合理的な男
朝、私は決まった時間に目覚める。迷うことなく食卓に着き、妻の作った手料理を食べる。妻には無理をすることなく、卵を焼き、野菜を用意してくれればそれで良いと伝えてあるが、妻は私への愛情を込めて、もう一品なにかを用意する。妻は料理が上手い、そのことを彼女も自覚している。
私は全ての食事を終えると、決まった手順で準備をし、会社に出かける。決まった時間に決まったペースで移動する。そして契約上の始業時間前にはきちんと自分のワークスペースに納まるのだ。合理的で無駄がないと我ながら思う。しかしその完璧さを妬んでか、上司はやれもっと早く出勤せよだの、身なりがだらしがないだのとどうでもいい文句を言う。しかしながら雇用契約に書いていない事柄にまで口を出されるいわれはない。それこそハラスメントであるとして訴え出てやろうとも思う。
所定の仕事を済ませ、昼食。私は決まったコンビニで必ず同じものを買う。味としても栄養バランスとしても、合理的かつ必要十分な食事を採ることができる。現代文化に取り残された者のコンビニ食をとやかく言う根拠のない批判言論は、10年前に消え去っておくべきであったのではないか。
全ての品物をかごに入れ、他の物に惑わされることなく、無駄なく列に並ぶ。するとそのとき、卑しくも法文化に取り残されたサラリーマンが横入りをしてきた。なんと浅ましいことか。彼はきっと仕事にうつつを抜かし人として重要なものを失ってしまった非合理的な人間に違いない。
昼食をとり終え、上司の圧力にも耐え、帰途に着く。電車の中で一眠りするなどという非合理的な休息をとることはせず、先日手に入れたCDを、ポータブルCDプレーヤーに入れた。mp3などという駄音質の音楽を文明の利器ともてはやす連中とは一生仲良くできないだろうと思いつつ、人間の聴覚にマッチするよう調整された合理性ある音色に心を委ねる。
そのときである。私の個人的な楽しみは、騒音によってかき消された。幼稚園児くらいの子供が、よりにもよって私の目の前で、駄々をこねその場でうずくまり泣き出したのである。すさまじい声量。主婦は自分の荷物を肩に引き上げながらも、その子を泣き止ませようと必死だ。なんとおろかなことか。まったく合理的でない。私だけではない多くの人間の静謐な環境を害しているという自覚がないのであろうか。母親は子をその場から連れ出し、そのあとで泣き止ませろと言いたい。
そのような目に逢い、多少機嫌が悪いところへさらに悪いことだ。ゲームセンターに一人の男が入っていく。その男はこの時間帯にふさわしくない塾かばんを手に持っているが、男の見た目の年齢から塾という場所に通うような男でも無いように思える。そう、彼はおそらく「浪人生」というやつだ。それがなぜ、このような時間にゲームセンターなどをうろうろとしているのか。まったく理解に苦しむ。その非合理的な時間を、もっと合理的な内容に変えていれば今頃、他の年下にまぎれて塾に通うなどという屈辱を味わうことは無かったのではないかね。
今日もまったく、社会は非合理的に回っている。そのような社会は発展速度も非合理的なものにしかならない。国家や社会が腐っているのだ。まともになれ。
そこへいくと私個人としては、一日の最後の時間は非常に合理的だった。決まった時間に帰宅。妻は決まった時間に食事を用意し、私は風呂に入り、テレビをつけ、決まった番組を見ながら決まった時間で食事を済ませ、妻がテレビドラマを見ている間に私は身支度を済ませて就寝。その間妻の人生に過度に介入してはいけないから、妻に話すことも最小限合理性のある程度に抑える。
今日も非常に合理的な一日を過ごすことができた。法やその他の規範に反することも、他人の権利を害するような行為をすることも、非合理的な営みに時間を割き本分を見失うことも無かった。
明日も、このように暮らせることを。
おやすみ。
あの日の言葉はもう忘れた 羅針盤 @rashinban
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。あの日の言葉はもう忘れたの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます