薄明

さとう ゆめ

第1話



招き鳥の鳴き声が聞こえたような気がして魔術師は空を仰いだ。すぐに失態に気づいて彼は苦笑を浮かべた。空がなくなっても鳥の姿をそこに見つけようとする習慣を人は捨てられないらしい。それは長い長い年月をかけて人間の血に刻まれた悪癖だった。暗く曇った空から魔術師の両目は目の前に広がる山道に戻った。灰色の大きな岩がごろごろと転がり、深緑色に苔むした山肌が魔術師の左脇から先に延々と続いていた。雪混じりの黒い風は冷たく肌を刺したが、そんなもので傷つくほど魔術師は若くなかった。歩く路の右側には木も岩もなく、すぐ下に深く切り立った崖に繋がっていた。崖の先にあるのはどんな光も飲み込む暗さだった。山の上へと登る路は狭く、強い風が吹けば落ちてしまいそうだった。だが魔術師は両足を木の根のように山道に根づかせる魔法を知っていた。それでも転んだら。岩ばかりの山道を大股で歩きながら彼は思った。その時はついに神様に目をつけられたと思って諦めるさ。

重苦しい雲が立ち込めた黒い空には何百年も昔から太陽がその輝かしいといわれる顔を見せた事がなかった。本当かどうかかは分からないが、少なくともそうだと魔術師は育ての親である魔女から聞いていたし、魔術師も魔女も生まれた時から太陽と呼ばれる巨大な光の塊を見た事がなかった。かつて世界はもっと暖かくて過ごしやすく、春と夏と呼ばれる季節があった。たくさんの若芽色をした植物にあふれ、それを食べる生き生きとした動物たちが群れていたのだという。魔術師を育てた魔女は言った。大昔は自分が殺されると分かっているのに人間に柔らかな頬をすり寄せてくる動物がいたんだよ。二本の短い角を持つその身体の大きな動物には危機感というものが欠けていたのさ。魔女は深い溜息を吐いた。つまりさ、大昔の世界は今よりもずっとやさしくて生きものが安心できる世界だったんだよ。あのものすごい爆発が起きて毒が降り注ぐ前の世界にはそういう生きものがいっぱいいたってのにね。ここじゃ野生の生きものが人間の言う事を聞くだなんてありえない話だろう。 その角のある大きな生きものは人間に殺される事を赦したんだよ。深い憐れみの心があったんだ。死んだとしても動物向けの天国があるってわかっていたんだね。ぶ厚い本を片づける幼い魔術師の脇で老いた魔女は肩を竦めた。でもどうやら天国は空と一緒にどっかに消えちまったみたいだけどね。地獄は今でもこんなに賑わっているってのにまったくひどい話だよ。


同じような灰色と岩の続く退屈な景色の先に、ひときわ大きな岩が転がっていた。上の方を見あげるとスプーンで荒っぽく抉られたような窪みが突きだした山肌にあったから、たまたま雨か何かで緩んだ山の表面から岩が転がり落ちてきたのだろうと魔術師は考えた。四角い岩の下には赤と茶色と緑色の染みがあり、さらに近づいてみるとそれは人間だと分かりしかもまだ息があった。かろうじて生きている男はむさ苦しい髭面の大男で、茶色の毛皮のベストと緑色のズボンを履いていた。もちろん赤は流れだした血の色だ。大男の左足の太ももから先が岩石に潰されていた。彼は苦しそうに喘いだ。「助けてくれ。今日の朝、縞狼を狩りに行ったら空から岩が落ちて来たんだ。そのまま気を失って目覚めたらこんなざまさ。なあ、あんたが誰だかは知らないが、おれを助けてくれよ。助けてくれたら礼はするよ。なあ、頼むよ。こんなところで寂しく死にたくはないんだ。養わなければいけねえ妹もいる。ほんとに酷え病気なんだ。咳をすると黒い血を吐いて」 確かに男の近くには四つの耳が生え、斑模様の毛皮をまとった動物の屍が転がっていた。つるの切れた弓も一緒にあった。もしかしたら男は狩人かもしれない、と魔術師は思った。狩人はかなりの早口で、喉の奥に痰が絡んでいるのかひどく聞き取りにくかった。激痛のあまり今にも彼は間違って自分の舌を噛みちぎってしまいそうに魔術師には見えた。さらに狩人の話す言葉は東の訛りがきつく、はじめ魔術師は何を言っているかまるで聞き取れなかった。仕方なく言語をもっと円滑に扱う魔法をぶつぶつ唱えると、狩人の言葉は帝都生まれの規則正しいリズムの言葉のように魔術師の耳には聞こえた。

「おれを助けてくれよ。あんた、魔術師だろ。あんたたち以外でそんなコートとシャツの着方をしている奴なんか見た事がねえ。魔術師は人に奉仕する義務があるはずだ。帝都のお偉いさんがそう決めたって聞いたぞ」 魔術師は様々な色と素材のコートとシャツを何枚も何枚も重ねて着飾っていた。それは彼が特別なのではなく遥か昔から魔術師たちにはそういう風に衣服を着る伝統があったのだ。狩人の傷の具合を看るために魔術師が腰を屈めると、癖のある長い黒髪が風に吹かれてうねった。魔術師の顔は髭の手入れが何日もされていないせいで汚らしく、落ち窪んだ灰色の目は暗かった。

魔術師がよく見ずとも狩人の足はすでに手遅れだった。医術を知らない素人でも匙を投げるくらいひどい有様だった。ずたずたになった肉にはでっぷりと太った白い虫が集り、骨はパズルのピースよりも細かく砕け散っていた。魔術師は骨ばった青白い手のひらを潰れた狩人の左足に翳した。青い炎のような淡い光が左足の傷口に集まると、狩人の眉間にあった深い皺が少しずつ和らいでいった。出血が止まり、傷の痛みが薄らいだ狩人はさっきよりもよく喋るようになった。魔術師に自分を連れて山の麓にある街に連れて行けと言った。おれの住んでいるところまで送ってくれよ。それが魔術師のやるべき事だろ。酒と噛み煙草で茶色くなった歯を見せて狩人は笑った。魔術師ってのは人の役に立つためにいるんだから。

魔術師は何も言わず、何かに彼を乗せて運べるような魔法は知らなかったので狩人の体重を軽くする魔法を使って背負う事にした。左足のない狩人を背負いながら山を下ってゆく途中、魔術師は街と生活の愚痴を語る狩人のお喋りを遮って口を開いた。「おれの報酬はいったいどれくらいの値になるんだ。さっき助けた礼はすると言ったよな」 

魔術師の言葉に狩人はひどく機嫌を悪くしたようだった。「金の事なんてどうでもいいだろ。魔術師はただで人助けをするって聞いたぞ」そして山道の途中で魔術師が足を止めると、背中の男は苛立ってがなり立てた。「人を助ける事に見返りが欲しいだなんて、魔術師として恥ずかしくねえのかよ。恥を知れ」 

魔術師は何も言わず、長い指をすっと動かした。すると背負っていた狩人の身体が何もない宙にふわりと浮き、そのまま崖のそばへと引き寄せられていった。左足のない狩人はじたばたと激しく暴れ、傷口にこびりついていた虫たちがぽろぽろと落ちて奈落の底に吸い込まれていった。狩人は何度も助けを乞い、おれを許してくれと言ったが助けてくれた礼を返すとは一言も言わなかった。それでも魔術師が黙ったきりで、このままだとやがて自分は虫と同じ運命を辿るだろうと理解すると渋々諦めて礼金の話を口にした。だが魔術師は狩人の提示した金額にどうしても満足がいかず、何度も訂正をして、ようやく納得した値を相手が答えるとようやく狩人の身体は崖の上からまた魔術師の背中へと戻っていった。狩人は左足の傷を負った時よりも深い皺を太い眉の間に刻み、街に着くまで一言も喋らなかった。魔術師は金の話を取りつけた際に片頬を歪めるようにして笑ったがそれは狩人との会話の中で見せたはじめてで唯一の笑顔だった。





麓の街にあった酒場は小さく薄暗かったが吊り下げられたランタンの油は貴重なもので、今ではほとんどの街のサルーンが夕暮れ時のように暗かった。オーク材のカウンターは重ねてきた年月によっててかてかと光っていた。幅の広いナイフがカウンターに刺さったせいで出来た裂け目がいくつも見つかった。酒場で飲んでいる人間の顔はどれも疲れて陰鬱な影が落ち、傷跡のない赤ら顔を探すのは難しいように思えた。魔術師が酒場に入っていくと彼らは揃って魔術師を見たがすぐに視線を逸らして手の中のグラスを覗き込んだ。まるでそこに明日への希望が隠れてでもいるかのように。カウンターに肘を置き、味の薄いビールをグラスに注ぐバーテンに魔術師は言った。「猫目蘭の酒を。氷も砂糖も入れずに」

「うちには氷も砂糖もありませんよ。本物の砂糖なんて何年も舐めた事がねえや」バーテンは肩を竦め、人さし指にも満たない高さの小さなグラスに透明な酒を注いで魔術師の目の前に置いた。その酒はほろ苦く、胃が殴られるような強烈な風味がしたが魔術師はそれを好んでいた。普段は泥に嵌った馬車のようにうまく動かない頭が冴え渡る感覚を味わう事ができたのだ。その透明な酒をちょうど五回飲み干した時、泥だらけの農夫が魔術師の隣に立った。カウンターで飲む客が座る事の出来る椅子はなかったから立ったまま飲むのがこのような僻地での慣わしだった。農夫はビールを頼み、バーテンがあふれた泡を木のへらで切っている間に魔術師に話かけた。泥で黒く汚れた顔の中で茶色の目が好奇心に輝いている。「あんた、魔術師だろ。そのたくさん着込んだ服を見れば分かる」 農夫は黄色い染みだらけのシャツの袖を肘のところまで捲り、ごわごわした生地のズボンとくるぶし程の高さのブーツを履いていた。農夫の指摘に魔術師は低く唸り、仕方ないといった様子でうなずいた。「その通り、おれは魔術師さ。だが大した事はできないぜ。偏屈な魔女からほんの少しだけ魔法を習っただけだからな」

「それでも三日は燃え続ける火を熾すくらいはできるんだろ?」ビールを飲みながら農夫は訊ねた。

「まあね」魔術師は肩を竦め、六杯目になる同じ酒をバーテンから受け取った。「おれならあの魔法は二週間は持たせられる」それは嘘で魔術師が炎を燃やし続けられたのは精々一週間に満たなかった。農夫は感心したように言った。

「十分すごいじゃないか。そんなあんたがどうしてこの田舎に来たんだ。見ての通り、荒れた畑と実りの悪い果樹園ぐらいしかないってのに」

「おれはどこかに落ち着いて生活するって事が出来ないみたいでな」魔術師は素早く一口で酒を飲み干した。喉が焼け、胃が燃えあがった。

「根無し草も悪くないだろうよ。こんな街でしがない農夫をやって死んでいくよりはずっとね」

魔術師は黙っていた。酒を飲み過ぎたせいか軽い眩暈を感じた。農夫は話題を変えた。

「聞いた事はあるかい。最近、この山の近くに竜が住み着いたそうだぜ」農夫の言葉に魔術師は眉をひそめた。「馬鹿な。竜だと」

「そう。嘘みたいだがあの竜だよ」 楽しそうに農夫は笑った。「噂によると帝都から直々に兵士の一団も派遣されたらしい。竜を捕まえて民衆に首都の威光を示したいんだろうな。お前らが思うほど我々は衰えていないだってよ。どうもあちこちで王への反乱の火種が燻っているみたいだから、そいつらに機先を制する意味もあるかもしれない」

「ただの田舎の農夫にしてはなかなかよく喋るじゃないか」魔術師は七杯目の酒を頼もうか悩んでいた。「あんたが反乱を考える勇士の一人だとしても驚かないよ」

農夫は声をあげて笑った。「まさか。おれは生まれてから槍ひとつ握った事がないぜ。武器を買う金もない。まあ、この地方だっていつ反乱が起きるか分からないからな。折角育てた作物が無駄になるのだけは避けたいんだ。だから懸命に目を光らせてるのさ。それでもここを通っていく兵士の奴らは無理やりおれたちの糧を奪っていくんだけどな。ああ、おれも兵士になれたらどんなによかったか。楽に飯が食えて、女にも好かれて」

「兵士になるのは止めておきな」バーテンに銅貨を支払いながら魔術師は言った。チップを弾んでやるとバーテンは魔術師に燻製肉の土産を持たせようとしたが断った。「あんたが思うほどはいい気分にはならないぜ」

「あんた、もしかして人でも殺した事があるのか」おどろいた農夫の声が背中から聞こえたが魔術師は無視をして酒場から出て行った。農夫の言葉にざわついた客たちの好奇の視線が突き刺さるのがはっきりと肌で感じられた。彼らに何と言えばよかったのだろう。はじめて殺した人間は、魔術師を育てた老婆だとでも答えてやればよかったのか。だが正直さと引きかえに鍬と松明で追いかけられる事態になるのは勘弁してほしかった。売春宿のベッドで裸の女と一緒に横たわりながら酔い潰れた魔術師は昔について思いだそうとしたがやがて眠ってしまった。夢の中で枯れ木のような指と罅割れた唇を動かして老婆が魔術師に何かを伝えようとしていた。魔術師はその言葉を聞く前からすでに内容を知っていたので逃げたくてたまらなかった。だが老婆はそれを許さない。魔術師は煙となって消える事も鼠に姿を変える事もできずその場に立ちすくんでいる。その夢は今までに何度も繰り返したはずのなのにいまだに魔術師は慣れる事がなかった。




魔術師の予想とは反して、竜と魔術師の遭遇はあまりにもあっけなかった。魔術師が出会った竜はかなり若い種で人間に対する警戒をまるで知らないようだった。山の麓の田舎街で自分が不穏な噂の種になっていると魔術師の口から竜が伝え聞いた時も「私が誰かの口にのぼる事があるだなんて思いませんでした」と喜んだ。魔術師と竜がはじめて遭遇したのは、あの田舎街から数キロ進んだ先で鬱蒼と茂る森にある小さく澄んだ湖での事だった。より深い叡智を究めるだとか、あたらしい魔術を編みだして人の役に立つという興味や向上心はこれっぽっちも魔術師には存在しなかった。昨日の晩、些細なきっかけで(あたしは後ろの穴は使わないって決めてるの、ダーリン!)売女と台風のような喧嘩をし、売春婦一人言う事を聞かせられない自分を慰めるために酒に溺れ、そのせいで胃はむかつき頭が重かった。その時の魔術師が心から望んでいたのは孤独と自由になれる時間だけだった。だから森へと入っていったのだ。

新鮮な水の匂いに誘われてふらふらと湖に近づいた魔術師が最初に目にしたのは、ゆったりと長い首をしならせて水を跳ねちらかすエメラルドグリーン色の鱗だった。竜の身体は細くなめらかなシルエットで、ごつごつした部分は見つからない。翼はどこか蝶の羽根に似た優美さをたたえ、触れれば傷つけてしまいそうだった。しなやかに伸びる四つの足があり、一対の翼と猫のような細い尾を竜は持っていた。竜の背丈は魔術師が三人分ほどで、身体を横にしても小さな家ぐらいの大きさでしかなかった。相手は小型の竜だった。水浴びをする竜の鱗の表面を水がきらきらと光って滑り落ちていく様子を、魔術師は灰色の目をこれ以上ないほど見開いて見つめていた。竜は心地良さそうに目を閉じ、魔術師の姿にはまるで気づいていないようだった。

今までこの目で竜を見た事のない魔術師は動揺のあまり喉が詰まらせた。今までに読んだあらゆる本の中で竜は語られていたが実際に生きている彼らを目にした事のある人間はほんのわずかだった。彼らはとても古い時代から生きていると思われていたがいったいどれくらい古い時代から生きているのかは誰も知らなかった。おそらく竜自身でさえも。世間で生きるふつうの人間にとって竜とはお伽噺の存在となんら変わりがなかった。恐るべき力を持ち、信じられないくらい賢い生きもの。それが竜なのだと人々は言う。一角獣よりも稀少な怪物。もし本当に竜がいるのならさ。幼い魔術師が舌足らずな声で老いた魔女に訊ねた事があった。どうして太陽を引きずりだしてくれないんだろう? それだけ賢くて強いなら、きっとできるはずなのに。魔女は首を振ってもう寝なさいと言った。この世に生きている竜なんてもういやしないよ。そんな事より今日教えた呪文の復習をしな。

だが竜は魔術師の目の前にいてしかも元気に生きていて、ゆったりと水浴びをしていた。そして当然のように魔術師の存在にも気づいた。竜はその長い首をうねらせ、海の底のように青く深い目で魔術師を見た。竜は口を開かずに喋り、その声は男とも女とも区別がつかない柔らかな響きを持っていた。「魔術師の人間に会ったのはこれで二度目ですね」

「おれははじめてだよ」しどろもどろになりながら魔術師は言った。いつもは生気を失った灰色の瞳に生き生きとした輝きが宿っていたが魔術師は気づかなかった。「つまり、竜に会うのはって意味でさ」

静かに竜は湖を泳ぎ、やがて岸辺の方に、つまりは魔術師の方へと近づいてきた。少し心配そうに竜は訊ねた。「驚かせてしまったでしょうか」

「そんな事はないとも」慌てたあまり魔術師は転びそうになり、何枚も腰に巻いていた上着のひとつに泥がはねた。「はじめて竜を見るもんで、ほんの少し面食らっただけさ。おれは魔術師だから、一応はそういうのに慣れちゃいるが」

竜は安心したようだった。魔術師は決して浮かれまいと心に誓ったが竜をじろじろと見ずにはいられなかった。

竜の濡れた鱗はそれ自体が光を放っているかのように輝き、周囲に生の喜びを放っていた。かつての魔術師もそれと同じ光を身体の内に秘めていた。だが今は。「あなたに会えてとても嬉しく思います。私はここ何十年もまともに人間たちと話を交わしていませんでしたから。私が話そうと思っても、どうしてか人間たちに見ない振りをされてしまうんです」

「まさかこの世に本当に竜がいるとは信じたくなかったんだろうよ。人は自分よりあまりに大きすぎるものは受け入れられないんだ。残念な事にね」魔術師は意地悪く青いくちびるを歪めた。

「あなたはどうなのでしょう。魔法の編み手。私を、竜という生きものを信じてくださいますか」

「昔っからおれは信じていたよ。あんたたち竜は本当にいるもんだと分かっていたからな」

竜が微笑んだように魔術師には見えた。竜は無遠慮に近づき、丸っこい爪の生えた足で魔術師に触れようとした。慌ててそれを避けて、魔術師は怒鳴った。「怪我をしたらどうするんだ」

地面ほどにも竜の首が垂れ、竜は謝った。「ごめんなさい。確かに、私はあなたたちという生きものの傷つきやすさを忘れていました。それほど久しいのです。人間とこうして話すのは」

竜が足を持ちあげたせいで服にはねた泥を払いながら、魔術師は考えた。どうもあまり賢そうには見えない竜だ。世間知らずだし、やわだし、おれより若いのかもしれない。もしかしたらこいつでひと儲けできるかもしれない。だがどうやって。それは今から考えるとして、だ。

空が暗く閉ざされた世界でも、もっとも力を持つのは魔法でも剣でもなく言葉でもなく、金だった。魔術師はその真実をよく知っていた。金があれば何を得、なければ何を失うのかを。魔術師といえどもその世界から切り離されて生きる事はできなかった。

「あんたにそういう事をひとつずつひとつずつ、おれが思いださせてやってもいいぜ」

魔術師がそう悪戯っぽく笑いかけると、竜は嬉しそうに声をあげて笑った。その声はまるで星が震えたかのような音色だった。

そうして竜と魔術師は友人になった。少なくとも、竜はそう思っていた。



竜との出会いからそろそろ一週間を迎えた夜だった。その日も魔術師は酒場で飲みながら、苦労せず股の間に潜り込める女を探していた。だがこの街にいる女は誰しもが魔術師を嫌っていた。酒が入ると手をあげる男だと売春婦たちの間では知れ渡っていたからだ。数日前、売春婦の一人を強く殴ったら前歯が一本欠けてしまった。だから自分の悪評を流しているのはきっと歯を折った売春婦に違いないと魔術師は信じていた。

そして魔術師は話していて気持ちのいい相手ではなかったから一緒に酒に付き合ってくれる人間もいなかった。陰気で、いつもしかめっ面をして、ぼそぼそと低い声で話す。そんな男の居場所はこの田舎にはなかった。都会でもあるか怪しいものだった。底に痩せた芋虫が沈んだいつもの透明な酒をバーテンに頼み、腰が抜けそうになるまでそれを飽きずに飲み続けた。酒場にいる化粧の濃い女たちは魔術師がひっかける前に別の男たちに喜んで浚われていった。魔術師は低く唸り、目を回し、それでもまだ飲もうとするとバーテンに止められた。勘弁して下さいよ。あんたはついこの間胃の中身をここでぶちまけたでしょ。魔術師は聞こえなかった振りをしてもう一杯を頼んだ。バーテンは首を振り、魔術師がしつこく食い下がろうとすると隣に立っていた男が口を挟んだ。

「一杯だけ注いでやってくれ。その一杯を飲んだらあんたは帰るんだぞ」

バーテンは渋々と言った様子でうなずいた。魔術師が横に顔を向けると彼は以前この酒場で一緒に飲んだ農夫だった。

農夫は耕している植物の実りの悪さや街の近辺をうろつくたちの悪い獣について話した。魔術師はそれらの退屈な話にぼんやりと相槌を打ち、あっという間に酒を飲み干した。

今にも倒れそうなほど酩酊した魔術師は農夫の話を遮った。「そういえば、あんたは前におれに竜の話をしたよな。そういうあんたは竜について信じているのか」

「さあ、どうだろう」 農夫は首を傾げた。「いたらいいと思うがな。竜の力を借りれば生活が楽になるだろう。水を引いたり、木を倒したり。まあ、そいつらが人間の事を好いていたらの話だけどよ」

思わず魔術師は湖の竜について口を滑らせそうになったが、すんでのところで話題を変えた。「あんたの家族の話をしてくれよ」

はじめ農夫は怪訝そうに魔術師を見たが、妻と子供と寝たきりの母親について長い長い話をした。魔術師はそのうち、妻が二人目の子供を妊娠する下りで寝入ってしまった。





その日も魔術師は竜に会いに行った。一昨日から続く雨がようやくあがり、森から湖へと続く路はぬかるんでいたが魔術師は滑るように走っていった。土に足を取られないようにする魔法くらい朝飯前だった。空が暗いせいで、雨が降っても降らなくても景色はどこまでも黒く灰色だった。立ち並ぶ木も草も花も灰色にくすんで見えた。やがて湖に辿り着くと竜は雨のせいで濁った湖で水浴びをするのは嫌いなのかまばらに草が生える岸辺に大きな身体を横たわらせていた。肩を上下させて魔術師がやってくるのが竜の青い目に入ると、竜の青い目が細くなった。首をもたげて竜は言った。「あのじっとりした雨が止んだのは、あなたの魔法のおかげでしょうか」

「そんな訳がないだろう。どんな魔術師でも、天気を操るなんて所業はできないさ」

魔術師は竜のそばに座り、暗い空を仰いだ。「おれたちの誰かにそんな芸当が出来たとしたら、今ごろ空には太陽ってのが顔をだしているはずだろう」

「あなたは太陽が見たいと思うのですか」

「そりゃ、もちろん」魔術師はおどろいて言った。「そう思わない人間なんて、この世界にはいないはずだぜ」

しばらく竜はじっと考え込み、とても静かに口を開いた。まるでその言葉を口にしたら、一人でに壊れてしまうかとでもいうように。「これは、我々の間でも公になっていない秘密なのですが。実は、あと数十年後にこの世界を覆う雲は晴れるだろう、と竜の賢者たちの結論がでているのです。我々の誰よりも賢い竜がそう言ったのですかっら、いずれ空が晴れる事は真実でしょう」

魔術師はそんな馬鹿な、と笑おうとしたがこの裏表のない竜が嘘を吐くはずもないとも知っていた。それに竜はとても真剣なまなざしをしていたからからかう代わりにこう言った。「そのころには、おれはすっかり耄碌したじじいだろうな」

「それでも、あなたは生きているはずでしょう」竜はころころと笑った。「たとえ目が見えなくとも、太陽の暖かさを肌で感じる事ができますよ。きっとね」

魔術師は自分の青白い手のひらをじっと見つめた。「それが本当なら、太陽が見ただけでおれはあの世にいっちまいそうだな」

「我々は嘘は吐きません。非効率的ですから。もうしばらく時間はかかるでしょうが、太陽は必ず空に現れますよ。わたしが証人になります。だからあなたも、頑張って長生きしてくださいね」 魔術師は笑ったが、何も言わなかった。竜は続けた。

「晴れた空はまるで、海を逆さにしたようなものだと古い竜は語っていました」竜は微笑んだ。「いったいどんな色をしているのか、この目で見るのがとても楽しみですよ」




しかし当然の成り行きとして、この湖から竜が飛び立つ事はできなかった。その翌日、魔術師が湖に立ち寄るとそこには甲冑に身を包んだ数十人の兵士たちが竜の周りを取り囲み武器を構えていた。魔術師は怒鳴りかけたが、我慢して飲み込んだ。叫んだところでどうにかなる相手ではないとすぐに分かったからだ。甲冑には帝都の紋章が刻まれ、暗い空の下でも魔法の力を帯びて紫色に輝いていた。

魔術師の姿に兵士たちは動じた気配を見せず、ひときわ装飾が凝った鎧を着た男が近づいてきた。真っ赤な房飾りがついた兜を脱ぐと、短い金髪の若い青年の顔が現れた。青年はにこやかに笑ったが目を見れば嘘だとすぐに分かる笑い方だった。おれを頭の軽い女とでも思ってるんじゃねえだろうな、と魔術師は青年にそう罵りたかった。

青年は魔術師が何かを言おうとする前に帝都生まれらしく聞きやすい言葉とはきはきとした声で説明をした。麓の街に滞在している魔術師の動きが怪しいとの密告があったので後をつけて調べさせてみれば、この湖に竜がいた事を知ったのだと。青年の言葉に、はっきりとした理由はないが魔術師はすぐに気づいた。彼に密告をしたのは酒場で魔術師と飲んだあの農夫だという事を。ああ、おれも兵士になれたらどんなによかったか。竜の力を借りれば生活が楽になるだろう。彼はそう言ったはずじゃなかったか。

「これから、この竜を帝都に連れていきます」青年は言った。「もしあなたが我々と一緒に来たいと思うのでしたら、馬に乗せていく事もできますよ。我々にとっても民にとっても、魔術師は歓迎される存在です。それにしても、竜が本当に存在するとは思わなかったな。てっきり子供騙しのおとぎ話だと」

魔術師は首を振った。苛立ちのあまり声が掠れた。「本物の竜を飼いならす事など人間にできるものか」

青年は笑っていた。「別に飼いならさなくともいいのです。我々が欲しいのは、王が竜という偉大な怪物を従えていると周りに思わせる事なんですから」

魔術師の指が虚空に何かを描きだそうした。だがそれよりも素早く、青年の剣が魔術師の顎の下に添えられていた。「あなた一人の犠牲で竜が運べるのなら軽いものだ」

魔術師は枷と鎖で繋がれている竜を見た。竜の悲しげな目はいつもよりずっと青く見えた。かぼそく、しかし毅然とした声で竜は言った。

「あなたたち二人が互いを傷つけるくらいでしたら、私は死を選びます」

「竜もそう言っています。ですから、どうかその指は動かさないでくれ」魔術師の喉に剣を押しつけながら青年は言った。

「そんな馬鹿な」

魔術師が叫ぶと、竜も同じくらい大きな震える声で叫んだ。「私の事は忘れて下さい。、あなたたち人間が信じる通り、所詮竜なんて生きものはただの作り話だったのです」

がくりと魔術師は項垂れ、固く目を閉じて拳を震わせた。喉に触れる剣の冷たさがはっきりと感じられた。あまりにも長い時間魔術師が何も言わずにじっとしていたので、青年は不審に思って魔術師を軽く蹴り飛ばした。魔術師は身じろぎひとつしなかった。

次に魔術師がゆっくりと口を開き、ぱくぱくと声をださずに口を動かした時、檻に囚われた竜はどうしてか強烈な眩暈を感じた。さっきまで鉄の杭に四方を囲まれていたはずなのに、今は黒く湿った地面がすぐ近くに見える。

どこか遠くの方から、なぜだか自分の声が聞こえた。「早く私を連れていきなさい。私は誰も傷つけられて欲しくはありません」

青年はうなずき、ばったりと崩れ落ちた魔術師の脇を通り過ぎて兵士たちに竜を運ぶ準備をするよう命じた。がしゃがしゃとたくさんの甲冑同士が擦れあう音が、頭上から聞こえた。

「なんの魔法を使おうとしたのだか分からないが、無駄だったようだな」 青年は倒れた魔術師に向けてあざ笑った。

全身が麻痺したようにぴくりとも動かなかった。指先ひとつ動かすのに、ものすごい集中力が必要だった。魔術師の姿をした竜は混乱していたし、叫びたかったし、暴れたかった。大きな滑車のついた檻に入れられ、馬に引かれてゆこうとする竜は自分ではない。あれは魔術師なんだ。私じゃないんだ。

いったいどこで魔術師が竜と魂を入れ替えるほどの古く強大な魔術を会得したのかはどこまでも謎のままだった。魔術師を拾い育てた魔女は複雑な要因によって死ぬ事ができず、だが同じく複雑な理由によって魔術師だけが魔女に死を与える事ができた。その礼に魔女から特別な力を授かったのだと魔女と魔術師に近しかった人々は推測を立てていたが真実が明るみにでる事はなく、最後まで彼の口からその物語が語られる機会はなかった。魔術師が死ぬまでその秘密が洩らされる事はなかった。例外もなく。


がたごとがたことと揺れながら運ばれる鉄の檻の中で、竜の姿をした魔術師は一人でおどろいていた。どうしてあの力をこんな馬鹿な真似に使ったんだ。

後悔と悲嘆のあまり、丸っこい爪で自分の胸を掻き毟ったが鱗一枚剥がれなかった。竜の爪は誰かを傷つける事にあまりにも向いていなかった。竜の様子に兵士の一人が竜が興奮していると青年に伝えると、青年が竜のそばにやってきてやさしく言葉をかけた。「大丈夫です。王家の方々は、きっとあなたによくしてくれる」

違う。おれはほんの少し特別なだけの、しみったれた魔術師なんだ。こんな目に会うつもりじゃなかった。馬鹿な真似をしたんだって事はよくわかってる。なあ、今からでも間に合うだろう。おれは魔術師なんだよ。竜じゃなくて。

だがその言葉の代わりに竜の姿をした魔術師はこう言った。「ええ。楽しみですね。一度、人間のすぐそばで生活をしてみたかったんです」

竜の言葉に青年は満足したようにうなずき、何匹もの馬に運ばれて竜は帝都へと向かっていった。

残された竜について心配はしなかった。あの竜ならきっと人間ともうまくやれるだろう。魔術師はそれを知っていた。おそらく出会う前から。

不規則な振動に身を任せながら、竜は死に際の老婆が魔術師に伝えた事を思いだしていた。

お前がどんなに手遅れで浅ましくて救いがたい男だとしても、いつか必ず運命の十字路に立つだろうよ。その時にお前はきちんと物事を正しく選べるはずだ。好むと好まずに関わらずそうなるんだ。だって、このあたしがあんたを育てたんだからね。自慢じゃないが悪くない息子だったよ。こうして最後に眺めるものになるくらいにはね。

妖精の涙で濡れたナイフを老婆の左胸に押しつけ、彼女の前で魔術師は震えていた。今まさに自分に襲いかかろうとしている悲劇に。そしてこれからやってくるだろう苦しみと痛みに。血が滲むほど唇を噛みしめる魔術師に老婆は笑った。そんな顔をするんじゃないよ。これから同じくらい辛い目に会うんだから。それにね、こう見えてあたしはこれぽっちも悪くない気分なんだよ。自分でも信じられないくらい落ち着いてさ。たとえ空が晴れたってこんな気分にはなれないよ。いずれあんたもこの気持ちを分かるさ。だから顔をあげてくれよ。空は暗いけど俯いていたって良い事は何にもないんだから。

何度も首を振りながら、ゆっくりと老婆の心臓にナイフを突き立てようとしているその時の魔術師には老婆の言っている意味が分からなかった。しかし今ならば。竜の姿をした魔術師は思った。俺には今、太陽が見えている。触れそうなほど近くにそれはあったんだ。竜の姿をした魔術師が空を仰ぐと、黒い雲間に薄い切れ目が一瞬だけ走り、そして消えていった。

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薄明 さとう ゆめ @deadeyesdetective

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