第6話

 アタランテの言葉が終わらぬうちに、強烈な力の束が彼女を襲った。それは黒い落雷とでも言うべきもので、轟音をたてて宙を走り、彼女の黒い躰に命中して爆発した。生身であったら即死していただろう。彼女は背後に数歩よろめき、激痛に呻いた。だが、そのすさまじい衝撃よりも、自分がそれに耐えたことのほうが驚きだった。“暗黒”から分かち与えられた力は、“暗黒”に充分対抗し得るほど強力だった。

 第二の、さらに強力な衝撃が襲った。原子を揺るがせ、時空の基本構造さえも一瞬ゆがめるほどの爆発だった。物質でない躰を固く縮こませ、彼女はその打撃を受け止めた。苦痛は熱となって魂を灼いたが、自分の得た新たな力に対する認識が、大きな自信となって彼女を支えた。小さな人間の肉体であった時と違い、翻弄されるままではいない。

 彼女は顔を上げ、苦痛の霧を通して青年の姿を探した。その自惚れた美貌を目にすると、再び激しい怒りが燃え上がるのを覚えた。苦痛は炎に投じられた油だった。彼女は渦巻く感情の劫火をひとつに凝集し、巨大な破壊力の塊とすると、相手のやり方を真似て、素早く力いっぱい投げつけた。

 黒い火花が炸烈し、黒い炎が青年の姿を舐めるのを見た。しかし、その表情は仮面のように何の変化もなく、氷の刃のような冷たい視線は揺らぎもしない。炎に包まれて微動だにせず、それは言った。

──無駄なことだ。お前は勝てない。

 またも暗黒の稲妻がアタランテに向けて飛んだ。今度は心の備えができていた。憎悪と激怒を自分の前面に押し出し、強固な防壁とした。黒い力線は防壁の一部を砕いてはじけ飛び、その火花のひとつが彼女の足許にいた黒い生きものを何匹か粉々にした。黒いものたちは悲鳴をあげ、算を乱して逃げ回った。それには目もくれず、彼女はさらに激しく怒りを沸き立たせ、前よりも強く、憎むべき相手に向けて叩きつけた。

 黒い力の応酬は何度も繰り返された。アタランテの投げつけた電撃は“暗黒”には何の効果もなく、それどころか何倍にも増輻されて送り返されてくるようだった。だが彼女が攻撃を続けている間、相手もまた防御に力を割かねばならないのは事実であり、彼女にもわずかな余裕が生まれた。それに、たとえ何の意味もなかったとしても、闘うことをやめはしなかっただろう。希望もなく、巨大な敵の攻撃に黙々と耐え続けるのは、彼女のさがではなかった。

 人智を超えた闘争が続いた。黒い稲妻が月光を裂くごとに、轟音が大気を慄わせ、無気味な地鳴りが大地を揺るがせた。風が吹き抜け、森が恐怖に怯える群衆のようにざわめいた。時おり、はじけ飛んだ黒い力の破片が森に落ち、樹々の幹を砕き、木の葉を嵐のように舞い散らせた。眠りを覚まされた鳥たちが騒ぎ出す。その夜は、付近の村の住民は一人残らず目を覚まし、異様な地鳴りと雷鳴に凶事を感じ取って、躰を寄せ合って慄えていたことだろう。

 アタランテはしだいに消耗してきた。“暗黒”の力が時空を超えて連なる幾千億の夜から際限なく供給されてくるのに対し、彼女は最初に分け与えられた力をほとんど使い果たしていたからである。防壁は弱まり、相手の攻撃が一回ごとに着実に突き抜けてくるのを感じた。あと半時間も闘いが続いていれば、彼女はすべての防御力を失い、“暗黒”の容赦ない拷問に直接さらされ、ついには屈服していただろう。

 だが、闘いは唐突に終わりを告げた。“暗黒”が攻撃をやめたのだ。油断させる罠ではないかと思い、アタランテはなおも衰弱した防壁の中で身を固くしていた。すると青年が声をかけてきた。依然として冷酷な口調であったが、驚くほど屈託がなく、優しいとさえ言えた。

──もう終わりだ、娘よ。時間が尽きた。

 戸惑い、疑念を感じつつも、巣穴から顔を出す小動物のように、彼女はおずおずと防壁を緩め、周囲を見回した。男の言った意味はすぐに分かった──いびつな白い月が西の空低くたゆたい、山並みの向こうに没しようとしている。弱まりゆく月光を追い払うかのように、東の空からは水底のように青味がかった光が拡がり、空を美しく染め上げてゆく。狂宴の一夜は終わったのだ。月の光が打ちされてゆくにつれ、自分の内にある力も急速に萎えてゆくのを感じた。黒いものたちの間から落胆の呻きが洩れた。それらはしだいに影が薄くなり、ひとつ、またひとつ、霧のように曙の光の中に溶けていった。岩山の封印の効力が回復し、何もかもが本来あるべき場所に戻ってゆくのだろう。

 彼女は青年を──“暗黒”の化身を見た。それもまた薄れ、小さくなり、消えかけていた。邪悪な微笑みだけが宙に浮かび、冷たい金色の眼がなおも遙かな彼方から彼女を見つめていた。不思議に憎しみは消えていた。しだいに離れてゆく空間と存在の隔たりを越えて、束の間、二つの生きものは見つめ合った。それは一度は心を通わせ合ったもの──愛し合い、力を分かち合い、闘い合ったもの同士だった。

 袋から空気が抜けるように、強大だった黒い躰が急速にしぼみ、弱まり、自由を失うのを感じた。大地がせり上がり、懐しい少女の肉体が近付いてくる。薄れゆく意識の最後のひらめきの中で、彼女は無限の彼方から語りかけてくる声を開いた。すべての力を失ってもなお、それは冷たく、堂々としており、美しい純粋の悪意に満ちていた。

──哀れだな、娘よ。

 それは言った。

──かつてお前は人間を拒絶し、今また我らを拒絶した──お前の友はどこにいる?……お前はどこで愛を見つけるのだ……?

 声は不意に途切れた。まさにその時、沈みゆく白い月の最後の一片が、灰色の山々の向こうに姿を消した。彼女と肉体を隔てていたものも消滅した。肉体はもう固くも冷たくもなく、主の帰還を暖かく迎えていた。夢の中での落下に似た、目の眩むような一瞬、重力の手がしっかりと自分を捉えるのを感じ、そして──


 朝露に湿った岩の冷たい感触が、彼女の正気を取り戻させた。ぶるっと身慄いし、まばたきを繰り返しながら、疲れて濡れ布団のようになった躰をのろのろと起こした。朝の空気は裸身に冷たかった。陽はまだ昇っていなかったが、すでに空は白々と明け、遠くの山々は黒い恐怖のヴェールを脱ぎ捨てて、秋の色彩を取り戻していた。早起きの鳥が一羽、昨夜の出来事など知らぬかのように、空高く小さな記号となって舞っている。

 光は黒いものたちの気配を一掃していた。彼らが存在した痕跡はどこにもなく、すべてが彼女の歪んだ精神か生んだ夢だったと言うことさえできたろう。だが彼女は、あれが夢などではなかったことを確信していた。黒い力が朝の光を浴びて薄らぎ、消滅したのと同様に、記憶さえもおぼろげになっていたが、それでも昨夜の数々の体験──恐怖、恥辱、憎悪、苦痛、闘争、愛──はあまりにも強烈で、心に深く傷を残していた。それらを回想するにつれて、黒いものたちへの敵意は新たになり、彼らを拒否したことは誤りではなかったと思った。たとえ自分の中にどれほど黒いものが渦巻いていようとも、それは彼らと同盟する理由にはならず、彼らのしたことを死ぬまで赦すつもりはなかった。

 だが、それほどまでにして守ろうとしたものは何だったのだろう?──あの声が消える寸前に言ったことを思い出した。あれはどういうつもりで言ったのだろうか。あれほど非惰で残忍な存在に、ちっぽけな人間に対する憐憫の情などあるとは思えない。もし本当に哀れみの言葉なら──絶対的な“暗黒”さえもが、彼女の心の空虚を見透かし、哀れみを抱いたのだとしたら……あまりにもみじめすぎるではないか。

 熱い涙が溢れてくるのを感じ、彼女は歯を食いしばって自らの弱さに耐えた。人生に守るべき価値があるのかは分からない。ただひとつ確かなのは、生き続けなければならないということだ。生きることに挫け、死を選ぶなら、それは“暗黒”の言ったことの正しさを証明することになる。

 いつまでも座り続けているわけにはいかなかった。いずれ立ち上がり、この忌わしい岩山を下りて、髪飾りを取り戻し、女狩人アタランテとしての人生を再開しなければならないだろう。絶望してはいたが、敗北したわけではなく、自分の選んだ道を変えるつもりもなかった。だが今は──もうしばらくここに座って、風に慄えていたかった。

 広大な世界の中心で、彼女は小さく、膝をかかえ、ひとりぼっちだった。陽はまだ昇らない。風は冷たく、問いを発しても答はなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

〔アタランテ〕 月下の魔宴 山本弘 @hirorin015

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ