第5話

 儀式の時の大半を意識不明のままでいたのは、彼女にとって幸福だった。目が覚めてみると、暗黒の存在はすでに充分な“血”によって幾千年の渇きを癒し、彼女の傍から離れていた。岩山の上には無気味な静寂が戻ってきている。手足を束縛していた黒い腕も消滅し、彼女は岩に頬ずりするようにして倒れていた。

 立ち上がろうという気は起こらなかった。あの恐ろしい体験によって、意志の力のすべてを使い果たしてしまったからである。泥のように横たわったまま、自分にまだ正気のかけらが残っているということすら、信じられないでいた──それとももう狂ってしまったのだろうか?

 黒いものたちは去ってはいなかった。一時の熱狂が過ぎ去った後、彼らは再び不動と沈黙に戻り、岩山の縁に沿って黒い輪を描いて、彼女の身に次に起きることを見守っていた。あの巨大なものもまだ背後にいた。儀式の最初の段階は終わり、より重要な、第二の儀式がはじまろうとしているのだ。

 足指の先から、気味の悪いものが体内に流れこんできた。それは死神が病人の口に吹きこむ死の息にも似て、冷たく、形のないもので、あらゆる点で生命と正反対の何か──死ではなく、非生命とでも呼ぶべきものだった。“暗黒”の本質そのものではないにせよ、あの黒い力線と同様、巨大なものが放射する無限の力の一形態には違いない。

 血管に沿って寒気が這い進んでくるにつれ、筋肉がこわばり、ぬくもりが失われてゆくのを感じた。脚から腰へ、そして全身へと、静かに硬直が拡がってゆく。生命を支える要素が中和され、血は凍てつき、細胞は変質する。異世界の黒い力が、肉体を構成する原子のひとつひとつにまで作用し、自然界の法則を超越した劇的な変化を生じさせていた。

 その変化は生命には耐え難かった。アクランテの肉体と魂は苛酷な矛盾に苦悶した。生命と非生命、相反する二つの現象の間には、磁石の同極同士のような強い斥力が働いている。非生命が体内に充満するにつれて、その圧力が生命を圧迫し、それが占有する場からじわじわと押し出されるのを感じた。慣れ親しんだ肉体が見知らぬものと化し、彼女を拒絶した。世界は回転し、そして──

 不意にすべての束縛が消滅した。気がつくと、彼女はいつの間にか立ち上がっており、生まれ変わった新しい眼で茫然と世界を見回していた。古い殻が脱げ落ちたように、それまでの苦痛や疲労から解放され、ひどく軽やかな気分だった。足許には、かつて自分の肉体であったものが、しどけなく横たわっている。そこには驚くべき変化が生じていた。ふくよかだった肌は生彩を失い、灰色の、冷たく固い物質になり、薄暗い月光を反射している。美しい曲線を描いて岩の上に流れ落ちる髪は、数万本の細い針金の束であり、その合間から覗く横顔は、絶望の表情を凝固させた鋼鉄の仮面だった。少女の肉体はその美しい形を保ったまま、鋼鉄の塊と化したのだ。

 帰るべき場所を失ったアタランテは、物質という重荷から解き放たれた剥きだしの魂であり、影のように実体のないものだった。自由ではあったが、反面、心細かった。世界の意味は一変しており、手がかりになるものが何もない。自分という存在が空っぽの袋のように頼りなく、ちょっと力が加わっただけでも、果てしなく流されてゆきそうな気がした。周囲に居並ぶ黒い生きものたちも、今では何の苦もなく視ることができた。今の彼女は彼らの同類であり、黒く、肉体を持たない、夜の住人だったからだ。

──こちらを向け、わが娘よ。

 唐突に恐ろしい声が心の中に響き、彼女は慄然となった。それは背後に控える巨大な存在から発したものだった。それは言語ではなく、ましてや空気の振動でもない。肉の壁という障害物がなくなったため、“暗黒”の伝えようとする意志が、裸の魂に直接届いているのだ。それは再び言った。

──こちらを向くのだ。

 恐怖にかられ、彼女は拒絶した。地上に落ちる影でさえもすさまじい意味を秘めたもの。途方もない力を有し、その一端に触れただけでも発狂しそうになったもの。背後にただ立っているだけでも耐えられないものを、一瞬でも直視できるとは思えない。彼女の中に残った人間的な部分が、追い詰められた子供のように怯え、慄えていた。だが巨大な存在は無慈悲だった。

──こちらを向け。

 命令は絶対であり、彼女は無力だった。ここではすべての法則が“暗黒”に従属していた。彼女は屈伏し、そろそろと振り返った。どんな恐ろしいものと直面するのかは分からなかったが、正気を失う覚悟はしていた。どのみちもう肉体には戻れないし、死の国へ旅立つことすら許されない以上、狂気こそが唯一の逃避の道なのかもしれない。

 だが、予想に反して、彼女が目にしたものは正気を奪いはしなかった。それ以上に奇妙で、思いもかけぬものだった──美しい青年で、彫刻家の理想を具現化したかのような均整のとれた躰を有し、闇の中で黄金のように光り輝いている。その顔はどこかアタランテ自身に似ていた。彼女に投げかけられた冷たいが愛のこもった視線、純粋無垢な邪悪の微笑みは、天界の音楽さながらに魂を慄わせ、彼女を包みこんだ。突然だったので、心には何の備えもなく、ささやかな疑念や警戒心は、圧倒的な愉悦の輝きの前に溶け去った。彼女は微笑みに酔い、感動の中で言葉もなく見つめていた。

 無論、最初に見た瞬間から、それが偽りの姿にすぎないことは気づいていた。光や物質が押し潰されると暗黒と化すように、それは純粋の闇が極限にまで凝縮し、光となったものなのだ。それは無限の力を持つものにさえ多大な努力であるらしく、青年の姿は絶えず陽炎のようにゆらめき、燃えており、闇が本来の姿を取り戻そうとしているようだった。そこには善意や慈愛など、輝きを曇らせるものは何もない。背後に渦巻くすさまじい暗黒は、青年の美しさを支えこそすれ、決して損ねるものではなかった。

 いつの間にか彼女は青年のすぐ傍に立っていた。ぎらぎらと燃える金色の瞳が、実体のない彼女の眼を覗きこむ。彼女は魅了され、身動きもできなかった。“暗黒”の発する力強い波動は、官能の波となって魂を洗い、傍にいるだけでも眩しすぎた。燃える指が実体のない髪を愛撫するのを感じ、逞しい二本の腕が実体のない肩を優しく抱き寄せ──沈黙の中で二つの唇が重なった。

 それは長く、忌わしく、魅惑的なくちづけだった。夢の中の体験のようで、後から考えても、自分の上に実際に起きたこととは信じられなかった。肉体の衣を脱ぎ捨てた生の魂が、剥きだしの“暗黒”と接触したのた。普通の状態であったなら、ただそれだけで、彼女のちっぽけな魂は巨大な力にはじき飛ばされ、砕け散っていただろう。そこには両者の異質さを相段し、異なるものの間に生じる破壊的な力の放出を和らげる処置が必要だった。アタランテを肉体から引きずり出し、人間ではない黒い生きものに変身させると同時に、

“暗黒”自らも人間を真似ることによってそれを可能としたのだ。

 有り得ない筈の接触、想像を絶する交感を通して、黒い波動がゆるやかに流れこんできた。それは渇いた大地に注がれる恵みの水にも似て、彼女に安らぎをもたらし、魂の中の邪悪なものを活気づかせた。人間の心にはない残酷な感情が芽生え、生長し、美しい花を咲かせた。暗黒の力が空虚な実在を満たしてゆくにつれ、自信がみなぎり、自分が大きく、力強く膨張してゆくのを感じた。世界はもはや巨大ではなく、自分の足許にひれ伏すぺき存在だった。ほどなく彼女は新しい肉体を手に入れたことを知った──血と肉でできた、ちっぽけな、毀れやすい肉体ではなく、形のある闇で構成された、途方もなく巨大で、不死の躰。男の腕の中で、彼女は勝利の歓喜に酔っていた。

 ようやく唇が離れ、背中に回された腕が緩むのを感じた。彼女は一歩下がり、あらためて青年の顔を見上げた。もはや恐怖はなかった。今の彼女は、卑小でも、弱くもなく、“暗黒”と対等の力を持った存在だった。残酷な笑みを浮かべ、臆することもなく、男の次の言葉を待った。

 生まれ変わった彼女の反応を見て、青年は満足気に笑った。

──契約は終わった、とそれは言った。今、この時より、お前は暗黒の同盟者であり、我が妻となった。我が力の半分はお前のものだ。卑しい人間だった頃のことは忘れるがいい。もう誰もお前を蔑むことはない。何者もお前を傷つけることはできず、運命に翻弄されることもない。これからはお前が蔑み、お前が傷つけ、お前が運命となるのだ。

 暗黒を統べる者として、最初の仕事がある。この岩山の封印を解き、我らを救い出すことだ。封じこめられている我ら自身は、封印に手出しすることはできない。だが、外部の者であるお前にならできる。そのためにお前を選んだ。お前の力を使ってこの呪わしい岩山を打ち砕き、我らを二万年の幽閉から解き放ってくれ。そして、共にこの地上を平定し、暗黒の楽園としようではないか。さあ!

──どうやって? 彼女は訊ねた。封印を解くにはどうすればいの?

──武器を使うのだ。

 それは子供を諭すように言った。

──かつてお前の肉体だった、小さな鉄の魂がある。それを熱と力で鍛え直し、お前のための一本の剣とするのだ。そのための力は与えてある。その剣を力をこめて打ち下ろし、岩山を砕け。そうすれば我らは自由になる。

 期待をこめた無数の視線が自分に集まっているのを感じた。自分に課せられた使命の重さを知り、心の中にふと迷いが生じた。彼女は顔をそむけ、足許に転がっている灰色の鉄魂に目をやった──遠い昔に自分の躰であったもの。巨大な宇宙の前にはあまりに無力な有限の生命体……苦痛と悲しみに満ち、それでもやはり愛おしいもの……。

 無残に変容した自分の肉体を見ていると、一時の熱狂がしだいに冷め、不条理な怒りがむらむらと湧き上がってきた。それは自分をこんな目に遭わせたものに対する盲目的な憤りだった。肉体が味わった恐怖、苦痛、恥辱を思い出し、あらためてそれがひどい愚弄であったことを知った。そんな相手に対して、ほんの束の間であれ、共感と好意を覚えた自分が許せなかった。彼女は一度は開いた心を再び閉ざし、冷たい怒りで鎧のように身を固めた。ぐいと顔を上げると、強い決意を秘めた眼で青年の顔を正面から見据えた。

──いやよ。

 彼女はきっぱりと言った。

──あんたらの仲間にはならない。

 黒いものたちの間に驚きのざわめきがさざ波のように拡がった。不意をつかれ、青年の表情がわずかに歪むのを見て、アタランテは面白く思った。無限の力と古い知恵を持つものでさえ、全知ではないらしい。人間の内側の、矛盾し、複雑にからみ合った感情の機微までも、見通すことはできないのだ。

──愚かな!

 青年はぴしゃりと言った。

──まだ人間に未練があるのか? ちっぽけで薄汚ない人間に! 奴らは光と闇が中途半端に混ざり合い、互いに相手を汚し合っている生きものだ。そのために醜く、支離滅裂で、絶えず苦しんでいなければならない。そんな存在であることに、お前は執着するのか? 人間であることが誇れるのか!?

 その声はすさまじい脅迫を秘めていたが、彼女は動じなかった。つい先刻まで、こんなもののために怯えていた自分が、無性に可笑しかった。

──何とでも言うがいい。あんたが人間よりどれほど立派だっていうの? ご大層な言葉を並べたててるけど、つまりは、あたしを利用したいだけじゃないの! 騙されないわよ。あんたたちはあたしを馬鹿にした。あたしを羊みたいに追いたてて、あたしに恥をかかせて、あたしを笑いものにして、あたしを──あたしを……。

 不意に悲しみに襲われ、彼女は言葉を途切らせた。自分の発した言葉が、誤って自分自身の心の傷を突いてしまったのだ。溢れ出した数々の記憶が、彼女の中でひとつに重なった。

──同じだ……。

 彼女は淋しげに呟いた。

──みんな同じだ。みんなあたしを好いてなんかいないんだ。誰も彼も……人間も……あんたたちも……。

 青年はしばらく沈黙を続けていた。純粋な邪悪の化身に、他愛ない同情心などある筈もないし、人間の手のつけられない愚かさに戸惑っているわけでもなかった。それは彫像のように身動きもせず、一定不変の力を保ったまま、冷たい眼でアタランテを見つめていた。だが、彼女の言葉に含まれた何かが、確かにそれをたじろがせていた。ようやくそれは口を開いた。

──仕方あるまいな。

 それは陰気な口調で言った。

──お前を説得するには時間がかかりすぎる。力をもってするしかなかろう。

──やってごらん!

 彼女は挑んだ。

──あたしを力づくでどうにかする気なら──どうにかできるものなら、やってみるがいいわ!

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