あの日の言葉はもう忘れた
羅針盤
今もなお青く輝いて
それは突然の告白だった。
彼と知り合ったのは、高校の部活動だった。当時の私は人と触れ合うことをためらう性質であったから、まさか自分がその部活動で一生の付き合いになる友人に囲まれようとは思ってもいなかった。あの頃はそれこそ言葉では言い表せないほど楽しかった。
部活動のメンバーは私のことを差し置いても「へんてこ」な人々だった。そして彼はメンバーの中でも、頭ひとつ抜けてへんな先輩だった。彼の容姿はいたって「前時代的」だった。昭和の塩顔のような顔立ち。染めたことのない髪の毛は刈り込み、携帯電話にストラップが一個、腕まくりをしているのがトレードマークのような人だった。どんなに控え目にみても、おしゃれ、という言葉とは遠くかけ離れていた。その上、頼りになるのかならないのかも分からないくせに規則に厳しい、ひょうきんさもない。しかし彼の口から流暢に滑り出す言葉は自然とメンバーの心をひとつにした。そんな先輩だった。
その彼が卒業してから一年。私が今度は卒業を迎える、そんなときだった。彼から突然メールが舞い込んだ。彼らしい、回りくどい、読みにくいメールであった。私は少々うんざりしながらも、彼の次の言葉を想像しながらやり取りをした。増えていく「Re:」。いくつメールを交わしただろうか、そして彼はついに不器用に、こう切り出した。
「ところで、いま、好きな人はいる?」
鈍い私でも、これにはまいった。どのように曲解しようとも逃れられない瞬間がそこには在った。しかし私の心は最初から決まっていた。彼の告白を受けるつもりはなかった。彼は私にとって、信頼できる兄のような存在であったが、恋愛対象としてみることは出来なかったのだ。そこで、彼との関係をこじらせて気まずい関係になってしまうことも避けたかった私は、彼とさらに2、3通のメールをやり取りし、どうにか私と彼は「兄妹のような」「良い友人」、ということになった。
そのやり取りのあと、彼から私に対して、個人的に連絡をしてくることはなかった。そういう男なのだ。
そして私は大学に進学した。ろくでもない親から離れ、一人暮らしをするために上京し、資格を得るために必死で勉強を始めた私の心は加速度的に消耗していった。その一方で、私も女性としての魅力というものを意識するようになっていった。やがて私は同級生と、「大学生らしい」交際を始めた。ギターを弾く、おしゃれな少し年上の男の子だった。私たちは同棲し、時に膨大な学習の海を共に渡る支えとして、時に広い東京の明るく寂しい夜を慰めあうことの出来るパートナーとして、心を通わせ合った。とても充実した年月を、私は過ごした。
とある機会に、私は部活のメンバーにパートナーを紹介した。もっともそのときの彼の表情を思い出すことは出来ない。幸いな事に、彼の私に対する態度はそのときの前と後で変わることはなく、私の「先輩」だった。そういう男なのだ。
さらに時が経ち、資格受験をひかえ、学習量が格段に増えるにつれて、私の心の修復は追いつかなくなっていった。パートナーの言葉は私の心を上滑りし、私は一人で夜を過ごすことが多くなっていった。なにもかも、すべての「嫌な部分」が見えてくるようであり、自分が何のために生きているのかも理解できなくなっていた。
やがて私は、ガラスのグラスにワインを注ぎ、一人で深夜まで飲酒することが多くなっていった。人と会話する事に少なからず恐怖を感じる事になり、優しいはずのパートナーの言葉に、刃物を突きつけられるかのような感覚を味わうこととなった。ついにパートナーと離れた私は、一人で、大学と下宿を往復するだけの生活をした。資格を取得すれば、私の生活は変わる。それだけが心の支えだった。
ある夜、泥酔した私は、ふと過去の思い出に包まれ、いたたまれなくなり彼に連絡した。それはメールより簡単に連絡をとる手段があったからかもしれない。女性として生きることから離れ、油断していたのかもしれない。いずれにせよ、前後不覚だった私は自宅のトイレで吐き戻しながら、彼に近況報告をすることで、楽しかった過去の思い出に浸り、心の平穏を取り戻すことができた。
彼は多少驚いていたものの、私の「先輩」として、昔と代わらぬ声で私の心を慰めた。そういう男なのだ。
その日から、家族も友人もパートナーとも離れた私の生活に、彼の姿が散見されるようになった。私は彼と食事に出かけたり、公園、テーマパークに遊びにいくようになった。
彼は最初、私の予想したとおり、「先輩」としての関係から先に進もうとした。自宅に彼を呼び、食事をしたときについに、彼の歯止めは狂ってしまった。しかし私の心は最初から決まっていた。暴走気味の彼に届くよう、一言で伝えた。
そして彼と私が一夜を同じ屋根の下で過ごす間、何もなかった。そういう男なのだ。
私は卒業し、資格を得て、職についた。しかし私の生活は変わらなかった。一度傷ついた私の心が、とてもゆっくりと回復をしている様子を横目に、私は相変わらず人との距離のあわせ方に苦戦することとなった。
その間、彼とはより込み入った人生相談をするようになった。彼は彼なりに人生を誤ったらしく、いつの間にか社会人としては「後輩」になっていた。私たちは時に立場を逆転しながらお互いの境遇を共有し、お互いの人生の傷跡に触れ合っていた。
私の心は最初から変わっていない。彼はそのことを知ってか知らずか、「先輩」として私と接していた。そういう男なのだ。
さらに年月が経ち、私は職場で知り合った新たなパートナーと結ばれた。子供を意識する年齢であるが、今はまだ生活を成り立たせることで精一杯だ。かつてのパートナーがそうであったように、私は仕事や趣味、生活の中の「人生の起伏」をパートナーと共有し、時に励ましあいながら生活している。私はかつての心の形を取り戻し、人生の幸せをかみ締めている。
彼がどうなったのかは、同窓会であう他のメンバーと同じくらいしか知らない。ありきたりな職に就き、独身であるというところまでは人伝てで聞いている。私の結婚式に出席した彼は、いまも同窓会の場で、私の目の前で同窓の友と嬉々として酒を酌み交わしている。ふと目が合うも、特にこれといった感情を読むことはできなかった。彼は今も、私の「良い先輩」として存在している。
彼は、そういう男なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます