第3話
父親が銀行員で、母親が教師。
お互いに共働きで、平日はほとんど家にいなかった。休日にも家族旅行なんてものは滅多になかったし、常に仕事で疲れている状況だった二人が、息子を構ってくれることは少なかった。
そのくせ、成績やマナーに関しては、人一倍厳しくて。
幼い頃からゲーム一つさえもさせてもらえなかったし、まだ明るいうちから門限だから帰って来いだなんて言われる。外で遅くまで楽しそうに遊んでいる同級生たちのことが、妬ましくて仕方なかった。
母親は中学教師で、俺の通っていた中学校にちょうど赴任していた。常に息子の動向に目を光らせることができるような環境だったから、友達と羽目を外したりなんていう下手なことができない。ちょっとでも……例えば授業中にうたた寝してしまったとか、それだけのことでもどこかから情報を仕入れてきては、家でしこたま叱られた。
その時は特にストレスが溜まった。反抗期さえ許してもらえない状況だったから、何もできなかったけど。
結局、俺は弱虫でしかないんだから。
そんなどうしようもない俺のことを、友達は受け入れてくれた。学級委員長もやったし、表面上は、友人の多い奴、で通っていたと思う。
でも、本当は知っていた。
いつも仲良くつるんでたはずの友人たちが、陰で俺のことを、「つまんない奴」って言ってたこと。
そのくせ俺の前ではにこにこ笑って、友達だもんな、なんて馴れ馴れしく肩を抱く。女の子たちも、こっちを見ては何かこそこそ話してて。何を言われてるのかわからないから、余計に恐ろしい。
俺はいつしか、人を信じることが怖くなっていた。
両親が趣味として唯一俺に許してくれたのは、絵を描くこと。
一心不乱に筆を動かしてる、その時だけは、憂鬱なことも何もかもを忘れることができた。
自分が描く、自由気ままな世界観が愛おしくて。
同時に、羨ましくもあった。
何にも縛られず、俺も自由な世界に行きたい。いっそ、絵の中の世界にでも行けたらいいのにな。なんて。
叶わない願いを抱いては、虚しい気持ちになった。
転機が訪れたのは、高校の頃。
入学して、入る部活を決めなきゃならないって時期。
下手なことやって勉強に支障が出るくらいなら、美術部に入りなさいと親が言ったから、そこでもまだ親に対して反抗できなかった俺は仕方なく、部室である美術室を訪れた。
入ってみてまず驚いたのは、中にいた部員の先輩たちが、みんな朗らかそうに笑い合っていたことだ。
中学校の時、同じく美術部に入ろうとして部室を訪れた時とは違う空気。
あの時は、みんな一心不乱に作品に取り掛かっていて、鬼気迫っていっそ怖いくらいだった。ささくれた心のまま、この場にはいたくないと思うと、自然と足は遠ざかって……中学時代の俺は、結局帰宅部を選択した。
だから高校で美術部を見学した時、美術部に対して勝手に抱いていた、陰気とか変人とか孤独とかってイメージが、ガラリと変わった気がした。
みんなが周りと関わりながら、楽しそうな会話の中でそれぞれ切磋琢磨しながら、自分の作品を仕上げている。
俺みたいな飛び入りの新入生が見学させてほしいといきなり頼んでも、拍子抜けするほど呆気なく受け入れてくれる。緊張をほぐすためか、先輩方がみんな話しかけてくれて、リラックスできる空間を作ってくれて。
俺がずっと入りたかったのは……ずっと求めていたのは、こういうコミュニティだ、って思った。
その場ですぐに、美術部に入ることを選んだ。
渡辺
初めは単純に、先輩が描く独特のタッチが好みだった。繊細な筆運びなのに、それでいて仕上がる作品は実に大胆で。適当なようでいて、全てが綿密に計算され尽くしている。
仕上げに入る頃には、さすがにみんな集中している。それは当然のことだ。そんなメリハリのあるところに、俺は惹かれたんだから。
その中でも、先輩の集中力と言ったらひときわ目を引くほどだった。顧問の先生も、「渡辺の仕上げの追い込みには誰もかなわない」と舌を巻いていたほどだ。
けれどもそうでなくたって、先輩には確かに腕があった。
お友達と話している間に、スケッチブックにさらさらと描かれるデッサンも、細かいところがよく観察されていて驚いたものだ。いつの間にそんなに見ていたんだと思うくらい、短時間で先輩はそれを紙の上に映し出してみせる。
俺よりも二十センチは低いであろう身長と、細身の身体。壊れるんじゃないかって勢いでカンバスにぶつかっていって、そこから次々と生み出される作品のパワーに、圧倒された。
「海野くんの絵ってさ、筆運びがすごい丁寧なんだよね。下書きの線の時点で分かる。すごく、この作品を大切にしてるんだなっていうのが伝わってきて……まさに『作者に愛されてる絵』って感じ。いいなぁ。わたしもそんな絵描いてみたいよ」
いつか渡辺先輩は、そう言ってくれた。
でも、先輩が思ってくれてるのと同じくらい……いや、それ以上に、俺はずっと憧れていた。先輩の絵に、そして名前通りの
笑顔の裏に、きっと誰にも触れられたくない部分がある。それはすぐに分かった。
お友達に囲まれて心底楽しそうに笑っていても、一人になると途端に、誰も寄せ付けないオーラを発する。
孤高の人、寂しい人。
それでも、先輩がくれる作品へのコメントは的確で、かつ親身だった。俺以外にも、何人もの後輩が、そのアドバイスを乞いに行っていたほど。
そのくせ褒められると先輩は、ひっそりと笑って言うのだ。
「わたしの絵なんて、本当にクズみたいなもんだから」
自分を貶めるくせに、強がっているのが分かる。それが痛々しくて、同時に悲しかった。
先輩はいつも「誰かの庇護を受けるのは、同情の目を向けられるのは、屈辱でしかない」と言っていた。それはひょっとしたら、中学時代に亡くなったというお母さんの影響が、少なからずあったのかもしれない。
けれど、それでも。たとえ、必要とされていなくても。
俺は、先輩にはいつでも、平和に笑っていてほしいと思った。のびのびと、絵を描いていてほしいと思った。
先輩を、守りたいと思った。
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