろう。


 だからこそ、なのだろうか。

 「大切だ」とか「守りたい」とか……わたしなんかに掛けてくれる、海野くんの言葉が素直に嬉しかった。

 ――でも、それを否定しなきゃいけないと思う自分も、同時にいた。


 ひんやりと冷たい夜風に乗って、波の音が優しく鼓膜に届く。

 話し終えてすっきりしたらしい海野くんは、うとうととまどろみ始めた。その髪を再び撫でながら黙っていると、とろとろとした声がかかる。

「……最後に、お願いがあるんです」

「なぁに」

 尋ねると、海野くんはわたしの手をそっと止め、ゆっくり起き上がった。自然と、わたしたちはベンチの両端同士で、向かい合う形になる。

 おもむろに海野くんが立ち上がったかと思うと、わたしよりずっと大きくて、ごつごつとした男の人の手が目の前に差し出された。反射的にそれを取って、わたしも立ち上がる。

 おずおずと、今度はわたしの頭にその手が乗った。さっきまでわたしがそうしていたように、軽く髪を梳かれ、くすぐったくて思わず首をすくめてしまう。

 いつもと違う状況になんだか照れ臭くなっていると、わたしより幾分か上に位置する海野くんの瞳に、ふっと影が差した。目を合わせ、戸惑いがちに『お願い』が告げられる。

「抱きしめても、いいですか」

「……わたしを?」

 そんなことでいいのか、となんだか拍子抜け。もっと、到底実現不可能なくらいの、別なお願いをされるのだろうかと思っていたのに。

「いいよ」

 腕を広げてみせたら、わたしの頭に触れていた手にぐっと力がこもった。そのまま引き寄せられ、抱きしめられる格好になる。

 夜とはいえ、今は夏。誰かとくっついていれば当然のように暑くて不快なはずなのに、伝わってくる体温は何故かわたしをホッとさせた。

 これまでにわたしが経験したのは――記憶にある限りは、の話だが――兄の力強くたくましい腕で包み込まれるか、もしくは同性の友人から受ける緩いハグだけだった。同じ男の人の、けど兄とは全然違う感触。潮風に揺れた髪から伝わる、汗まじりのシャンプーの匂いが、不思議と心地いい。

 けど、このままでずっといるには、不満が一つ。

「海野くん……腰、痛い」

 そう。海野くんとわたしでは結構な身長差がある。そして今の状態は、抱き込まれているというよりは抱きすくめられているという格好。つまり自然とわたしは爪先立ち、さらに海老反りのようにしなった体制になっているということで。

 これじゃあ彼の気が済むまで、とてもじゃないけど耐えられない。

 後ろから肩を軽く叩くと、「あ、すみません」と声がして、ゆっくりと腕が緩められた。その隙に体勢を立て直し、今度は海野くんの胸のあたりに頭を預ける。うん、こっちの方が楽だ。

 彼女ができたことがあるはずなのに、何故か海野くんは不器用にわたしを抱きしめた。まさかとは思うが、触れたことがなかったのだろうか。

 耳に伝わる海野くんの心臓の音は、少し速い気がした。

「……先輩」

 胸板越しに、海野くんの声が響いて聞こえてくる。返事をする代わりに、背中に回した手をポンポン、とあやすように叩いてあげた。

「先輩……」

 肩に重みが加わる。海野くんの頭が乗ったようだった。

「ずっと、あなたが好きでした」

 朗らかに笑う、その顔も。ちょっと癖のある、その声も。

 リンス嫌いで手入れを怠っている、ふわふわしたその髪も。

 見た目は細っこくて綺麗なのに、力強いタッチと存在感のある絵を次々と生み出していた、その手も。

 身長が低いのを気にして、からかうとムキになるところも。

 テストで学年一位になっても、絵のコンクールで金賞を取っても、自慢したり鼻にかけたりする素振りは一切ない――そんな謙虚な性格も。

 謙虚すぎてたまに卑屈でさえあって、日常会話の中にするっと自然に自嘲を入れてくるようなところも。

 たまにひどく天然で、俺以上に手がかかるところも。

 体育教師たちの間でさえ評判になるほど、運動ができないところも。

 一度引き受けたものには、何があっても最後まで取り組む。そんな、真面目で責任感のある熱心なところも。

 後輩の俺を気遣ってくれる、優しいところも。

 全部、全部。

「渡辺凛、という一人の人間が、俺はどうしようもなく好きでした」

 たとえ、あなたが自分を嫌いでも。

 誰かからの好意を、否定することしかできなくても。

「そんなあなたが、俺は好きだったんです」

 繰り返される、『好きだった』という言葉。どこまでの意味が含まれているのかは知らないし、そもそも過去形という時点で、通常の告白の形からは外れている。

 それでも、まっすぐにぶつけられた想いは、どれもきらきら光ってて。わたしにはもったいないくらい、まぶしくて綺麗で。

「ありがとう」

 わたしを、好いてくれたこと。

 真正面から、わたしという人間に向き合ってくれたこと。

「……嬉しいよ」

 感極まって思わず泣きそうになってしまっていると、わたしの肩口にじわりと何かがにじんだような、しっとりと濡れたような感触がした。

「海野くん……泣いてるの?」

「……ごめんなさい」

 発された声は、やっぱり涙声。

「顔、上げられないから。もう少し、このままで」

「いいよ」

 しょうがないなぁ。

 気のすむまで、わがままを聞いてあげる。

 だって君は、わたしが心の底から可愛く思う男の子――わたしにとって大切な、たった一人の後輩だから。

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