海のひとりごと
凛
第1話
『これから、ドライブにでも行きませんか』
夏休み。
実家の縁側で夕涼みをしていると、高校時代の部活の後輩だった
久しぶり、の挨拶から始まる、他愛もないやりとり……だった、はずだ。最初は。それなのに、互いに現在実家へ戻っているということを伝えあったところで、相手は唐突に冒頭の文面を寄越してきたのだ。
海野くんはわたしにとって今でも可愛い後輩であることに変わりない。だからそのこと自体は嬉しいし、別に構わないのだが。
――問題は、今がもうすぐ日付の変わる時間帯であるということだった。
『今から? いいの? 海野くんの家って、親御さんが先生だし、門限とか厳しいんじゃなかったっけ』
『大丈夫ですよ。うちの親、もうとっくに寝ちゃってますし。黙って出てきましたけど、広い家ですから多少物音がしたってバレません』
そういう問題なのだろうか。
っていうか、
まさか、と思っていると、玄関の方からブロロロロ、と車のエンジン音のようなものが聞こえてきた。慌てて立ち上がり、玄関へ飛んでいく。
近所迷惑も構わず玄関の戸を勢いよく開けると、一台の自動車が目の前に飛び込んできた。運転席から降りてきたのは、見覚えのある――しかし以前より大人っぽくなった、わたしの可愛い後輩。
「お久しぶりです、
間抜け面のわたしを見つけた海野くんは、憎たらしいほど余裕ありげににっこりと笑った。
◆◆◆
父は今日、夜勤で出ているので家にいない。
兄と祖母はもう寝ていたけれど、黙って出ていくのは少し憚られたので、もしどちらかが起きてきた時のために置手紙をしておくことにするが……実は、できれば何もバレませんように、と心の中で密かに祈っている。
仏壇で相変わらず無表情を浮かべた、母の遺影が咎めるようにわたしを見る。思わず、しー、と人差し指を唇に当てて呟いた。
わたしが中学生の時に死んだ母は、高校で知り合った海野くんのことをそういえば知らないのだ。生前ならきっと延々文句を言われただろうと苦笑しつつ、「ごめんね」と小さく謝った。
まぁ、二人ともそれぞれの部屋にいるから気づかないだろうし、もし何かあれば連絡があるだろう。……あってほしくないけど。
海野くんには少し待ってもらって、簡単に着替えた後、携帯電話とお財布だけ持って家を出た。
知らない間に免許を取っていた海野くんの、愛車の助手席に座る。男の子にしては意外と綺麗にしているようで、わたしは感心した。
「どこに行くの?」
「そんなに時間はかかりません」
望んでいたのとは違う答えが返ってきたけど、無視されなかっただけ良しとする。時間がかからないということは、車で十分もかからないくらいの場所だろうか。
乗り物酔いしやすいわたしにも最適な、安定した上手な運転に安堵する。
「海野くんも、もう大学生か」
「はい。関西の美術大学に行ってます」
「絵、上手かったもんね」
「先輩は高校の時から俺のことそうやって褒めてくれますけど、実際俺より上手いのなんてその辺にゴロゴロいますもん……入学できただけでも奇跡ですよ。授業の度に心折れそうになります」
「あはは。でもさ、美大ってそんなもんだよ。わたしなんて、オープンキャンパスの時点で諦めたもの」
「もう絵は描かれないんですか」
「わたし? ……趣味で、今でも休みの日とかたまに描いたりするよ。上手くできたなって思うと、自分のホームページに載せたりする。でもホントに、その程度。絵を描くのは好きだけど、本格的にやるには、わたしは向いてないから」
「俺は、先輩の絵、好きでしたよ。一緒に勉強がしたかった」
「ふふ、ありがと。お世辞でも嬉しいよ」
「……お世辞じゃないんだけどな。まぁいいや。先輩は、今北陸にいらっしゃるんでしたっけ」
「北陸の大学で、経済とか商業とか、その辺のことやってる。高校の時に会計の勉強してたのが、役に立ってる感じかな。でも来年はいよいよ就活だし、憂鬱だよ」
「先輩なら大丈夫です。地頭いいんですし」
「そう言ってくれるのは海野くんだけだよ」
そんな他愛もない会話を交わしながら、わたしはしばらく窓の向こうで流れていく風景――とは言っても、暗くてほとんど街灯しか見えないんだけど――を眺めた。
予想通り、そこには
近くの駐車場に車を停め、高校時代より格段に上手になったと思われる海野くんのエスコートを受けて夜の街を少し歩く。
真っ暗で人通りが少ないとはいえ、海野くんに連れられやって来たそこは、覚えのある場所。一人暮らしをするようになってからは、あんまり来ることのなかったところ。
閑散とした、地元の海。
わたしが、そして海野くんが生まれ育ったこの街は、かつて人魚伝説が囁かれていたところで、この海にも名残が垣間見える。
例えば少し離れたところに見える、小さな灯台の両隣に鎮座している人魚の銅像。たおやかな女性の丸みを帯びた上半身と、下半身を纏う魚の鱗が細かく彫られたそれらは二対になっている。明るい時に見ると芸術的なのだが、今はただの黒光りする謎の物体でしかない。
灯台の前のところには、同じく黒光りする謎の物体――石でできた大きな写真立てみたいな板っぽい置物があって、そこに歌が彫られている。人魚をテーマにしたいわゆる市町村歌の一つらしいのだが、わたしは一度しか聴いたことがないし、知名度もさほどなかったりする。
まぁ、それはさておき。
夜の海は、辺りの暗闇を吸い取ったように真っ黒だ。合間に点々と浮かぶホタルイカくらいの小さな明かりは、おそらく反射しているそのあたりの街灯だろう。
風が吹き、時折水面が揺れる。ザッ、ザッ、と規則正しく聞こえてくる波の音は、いっそ心地よささえ覚える。
当たり前だけど、人の姿はない。わたしと海野くん以外には、誰も。
「少し、歩きましょう」
さらさらとした、掴みどころのない砂の上。サンダルを履いているから、なおさら歩きづらい。足場が悪いことを考慮してか、海野くんは相変わらずわたしの手を取って歩みを助けてくれていた。
彼氏でもない男のひとと手をつないで歩くなんて、と、兄や祖母なら怒るかもしれない。誰か知り合いに見られたら、確実にからかわれる。でも今は夜で誰も見ていないし、わたしはもともとそういった感覚が薄い方なので――それも、相手は可愛い後輩なので――構わずそのままにしていた。
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