26. 桜

 無事迷宮内から脱出ができたパーティメンバーはそのまま公社の窓口にいって事情を説明し、対策をしてもらえるように頼み込んだ。

 公社の職員たちは、

「通常ならば迷宮に入ってから十二時間以上経過しないと遭難扱いにはならないのですが」

 といいながらも、これが異例の事態であることは認め、必要な対処を手配してくれる。

 まずは現場を確認することから、ということで、職員数名を伴って例の分岐がある場所にまで〈フラグ〉で移動し、そこからしばらく徒歩で前方に移動してから再び迷宮入り口にまで戻る。

 そうした行為を何度か繰り返してみたが、迷宮入り口に戻る際、行方不明になる者は出ず、結局これは再現性のない事例なのではないか、ということになった。

 さらにいえば、そうした試行をしている間に出没したエネミーも、その階層ならば普通に出没するようなエネミーのみに限られ、より深層でしか出ないはずのリザードマンやヨロイクモが出没することもなかった。

 そのまで検証した結果、公社としては、

「きわめて異例な事態であることは認めるが、これ以上に救助をするための方策を持たない」

 と判断し、行方不明の五名に関しては、規定の十二時間を過ぎたら未帰還者として扱うと決定した。

 一見して冷酷な判断のように見えるのかも知れないが、これは迷宮という特殊な環境における遭難者への扱いとしてはかなり妥当な処置でもある。

 なにかしようにも、公社としては有効な方策がないというのが正直なところだった。


 当然、ふかけんの帰還組五人は、この処置について満足しなかった。

「本当に他にできることはないのか?」

 槇原猛敏がいらだった声を出す。

「迷宮で行方不明者の所在地を知る方法は、ないからなあ」

 大野相馬が疲れた声を出して応じた。

「現在地さえわかれば、〈フラグ〉でひとっ飛びして救出してくることも可能なんだろうが」

 少なくとも、現在の常識ではそういうことになっていた。

「とりあえず、先輩方に相談してみて、なにか対策がないものかいっしょに考えてもらおうよ」

 両角誠吾がそんなことをいい出す。

「この場にいる五人だけで考え込んでいるよりは、なにかいい案が出てくるかもしれない」

「それなんだけどね」

 双葉アリスが、そんなことをいい出した。

「なんか重要なことを忘れているような気がするんだよねえ」

「それ、この状況を打開することができるようなこと?」

 一陣忍がアリスに訊き返す。

「なら、はやいところ思い出してほしいだけど」

 恋人である秋山明雄も行方不明者に入っていたため、忍もかなりいらだった様子だった。

「たぶん」

 そういって、アリスは自分のスマホを取り出す。

「先輩方に相談をするだけではなく、SNS経由とかで片っ端から心当たりに相談メッセージを送って見るね」

「そうだな」

「そうだね」

「今は、それしかできることはないか」

 他の面子が、口々に消極的な賛成の意思を示し、心当たりに連絡をするために各自のスマホを取り出した。



 秋田明雄はその頃、〈察知〉スキルを全開にして周囲の様子を探っていた。

 なにしろ鼻をつままれても気がつかないような暗闇の中だ。

 不意にエネミーに遭遇することだけは避けたかった。

 周囲に声をかけてみた結果、反響がないことと、それに返答がないことが判明した。

 つまりは、周囲の状況は暗すぎてよくわからないものの、明雄は今、仲間たちから孤立した状態で、開けて場所にいるということになる。

 念のため、スマホを取り出して周囲を照らしても見たのだが、この明雄の予想を裏づける結果にしかならなかった。

 そして今、明雄の〈察知〉には、明らかにエネミーのものである気配を捉えていた。

 大型かつ人型のエネミーで、身長は二メートルほど。

 どういう感覚で明雄の所在地を知っているかは定かではなかったが、明らかに明雄の現在地を目指してまっすぐに移動中だった。

 この暗闇の中で、明雄はこのエネミーに対して単身で対処しなければならない。

 そうしないと、このまま未帰還者の中に名を連ねっることになる。

 明雄はそうなりたくはなかったので、せいぜい交戦するしかなかった。

 しかし、相手の正体と大体の位置でしかわからないというのがなあ、と、明雄は思う。

 明雄があえて〈隠密〉スキルを使わずに、つまりは気配を消していないのは、相手がこちらに近づいてくるのを待ち構えているからだった。

 そのエネミーに明雄の〈隠密〉スキルが通用するのかどうかすらわからない状態だったが、エネミーが至近距離まで近づいてきたら、明雄は〈隠密〉スキルを使用して自分の気配を絶つつもりだ。


 そのエネミーが明雄から五メートル前後まで近づいた来たところで、明雄は〈隠密〉スキルを使った状態で右手方向に動いてみる。

 そのエネミーは明雄の所在地を見失ったらしく、しばらくどこへいくべきか判断に迷うように、しゅいをうろつきはじめた。

 よし。

 と、明雄は思う。

 このエネミーは〈鑑定〉系のスキルを所持していない。

 つまり、明雄の〈隠密〉スキルが通用することを確信した。

 最悪、明雄の隙を誘うために、明雄の居場所を見失ったかのような芝居をしている可能性も否定しきれないわけだが、そこまで疑ってかかっていたらそれこそなにもできなくなる。

 ここは、このエネミーは〈鑑定〉系スキルを持っていないという前提に立って動くことにしよう。

 そうでもしないと、明雄にしてみてもこれ以上に動きようがないという事情もあるのだが。

 明雄はそのエネミーに至近距離まで近寄ったところで、一瞬だけ〈隠密〉スキルを解除し、〈ファイヤー・ショット〉のスキルをぶつけてみた。

 これはエネミーにダメージを与えることを期待するものではなく、あくまでそのエネミーの種別を判読するもためのものである。

〈ファイヤー・ショット〉はその名の通り、炎を直接標的にぶつけるスキルであり、その際には一瞬だけ周囲はスキルの炎によって照らされることになる。

 流石の明雄も、ただでさえ不利なこの状況下で、相手の正体も知らないままに戦いを挑むつもりはなかった。

 エネミーの正体を把握しているのといないのとでは、難易度が大きく違ってくる。

 明雄が放った〈ファイヤー・ショット〉は、〈察知〉スキルで漠然と狙っただけにしては、見事にそのエネミーの首筋あたりに命中した。

 その瞬間、スキルの炎に照らされて、エネミーの全体像が浮かびあがる。

 なんてこった。

 そのエネミーの正体を察知した明雄は、心のなかで毒づいた。

 全身が硬い鱗で覆われた、明雄がこれまで対戦してきた中で一番強く倒しにくい、人型のエネミー。

 リザードマンだった。


 とはいえ、怯んでいる暇はない。

 まごまごしている間に、別のエネミーが近づいてくるようなことがあれば、明雄の立場はどんどん不利になっていくのだ。

 リザードマンは突如目前で炸裂した炎に一瞬だけ怯んだ様子だったが、すぐに油断なく周囲を見回した。

 予想した通り、これくらいの炎ではたいしたダメージは受けないらしい。

 そして、明雄の〈隠密〉スキルはこのリザードマンに対しては有効であり、こうしている今も明雄の現在地は知られていないらしいことが、リザードマンの挙動から推測することができた。

 明雄としては、この、

「自分の居場所を相手が把握していない」

 という利点を最大限に活かすしかない。

 明雄はそのままリザードマンの直前にまで近寄り、そこで〈フクロ〉の中から短剣を取り出し、リザードマンの顔があるあたりに突き出した。

 リザードマンは明雄自身よりもかなり背が高く、背伸びをするような形で、暗闇の中、顔の上半分にあたるように短剣をつきだしたわけだが、切っ先がなにか硬いものにあたったあと滑ったあと、なにかに刺さってそのまま潜り込んでいくような手応えがあった。

 よし、と思いつつ、明雄はすぐに後方に飛びのきながら、短剣があるあたりに見当をつけて〈ファイヤー・ショット〉を連発する。

 明雄は〈ショット〉系のスキルはあまり伸ばしていなかったので、連発といっても双葉アリスのような極端な連射はできない。

 一秒間隔で撃ち続けるのがせいぜいだったが、その明雄の練度があまり高くない〈ファイヤー・ショット〉の炎に照らされて、目窟深くにまで短剣を突き刺したまま、闇雲に手足や尻尾を振り回すリザードマンの姿が浮きあがった。

 予想通りだ。

 と、明雄は思った。

 やつらリザードマンは鱗で覆われている部分はひどく硬いが、それ以外の部分、たとえば眼球などはさして硬いわけでもない。

 明雄は痛みに耐えかねて悶え苦しんでいるリザードマンが我に返る前にと、〈隠密〉スキルを使用して 姿を隠しながらできるだけ近づき、〈ファイヤー・ショット〉のスキルをリザードマンの顔周辺めがけて連射する。

 うまく短剣に当たればそれでよし。

 そうでなくとも、灼熱の炎が口の中に直接飛び込むようならば、それでもよし。

 とにかく、漠然とした狙いであっても撃ち続けて、なんらかのダメージを与え続けるのが重要だった。

 短剣を経由して脳にまで熱を伝えられるか、それとも気道に繋がる部分をうまく焼ければ、非力な明雄でも、どうにかリザードマンを倒せすことができるはずだ。

 リザードマンの生命力は思いの外強く、それから五分以上も痛みに苦しみつつ盛大に暴れ回ったあと、ようやく息絶えてくれた。

 明雄はその間、リザードマンの激しく動く手足や尻尾などをうまく回避しつつ、リザードマンの顔めがけて〈ファイヤー・ショット〉を撃ち続ける。

 そうしている最中に、経験値がどっと体内に流れ込んでくる例の感覚を得たことで、そのリザードマンが死んだことを明雄は悟った。

 リザードマンのような格上の相手を単身で倒したせいか、明雄はひさびさに大量の経験値を獲得した感触を得て、全身を大きく身震いさせる。

 さて、と。

 と、明雄はすぐに表情を引き締めて周囲を警戒した。

 これで終わり、ではないのだ。

 ここから自力で脱出するか、それとも、誰かが助けに来るまで、迫り来るエネミーを片っ端から倒していかねばならない。

 これはまだ、戦いのはじまりにすぎなかった。



 その頃、白泉偉も、別の場所でリザードマンの相手をしていた。

 偉がいる場所は、静乃や明雄が転送されたのと同様に、暗闇でひろく開けた場所だった。

 そこですぐに、やはり明雄と同様にリザードマンの接近をスキルによって察知し、どうにか対応しようとしていた。

 ただ、偉の場合、明雄とは違って〈隠密〉スキルを所持していなかったので、リザードマンにダメージを与えるのに苦労していた。

 巨大な棍棒を俊敏に振り回すリザードマンの攻撃をかいくぐって攻撃を届かせることは問題なくできるだが、偉が与える程度の攻撃は硬い鱗によって軽く弾かれてしまう。

 基本、一撃の重さよりも急所への一撃必殺、それに手数の多さを武器とする偉にとっては、リザードマンのように全身くまなく硬いエネミーは苦手とするところだった。

 さらにいえば、たとえ硬い鱗に包まれてはいても急所の塊ともいうべき頭部は、小柄な偉では背伸びしても容易に届かない高い位置にある。

 さてどうするかなあ、と、リザードマンの攻撃を避けつつ、撹乱するための攻撃を持続しながら偉は思う。

 偉が習いおぼえてきた技の中には、リザードマンのように硬い甲冑を着込んだ相手を想定したものもあるのだが、そうした技術がこのリザードマンにも通用するのかどうか。

 こればかりは、実際に試してみないことにはわからない。

 やるしかないのか。

 と、ある時点で偉は決断する。

 通用するかどうかはわからないが、この場面では自分が持っている方法論を片っ端か試していくしかない。

 あまり手間取っていると別のエネミーがこちらに近寄ってくる可能性があり、つまりは一体を倒すのに時間をかければかけるほど、偉自身が不利になっていくのだ。

 決断したあと、偉の行動は早かった。

 重たい金属製の棍棒を振り切った直後のリザードマンの手首を握り、軽く重心を崩しつつ、渾身のちからを込めて軸足を払う。

 つまりは、投げた。

 このように記述すると簡単なように感じるかもしれないが、身長二メートルを超えるリザードマンと小柄な偉とでは、三倍以上の体重差がある。

 偉自身の技のキレと、それに累積効果による身体能力の拡張とが合わさってはじめて実現できる行為であった。

 俊敏かつ力が強いリザードマンも、なまじ生来の能力が強力であるがゆえに、こうした武術への耐性は必要としなかったようだ。

 その巨体があっけないほどに軽く飛び、反転しながら地面に落ちる。

 その際、偉はリザードマンの手首を硬く握ったままだった。

 そのため、リザードマンの右腕は肩のあたりからあらぬ方向にねじれている。

 その体重が仇となって、本来ならば関節が曲がらないはずの方向に大きな負荷がかかった結果であった。

 屈強なリザードマンの喉から、苦痛に耐えかねる悲鳴じみた叫びが漏れる。

 これで、頭の位置が低くなった。

 偉は瞬時にそう判断し、この機会を逃すまいとリザードマンの首のあたりの乗りかかり、〈フクロ〉の中から取り出した武器を両手に構えて素早く振りおろした。

 なにしろ、視界の効かない暗闇の中である。

 行動のすべてを、想像力を駆使した上で手探りで行わなければならない。

 切っ先を下にむけた短剣を何度か振りおろし、硬い鱗に何度か弾かれた末、ようやく深々と突き刺すことができた。

 位置からいって、おそらくは両目を潰せただろう、と、偉は想像する。

 むろん、リザードマンもその間されるがままになっていたわけではなく、偉が両手にその感触を得たのと前後して大きな唸り声をあげ、激しく身を捩る。

 体重が軽い偉は軽々と吹き飛ばされた。

 このような場面では、下手に大きな力に逆らおうとしない方がいいということを、偉は知っている。

 吹き飛ばされたあと、偉は受け身をとってすぐに立ちあがり、暗闇の中、苦痛のうめき声が聞こえてくる方を警戒する。

 暗闇おかげで直に確認することはできなかったが、今や相手のリザードマンは右腕の肩関節が外され、両目を潰されているはずだ。

 そして、苦痛に耐え切れずに漏らしてる声で、偉にもその居場所が確定できる。

 短剣は、脳にまでは届かなかったのか。

 と、偉は残念に思った。

 いかにリザードマンが生命力にあふれた存在であったとしても、流石に脳を大きく損壊されたらろくに身動きを取ることもできまい、と、偉は考える。

 偉は、明雄とは違って〈ショット〉系のスキルを育ててはいない。

 だから、今この場でできることいえば。

 偉は、〈フクロ〉の中から〈角飾りの手斧〉というドロップ・アイテムを取り出して両手にひとつずつ、握った。

 偉は〈ショット〉系のスキルは育てていないかわりに、〈投擲〉スキルの練度はかなり高い。

 そのまま偉は短剣よりも遥かに重量のある〈角飾りの手斧〉を、次々とリザードマンのうめき声が発生する場所よりも心持ち上を狙って投げつける。

 この闇の中では正確に狙いをつけることはできなかったが、数で押していけばいつかは両目に突き刺さった短剣の柄に〈角飾りの手斧〉が命中して、短剣の切っ先をさらに奥まで押し込むだろう。

 とにかく今は、リザードマンが混乱しているうちにさらなるダメージを与え続けることが肝心だった。

 圧倒的に不利な状況下の中、偉はこの場で実行可能な方策を片っ端から試していった。



 圧倒的に不利といえば、現在の藤代葵の状況は、他にいいようがないくらいに不利なものであった。

 暗闇の中、逃げ場や遮蔽物がない開けた場所。

〈察知〉のスキルを所持しているがゆえ、近づいてくるエネミーの存在にはすぐに気づけることくらいが、今の葵にとっては多少なりとも有利な点になるのか。

 ソロの経験がない葵にとって、〈察知〉のスキルくらいでは自分の不利が埋まるような気がしない。

 さらにいえば、今、葵が相手にしているエネミーは、どちらかといえば葵が不得手に思っている非人型、薙刀越しの感触から類推するに、おそらくはヨロイクモと通称されるエネミーだった。

 幼いことから薙刀の扱いを仕込まれてきた葵にしてみれば、二本の足に二本の腕を持つ人型のエネミーの方が相手をしやすい。

 獣型とか虫型のエネミーは、どうにも勝手が違うと感じることが多かった。

 それでも、エネミーの体表が柔らかく、薙刀の刃が通用するエネミーが相手ならば、まだしもどうにかしようがある。

 しかし、ヨロイクモというエネミーは体表が非常に硬く、なおかつ、重心が非常に低い非人型のエネミーであった。

 葵にしてみれば直接傷つけることもできず、かといって、体勢を崩して隙をつくるのも難しい、対処するのがこんなタイプのエネミーであるといってもいい。

 あるいは、技巧に頼らずパワーと勢いでエネミーを叩き伏せる槇原猛敏や野間秀嗣のような探索者だったらかえってこうしたエネミーをうまくあしらうことができるのかもしれないが、現状、葵ひとりしかこの場にいいないので、他のパーティメンバーに自分の不得手な場面を任せることも不可能であった。

 ヨロイクモを攻めあぐねながら、葵は内心で歯噛みしている。

 普段、偉そうな態度をしてリーダーシップを取っている自分が、こんなことで躓いている。

 その事実を葵は滑稽に思うのと同時に、ひどく口惜しく思った。

 結局自分は、パーティを組むことを前提とした、甘えた戦い方しかできないのではないかと。

 無事に帰ることができたら、今度はソロでの戦い方も学ばなければならないなと、そんな風に決意していた。

 それはともかく、今はこの目前のヨロイクモをどうにかしなければならない。

 ヨロイクモと呼ばれるエネミーは全高一・五メートル前後の、虫型エネミーである。

 重心が低く、そして、クモと呼ばれる割りには、脚部が太く頑丈にできている。

 上下に潰れた円形の胴体部分から直径三十センチから五十センチ前後の太く硬い脚部が放射状に生えており、たとえ明るい場所であっても、その脚部を葵の力だけで胴体から斬り離し、あるいは破砕することは困難であるといえる。

 ヨロイクモは表皮が硬い上に力が強く、安易に近づくと手足を取られ、その場に倒されてのしかかられ、十本以上もある頑丈な脚部で保護服ごと体の各部を引きむしられ、行きたまま解体されるかねない。

 ただ単に倒しにくいというだけではなく、その攻撃性においてもヨロイクモは十分に脅威的なエネミーであるといえた。

 そのヨロイクモを、葵は、この暗闇の中で、単身で、どうにかして倒さなければならないわけだった。

 今葵は、薙刀の刃先を慎重にヨロイクモの方に伸ばして、ヨロイクモの動向を探っている。

 視界が効かないこの状況では、そうするよりほかに方法がなかった。

 ヨロイクモがこちらに進んでくれば、薙刀を取られないように慌ててさがる。

 ヨロイクモが後退すれば、居場所を見失わないように慌てて前に踏み出す。

 わがことながら、慎重を通り越して臆病な態度といえたが、葵がヨロイクモに致命傷を与える手段を持たない現状では、こうして様子をみるしかない。

 これまで薙刀による近接戦闘に特化してきた葵は、ショット系スキルなどの他の攻撃方法を持っていなかった。

 薙刀による物理攻撃だけでもこれまで十分に戦えてきたので、他のスキルを育てる必要性を感じなかったのだ。

 薙刀一点に特化した育成方法はこれまで葵にそれなりのアドバンテージを保証してきたわけだが、今後は、やはり考えを改めなくてはならないな、と葵は思う。

 特に今回のように特殊な状況下においては、選べる選択肢が豊富なほど有利になる。

 だけどまあ、それも。

 葵は、心中で苦笑いを浮かべる。

 すべては、無事に帰ることができてから、改めて考えればいい。

 今は、このヨロイクモを早いところどうにか始末をつけるのが先決だ。

 このまま膠着状態を続けて別のエネミーが寄ってきても、葵にとって状況が不利になるばかりなのである。

 では、どうするのか。

 葵は急いで思考を巡らせる。

 硬くて攻撃しにくいこのヨロイクモに弱点があるとすれば、それはどこか。

 葵は急いで事前に調べていたエネミーのデータを脳裏に思い浮かべる。

 ヨロイクモは硬いだけではなく、虫型だけあって生命力が強い。

 そのヨロイクモを完全に倒すためには、それこそ、胴体部分を分断するくらいの派手な打撃を負わせる必要があった。

 今の葵に、それができるのか?

 いや、やらなければならない。

 そうしないと、迷宮から生還することができないのだ。

 どうする、どうする。

 と、ヨロイクモの動向に注意をはらいながら、葵は考え続ける。

 ヨロイクモの特徴は、頑丈で体表が硬く、そして。

 ふふ、と、葵は軽く笑みを漏らす。

 こんな単純なことを、今まで思いつかなかったなんて。

 どうやら葵は、自分で自覚している以上に、この異常な状況に直面してわれを失っていたようだ。

 葵は薙刀の刃横にし、地面にすれすれ置いて、ヨロイクモの方に一気に近づける。

 ヨロイクモの足下と地面との間に、深く刃先を潜りこませる感じだ。

 その状態で、一気に薙刀を引き起こし、ヨロイクモの足元を掬った。

 ヨロイクモは、そのごつい外観に反して、意外に軽い。

 せいぜい、葵自身の体重と同程度くらいか。

 そして、その程度の重量であれば、累積効果によって強化された今の葵のちからであれば、余裕で持ちあげ、ひっくり返すことができるのだった。

 一瞬のうちに天地をひっくり返されたヨロイクモは、なすすべもなく多数の脚部をじたばたと動かしている。

 暗闇のおかげで、葵はその光景を直に見ることはできなかったが、その場にとどまってなす術もなく激しく脚部を動かしている様子は、薙刀の伝わってくる振動で察することができた。

 しばらく放置しておけば、脚部で反動をつけるなりして態勢を元に戻すことも可能なのだろうが、葵がそれを許すわけもない。

 ヨロイクモの動きが不自由になった今こそ、攻撃の好機なのだ。

 葵は身動きの取れなくなったヨロイクモの、むき出しの腹部へむけて薙刀の刃先を突き入れる。

 たとえ暗闇の中で司会が効かない状態であっても、〈察知〉のスキルを使えば、エネミーの体の中央部分を狙うことくらいは十分に可能であった。

 体重をかけてヨロイクモの胴体深くにまで薙刀の刃先を突き入れたあと、葵はその刃先を無造作に動かして、ヨロイクモの胴体を解体していった。

 あれほど硬く思えたヨロイクモの体表部も、腹部に関しては意外と薄いらしい。

 あっけないほど簡単に薙刀の刃は動き、ヨロイクモの胴体部分を分断していく。

 胴体が分断されてもなお、脚部がじたばたと蠢き続けている感触が伝わってきたが、いかに生命力と力が強くても、基盤となる胴体部分がばらばらになってしまったら、もはや脅威とはならない。

 葵はそのヨロイクモの残骸の無駄なあがきには頓着することなく、黙然と解体作業を続ける。



 野間秀嗣の場合、他の四人の未帰還者たちと比べ、いくつか有利な点があった。

 ひとつ目は、秀嗣はソロにも慣れていたので葵のように取り乱すこともなかったこと。

 この条件はしかし、明雄や偉もソロに慣れているので、秀嗣だけの優位ではない。

 しかしふたつ目の、改造された〈鈍牛の兜〉の電装部分に標準で装備されていた暗視機構は、結果的に秀嗣だけが甘受できた特権となった。

〈鈍牛の兜〉は外部を撮影した映像を着用者である秀嗣の網膜に投影して伝える仕組みになっている。

 そして、そのカメラシステムは、探索者むけに標準化されたユニットをそのまま使用していた。

 迷宮の中には光源が乏しい箇所もあり、それに備えて暗視が可能な機構もデフォルトで備わっており、結果として秀嗣はその恩恵を受けることが可能となった。

 そうした暗視機構が必要となるのは、本来ならばもっと深層にいってからになるはずだったのだが、今回はこの偶然が大きく秀嗣に味方をした形となる。

 そうした理由により暗闇の中でも秀嗣は比較的自由に動くことができたわけだが、そのかわり秀嗣は、他の未帰還者たちとは違った種類の困難に直面していた。

「どっ、せぇいっ!」

 リザードマンの棍棒をどうにか盾で受け止めた秀嗣は、右腕を動かして、態勢を大きく泳がしているリザードマンの頭部めがけて片手持ちのメイスを振りおろす。

 リザードマンが使用している大きな金属製の棍棒は、リザードマンの筋力をもってしても両腕で振り回すのがやっとといった重量物であるらしい。

 しかも、リザードマンの動きは力任せのものであり、まるで洗練されたものではなかった。

 ひとことでいうと、隙が多かった。

 その隙を逃さず、秀嗣は渾身の力を込めてメイスを振りおろろす。

 偉や葵とは違い、武術の心得もなければ運動神経にも恵まれていない秀嗣は、相手の攻撃をあえて受けることによって相手の隙を誘い、そこに攻撃を仕掛けるという愚直な手段しか選択肢がなかった。

 秀嗣のメイスによる攻撃はリザードマンの後頭部に直撃したが、リザードマンにとってはたいしたダメージにはならなかったようだ。

 メイスが後頭部に直撃したあとも、そのリザードマンは平然と秀嗣の方に向き直る。

 これでもまだ、攻撃が軽いのか。

 と、秀嗣は愕然となった。

 対する秀嗣の方は、先ほどのリザードマンの攻撃を盾で受けたのにも関わらず、全身の骨がガタついているような錯覚をおぼえるほどのダメージを負っている。

 正直なところ、こうして立っているのがやっとの状態だった。

 しかし。

 やるしかない。

 と、秀嗣はそう思い、自分自身を心中で叱責する。

 この場を凌ぐためには、このリザードマンをどうにかして倒すしかない。

 そして、もともとさほど器用あ方ではない秀嗣としては、そのための方法として、こうしてリザードマンと正面からどつきあいを演じることしか思いつかなかった。

 このリザードマンは、これまでに秀嗣が相手にしてきたエネミーたちとは比較にならないほど格上の相手に思えた。

 真面目に想像力を働かせるとどうしって楽しくはない未来図しか思い浮かんでこないのだが、それでも秀嗣としては精一杯あがくしか方法がない。

 渾身の力を込めてあそこにあててもダメージを与えることができないとすれば。

 秀嗣はリザードマンの動きを注視しながら忙しく考える。

 まずは、あの武器を奪うことを考えた方がいいのか。

 頭部に直撃してもダメージを与えられないのであれば、相手の武器を奪って少しでも攻撃力を削ぐことからはじめるしかない。

 そう結論した秀嗣は、狙いをリザードマンの手首に変更する。

 幸いなことに、兜のカメラを通じて外界を見ている秀嗣の視線が読まれることはなかった。

 リザードマンの動きは、その巨体に似合わず俊敏だった。

 秀嗣がそんなことを考える間にも、メイスによる攻撃を二撃目、三撃目と立て続けにしてくる。

 秀嗣は、盾を構えてかろうじてそれを受け止めた。

 どうにか盾を取り落とすことだけは免れてはいるが、握力もその他の部分も、もうかなりガタガタな状態だ。

 これ以上長引かせても、不利になる一方だな、と秀嗣は冷静にそんなことを考える。

 つまりはジリ貧ということなのだが、そのことに 対する恐怖は不思議と感じなかった。

 本当にそうなる前に、できるだけのことはしておこう。

 秀嗣はそう考えてメイスを持ち直し、素早くリザードマンの手首に振りおろす。

 フェイントもなにもない、愚直過ぎるほどの一撃であったが、だからこそかえってリザードマンの虚を突くことができたのか、その攻撃はリザードマンの手元に直撃をした。

 より正確を期するのならば、秀嗣のメイスは棍棒を握っていたリザーザドマンの手の指を何本か押し潰し、もはや二度と棍棒も、それ以外のなにかも握ることができないような状態にした。

 秀嗣が狙ったのは手首周辺だったが、なにかの拍子に狙いがそれた結果、こういうことになったらしい。

 両者ともに激しく動いている最中のことであったから、この程度の誤算は別に珍しいことではない。

 しかしこの誤算は、秀嗣にとって有利に働いた。

 手の指を潰されたリザードマンは、重たい金属製の棍棒をその場に取り落とす。

 あれ?

 とか不審に思いながら、これをいい機会と見た秀嗣は、武器を落としたリザードマンをメイスで滅多打ちにした。

 秀嗣の攻撃など、一撃だけならば大したダメージにはならないはずだったが、何度も連続して命中すると些細なダメージも蓄積される。

 ましてや、今のリザードマンは無手であり、秀嗣の攻撃から身を守ろうと腕をかざすとその腕に打撃を受ける。

 手の指を潰されている状態でもあり、秀嗣の連撃を受けてリザードマンは次第に疲弊していった。

 この頃、秀嗣は疲労と緊張とでもはや意識がもうろうとしている状態である。

 そもそも、これほど強力なエネミーと一対一で対峙した経験など秀嗣にはなかった。

 ここまで凌ぐことができただけでも奇跡的な出来事であるといっていい。

 そんな強敵を前にして、秀嗣は半ば反射的な動きで攻撃を加え続けている。

 いつの間にか、優勢になっている気がする。

 リザードマンに機械的にメイスを振りおろしながら、秀嗣はぼんやりとそんなことを考える。

 そんなことを、この自分ができるはずもないのに。

 そうか、これは夢だな、と、秀嗣は反射的にそう判断した。

 今、目の前にいるリザードマンはなぜか秀嗣の攻撃に対してなす術もなく受け止める一方であった。

 夢ならばいっそうのこと、派手にぶちかましてやるか。

 そう判断し、秀嗣は盾とメイスをその場で落とし、〈フクロ〉の中から取っておきの巨大な武器を取り出した。

 その両手持ちの見るからに巨大なメイスは、〈巨人のメイス〉という。

 その名からも容易に想像できるように、例の再生された死者が出没する特殊階層で入手したドロップ・アイテムだった。

 あのときの対巨人戦には、秀嗣自身はほとんど貢献らしいことができなかったのだが、こんな重たくて扱いづらい武器をどうにか使うことができるのは

秀嗣くらいしかいないということ意見が一致し、秀嗣に託されたのだった。

 その秀嗣からしても、この〈巨人のメイス〉は大き過ぎ、重過ぎて、特別な条件が揃った場合にしか使用できない。

 なにせこれを振り回すとなると、その重さゆえに動作に無駄なタメや隙が生じ、よほど余裕が無い状態でなければ実戦で使用するは自殺行為に近かった。

 しかし今、目前のリザードマンはどうしたわけか守勢一方で、不可解なことに秀嗣を恐れているような挙動も見せている。

 今のこの状態なら、この取っておきの〈巨人のメイス〉を使用してももんだいはなさそうだと、秀嗣はそう判断して、〈巨人のメイス〉を大きく振りかぶる。

 そして、渾身の力を込めて、リザードマンの首のつけ根付近に振りおろした。

 リザードマンは〈巨人のメイス〉の軌道の前に腕をかざして守勢に入っていたが、〈巨人のメイス〉はその腕をあっけなくへし折る。

 ついで、その次に、〈巨人のメイス〉の直撃を受けたリザードマンの首があらぬ方向にねじ曲がり、身長二メートル以上はあるリザードマンの巨体が軽々とあさっての方向に吹き飛んでいった。

 膨大な経験値が体内に流れ込んでくる独特な感覚を感知して、秀嗣はそれが白昼夢などではなく歴とした現実なのだとはじめて悟る。



 このような状況下にあっても、早川静乃がやっていることは相変わらずであった。

 いつもとの違いといえば、普段なら肉眼で標準をつけているところをこの暗闇のせいで〈察知〉スキルで代用しなくてはならないといったところくらいだろうか。

 とはいっても、静乃の〈察知〉スキルの有効化hにはかなり長かったし、それに対象となるエネミーのだいたいの大きさや位置もかなり正確に把握できたので、〈狙撃〉のスキルを使用することに差し支えはなかった。

〈狙撃〉スキルの対象となる物体の中心付近に命中するように標準をつければ、まず間違いはない。

 リザードマンにせよヨロイクモにせよ、体表が硬いので着弾時の射角によってはスキルの弾丸が弾かれることもままあったのだが、どの道静乃は一発で標的を沈められるものとも想定していない。

 標的が完全に沈黙するまで、何発でも執拗に〈狙撃〉スキルを実行してスキルの弾丸を送り込むだけであった。

 リザードマンもヨロイクモも、どちらも人間よりも遥かに生命力が強い生物なので一発で沈むことはめったになかった。

 弾丸が弾かれる可能性意外にも一発だけでは致命傷を与えることができない事例は多く、リザードマンは最大で五、六発、ヨロイクモに至っては十発以上が命中しても無力化できないことさえあった。

 これだけ深層のエネミーともなると、その生命力もこれまでのエネミーとは比較にならないくらいに強靭になるらしかった。

 それでもエネミーが遠距離にいるうちに対処する静乃としては、精神的な余裕を持つことができた。

 一体を倒すのに多少手間取るにせよ、その時間内でエネミーが移動できる距離はたかが知れている。

 静乃はほぼ全方位から近づいてくるエネミーを〈察知〉のスキルで感知する端から順番に片づけていたが、これまで差し迫った危機感をおぼえたことはなかった。

 つまりは静乃が危機感をおぼえるほどに接近することに成功したエネミーは皆無であったということになる。

 実は、接近戦用のスキルをほとんど所持していない静乃は、エネミーに肉薄されると対抗する術がなったりするのだが、今回もそこまで追いつめられることはなさそうだ、と、静乃は考える。

 しかしそれも、あくまでこの状態はあまり長くは続かないとうことが前提になっていた。

 こんな状態が、そう、半日以上も続いてしまったら、流石に静乃といえども精神的肉体的な疲労が積み重なって、どんな凡ミスをしでかすのか予想できなかった。

 つまりは、この時点での静乃にとっての次第の脅威は、この状態そのものではなく、この状態がいつまでも持続し、打開する予想がつかないという未来図であるといえる。

 さてこの先、どうしようか。

 どうするべきだろうか。

 冷静に考えながら、静乃は、遠くからこちらにむかってくるエネミーーたちを片っ端から倒し続ける。

 都合のよい思案は、なかなか浮かばなかった。



 鳴嶋成行がその報せに接することができたのは静乃や葵ら五名のふかけんメンバーが迷宮内に取り残されてから二時間以上が経過した夕刻になってからであった。

 つい先ごろから成行は扶桑さんお会社に週二回ほど通って初心者のレベリング作業を行っている。

 一応、成行もインストラクターという肩書でパートタイム勤務をしている身であったが、なにかと人に慣れていない成行がいきなり誰かに物を教えるというのもハードルが高く、最初の数ヶ月はそうしてレベリング作業を行いながら様子をみようという取り決めになったのだった。

 この日もたまたま成行の出勤日であり、午前九時から午後六時まで、多少の休憩時間を挟みながらみっちりと何組もの初心者パーティのレベリングを終えたあと、いつもの習慣でスマホで探索者用のSNSをチェックしたとき、成行は五名のふかけんメンバーが迷宮内に取り残された事実と、そうなるに至った経緯を知った。

 スマホの画面を睨んで険しい顔をしたあと、成行の行動は迅速であった。

 すぐにその場で踵を返し、たった今出てきたばかりの松濤迷宮へと取って返す。

「鳴嶋くん、どこへ?」

 そんな成行の背中に、扶桑さんが声をかけてくれる。

「迷宮へ」

 成行は歩みも止めずに短く説明した。

「仲間を救いに」

 そこまでいえば、あとは勝手に情報を集めるはずだった。

 今回の状況では、おそらく成行自身以外のものでは救助活動を行うことはできない。

 それに、未帰還のごめ位が迷宮内でどのような状況下にあるのかわからない以上、少しでも早く救助した方がいいに決まっている。

 成行が所持する〈チェイサー〉のスキルであれば、迷宮内で所在不明となった仲間たちの元に移動し、そこから脱出できる可能性もあるのだった。


 松濤迷宮の入り口に戻った成行は目を閉じて未帰還の五名の顔を思い浮かべる。

 この五名が一緒にいるのかバラバラになっているのかすら、成行にはわからなかった。

 が、ここはまず、リーダー格である藤代葵の存在を思い浮かべて、葵の存在を迷宮の中から探すように念じる。

 重層的な存在であるあまたの迷宮のすべてに〈チェイサー〉スキルの感覚を伸ばし、葵はどこにるのかひたすら探して回る。

 そのあま数分が経過し、成行の額にうっすらと汗がにじみはじめた。

〈チェイサー〉のスキルを使用し続けるには精神を集中させるひつようがあり、しかもこのスキルの成功率は必ずしも高いものではない。

 特に今回のように、エネミーではなく特定の人物を迷宮内から探し出すようなスキルの使い方は、成行にとってもはじめての経験だった。

 五分が過ぎ、十分が過ぎ、それでも成行はその場に棒立ちになったま神経を集中させて葵の存在を探し続ける。

 あまりにも神経を集中させすぎて頭が重くなってきた頃、ようやく〈チェイサー〉のスきりに弱々しい反応があった。

 成行はここぞとばかりにその反応に神経を集中させ、そこまで移動するように念じる。

 次の瞬間、成行の視界は闇で覆われた。

「……え?」

 予想外の事態に、成行は思わず間の抜けた声を漏らす。

「誰!」

 聞きおぼえのある、するいどい声がすぐそばから聞こえてきた。

「おれ、鳴嶋です」

 成行は即答する。

「鳴嶋成行です。

 スキルを使って、救助に来ました!」

 そのとき、ぞくり、と成行の背筋に悪寒が走った。

 成行は反射的に〈猪突の牙矛〉を〈フクロ〉から取り出し、脅威を感じ取った場所めがけて鋭く振るっている。

 クモ系のエネミーを弱体化するスキルも所持している成行の攻撃は、たった一撃で成行に迫っていたヨロイクモを四散させた。

「それは……」

 なぜか、葵の声はそこでいいよどんだ。

「……助かります。

 できれば、続けて他の人たちも助けに行ってくだされば嬉しいのですけど」

 ということは、この場には葵しかいないということか。

 成行は、そう思った。


 周辺にいたヨロイクモを一掃してから改めて葵を同じパーティメンバーとして認識し、成行は〈チェイサー〉のスキルを使用して秋田明雄を探しはじめる。

 今度は五人がそれぞれ離れた場所にいるものと想定した上で、探索者としての経験が長い早川静乃、なにかと頼りになる存在である白泉偉、ドロップ・アイテムの兜と厳重なプロテクターで身を包み、多少のことでは致命傷を負いそうもない野間秀嗣は後回しにすることにし、消去法で残った明雄を優先することにしたのだった。

 人間を探すことのコツを掴んだせいか、それとも明雄もここからさほど離れていない場所にいるのか、とにかくさっきとは比較にならないほど短時間で〈チェイサー〉スキルにそれらしい感覚が引っかかる。

「跳びます」

 成行はそばにいるはずの葵に短く告げて、その場をあとにした。



「秋田さん!」

「あっきーくん!」

 そこに出現するのと同時に、成行と葵は声を揃えて叫ぶ。

「お、おっと」

 戸惑ったような明雄の声が、暗闇の中から響いいてきた。

「なんだ、あんたたちか。 

 いきなり現れるもんだから、あやうく〈ファイヤー・ショット〉をぶっ放すとところだった。

 ここに来たってことは、助けに来てくれたってことでいいんだよな?」

 明雄の声はしっかりしており、この異常な状況にもどうにかうまく適応していることをうかがわせた。 それに、即座に救援に来たことということを理解しているあたりも、頭のよさを感じさせる。

「そういうことです」

 成行がなにかいう前に、葵が答えた。

「どうやら周辺にはエネミーがいないようですね。

 鳴嶋さん、次は静乃をお願いします。

 あの子も女の子ですから」

「あ、はい」

 成行は間の抜けた返事をして、再び神経を集中させはじめた。

 まあ、こうして次にするべきことを指示してくれるのならば、これはこれで楽でいいか。


「静乃!」

「早川!」

「あー、はいはい」

 葵と明雄の声が響くと、予想外にのんびりとした声が返ってるく。

「そうか、もう来たのか。

 予想していたよりもずっと早かったな」

 口調から察するに、静乃は明雄よりもずっと余裕がある状況のようだった。

「〈スローター〉さんが、スキルを使っておれたちを探しに来てくれたんだ」

「ああ、それでか」

 静乃は案外しっかりした声で答えた。

「そうか。

 そっち経由は、予想していなかったな」

「鳴嶋さん。

 次、お願いします」

「はいはい」

 成行はそういって、すぐに神経を集中させる。

 残りは、二名。

 これまでに合流した三名の様子から予想して、どちらもたいしたことにはなっていないだろう。

 しかし、白泉偉と野間秀嗣、どちらを先に助けるべきかな。

 一瞬、考えたあと、結局成行は偉の方を先に探すことにする。


「白泉!」

「白泉くん!」

「あ、その声は」

 以外にのんびりとした偉の声が返ってきた。

「そうか。

 助けに来てくれたんだ。

 しかし、この闇で周辺が見えなくてよかったな。

 あたりは血の海で、かなり酷いことになっているから……」

「怪我をしたのですか?」

「まさか」

 葵の問いかけに、偉がのんびりと答える。

「もしそうだったら、こんなにのんびりと構えていないよ。

 それで、僕が最後?」

「あとひとり、野間くんが残っています」

「じゃあ、すぐにそっちに行こうよ」

 そんなやり取りをしている間にも、成行は最後のひとりである野間秀嗣のことを思い浮かべて神経を集中させていた。


「野間!」

「野間くん!」

「は、はい!」

 暗闇の中から、戸惑ったような秀嗣の声が帰ってきた。

「は、はは。

 これは、夢ではないでしょうな?」

 秀嗣の声は、五人の中で一番疲れが滲んていた。

「すぐに帰還することは可能ですか?」

 葵の声が、成行に訊ねてくる。

「可能です」

 成行は言葉少なに答える。

「つもるはなしは、娑婆に出たあとで」

 次の瞬間、成行は〈チィサー〉のスキルを使用して松濤迷宮入り口まで移動していた。


 こうして成行は、ふかけんの未帰還者五名を無事に救出することに成功した。

 この五人が白金台迷宮ではなく松濤迷宮のゲートから出てきたことについて公社の職員に説明したり、未帰還者五名のうち静乃を除く四名の全身がくまなくエネミーの返り血などで汚れていたり、成行のことを待ち構えていた扶桑さんに捕まって成行がみっちりと絞られたりといった細々とした詳細については割愛させていただく。

 ただこのさ騒ぎの中にあって、秀嗣だけがちゃっかり〈リザードマンの盾〉というかなり使い勝手のいいドロップ・アイテムを戦利品として持ち帰ってきたことだけは記述しておこう。



 四月になり、年度が改まった。

 草原水利は引っ張ってきた妹の真砂とともに、ふかけんの部室内にある備品の整理をしていた。

 備品、とはいっても、大半は買い替えなどで不要になった探索者用の装備である。

 昨年度一年、そうした装備にお世話になってきたこの姉妹は、せめてもの恩返しとして自発的にこうした放置された装備品の整理を自発的にしているのだった。

「そっか」

 真砂が、ぽつりといった。

「あの暇そうな長老先輩、もうここにはいないんだ」

「うん。

 なんか、何事もなかったように、無事に卒業していったって」

 水利が答える。

「で、今は世界中を歩きまわっているって」

「なに、それ?」

「バックパッカーってやつだって。

 ときどき、知り合いに絵葉書が来るらしい」

 今時、メールでもなく絵葉書ってあたりが、なんとなくあの人らしいな、と、水利はそんなことを思う。

「大丈夫なの、それ?」

「どうだろ?

 先輩方は、あんまり心配していないみたいだけど。

 お金が尽きたら帰ってくるだろうって」

 水利としては、そういういい加減な生き方もありなんだなという、平凡な感慨しか抱けなかった。


「いいか、地味キャラには地味キャラなりの生き方ってもんがある」

 パイプ椅子に座っていた新鶏兼平は、後輩である両角誠吾に説明している。

「去年もおれは、ここにこうして座ってだな、野間とか白泉とか秋田とか、そういう主役タイプのやつらの入部受付をしていたもんだ。

 地味キャラには、そういうモブっぽい役割がよく似合う」

 いっしょにしないで欲しいな、と、誠吾は思った。

 誠吾自身は、この先輩とは違って、まだ自分が主役になることを諦めてはいなかった。


「はいはーい!

 不可知領域研究会略してふかけん!」

 大野相馬はふかけんのプラカードを担いで新入生たちに声をかけていた。

「探索者になって迷宮に入るサークルです!

 お金も稼げます!

 今入部してもらえればなんと幸運のラビットフットのお守りを無料でプレゼント中!」


「ぐ」

 その頃、野間秀嗣は別の場所でふかけん宣伝のために奮戦しているところだった。

「ぐ、ぐ、ぐっ!」

 城南大学のキャンパス内は迷宮景況圏外であるのにも関わらず、探索者としてフル装備をまとって歩こうとしている。

 ドロップ・アイテムである〈鈍牛の兜〉だけでも四十キロ近い重量があり、それ以外の保護服とプロテクターを合わせると装備の重量だけで百キロを軽く超える。

 はっきりいって、無謀な行為といってよかった。

「ひでちー先輩、頑張って!」

「ひでちー先輩ならできます!」

 秀嗣の周囲で黄色い声援の投げかけているのは、松濤から城南大学に進学してきた新入生たちであった。

 もちろん全員、ふかけんへの入部が決まっている。

 ぐ、ぐ、と呻きながら、秀嗣はその重装備をまとったまま、ゆっくりと歩きはじめる。

 その物々しい、しかもコスプレではなく本物ならではの装備の質感は、顔全体を朱色に染めて歩き続けている秀嗣の様子とともに、通りかかった新入生たちに強い印象を残した。

「不可知領域研究会、ふかけんです!

 入部希望者募集中です!」

「探索者になって迷宮に入るサークルです!」

 秀嗣の周囲にいる松濤から来た女子たちが、周辺の新入生たちにそう声をかけて回る。

「わたしたちといっしょに、探索者になりましょう!」

「リスクはあるけど、お金も稼げます!」


「それじゃあ、今年の新入生レベリング第一陣、いくぞ!」

 槇原猛敏が、白金台迷宮のロビーでそう声を張りあげていた。

 猛敏の周囲には、新入生たちの護衛役として、白泉偉や秋田明雄、一陣忍、双葉アリスらの姿が見える。

 これから新入生を引き連れて例のバッタの間にまで潜ってくるわけだが、スキル構成からいっても実際にレベリングを担当するのは〈弾幕娘〉双葉アリスになるはずなのだが、新入生の先導役としては声が大きい猛敏にやらせておくのが適切なのだった。


 校舎内の一室で、金城革が双眼鏡を覗き込んでなにやら呟いている。

「はい、早川はむかって右側の、ガタイがいい男子に声をかけてみて。 

 その、髪を短く刈り込んだ。

 そう、それ。

 その子、経験者だから。

 あ、藤代は、校門付近にたむろしている女子二人組の方にいって。

 そう、その二人組。

 その二人、そろって珍しいスキル持ちだから、絶対に口説くこと」

 去年やっていたのと同じように、〈計測〉という迷宮影響圏外でも使用可能な特殊スキルを使って、新入生の勧誘をトランシーバー越しに支持していたのだった。


「ねえ、ちょっといいかな?」

 早川静乃は、革に指名された男子に声をける。

 身長は百八十センチを超えていて、革がいっったように、確かにいかつい体格をしている。

 なんのスポーツをやっているか知らないが、明らかに体を鍛えている者の体つきだ。

「なんでしょうか?」

 その新入生は、怪訝な表情を浮かべながらも、静乃にむかって丁寧な口調で応じてくれた。

 ただ、その目つきは、なんとなく暗い。

 この子にも、なにか相応の背景というものがあるのだろうかと静乃は考える。

 それなりにリスクがある探索者を幼少時からやっているような人間は、葵のような例外を除けば、それなりに複雑な背景を持っていることが多かった。

 だが今は、そんな詮索をしている場合ではない。

「わたしは早川静乃といいます」

 まず、静乃は名乗ることにした。

「ふかけん、この大学の不可知領域研究会というサークルに所属している者です。

 あなたを探索者として経験がある方と見定め、声をかけさせていただきました」

「ふかけん、サークル」

 その男子は軽くまゆを顰めて、不機嫌な声を出す。

「大学生は、探索者の仕事までサークル活動にするのか」

 これは、失敗かな。

 その男子の反応を見て、静乃はそう思う。

「サークル活動だからといって、真剣ではないと、遊び半分だとは思わないでください」

 静乃は務めて平静な声を出そうとした。

「昨年、わたしたちは二度も特殊階層を引き当て、迷宮内で何度も遭難しかけた人もいます。

 それでも、わたしたちは探索者としての活動を続けています」

「なぜ?」

 その男子は、切り込んで来るような口調で静乃に訊ねる。

「そんな危険な目に遭って、なんで探索者を続けているんだ?」

「……それは」

 一瞬、静乃は口ごもり、説明を続けた。

「そうした危険も含めて、みんな、探索者としての活動が好きなんだと思います」

「それは」

 その男子は、ゆっくりと首を振った。

「物好きな連中が、集まったもんだ」

 そのあとは、意外におとなしく静乃説明を聞き、ふかけんのパンフレットを受け取り、気がむいたら部室の方にも顔を出してくれると約束してくれる。

 なんとなく静乃は、その男子が最終的にはふかけんに入部してくれるような、そんな確かな予感を持った。



「やあ」

 新入生の勧誘が一段落したところで、静乃に声をかけてきた者がいる。

 鳴嶋成行だった。

「来たんだ」

「うん。

 来てみた」

 成行は、素っ気なく頷く。

「前々から、一度こっちの方に来てみないかといわれていたし」

 しかし、大学かあ、と、成行は呟く。

「おれには、縁のない世界だな」

「今からでも、全然間に合いますよ」

 静乃は、そう応じる。

「八年も大学生をやっていた人もいるし」

「これから受験勉強をするというのもなあ」

 そういって、成行は頭を掻いた。

 それから視線をあげて、

「しかしここは、ひどく綺麗な場所なんだな」

 と、呟く。

 綺麗。

 どこが、と聞き返そうとして、静乃は、キャンパス内の桜並木が満開に咲いていることに気づく。

 毎日のように通っていたから、目に入っていたはずの桜を、意識しないようになっていたことに静乃は気づいた。

 そういえば一年前、静乃がこのキャンパスにはじめてきたときも、ちょうど今のように桜が満開に咲いてきた気がする。

 そうか。

 と、静乃は思った。

 あれから、もう一年も経つのか、と。

 あのとき、静乃は。


「去年、はじめてここに来たときは」

 静乃は、静かな口調で口に出した。

「わたしは、たったひとりでした」

「ああ」

 成行も、小さく頷く。

「その頃は、おれもそうだったな」

「だけど今は、大勢の仲間がいます」

「おれも、そうかも知れない」

「かもしれない、ではなく、そうなんです」

 苦笑いを浮かべながら、静乃はそう断言する。

「鳴嶋さんも、もう仲間ですよ」

「そうか」

 成行は小さく呟いた。

「そうなのか」

「さ、みんなのことろにいきましょう。

 今日は入ったばかりの新人さんも含めて、大勢の人たちが待っていますよ」

 そして二人は、大勢の仲間たちが待っている場所へと歩き出す。

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ふかけん! 東京迷宮_2015-2016 肉球工房(=`ω´=) @noraneko

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