第4話

 いつしか彼女は踊りながら例の巨大な亀裂の中に入りこみ、切り立った絶壁に挟まれた小道を、よたよたと登りはじめていた。黒いものたちは彼女の前後に分かれ、つむじ風のような力で断続的に突き飛ばしたり引きずったりして、犠牲者を強引に前へ進ませている。狂気をかきたてる恐ろしい愛撫には少しのたじろぎもなく、束縛する力は緩みもしない。空間の狭さなど実体のない存在にとっては何の障害でもないのだろう。

 月の光すら差さぬ濃い闇の中を、アタランテは力なくよろめき進んだ。道は肩が両側の岩壁に触れそうなほど狭く、人間が歩くために造られたのではないので足場はひどく悪かったが、黒い力が強制的に四肢を振り動かしてくれていたので、つまずきもせず、たいして体力を消耗することもなく進むことができた。それに今は苦痛や疲労を気にかけているゆとりすらなかった。全身を苛む汚らわしい愛撫と、鉢の奥から突き上げてくる黒い衝動──内と外の両面からの絶え間ない攻撃に圧迫され、彼女は皮一枚の薄っぺらな存在となって、闇の中を漂っていた。もはや自分の正気に自信が持てなかった。

 邪悪な悦楽が荒れ狂う暗黒の底で、現実と夢の境界が水のようにとろけ去った。形のある悪夢の中を彼女は泳いでいた。言語に絶した闘いで衰弱した意志は、それでも弱々しく官能の嵐に抵抗していたが、ついに力尽き、残酷な運命に身を委ねた。吐き気を催すほどのすさまじい快感と不快感が、渾然となって躰の中を吹き荒れ、生きた人間が誰ひとり味わったことのない天国と地獄を垣間見せた。凶暴な二律背反に心は引き裂かれ、哄笑と悲鳴と嬌声の入り混じった獣のような声が咽喉をついて出た。

 いつしか道は消滅し、楔形に切れ込んだ険しい崖になっていた。彼女は黒い力に後押しされ、手足を機械的に動かして登っていった。崖の幅は狭く、岩はごつごつして起伏が多かったが、それだけに手がかりも見つけやすく、黒いものたちの手助けもあってたいして苦もなく登っていけた。それは長い登攀であったが、忘我の境をさまよっている心には時間の感覚もなく、夢の中の出来事のように、肉体だけが意志とは無関係に動き続けるのを虚ろに眺めているだけだった。

 不意に光があたりに満ち溢れ、両側から迫っていた岩壁の圧迫感が消滅した。一時的に正気の戻った眼でぼんやりと周囲を見回し、いつの間にか亀裂を登り切って岩山の頂上に出てしまったことを知った。見知らぬ小惑星の表面にも似て、冷たい月明かりに照らされたむきだしの灰色の岩肌には、草木の一本も生えておらず、荒れ果てた台地は緩やかに湾曲して、その縁は奈落へと急激に落下している。そこここに不自然に突出した擦り減った岩角は、墳墓のように見えてひどく気味悪かった。人間の来てはならない場所に来たという想いが胸を締めつけた。周辺の森や山々は夜の底に沈んでおり、ここだけが地球から隔絶して、無の中に浮かんでいるようだった。

 四肢を束縛していたすべての力がいきなり消え失せ、あおりを食って彼女は前にのめった。気を失いそうなほど弱ってはいたが、思わず両腕を前に差しのべ、転倒の衝撃を柔らげるだけの意識は残っていた。それでも裸の腰と膝をしたたか岩肌にぶつけてしまい、苦痛に呻吟した。

 その痛みは、残酷な愛撫から急に解放されて腑抜けのようになった心を突き刺し、現実に呼び戻した。自分の置かれた状況を思い出すにつれて、逃げなければという切迫した想いが身を焦がした。幸い、いくつかの小さな切り傷やすり傷を除けば、まだ目立った危害は加えられていなかった。疲れた躰を叱咤して起き上がろうとした時、例の黒い腕が二対、岩の中から飛び出し、両手首をがっしりと掴んだ。驚いて引き剥がそうとして、脚を踏ん張ってもがいている間に、別の四本の腕に両足首も捕らえられてしまった。彼女は獣のような四ツ這いの格好で岩の上に固定され、一歩も動けなくなった。

 人間としての尊厳を踏みにじられ、打ちのめされた彼女には、もう無駄な抵抗をする気力は残っていなかった。せわしなく呼吸しながら頭を上げ、落胆した眼であたりを見渡した。黒いものたちは半円を描いてずらりと並び、嬉しげに押し合いへし合いしなから、淫らな期待に満ちた視線を彼女に注いでいる。何の秩序も協調性もない集団だったが、人間の理解を超えた一本の強い意志に貫かれている印象を受けた。彼らは決して盲目的な衝動にかられて行動する知性の低い生きものではない。しかし、彼らの視線の内にたぎっているのは、暖かい血の通った生きものには有り得ない残忍な欲望であり、その悪意や打算もこの世のものではなかった。

 これまでの出来事はすべて儀式の下準備にすぎなかったのだと、唐突に彼女は思い当たった。本当の儀式はこれからはじまるのだ。それがどんな内容であるにせよ、彼女にとって愉快なものでないことだけは確かである。黒い生きものたちは開始の時を待ちかね、うずうずしている。

 再びあの碑文の内容が思い出され、忌わしさに吐き気を催した。黒いものたちの目的は殺戮ではない。間違っても八ツ裂きにされるようなことはないだろう──それだけによけい恐ろしかった。すみやかな死ならあきらめもつくが、生きながら味わう地獄には我慢できない。残りの一生を、狂った魂とぼろぼろになった肉体を引きずり、みじめに生きてゆく自分を想像し、絶望の極にあってさえ嫌悪感に身悶えした。

 あたりに暗い影が落ちた。最初は月に雲がかかったのかと思ったが、違っていた。それは形あるものが光を遮ったのではなく、何か非人間的な悪意が光を汚染し、透明感を奪っているようだった。信じられないほど巨大な存在が、背後でゆっくりと起き上がる気配がする。影は彼女を覆い、居並ぶ黒いものたちを覆い、岩山の縁を越えて夜の奥へ伸びていった。その巨大さに彼女は戦慄した。

 黒いものたちの間に畏怖が走った。騒がしかった群れが急にふざけるのをやめ、おとなしくなった。あちこちで奇妙なため息に似た囁きが洩れる。その光景はアタランテに新たな恐怖と疑惑を抱かせた。地上を圧するように拡がった巨大な影は、この世の法則を超えた途方もないものを暗示しており、見ているだけでも目が眩み、痛めつけられた脳が壊れてしまうのではないかと思えた。正体を知りたいという怖いもの見たさの心理はあったが、振り返る勇気はとてもなかった。

 彼女の背後に大山脈のようにそそり立ったものが、しだいに存在感を濃くしてゆくにつれて、灰色のとばりがあたりを閉ざし、世界の黄昏たそがれにも似た不吉な静寂がのしかかってきた。あたかも形や重さを超越した威圧が空間を押しひしぎ、時間を遅滞させているかのようだった。黒いものたちは意外なほどの従順さで、巨大な影の主にこうべを垂れた。いにしえの大いなる支配者の復活に、夜風は息を潜め、星々は震えおののいた。

 悪夢に似た気味の悪い空間がアタランテの周囲に形をとりはじめた。灯ひとつない暗黒の底、人間のものではない悪意にとり巻かれて、彼女は希望もなく、ひとりぼっちだった。恐怖は咽喉を詰まらせ、涙を凍らせ、硬直した肉体を冷たい一枚岩の上に釘づけにしていた。美しかった黒い眸は輝きを失い、血の気の引いた唇はぎこちなくこわばっている。圧倒的な恐怖に黒く塗り潰された心は、もはや反抗の感情を奮い起こすことはおろか、脈絡のある考えを巡らせるゆとりすらない。身動きひとつならず、嗚咽ひとつ洩らすことのできない彼女は、恐怖によって凍結されたガラス細工の人形だった。

 死そのもののような沈黙の中で、儀式は開始された。限りない愛と優しさをこめて、黒い翼が静かに覆い被さってくる。淀んだ意識と、半ば麻痺した感覚を通して、恐ろしい力の先端が背後から接近するのを感じた。物質的に接触こそしなかったが、異質なものの意志が不可視の力線となって、衰弱した肉体を剌し貫く。その感覚は前にも体験していた。彼女を亀裂の入口に導き、催眠状態の中で碑文を読ませたあの力だ。邪悪な脈動は少女の肉体を毛ほども傷つけることなく、神経をかき鳴らし、血液を汚し、細胞を通して意識の奥深くへ忍び寄ってくる。黒い力が注ぎ込まれるにつれて、再び自分の肉体の内にある邪悪なものが慄え、魂の奥に熱いものが芽生えるのを覚えた。

 その黒い流れを通して、彼女は自分の背後にそそり立つものの本質を知った。それは闇から生まれた存在──恐怖と孤独と絶望と憎悪の四大元素から構成され、月光を呼吸し、夜を食らい、人の心の中の暗黒を好むものである。それは愛や生命の否定ではなく、その別な側面であり、世界を動かす力の半分だった。人間は光と闇の混合物であり、いくら拒否しようとも、彼女の半身が黒い力に魅かれてしまうのはどうしようもないことなのだ。

 奇妙な攻撃に苛まれ、彼女は声もなく苦悶した。日蝕にも似た黒い影が魂を横切ってゆく。血の一滴も流れず、針で突いたほどの圧力も感じなかったが、それでも肉体が傷付けられているのには違いない。黒い力線が脈動を速くするにつれて、躰の中の熱いものも脈打った。いつしかそれは焼きごてで灸ったような鈍い痛みに変わり、腰から下半身へと拡がっていった。

 無意識のうち躰が揺れはじめ、こわばった口許からハミングに似た呻き声が断続的に洩れた。それは奇妙に黒い脈動と調子を合わせており、自分が見えない指に爪弾かれる一個の楽器と化したような錯覚を覚えた。恐怖の頂点にあってさえ、過ぎてゆく旋律の中に悪を感じ取り、至福の喜びに酔っていた。歓喜は恐怖をかきたて恐怖は歓喜を彩る。その堕落した快楽は彼女ひとりのものではなく、巨大な影の主もまた、自分と愉悦を分かち合っているのを感じた。物質的に結合しているわけでもないのに、それは恋人同士の愛の宴に気味悪いほどよく似ていた。永遠にも思えるひととき、空中にびんと張った黒い力の糸が、まったく異質な二つの生きもの──白い生身の少女と、形容を絶した暗黒の存在──の間を、不可思議な精神的体験で結び付けていた。

 それが曲だとしたら、山場が近付いてきたのだろう。脈動はますます速く、激しくなり、彼女の魂の内のものを責めたてた。血が疼き、軽い眩暈が意識の灯を揺らす。鈍痛は耐え難いほど熱く、反対に手足には痺れるような冷気が這い登ってきた。不快ではあったが、その感覚は親しいものだった。黒い存在の意図を知り、一瞬、彼女は激しい嘔吐感に襲われた。自分が女であることをこれほど切実に呪ったことはない。体内の歯車は容赦なく回転し、破滅の時に向けてじりじりと針を押し進めてゆく。

 白い裸身を狂おしくよじり、少女はか細い呻きをあげた。黒いものたちの待ち望んでいた瞬間が近づいてくる。四肢は寒気に襲われたように慄え、穢れない肉体は恥辱に耐えていた。この場から逃がれるためならどんなことでもしただろう。

 人間としての最後の誇りが、脳裏から溶け去ってゆく。体内に淀んでいた熱いものがゆっくりと下半身に下りてゆき──

 沈黙の中で、一滴、また一滴、熱い血のしずくが岩の上にしたたり落ちた。

 いきなり、力を抑制していたすべての枷がはずれたかのように、巨大なものが雷鳴とともに躍りかかってきた。暴風にも似たすさまじい力と欲望が、少女のちっぽけな躰を殴打する。夜のヴェールを脱ぎ捨てた剥きだしの“暗黒”は、狂ったように吼え、渦を巻き、大地を慄わせた。それは心を凍結していた恐怖を打ち砕き、束の間、締めつけられていた咽喉を自由にした。

 アタランテは絶叫した──魂の底から。恐怖、嫌悪、悲哀、恥辱、絶望、それらすべてがないまぜになった心の痛みが、脳の臨界点を超え、野獣の咆痒にも似た身の毛もよだつ悲鳴を絞り出した。心の中に充満していたものが激しく噴き出してゆくたつれ、意識を支えていた圧力が滅少し、急速に闇の中に落ちこんでいった。

 気を失う直前、混沌の大嵐に混じって、彼女は黒いものたちの熱烈な歓声を聞いた。それは彼らの王への賛歌だった。巨大な暗黒が放射する淫らな愉悦の波は、風となって彼女の躰をかすめ、四方へ駆け去ってゆく。それは依然として、少女の肉体そのものに興味があるわけではなかった。裸身に傷ひとつつけず、接触しようともしなかった。

 そいつは背後から、彼女の足許にかがみこみ、ぺちゃぺちゃという恐ろしい音をたてて、岩の表面にこぼれ落ちた“血”を舐めていたのだ……。

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