第4話

 大事な人は、何も一人だけじゃない。

 関わってきた中で、この人は自分にとって大切だ。そう思える人が、高校に入ってから随分と出来た気がする。

 中学時代、あんなに人を信じられなかったのが嘘みたいに。

 それはきっと、俺自身が変わったから。

 美術部に入って、渡辺先輩を始めとした、様々な人と関わりを持つようになって。中学時代まで、一人きりで絵を描いていた頃よりもずっと、心に余裕ができたように思う。

 高校の、国語の授業で『山月記』という話を学習した。

 誰との関わりも断って、ただ一人詩を書き続けた男が、『臆病な自尊心』と『尊大なる羞恥心』の狭間で苦しみ、虎に姿を変える……そんな、一見ありえなさそうだけれどもリアルな話。

 俺は主人公の男に、過去の自分を重ねあわせた。一歩間違えていれば……いや、もしこの美術部に入っていなかったら、自分もいずれこうなっていたかもしれないと。

 そんな話をした時、渡辺先輩は言った。

「海野くんは、虎にならないよ。だってみんな、君を好いているんだから」

 そして……その言葉に俺が目を丸くする間もなく、すぐに「わたしと違ってね」と自嘲気味につぶやいた。

「わたしこそいずれ、虎になっちゃうかもね」

 その時に浮かべたひそやかな笑顔は、いつも通りに見えるけど、やっぱりひどく悲しかった。


 先輩の在学中、俺に彼女ができた。演劇部の、後輩の女の子。彼女の方から告白してくれて、俺に好意を持ってくれているというその事実だけで単純に嬉しくて。付き合うと決めるのに、さほど時間はかからなかった。

 おそらく記憶している限りでは、俺にとって初めての彼女だったはずだ。

 後輩として、先輩にこのことを報告した時、先輩は「大切にしてあげて」と言った。俺にはそれが、「わたしともう、これ以上一緒にいない方がいい」と言ったように聞こえて。

 怖い、と思った。

 この人が、俺から離れていくことが。

 俺は、彼女ももちろん大事にしたかった。でもそれ以上に、渡辺先輩のことも大事にしたかった。

 同じように、とはいかなくても、それでもただ一緒にいたかった。

 先輩は、俺より先に卒業してしまう。たとえ追いかけることはできなくても、あと少しの間だけは、一緒にいられる残りの時間を惜しませてほしかった。

 今思えば、ひどいわがままだ。

「どうか、これまであなたと過ごした大切な時間を……これから貴方と過ごせる、残り少ない貴重な時間を、俺から奪わないで」

 絞り出すように言ったら、先輩は黙ってうつむいてしまった。

 そっとのぞき込んだら、今にも泣きそうな表情をしていて……その時の先輩の顔は、今でも忘れることができない。


 時が経って、やがて先輩は卒業した。

 俺の懇願通り、先輩は卒業するその時まで部室にほぼ毎日のように顔を出してくれて、俺の望む限り傍にいてくれた。俺の、憧れの先輩であり続けてくれた。

 卒業式では自分の時より号泣して、周りから引かれたっけ。

 けど……それくらい渡辺先輩が卒業してしまうことが、あの美術部から先輩たちがいなくなってしまうことが、悲しかった。


 三年生になって、進路を決めなきゃいけないって時に、俺は初めて親に反発した。大学へ行って、公務員の資格を取れと言う両親に、俺は「どうしても美大へ行きたい」と盾突いたのだ。

 もちろん両親は猛反対。けれど俺はそれを押し切って、関西の美術大学を受けた。

 どうせ受かるはずがないと思っていたんだろう両親は、その後俺が突き付けた合格通知を見て唖然としていた。あの瞬間ほど、気持ちよかったことはない。

 半ば勘当という形で、俺は関西に引っ越した。

 彼女とも結局、その時に破局してしまった。もともと甘え気質の子で、遠距離恋愛が耐えられないって泣きつかれて……でも当然、まだ卒業してない子を連れて引っ越すことなんてできないし。

 俺から、別れを告げた。

 一度は大切にすると決めた子だ、当然傷つけたと思ったし、それなりに罪悪もあった。けれど、不思議と後悔はなかった。

 これでよかったんだって、思った。

 おそらく今頃、あの子は他にいい人を見つけているだろう。そうであることを、せめて願いたいと思う。


 ……あぁ、そうだ。先輩、覚えていますか。

 俺が受験の前日、美大を受けるって連絡を入れた時、先輩は応援の言葉を掛けてくれましたね。あれが、俺にとってどれほどの原動力になったか。

 強気なことを両親に言っても、やっぱり内心は不安で仕方なかったんです。それを解きほぐしてくれたのは、先輩だったんですよ。

 本当に……本当に、感謝しているんです。


 渡辺先輩に、久しぶりに会いたいなと思ったのには、理由があります。

 実は今年になるまで、俺は実家に帰っていなかったんです。さっきも言ったように、半ば勘当されるようにして家を出たから、帰りづらくて。

 けど、二年生になって、俺もお酒を飲める年になったので……意を決して、帰ってきました。

 母親は、俺のことをとっくに許してくれていました。今の生活が楽しいって言ったら、涙を浮かべて喜んでくれて……母と子の絆は堅いとか、母は子を無条件で愛するとか、そういうのって本当なんですね。先輩も、その辺のことはよくご存じだと思いますけど。

 父親とはお酒を飲みながら、二人で初めて腹を割って話をしました。俺自身のこともそうだけど、父親の身の上話とか、そういうことも全部。

 父親の口から「許す」って言葉を直接もらったわけじゃありません。でも、俺は本当に嬉しかったんです。初めて、父親が俺を一人の人間として見てくれたから。

 「また、一緒に飲もう」って、言ってくれたから。


 明日、あっちに帰るんです。

 いろんなわだかまりも解けてすっきりした今、一つ心残りがあるとしたら……やっぱり、先輩のことだったから。

 先輩も、夏休みでこっちに戻ってきてるかなって思って。一か八かでメールしてみたら、返事が来て……そしたら、急にものすごく会いたくなっちゃって。

 急に、こんなところにまで連れ出してすみませんでした。

 でも、もうちょっとだけ。

 もうちょっとだけでいいんで、手のかかる後輩の、どうしようもないわがままに付き合ってくれると嬉しいです。

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