第2話
思えば青春時代を過ごした中で、家族以外では海野くんが一番わたしに近い存在の男性だったかもしれない。
部活で関わるのはもちろん当然のことだったけど、それ以外にも一緒に多く時間を過ごした。
二人きりで、勉強を教えたこともあった。
遊びで、互いに手を握り合ったこともあった。
寝不足だというから、膝を貸して眠らせてあげたこともあった。
文化祭を、一緒に回ったこともあった(そうだ、確かその時も手をつないで歩いていたんだっけ)。
誰もいない彼の家に、お邪魔したこともあった。
でも、学校や他のところで変な噂が立ったことは、ただの一度もない。
わたしは特に学校で有名人というわけじゃなかったし、結構オープンな性格だった海野くんは、わたし以外の女子ともそうやって近い距離で関わるような子だったから。何か言われたとしても、『また海野の奴、女連れてるよ』程度のものだ。わたしの知る限りでは、の話だが。
実際、そういう男女として付き合うなんて話も、海野くんとわたしの間には全然なかった。海野くんの方は――ちょっと、軟派気質な子だったから――そんなことを軽口混じりに言うこともあったけど、そんなの本気じゃないことくらい知ってたし、第一わたしには他に好きな人がいたのだ。
一線は、引いていた。確実に。
傍から見ればそう見られてもおかしくないほど近くで、恋人まがいのことを繰り返していたとしても。
わたしたちの間に、男女の関係は一切なかった。
在学中、海野くんに彼女ができた。演劇部の下級生だという彼女は、小柄で可愛らしくて、まさに守ってあげたいような子。わたしが卒業するまでに、別れたという話は本人からも噂でも聞いていないから、今も続いているのかどうなのかは知らない。
『彼女のこと、一番に大切にしてあげないといけないね。わたしなんかより、ずっと』
これまでみたいに、あんまりわたしと一緒にいない方がいいよ。
海野くんに彼女ができたと本人の口から聞いた時、わたしはそう言外に込めて笑った。
すると、海野くんは少し複雑そうな顔をした。
『俺は、大事に思う人たちを……平等というわけにはいかないけど、全員を、大切に扱いたいんです』
だから……渡辺先輩とも、これまで通りの距離感でいたい。
『どうか、これまであなたと過ごした大切な時間を……これから貴方と過ごせる、残り少ない貴重な時間を、俺から奪わないで』
わたしは、何も言い返せなかった。
――分かっていた。そういう子なのだ、彼は。
よく少女漫画なんかで見かけるような、一人の女性だけを大切に、一途に守り続けるようなヒーローじゃなくて。
大切に想う人は、この世にたくさんいて。不器用ながらも、その全員を慈しみ、守りたいと思う。
彼は、そういう人なのだ。
そして……わたしは彼にとって、そのうちの
それでも彼がこんなわたしに対して注いでくれる想いと、まったく同じだけのものを、わたしは彼に返すことはできない。それなのに、傲慢なわたしはそのことを少しだけ寂しく思っていた。
◆◆◆
かつて海の家だった、今は使われていない古小屋が、暗闇に慣れた目の前にぼんやりと見えてくる。いつから立っているのか、すっかり風化した――それでも破れなどは一切ない、大きなパラソルの下。三、四人は掛けられるだろうという大きさのベンチがあったから、そこに二人で並んで座る。
涼しく吹く夜風は潮を含んでいて、いささか目に染みた。
「ね、先輩。久しぶりにやってくださいよ」
一瞬何のことだかわからなかったけど、おもむろに海野くんがわたしから距離を取り出したことで、あぁ、と納得する。わたしも、海野くんのいる方から離れて、ベンチの隅の方へ移動した。
互いにベンチの両端へ寄ったところで、海野くんの頭がこちらへ倒れ込んでくる。ちょうどわたしの膝のあたりに、彼の頭が乗った。まぁ……その、いわゆる膝枕というやつだ。
太ももに伝わる頭の重みが、懐かしい。そうだ。こうやって高校時代に、何度かしてあげたことがあった。
「そういえばね」
流れる沈黙がなんとなく気まずくて、口を開いた。手持ち無沙汰になっていた手で、当時そうしてあげたように、膝上の海野くんの頭をそっと撫でる。
「成人式で、美術部の子たちに会ったんだ」
「先輩方、お元気でしたか」
「みんな元気だったよ」
実際、それまでに連絡を取り合った部員はほとんどいなかった。だから、その時初めて境遇を知った子さえいるほどだ。けどやっぱり当時の頃に戻ったと思うと懐かしくて、あの時はつい思い出話に花が咲いたっけ。
「集まって話したら、全然あの頃と変わってなくて。部長がさ、今度久しぶりに美術部のみんなで集まって飲もうって言ってた」
「いいですね」
「実現がいつになるかは分かんないけど、決まったら連絡するからさ。海野くん、幹事やってよ。そういうの得意でしょ。海野くんが声掛けてくれたら、後輩たちもきっと集まってくれるよ。男の子なんか特にさ。ね、お願い」
「そうですかね……じゃあ、ちょっと聞いてみます」
「よろしくね」
膝の上の頭が、もぞりと動く。
「先輩の、頼みですから」
わたしを見上げた海野くんは、何故か少しだけ切なそうな眼差しを向けてきた。
髪を梳いていた手が、突然体温の高い大きな手に掴まれる。
「ね、先輩」
さっきまでとは違う、低めのトーンに、驚きと戸惑いを隠せない。
「俺のひとりごと、聞いてください」
びっくりして手をひっこめることさえできずに固まったわたしに、続けて掛けられたその声は、ひどく弱々しかった。
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