隣人

摂津守

隣人

 隣人




 蝉時雨をBGMに、僕が部屋の前でボーッと外を見ていると突然、隣室、二○三号室のドアが開き、隣人が姿を現した。


 彼はステテコにタンクトップとラフな格好をしている。片手にはブランド物の長財布。『ちょっと煙草でも……』といったところだろうか。彼を見るのは実に数週間ぶりだった。


 彼はハッとなって僕を見た。彼と目が合った。

 僕は少々驚いた。

 面識が無いわけでもないので、僕は目礼した。

 彼はズンズンと僕に近づき、キッと目を鋭く尖らせ僕を睨みつけた。


「あんたねぇ、夜中にバタバタバタバタ五月蝿いんだよ。こっちは旅行から帰ってきて死ぬほど疲れているのに、夜中にあんたが五月蝿いせいで眠れなくてほとほと困ってるんだよ」


 突然のクレーム。僕は二重のショックに下手な相槌を打った。


 なるほど、よく見れば怒りを露わに睨みつける二つの目玉の下には黒い隈が濃く深く浮き出している。


 彼はよっぽどストレスを溜め込んでいたのだろう、僕に文句、不満、悪罵、注文、を雨あられのように降らせた。僕は適当な相槌だけを打ってひたすら『聞き』に徹した。


 そもそも、彼は間違っている。

 騒音の原因は僕ではない。僕であるはずがない。


 それを彼に説明して、果たして彼がそれを素直に聞いてくれるだろうか? 彼は自分で喋る内に勝手にヒートアップして、さっきからのべつ幕なし口をパクパクと動かし、ピーチクパーチクさえずっている。もはや彼に冷静さを期待することは無理だろう。


 僕としても久々の触れ合いを楽しみたいという気持ちも強かったので、ここは彼に合わせ、彼の好きなようにさせることにした。


 彼はとうとうと、ゆうに十分くらいは喋っただろうか、その間、僕は適当な気のない返事を続けた。


「何だお前! さっきからその返事は! 本当に反省してるのか!?」


 突然、彼は一層強く怒りを爆発させた。どうやら僕の適当な気のない相槌が気に障ったらしい。


 久々に十分も触れ合ったので、僕は満足した。そろそろ頃合いだろう、僕は自分が騒音の原因ではないということをはっきりと伝えた。


「じゃあ、どこの誰が原因なんだ!? 言ってみろ!」


 そう言われても、そんなこと僕に分かるはずがなかった。ここで適当なことを言っては、また別のご近所トラブルを産んでしまう。ただひたすら僕は彼に、自分のせいではないということを強調した。


「何を今更言い訳してるんだ! もう怒った! お前みたいな奴は大家さんに頼んで追い出してもらう!」


 そう言うと、彼は自分の部屋に飛び込むように戻っていった。


 彼を見送ると、僕はこのちょっとしたトラブルの起こる前と同じように、蝉時雨に耳を傾け、ボーッと外を眺めることにした。


 しばらくすると、大家さんが血相を変えて、こちらに向かってくるのが見えた。きっと彼が、騒音の件で呼びつけたのだろう。


 大家さんは近所の一軒家に住んでいる。もうかなりの高齢なのに、この暑い真夏の昼間を小走りに駆けるのは尋常じゃない。僕は大家さんが途中で倒れたりしないか心配だった。


 心配は杞憂に終わった。


 大家さんは汗だくになり、顔を紅潮させながらも、無事にこのアパートに到着した。


 カンカンと音を響かせ、大家さんはアパートの階段を登ってくる。


 階段を登り切った大家さんは再び小走りになって、僕には目もくれず、僕の背を通り過ぎ、二○三号室のチャイムを鳴らした。


 チクられても、僕は痛くも痒くもない。僕の正しいことが証明されるだけだ。僕は正しさが証明される瞬間を楽しみにしつつ、大家さんとともに彼が出てくるのを待った。


 ほどなくして、二○三号室のドアが開かれ、彼が現れた。


「大家さん、隣が……」


 彼の言葉を、大家さんの言葉が遮った。


「お隣さんねぇ。まさかあんなことになるなんてねぇ……」


 大家さんの目元が曇った。


「あなたが旅行に行ってる間に二○二号室の田中さん、強盗に押し入られて……、酷いもんよねぇ。今はだいぶ落ち着いたけど、一週間前まではしょっちゅう警察もこの辺りを巡回してたのよ」


「えっ、でも……」


 彼の顔が見る見る青ざめてゆく。


「騒音ね。私が各部屋に注意の手紙を出しておくわね」


 僕は自分の正しさが証明されて満足だった。


 僕は勝ち誇り、大家さんの背中越しに彼に向かって微笑みかけてやった。彼と目が合った。彼の顔はいよいよ死人のように青くなった。


 死人が笑って、生者が青ざめる、この皮肉は行き場のない今の僕にとっては痛快だった。

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隣人 摂津守 @settsunokami

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