第1話 彼女の罪と甘い蜂蜜

 雲がどんよりと空を覆い、いつもは頭上で輝く太陽も為す術なく隠れている。朝から続く天気は見ているだけで心も沈んでいきそうな様子だ。

 そんな今にも雨が降り出しそうな中、町外れの道をひとりの青年が歩いていた。

 地図を片手に歩みを進めるその青年の格好はいささか季節はずれだ。きっちりと着込んだ黒い外套に同じく黒いズボン、首元には赤いマフラーが巻いてある。革製の使い込まれた鞄を左手に持つ彼は、目的の家を見つけると、もう一度地図と照らし合わせてからドアの前に立ち二回ノックをした。

 しばらくするとドアの向こうからパタパタと軽い足音が近づいてきて、「どちら様ですかー?」と若い娘の声で返事があった。


「こんにちは、マリー・ブラウンさんのお宅でしょうか。国から派遣されてきました、鋏屋のウィル・ボンドと申します。明日のことについて少々お話よろしいでしょうか?」

「ああ、鋏屋さんね。ちょっと待ってて、いま開けるから」


 カチャリ、と鍵が外れる音がしてドアが内側に開く。

 玄関先に出てきたのは、柔らかな栗色の髪を頭の上で一つに纏めた可愛らしい少女だった。


「あれ、意外と若いんだ。私、もっとおじさんが来るのかと思ってたわ」

「確かにこの仕事はベテランが多いですから。僕なんて彼らから見ればまだ生まれたてのヒヨコみたいなものです」

「ヒヨコだなんて。あなたはヒヨコというより犬っぽいのに」

「ああ、犬に似ているとはよく言われます」


 少女はウィルの格好を上から下までざっと見ると、花が咲いたような笑顔で言った。


「それも、黒い大型犬よ。赤い首輪をした、ね」


 さあ上がって、と少女は彼を家の中へ招く。 

 黒い髪の青年は茶色い髪の少女に続く。この家はそこまで広くないらしく、部屋は二部屋しかなかった。彼女は手前の部屋に彼を案内して座るように促す。

 そこには四人がやっと座れるような小さいテーブルと背もたれのついた木製の椅子が二つあり、そのうちのひとつにウィルは言われたとおり腰掛けた。そして、赤のマフラーと黒の外套を外して椅子の背に掛ける。


「ちょっと待ってて。お客さんにお茶も出さないんじゃおばあちゃんに叱られちゃう」

「お手伝いします」

「あっ、お客さんは座っているだけでいいから!」


 手伝おうと腰を上げたウィルを少女が押し止める。そのため、しぶしぶウィルは再び腰を下ろした。少女は満足そうに微笑むと奥のキッチンのほうへ向かい、戸棚からティーセットを出そうとしたところで一旦手を止める。


「紅茶でいい? お茶菓子とかはないけれど」

「大丈夫です」


 短い問答を終えて、少女は紅茶を淹れ始める。会話のない二人の間にティーポットにお湯を注ぐ音だけが響いて沈んでいった。


「ウィルさん」

「はい、なんでしょう」


 ティーカップに注ぎ終えた紅茶とミルクのカップ、角砂糖の入った瓶を花柄のお盆にのせて、少女はテーブルに向かう。カチャリと小さな音を立ててお盆はテーブルに置かれた。二つのティーカップのうち片方はウィルの前に出され、もうひとつは少女が座りながら自分の近くに引き寄せる。

 テーブルの上にはいつの間にか一枚の書類が出されていた。マリー・ブラウンと打ち込まれた文字の横には、目の前に座る少女の顔写真がクリップで添えられている。


「私の話、聞いてくれる?」


 マリーは紅茶に角砂糖をひとつ落としながら言った。


「もちろん。そのために僕はうかがったのですから」

「……ありがとう。でもあなた、いつも仕事をする人にこうやって話を聞いてるの? 鋏屋さんって他人に興味を持たない人が多いって噂だけど」

「たしかに自分から他人と関わろうって人は鋏屋にはあまりいませんね。知ったところで自分が仕事をするときに辛くなるだけですし。だけど僕は知りたい、知らなきゃいけないと思うんです。これから自分が断ち切るのがどんなものなのか、どれだけ大切なものなのか。それが人と人の“繋がり”を切る仕事をする上での責任でもあると僕は考えています」


 砂糖の入った紅茶を小さなスプーンでかき混ぜていたマリーの手が一瞬止まり、ウィルの顔をキャラメル色の瞳が映し出す。そこには真面目な顔をしているまだ若い男がいた。けれど、彼を見ている少女のほうがもっと若かった。


「優しいのね。でも、私にはあなたは壊れ物の飴細工のように見えるわ。周りを曇ったガラスで覆ってしまえばいいけれど、それじゃあきっと甘くて苦い飴ではいられない」


 窓の外ではついに雨が降り始めていた。何にも邪魔をされることなく雨は大地に降り注ぐ。窓ガラスが温度差で結露して水が垂れる。


「ごめんなさい、私の話をするつもりだったのにいろいろ聞いてしまって。じゃあ、改めてお話ししようかしら。私がなんで人を殺してしまったのか」


 ティーカップを指で持ち上げて、マリーは紅茶を一口啜ると、軽く息を吐いた。そして何かを思い出すようにまぶたを閉じる。

 雨がいよいよ本降りになってきたらしく、雨音が家のなかにまで響いて二人の会話の空白を埋める。

 ウィルは手元にある紙に目を落としていた。そこには味気ない文章が淡々と述べられていて、自然と口から言葉がこぼれ落ちる。


「六月五日、マリー・ブラウンがオルシーニ家跡継ぎのジョン・オルシーニを殺害……」

「そうよ。私はその日、彼を殺した。紅茶に睡眠薬を入れてぐっすりと眠らせてから身動きできないようにして、両手でジョンの首を締めた。彼が二度と目を覚ますことのないように」


 マリーは目を細めて、両手を自分の首もとにあててみせる。口元には笑みをたたえていたが、それでも彼女の表情はどこか寂しく見えた。


「どうして、殺してしまったのですか」

「ふふっ、本当に聞きたいの? きれいな理由じゃないわよ」


 上から渡された資料には事実しか書かれていない。そこにあったはずの理由など知る必要もないとばかりに。味気ない記号の羅列の意味を読み取ることなく、ウィルの視線はマリーに向かう。そして彼は軽くうなずいてみせた。


「復讐よ、姉を殺された復讐。オルシーニの坊っちゃんに遊び半分に振り回された姉は自殺してしまったの」

「復讐、ですか」


 ウィルはマリーの顔を見ていられなくなり、視線をそらした。マリーの顔にはもう笑みは浮かんでいない。


「後悔はしてないの。ただ、おばあちゃんと家族でいられなくなってしまうのが悲しくて。今となっては、たったひとりの家族だから」


 親族との繋がりを断ち切る“縁切り”の刑はこの国では極刑にも等しい。それを執行されることは天涯孤独になることを意味するからだ。鋏屋という職業は国から保護されているとはいえ、それは彼らを忌み嫌う人が多い理由だった。


 ウィルは今まで一口も飲んでいなかった紅茶を口に含む。そして彼はティーカップから口を離したあと、中を覗きこんだ。薄い茶色に染まっている水面には、まだ波紋が広がっていた。


「甘い……」

「ええ、あなたのには蜂蜜を入れておいたから。……あら?」


 玄関の扉が開く音がして、外の激しい雨音が聞こえてきた。音につられてウィルは後ろに振り向く。

マリーは椅子から立ち上がって言った。


「ごめんなさい、きっとおばあちゃんだわ。ちょっと待っててね」


 彼女はウィルを迎え入れた時のようにパタパタと足音を立てて部屋を出ていく。

 ひとりだけ残されたウィルは書類をまとめてから持ち上げて、机の上でトントンと音をたてながら紙の端を揃える。


 すると、突然玄関の方から大声が響いてきた。それはしわがれた女の声で、「出ていけ」としきりに叫んでいる。


「待って、待ってよおばあちゃん、この人はわざわざ私の話を聞きに来てくれていたのよ。おばあちゃんだっていつも言ってたじゃない、『客人は丁寧にもてなしなさい』って!」


 マリーに止められながらも部屋に入ってきた老婆は、孫の言葉にも耳を貸さず手を振りかざして黒い青年に罵声を浴びせる。


「出ていけ! 黒い悪魔、あたしたちにかまってくれるな。お前は客人なんかじゃない、早く出ていけ!」


 老婆の叫びは部屋全体に響き渡っていた。ここらの家は壁が薄いので近所にも聞こえているだろう。目をつり上げて興奮している老婆は、ウィルを睨みつけた。

 その視線を受け止めた彼は、静かに荷物をまとめると、椅子の背からマフラーと外套を外して自分の左腕にかけた。右手には鞄を持って立ち上がる。

 ティーカップには半分以上中身が残ったままだった。


「……お邪魔しました。また明日おうかがいします」


 老婆に一礼してから黒い青年は玄関に向かう。激情のこもった視線が彼の背中を追い続けていた。扉を開けて外に出ようとしたとき、うしろから少女の声がかかる。


「鋏屋さん! ごめんなさい、こんなことになってしまって……」


祖母の隣に寄り添ったまま、彼女は申し訳なさそうに言った。彼女の腕を掴んでいる手を、隣の老婆は強く握りしめていた。


「いいんですよ、よくあることですから。紅茶、ご馳走さまでした」


 彼は振り返ると、彼女に微笑みながらそう言って、玄関をくぐった。


 外に出ると、彼は外套を羽織ってマフラーをいつもより固めに巻く。それから外套に付いているフードを深くかぶり、歩き出した。











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鋏屋さんと赤い糸 りん @penpenguin

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