紅い女

服部匠

紅い女

『わたしを、攫って下さい』


――女の紅い唇が暗闇の中、酷く引き立って見える。魔力のあるその唇はきっと、私を誘っているのだろう。素直にちていいと思った。いや、自ら堕ちていきたいという意識が、はっきりと私の中に芽生えた。

 着崩した着物、はだける胸元、揺れる甘い香りの髪、そして、頭についている赤い髪飾り。

 この女の全体から、男を崩れさせる媚薬が香っているようだ。

 堕ちてこの身が崩れ去っても好い。それくらい、今自分は、この女を欲していた。

「わたしを、さらって下さい」

 紅い唇が、動く。

 一言で、私は堕ちた。


 無言で女の細い手首をつかみ、幾らかの金銭を持ち部屋を出た。

 もうこの部屋にも帰ってこなくていいだろう、この女と一緒ならば。


:::::::::::::::::::::::::::::::


 進学と同時に、学校に近い遠縁の医学博士の屋敷に、書生として住み込みを始めたのは一か月前だった。

 学校のないときは医学博士である主人の助手をして過ごしていた。だからなのか、主人の書斎と自室の往復ばかりで、同居しているはずの奥方やご息女の姿をあまり見たことが無い。だが人の詮索はあまり好きではないので、そのことについては何も聞かなかった。

 そんな私に、今日主人が一つの頼みごとを依頼してきた。

 娘の勉強を見てやって欲しい、もちろん報酬も用意する、だから頼まれてやってくれないか、と。

 断る理由が無かったので快諾すると、では今日から頼むと言われた私は、その足でご息女の部屋に向かった。


 ご息女の部屋の前に立ち、西洋風のドアだったのでノックをする。

「失礼します、主人様の命にて参りました龍元りゅうもとです」

「どうぞ」

 女性の声がしたので、ドアを開けると、私の部屋とはまったく違う、豪華絢爛な部屋が私の視界に入った。目が眩むほどの明るい電灯、高名な画家に描かせたという奥方の肖像画。その他目に付く調度品はどれをとっても高級な品物ばかりで、よくもこんなところで生活を営めるものだと思う。

 同じ屋敷で暮らしていても、所詮は生まれ出た場所家柄の違いか。

 しばし部屋を眺めてから、ふと横を見ると――そこにはご息女がいた。

 艶やかな黒髪を綺麗に切りそろえ、陶磁器のような白い肌を持ち、紅をつけたような赤い唇が印象的な顔立ちの――真雪まゆき嬢。

 めったに姿を見ない故、ああ、こんな顔なのかと少し見入る。顔立ちはまるで奥ゆかしい日本人形だ。美しいという単語がとっさに浮かぶ。

 しかしどうしたことだろう。身に付けている服は、たっぷりとレースとやらをあしらった洋服。真雪嬢の持つ美しさが、かき消されている気がした。

「どうかされましたか?」

 真雪嬢が怪訝そうな顔で尋ねる。あわてて私は「いえ、あまりにもお嬢様が美しいので、つい見とれてしまいました」と言った。すると真雪嬢の頬に紅が差した。はにかんで一言、ありがとうございますと言って机の方に手をやり、あちらへどうぞと私を案内した。

 用意されていた椅子は、ふかふかとしたクッションが敷かれ、座ると実に気持ちがよかった。

 しかし座り心地が良かったのは最初だけで、次第に沈み行く感覚に、私の手はかすかに震えだした。そもそもこんな椅子に座ったことすらないのだ、この私は。

 農村に生まれ育ち、唯一の取柄である勉学だけを頼りにした私は、根っからの田舎者。偶然が重なりこのような屋敷に住んではいるが、私の根底はまだまだ、卑しい心で溢れている。

「さて、どの教科をお教えしましょう、真雪お嬢様」

 しかし、黙ったままでは何もできない。なけなしのプライドを頼りに、私は言葉を繰り出した。

「ええ、では、算術をお願いできますか?」

 手の震えには気づいていないのか、真雪嬢は微笑みながら教科書を取り出し机の上に置く。目線が合うと、私に向かって再度微笑んだ。

 綺麗な笑み。しかしどこか、意識をどこかに置いて来てしまったようで、まるで人形のような冷たさを感じた。

「かしこまりました」

 私は、真雪嬢に見えぬよう握りこぶしを作り、止まぬ震えを押さえた。


:::::::::::::::::::::::::::::::


「……今日は、ここまですね」

 真雪嬢の勉強を見始めて早一週間。一を聞いて十を知るが如く、彼女は予想よりもはるかに優秀だった。

「はい、ありがとうございます。龍元様の教え方は学校の先生よりも丁寧ですわ」

 そう言って隣に座る真雪嬢はにこりと微笑んだ。しかし人形のような笑みは変わらない。

「い、いえそんな。まだまだ私も教えを乞う立場ですよ」

「ご謙遜を、父から龍元様のお話はよく聞いていますのよ。なんでも、クラスでは、かなり優秀だとか」

 主人は真雪嬢にまで私の話をしているらしい。褒められているから悪い気はしないが、褒められることに慣れていない私は、むずがゆくなるような感覚を覚えた。

「自分のやれるだけのことをやっていただけですよ」

 ぼりぼりと頭をかいて、ほんの少し不純に笑ってみせる。しかしそれでもなお真雪嬢の笑みに変わりは無かった。

 しばらくの間、無言の時が流れる。ふと、西洋風のモダンな箪笥の上に乗った写真立てに視線を奪われた。家族写真や、真雪嬢だけの写真が所狭しと置かれている。しかし、どの写真もこの時代には珍しく洋装のものばかりで、和装のものは一枚も見当たらなかった。

「写真にご興味がおありで?」

 真雪嬢の声にはっとして、声のしたほうへ反射的に顔を向けると、真雪嬢が不思議そうな顔で私を見つめていた。

「ああ、いえ。和装のお写真が見当たらないなと思いまして。お嬢様もご両親も普段から洋装ですし」

 この家の裕福さを象徴するかのように、主人は常に洋装だった。和服を着ている姿を見たことが無い。

 真雪嬢は一瞬、顔の表情を強張らせると、写真を眺めた。

「……龍元様もご存知だとは思いますが、父は極端な西洋かぶれでして。幼い頃から私も洋服ばかり着て過ごしてまいりました。お着物は、それこそ祖母から譲り受けたものが一点のみ」

 真雪嬢はそこで言葉を切り、目を伏せる。

「紅い色のお着物で、私、とても気に入ってますの。でも、父はそれすら袖を通すことを許してはくれません」

 真雪嬢はそれだけ言うと口をつぐんだ。

 それはまるで、豪華絢爛の洋室という名の牢に閉じ込められ、洋服という名の拘束具を身につけた日本人形の姿だった。

「……父には、逆らえませんから」

 ぽつりとつぶやいた一言には諦めと悲しみが滲み、微かに口元は震えていた。

「お嬢様……」

 私は初めて、真雪嬢の中に人の感情を見た。しかしそれはあまりにも哀れでしかなく、なぜか私の胸を締め付けた。

「……似合います」

 考えるよりも早く私は言葉を発していた。握られた手に汗がじんわりと滲む。

「え?」

「貴方には、着物が。そう、その……紅い着物が、きっと……似合います」

 世辞ではなかった。一目見たときから、私はそう思っていたのだ。洋服に違和感を覚えたのは、それだった。

 全て言い終えた後で、波のような後悔と自己嫌悪が私を襲った。なんと出過ぎた真似をしたのだと冷静なもう一人の自分が叫んでいる。私のような卑しい男から言われたところで、真雪嬢が喜ぶ訳が無いのだと。

 冷や汗を全身からどっと吹き出させつつ、私はゆっくりと俯く。真雪嬢をこの眼で見ることが出来なかった。

「……真雪は、」

 真雪嬢のかすれた声が聞こえた。

「真雪は、うれしゅうございます……龍元様」

 その言葉が聞こえた瞬間、耳を疑った。思わず顔を上げて、真雪嬢を見て、息を呑む。

 真雪嬢が、笑ったのだ。

 今まで見ていた人形のような笑顔ではなく、自然にこぼれる笑み。赤みを帯びた白い頬に、柔らかな微笑み。今までの人生の中で、これほど可憐なものに出会えたことはあるだろうか? いや、ないだろう。

 今まで味わったことの無い胸の高鳴りを、私は感じていた。 




 自室に戻った後も私の胸の高鳴りは治まることがなかった。

 ドアを閉めると、いつものようにペンとインク、原稿用紙を取り出して机に乗せる。そしてまもなく、紙上の空想に身を置くことに決めた。まったくもって素人趣味でしかないが、これが私の楽しみの一つであった。

 今日は一体どんな話を書こうか。

 ふと、思いついて私は真雪嬢を主人公にすることに決めた。初めて見たあの娘の笑顔が忘れられぬ。

 そのときだった。

 部屋の電気が消え、一面を暗闇が染めた。私は反射的にランプの明かりを燈して、直ぐに部屋に光を入れる。停電など慣れた。まだ電気設備が不十分なのだ。

 しかし、ふと見た窓の風景が私にせっかくつけたランプを消させてしまった。

 私が見たものは、空に浮かぶ白い月。

 はて今日は満月だったかなと考え、だがその思考も直ぐに意識の奥に沈み、ただただ月を眺めている自分を、私は少し離れた意識で見つめていた。


 白い、月。


 漆黒の空に浮かぶ真っ白な月。

 古代から、月と女性は親密な関係にあるという話をいつかの講義で聞いた覚えがある。もっとも、教授はあくまで雑談として話していたようだが。

 それ以来、月を見ると否応なしに女性の姿が頭に浮かぶ。しかし、誰の顔が浮かぶわけでもなく、母や知り合いという身近な女性の顔が浮かぶくらいのもので、特別な感情は浮かばない。

 しかし、今、私の脳裏に浮かんだのは、先ほどの真雪嬢であった。

 しかも、いつもなら浮かんで直ぐ消える浮雲のような頭の妄想が、未だ張り付いたまま離れない。私は流されるまま、妄想の世界に身を投げ出した。

 あの、遠慮がちに微笑んだ桜色の頬のなんと愛らしいことか。もしあれが私だけに向けられたものであるならば、なんという幸福だろう。

 紅い着物を着た彼女が目に浮かぶようだ。洋服などよりよっぽど似合うだろう。艶やかな首筋はきっと白く、一点の染みも無いだろう。そして私だけが、その白い肌を独占できるのならば、いっそ死んでも良いのだろう。

――そんな下衆な妄想を、ノックの音がかき消した。

 こんな深夜に、しかも停電時に。もしかしたら主人だろうか。

「こんばんは、真雪でございます」

 予想外の声に、私は一瞬、息を飲んだ。そして静かに、心臓が高鳴りだす。震える手で私はランプをつけて、ドアを開けた。

 目の前に広がったのは、薄暗いランプの中でも際立つ紅。

――そこには、紅い着物を纏った真雪嬢の姿があった。

「……ま、真雪お嬢様。こんな夜分遅くに、何故、書生の部屋などに」

 一応、私は咎める言葉で彼女を部屋へ戻そうとはする。しかし、甘い期待が頭によぎる。今時分、私は彼女のことを思っていたのだから。

「真雪は今、龍元様とお話がしたいのです」

 なんということだろう! 裕福な家の令嬢が一書生と話がしたいと言うなど誰が予想できたであろうか。たかだが一週間、私は事務的に家庭教師の真似事をしただけである。信じられない、この現実はまやかしではないか。

 身体に流れる血が瞬時に沸騰したように熱くなる。その熱に朦朧としながらも私は口を開いた。

「しかしお嬢様、時間も深夜に及んでいます。くれぐれもそのような世迷いごとは……お部屋にお戻りください」

 私の理性が言葉となって現れる。今の私は、いつ壊れても、おかしくはないのだ。

 しかし彼女はそんな私など気にすることもなく、するりと私の横を通りすぎて部屋に入り込んだ。

「お嬢様……!」

 私の焦りなど微塵も伝わってはいない。彼女の瞳は、なぜか酷く暗く見えた。

 理性の光が、見えない。

「お部屋は、片付いていますのね」

 部屋をきょろきょろと見回して、真雪嬢は一言、感想を漏らす。

「男の割には、几帳面なほうでして……」

「そういう殿方、真雪は好きですの」

 そう言って彼女は私をじっと見つめた。……この私を! その目は潤んでいて、私を捉えて離さない。私の中の男を引きずり出すような、ほっそりとした首筋。白くて、まるで――あの月のようだ。

 それでもまだ私の中の男は顔を出さなかった。いや、私という理性が重く、重く私の劣情へのしかかり、押さえつけているのだ。

 そのうち彼女は私から視線を外した。蛇ににらまれた蛙のような状態だった私は荒いため息をつく。そんな私を見て彼女は微笑んだ。

 その顔に、また心臓がどくんと一鳴りする。

 私から離れた視線は、白い月へと注がれている。そして、彼女はうわごとのようにつぶやいた。

「真雪は、あの月を見ると少し、変わるのです」

「変わる……?」

「真雪はあの月に開放されるのです。忌まわしい小娘の皮をかぶった真雪から、ほんとうの心をもった真雪に」

 開放……心……。何かの呪いにでもかかっているかのような口調の彼女を、私はただ、呆然と見つめていることしかできなかった。

「……今日、真雪のお友達が愛する人と『駆け落ち』をしたのです。お友達は私と同じような家のお嬢さん、でも相手は純文学を目指す若い書生さん……。ご両親に交際を反対されたから、もうお家にいられないといって」

 富裕層の娘と、書生。確かにこのご時勢では実現しない恋人同士。まれに駆け落ちをして無理心中を図る男女の話も風の噂で聞く。

「『あの人は、ほんとうの私を好いてくだすった。私を攫って永久に傍に居ようと言ってくだすった。私は、あの人に攫われるのよ』なんて、頬を赤らめて光悦とした表情で言っていましたのよ? だから、開放された真雪も」

 彼女が月から目線を離して、私を見る。白い月の光が、彼女を頭から喰らうかのように降り注いでいる。

 違う、開放なんかじゃない。貴方は月に「喰われて」いるんだ。彼女は、気づいていない。

「……真雪も、あの子と同じように攫われたいのですわ」

 ころころと笑う真雪嬢は、またあの目で私を見据えた。

「だって、龍元様は、紅い着物が似合うと、真雪に言って下さったのだから。ほんとうの私を、ほんとうの真雪を見てくださると思ったのだから」

 彼女の手が首元にかかる。ゆっくりと肩の着物をずらして、もっと白い部分を私に見せる。

 月よ、これ以上彼女を喰わないでくれ。そうしないと、私が――。



 真雪の紅い唇と白い肌に月の光が当たり、暗闇の中でいっそう引き立って見える。その見るからに魔力のあるもので私を誘うのだろう。素直に堕ちていいと思った。

 いや、自ら堕ちていきたいという意識があるのだ。

 着崩した着物、はだける胸元、揺れる女の香りの髪、そして頭についている赤い髪飾り。

 真雪の全体から、男を崩れさせる媚薬が香っている。

 堕ちてこの身が崩れ去っても好い。それほどまでに今自分は真雪を欲していた。

「わたしを、攫って下さい」

 紅い唇が、動く。

 私の中の男が、堕ちた。


 無言で真雪の細い手首をつかみ、幾らかの金銭を持ち部屋をでた。

 邪魔などされたくない、誰も彼も邪魔だ。

 静かな処へ、無の世界へ。


 もうこの部屋にも帰ってこなくていいだろう、真雪と一緒ならば。


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 いつのまにか雨が降り出した街の中を、私たちはひたすら走っていった。

 たどり着いた先は、大きな石橋の下。辺りは闇に包まれ、街灯の明かりがちらほらと見えるばかりである。

 石橋の下に広がる草むらに、私たち二人は向かい合って座った。むわりとした、青臭い草の匂いが立ち込める。

 真雪の唇が濡れている。雨水がそうさせたのだろう、だが私の心には淫らな思いが浮かんでは、沈む。

「龍元、さま……」

 真雪がかすれた声で私の名前を呼ぶ。唇が、私に吸い寄せられるように近づいた。

 まるで熟れた果実のように、甘い香りを放っては私を惑わしている。嗚呼、なんという美しい光景だろう! 私はその香りに耐えられなくなって、その実を貪り始めた。

 柔らかい感触を欲して私の唇は甘い果実をついばむ。そしてその奥にある深い部分にも絡み付いて、貴重な果汁をも搾り取るように、味わう。

 果汁は惜しげもなくこぼれて、それもまた私の下賤な神経を刺激して止まない。


 私は、真雪にとってのけがらわしい害虫だ。美しい果樹を汚染する汚らわしい虫である。しかし虫は己が穢れたものだと解っていても、此処を離れる意思などもう失くしていたのである。

 次第に虫は果実から離れ、白い幹をも汚染し始めた。

 虫は白い幹を削り、食べつくし、すべての部分に愛ある汚れを残していった。すべてを見渡して自分のつけた汚れがあることに、己のつけた欲情の証はまた愛の証でもあることに、虫は心からの至福を感じた。

 虫はもう、止まることなど忘れて、果樹の奥深くまで――。



 事を終えた虫は私に戻り、果樹は真雪に戻った。

 真雪からは果汁が――処女を失った証が流れていた。私はそれを見て、ああまだ真雪が残っていると名残惜しくなったのでその証を舐めてやった。口にしたときえもいえぬ快感と満足感が私を包み込む。真雪は少々驚いたようだったが、私の光悦とした表情をみて、微笑み、また私に身を任せた。

 雨はまだ、止む気配はなさそうだった。


:::::::::::::::::::::::::::::::


 さらさらと、夜風が私の紅潮した頬に当たり、ずいぶん気持ちがいい。いつの間にか雨は止んでしまったようだった。

 一体、ほんの刹那とも呼べる時間の中で、何度身体を重ねたのか。すでに数える事すら忘れてしまった。

 真雪は相変わらず、私の腕の中で幸せそうな顔をして寄り添っている。細く、小柄な身体の感触を感じつつ、ああこんなにも小さな少女だったのだと、いまさらながらに思った。良心の呵責など全く無かった。


 ぼお、と空を仰ぐ。空に浮かぶ、白い光を放つ月が私の眼中に入ってきた。

――あれは真雪の肌じゃないか。真雪の頬を見ても、月を見ても、二つはまったく同じじゃないか。

 そうか、月は真雪で、真雪は月なのか。

 私は酷く素直に納得して、しばらく夜空を見つめていた。そのうちに、月は雲に隠れ少し姿を、消した。

 ならば私は月を覆い隠す雲ではないか。

 ああ、あの風に運ばれるあの雲ではないか。私もあのように、漂うものなのか?


 ここで、私はようやくわかったのだ。

 

 ああ、嗚呼、そうだったのか。


 あの雲は、あの雲は。

 現実と夢の狭間で行き交う、私の心ではないか。


 真雪が、私の腕のうちから声を掛けた。

「龍元さ、ま」

 すがるような、眼。

 私はその眼を試すかのように、問い始める。


 君は私のそばにいたいかい?

「ええ、ほんとうに、ずっと」


 本当に命尽きるまでそばにいたいかい?

「いつまでもあなたの腕の中にいとうございます」


 笑うな、笑うな真雪よ。

 私は、わたしは。


「あなたも、この夢の中で生き続けたいのでしょう?」

 笑っている。

 私を疑って信じない狂った眼で、真雪は私に向かって笑っている。


 現実と夢の間でさまよう私の心は、まるで溺れる寸前のように苦しかった。

 この苦しみから逃れたくて、私は手を伸ばした。


「……っがぁああ」 

 嗚呼、私はいつのまにか真雪の細く白い首を、ぐうと締め付けていたのだ。

「っがっ……っはぁっ……っつぁぁあ」

 体を捩って唸る真雪。声を獣のように枯らして叫ぶ真雪。

 その声さえも、それに歪む顔も、私はすべて愛しいと思えている。


「……りゅ……もと……さま……」

 今まで唸り声だけだった口から、私の名前が出た。

 息も絶え絶えな声で私の名前を虚ろに呼び続ける。同時にひゅうひゅうと絶え絶え息をする音も聞こえる。


 美しい。


 欠ける月を見るような美しさ。崩れていくこの不安定さ。

 髪の毛が何本かほつれて頬にくっついている。頭を酷く揺さぶったからだろう。

 顔を崩れさせ汚らしいものも流れている真雪の顔。改めて深い口づけを落としたいと思うほど、この顔は美しかった。

 衝動にあらがえず、ねっとりとした液体をも一緒に口に含んで、接吻をした。甘い、そう感じた。口の中までもを侵食するように、ゆっくりと、しつこく。


「っ……ぁがっ……」

 もっと、もっとうめけ!


「……は……ぁ……がぁ……っ」


 ぐっと、手に力を込める。細い首に這っている血管一本一本あたりまでを潰すように。


「まゆきは――」

 もうまともにしゃべれないはずの真雪から、声が漏れた。

 私の首筋に、ひんやりと冷たいものが当たる。

「……!」

 見れば私の首に白い手が巻きついていた。真雪、の、手だ。

 繊細な手からは想像できぬ程の力で、ぐうと締め上げられ、私の喉は使い物にならなくなった。

 ただ、さっきの真雪のようにひゅうひゅうと空気が漏れているだけだ。私の声など、真雪には届かない。

「りゅうもとさまも、ごいっしょに」

 真雪は穏やかに微笑んで、でもその表情とは正反対に手に力がこめられた。

 ごきり、と嫌な音が聞こえてくる。

「ごいっしょでないと、さみしいでしょう?」

 ああ、今から私は真雪と共に果てるのだ。この世界から抜け出し、上空にある我等だけの世界へと果てるのだ。

 素晴らしい事じゃないか。


 ごきり、きり、きり

 ごきり。

 私はもう、これでかまわない。

 このまま、紅い夢を、ずっと、ずっと。


 月に喰われた、愚かでしあわせな私を。

 貴方はどうお考えになりますか。


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紅い女 服部匠 @mata2gozyodanwo

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