ジャングルの王者バーサン

枕目

ジャングルの王者バーサン

 サファリパークに行ったらおばあちゃんが野生化してしまった。

 しちゃったんだから、しょうがないでしょう。

 今ではおばあちゃんは、黒曜石のナイフを腰に差して、雄叫びをあげながらインパラを狩っている。やれやれ。


 はじまりは、ゴールデンウイークの家族旅行だった。一泊二日の温泉旅行だ。カローラに乗ってとなりの県に出かけ、温泉宿に泊まり、サファリパークを観光して帰る。そんなささやかな旅行のはずだった。はずだったのだ。

 「やっぱり、連れていかないとだめよね」

 妻はそう言って、ため息をついた。

 「そうだなあ。しょうがないな」

 私は言った。すこし憂鬱だった。

 毎年、ゴールデンウィークの旅行は妻と息子の三人で出かけていたのだが、この年はおばあちゃんを連れて行かなければならなかったのだ。というのも、おばあちゃんは半年ほど前から少しボケていたからだ。体は元気なのだが、同じことを何度も訊いたり、自分がどこにいるか分からなくなったりすることがあった。一泊とはいえ、旅行で留守をまかせるのはすこし心許ない。

 「まあまあ、思い出作りだと思ってさ。温泉の刺激で脳が活性化して記憶が戻るかも知れないじゃない」

 妻はそんな脳天気な事を言って笑っていた。彼女が笑うと口の横にくっきりとシワが浮かんだ。彼女も中年だ。すっかり。そんなことを思いながら、私は自分の顔を窓に映してみた。同じように老けていた。

 「じゃあ、宿は四人予約しとくよ」


 「ねえ、どこに行くんだい?」

 おばあちゃんは不安そうな顔でバックミラー越しに私を見た。

 「おばーちゃん。それ、もう十四回目だよ」

 小学四年生の息子はケラケラ笑っている。

 「そうかい? ところでどこに行くんだい?」

 何分かしてから、おばあちゃんはまたいう。息子はさらにゲラゲラ笑う。息子はまだ子供だから、記憶を失うことがどういうものなのかよくわからないのだ。正直、その脳天気さがうらやましい。

 「お義母さん。少し静かにしてください」

 私はつい苛だった声を出した。

 車内の雰囲気が悪くなり、息子は笑うのをやめた。

 妻は私を睨む。ボケ老人に言っても忘れてしまうから無駄でしょう、とでも言いたげだ。そんなことは私だって百も承知だ。私だって休みの日は心安らかに過ごす主義だ。でも、何か言わないと気が変になりそうだったのだ。

 温泉地に向かう高速道路は二キロの渋滞だった。大きな事故があったらしく、二時間待っても車はほとんど動かせなかった。車の列はシャンパンのコルクみたいにぴっちりと道路にはまり込んでいた。

 「ねえねえ。どこに行こうってんだい?」

 また祖母が言った。十五回目、と私は頭の中でつぶやいた。渋滞に巻きこまれるだけでもいやなのに、閉め切った車内で壊れたラジオみたいなボケ老人のたわごとをえんえん聞かされているのだった。

 私はふだん吸わないタバコを取り出し、火をつけた。この車内喫煙に息子と妻はイヤそうな顔をしたが、タバコでも吸ってないと気が変になりそうだったのだ。運転席の窓を半分あけて煙を吹き出すと、となりのフォルクスワーゲンの運転手もイヤそうな顔をした。

 「サファリパークですよ」

 私は二口目の煙を吸い込みながら言った。

 「ライオンやカバやワニが居るんですよ。ゾンビも居るし、ニホンザルもいます。エイもピラニアもヌエもヒョットコもいますよ」

 タバコですこし人間らしい気持ちになった私は、そんな軽口をたたいて気分をまぎらわした。


 温泉に着いたのは夕方近くだった。チェックイン予定の時間は大幅に過ぎていた。のんびり温泉につかってから食事を愉しもうと思っていたが、そうはいかない時間だったので、着いたそうそう慌ただしい夕食が始まった。

 冷凍マグロの刺身や山菜の吸い物が出てきた。とはいえそれなりにおいしく、おばあちゃんも手づかみでムシャムシャと食べていた。

 それから温泉に入った。私は天然ラジウム温泉の岩風呂をゆっくり堪能し、ようやく渋滞のことを忘れることができた。息子は恥ずかしそうにタオルを巻いて私から離れていた。そういう年頃になったようだ。

 温泉からあがると。おばあちゃんがいなかった。

 さあ大変だ。ボケ老人が館内でいなくなったということで、旅館の女将まで出てきて探しまわることになった。さいわい、おばあちゃんはすぐ見つかった。おばあちゃんは男風呂にまぎれこんで、薬草風呂に浮かんでいる薬草袋を抱きしめながら、安物のソーセージみたいにゆだっていた。

 救急車を呼ぼうかという話にもなったが、さいわい、それほどひどい状態ではなく、おばあちゃんはすぐに回復した。私たちは女将に謝って、チップを包んで渡した。

 「まあまあ、この熱のショックで記憶がもどるかもね」

 ボンヤリしているおばあちゃんを見て、妻は脳天気に言った。

 たしかに記憶は戻った。

 別の記憶が。


 事件はサファリパークを見ているときに起こった。

 より正確に言えばインパラを見ているときだ。私たちはクルマでサファリパークを巡っていた。サファリパークはなかなか本格的なもので、広い敷地がとられ、本物のジャングルを思わせる薄暗い茂みがいたるところにあった。とはいえ、動物たちは飼い慣らされてしまったのかみなのんびりしていて、それほど猛獣という感じはしない。

 ライオンやキリンがいるゾーンを通り抜けているあいだ、おばあちゃんはギラギラした瞳で動物たちを見ていた。そして草食動物のゾーンにさしかかったとき、おばあちゃんはいきなりドアをあけてクルマを飛びだしたのだ。

 「キエエエエエ!」

 おばあちゃんは奇声をあげてインパラの一頭に飛びかかった。

 速かった。速すぎた。とても老婆の動きとは思えなかった。インパラは飼い慣らされていたせいか、逃げるのが少し遅れた。おばあちゃんはインパラの首にがっしりと抱きついて、近くにあった石を拾ってインパラの頭に叩きつけた。

 一撃、また一撃。

 インパラは走っておばあちゃんを振り落とそうとするが、おばあちゃんは離れない。赤い液体が哀れな草食獣の頭からあふれ出して、毛皮を染めていく。

 「おばあちゃん! がんばれ!」

 息子がおばあちゃんを応援しはじめた。

 「がんばって! お母さん!」

 妻もつられて応援しだした。

 何を考えてるんだ。と思った。だが、この状況ではむしろ応援しかあるまい。

 応援するしかあるまい。だって他に何ができる?

 おばあちゃんはインパラにしがみついてインパラの頭部を殴り続けている。インパラはおばあちゃんを振り落とそうとあたりをグルグル回転し、ツノを振り回している。どちらを応援するか、といわれたらそれはもうおばあちゃんしかない。私たちはクルマの中にいたままおばあちゃんを応援した。私はタバコを吸った。

 戦いは十分あまり続いただろうか。私たちにとってそれは一時間にも二時間にも感じられた。そしてついにインパラはひざを折った。インパラはバランスを崩し、体を地面に投げうった。おばあちゃんが振り下ろした石がインパラの目を直撃する。さらに何度かの打撃が加えられ、インパラは動かなくなった。

 「暴力だ」

 私はなかば無意識にそう呟いた。そこにあるのは純粋な暴力だった。純粋な野生だった。理由も大義名分もない、ただ自分のもてる最大の武器で獲物を殺す野生そのものだった。

 おばあちゃんは死んだインパラの回りをグルグル回り、歓喜の雄叫びをあげた。それは雄叫びと言うよりむしろ歌のように聞こえた。

 「フォオオオオ! フォホホホホホホホホ! フォホホホホホホ! フォホホホホホ! フォホホホホホホ! プルルルルル! フォホホホホホホ! フォホホホホホホ!」

 唇を鳴らし、喉をふるわせ、おばあちゃんは歓喜を表現した。その儀式めいた何かが終わると、おばあちゃんはインパラのツノをつかみ、その死骸を肩にかついだ。そしてこちらを一瞥し、暗い茂みの奥に消えていった。

 「おばあちゃん……」

 先ほどまではしゃいでいた息子も、言葉を失っていた。

 「おばあちゃん、戦時中の記憶が戻っちゃったのかねえ」

 妻はぽつりと言った。なかなか鋭い分析だ。おばあちゃんは戦時中に山陰の山奥に疎開していた。そこでかなりしんどい目にあったらしい。だが、いくら何でも石で野生動物を殺すことはなかったはずだ。だとすると、戦時中の記憶ではない。

 「いや、もっと古い記憶だと思う」

 「古い記憶?」

 「そう、もっと古代の、人間が野生の中にいた時代に培われた記憶。いわば動物的記憶さ。ユングが言った普遍的無意識の概念に近いだろうね。もっと簡単な言い方をしてしまえば、本能だよ」

 「おばあちゃんはその古い記憶に取り憑かれちゃったってこと?」

 「うん。たぶん、老人ボケと温泉のショックで、おばあちゃんの表層的な意識はあらかたはぎ取られてしまったんだろう。タマネギの皮をはぎとるみたいにね。そして出てきたのが記憶の芯だよ。おばあちゃんは石器時代に帰っちゃったんだよ」

 地面に染みついたインパラの血を見て、私はタバコを吸った。


 私はサファリパークを出ると、係員に事情を説明し、パークの責任者と直に話し合った。そして、警察を呼ばないというとり決めを交わした。

 「おたがい。痛いところがあるわけです」私は言った。

 「うちのおばあちゃんがインパラを殺してしまった。そういう意味では私たちに責任の一端はある。でも、そちらのサファリパークで老人が失踪した。ということになると、あなたたちにもいい話ではない」

 私はパークの責任者にそう話を切り出した。パークの責任者はひげ面の男で、いかにも子供のころからボーイスカウトで鍛えていたという感じだった。彼は重々しい表情でうなずいていたが、内心かなり焦っているのはあきらかだった。

 「問題が表沙汰になれば、マスコミも寄ってきます。サファリパークの経営にも支障が出るでしょう。それは避けることにしませんか? インパラの件に目をつぶってくれるなら、こちらもほとぼりを冷ましてから、失踪として片をつけます」

 私は長いこと保険の外交員をしていた。色々な相手に嫌われながらも交渉力だけで主任にまで出世した男だ。こういう事態の時に相手を丸めこむのには慣れている。とにかく何もかも分かっているという風にふるまうのがコツだ。じっさい警察沙汰の事件も何件か扱ったことがあるから、多少の絵は描けなくもなかった。

 「おばあさんは、たぶん生きてはいません」

 責任者は重たく口を開いた。

 「たぶん、私たちがジャングルと呼んでいる区画に入りこんだと思います。うちのサファリパークには、ほんとうに密林のようになってしまった区画があるんです。輸入した動物が持ちこんだ植物がいくつも茂っていて、何種類かの動物たちはそこで繁殖してます」

 「管理ができていなかったのですね」

 「このサファリパークは表向き企業ですが、実際には市が観光政策としてやっているんです。誘致というやつですね。自治体が経営に口を出してきます。でも役人にはサファリパークの管理なんかはわからんのです。敷地が広すぎるのに予算が足りません。動物を遠ざけて茂る植物を伐採するだけの人件費がないんです。だからだんだん、サファリパークの中心にジャングルが広がってきてるんです」

 責任者の声はだんだん細くなっていった。最後のほうは歯磨き粉のチューブをしぼりきるような感じだった。どうも気の弱い人間らしい。彼も大変だ。予算を減らしたのは上層部でも、事故が起これば彼の責任になる。

 彼はメモ帳に観覧車のような絵を描いた。それはこのサファリパークの模式図だった。観覧車の外側が客の通りぬけるコースだ。切り分けたピザのようにいくつかの区画に別れたパークをぐるりと観光するわけだ。それから彼は観覧車の中心部分を黒く塗りつぶした。その部分がジャングルということらしい。

 そこは生い茂った植物で危険な状態になっていて、簡単には入り込めないようだ。動物が勝手に繁殖しているようだし、区画をへだてる仕切りも壊れているかもしれないのだそうだ。

 「申し訳ない」

 責任者は疲れ切った声で言った。

 「これは事故です」

 と私は言って、彼をなだめた。私は冷静だった。自分の義母がこうなったわりにはひどく冷静だった。仕事で慣れているせいか、重苦しい空気に免疫のようなものができてしまっているのだった。

 「しかたがないですよ。おばあちゃんは……まあ。寿命のようなものです。しょうがない。しょうがないんです」

 こうなった以上、おばあちゃんは失踪として処理するしかない。それがお互いのためだ。そういう話になった。サファリパークで老人が失踪したなんていいゴシップの種になるし、私たちのささやかな生活をそんなものでかき回されたくなかった。それにおばあちゃんが殺したインパラの代金を払うのもイヤだった。たぶん安くはあるまい。カローラより高そうだ。

 しばらく様子を見て、もしおばあちゃんが生きて見つかったら送り届ける。とうぶん見つからなければ失踪届を出す。もしおばあちゃんの死体が見つかったらそれはそれで隠すか事故ということにする。とにかく穏便に対処する。そう約束した。


 しかし、おばあちゃんは生きていた。

 ゴールデンウィークも明けて、十日ほど経ったある朝のことだった。そろそろ失踪届を出さないといけないな、そう思っていた矢先だった。ふとローカルテレビをつけると、画面にあのサファリパークが映った。

 「これが、野生人が現れるという噂のあるサファリパークです」

 レポーターが耳障りな声で言った。

 テレビ画面に見覚えのある風景が映し出される。見ていると、件のサファリパークで野人が出現すると噂になっていて、その検証番組だそうだ。

 「進化したサルなのでしょうか?」

 レポーターが言った。そう簡単にサルが進化するかはさておき、実際にはうちのおばあちゃんに間違いない。おばあちゃんはサファリパークの中で生きながらえていて、客がそれを目撃したのだ。

 「われわれは突撃取材を敢行しました。ここからは生放送でお送りします」

 番組はどうやら急ぎで作られたもののようだった。レポーターの滑舌はあまり良くなく、突撃取材がトツゲキシュダイと聞こえた。しかしなんでこんなものをやるんだろう。ローカル番組もよっぽどネタがないのだろうか。それとも予算がないのだろうか。

 「いました! 野人です! 野人です」

 レポーターが金切り声をあげた。画面に揺れる茂みが映し出された。そして人間の足が映った。

 「おい! ちょっと! テレビにおばあちゃんが出てる!」

 私は妻を呼んだ。息子も来た。わたしたち三人はテレビの前に正座して野人、というかおばあちゃんの登場を待った。こんなに集中してテレビを見たのは何年ぶりだろうか。

 そして、茂みからおばあちゃんが現れた。

 「います! こっちを見てます! 見てます!」

 レポーターが相撲の行司のような声をあげる。おばあちゃんは全裸に毛皮をまきつけた格好をしていた。手足と顔は茶色く汚れていて、泥で水玉模様がかかれていた。髪は軟体生物のように逆立ち、手にはヤリのようなものが握られていた。数本のヤリと石斧のようなものを背中に背負っている。

 「きました! こっちに来ました!」

 おばあちゃんがこちらに走ってきて。ヤリをふりかぶって投げる。ヤリがテレビカメラに向かってくる。カエルの潰れるようなイヤな音がして、画面が揺れる。青空が映し出される。テレビカメラが落ちたのだ。

 「あああああああああああ!」

 レポーターの金切り声が聞こえる。

 「痛い、痛いいいいい!」

 画面がまた揺れる。血まみれの男の顔が映った。レポーターではなかった。カメラマンらしい。男の目にはヤリが深々と刺さっていた。石の槍先と木の棒の継ぎ目にあたる部分が、ちょうどまぶたのあたりに来ている。脳にまで達しているのかも。男はテレビカメラを見て、口を開き、二、三回痙攣した。

 画面の外側から手が伸びてきた。おばあちゃんの手だ。手は男の目に刺さった槍をつかんで、卵をかき回すみたいに回転させた。脳を破壊されただろう男は、顔をひきつらせて動きを止めた。

 画面に獣が映った。本物の獣だ。それはライオンだった。

 そこで画面が切り替わった。


 サファリパークはすぐに営業停止になった。

 私は急いでサファリパークに電話をかけた。しかし話し中ばかりでなかなかつながらなかった。誰が電話をかけているのだろう? こっちは緊急なのに。けっきょく、電話がつながったのは昼過ぎだった。

 「責任者はもういません」

 電話に出た係員は、どこか呆然とした口調で言った。彼女の声はかれていて、なんだかかわいそうになった。

 「自殺しました。たった今」

 こうして、サファリパークは完全におばあちゃんに占領されてしまった。先走った地元警察によって警官が十名ほど送り込まれたが、そのうち半数は帰ってこなかった。生き残りにも手足を失ったものがいた。あたりまえだ。サファリパークの中にはライオンがいる。ゾウもいる。戦車も同然のサイも居る。なにより、最悪の戦闘能力を誇る生物、カバもいるのだ。

 生き残ったものの証言によれば、野人は動物の群れを警官隊にけしかけてきたという。警官隊が遭遇したとき、おばあちゃんは木の上に立っていて、奇妙な喉歌のようなものを歌ったらしい。すると茂みの影からサイが飛びだしてきて、警官の隊列を破砕したのだという。二人の警官が踏みつぶされた。次の瞬間、頭上からヤリがふってきて、一人の警官の胸をつらぬいた。茂みの影からクマが大砲の弾のように飛びだしてきた。

 「地獄のようだった」

 そう生き残った警官は語っていた。マスコミはこの事件と警官へのインタビューをを大々的に放送した。そして地方自治の失敗だとかサファリ業者の管理体制だとかいろいろな事を批判しはじめた。マスコミは身内を殺された復讐とばかりに、批判のキャンペーンを繰り広げた。彼らは批判と賛美のどちらかでしか物事をとらえられない。

 一方、事件はいっこうに解決に向かっていなかった。

 一連の批判キャンペーンは、警察の動きをむしろ鈍くしてしまっていた。自治体は協力的でなくなり、警官の命をあたら失った地元警察は糾弾の対応に追われているようにみえた。

 その間も、初夏の陽気の中で密林は急成長を続けていた。

 ヘリコプターから映されたサファリパークの様子をわたしは見た。中心にあるジャングルは私が想像しているよりずっと大きかった。そして確実に成長を続けているようだった。茂みと茂みが成長してつながりあい、もう完全に森と言ってよくなっていた。それは軟体生物のように広がり、サファリパークの外周にある通常のコースを埋めつつあった。自然の征服力はときにすさまじい。

 こうして、うちのおばあちゃんは動物たちとともにサファリパークの一角を実効支配するにいたった。いわば、おばあちゃんのジャングルはささやかな戦力として独立したわけだ。それは日本という膜にできた一つの針穴だった。


 それから一週間、事態はそれほど変化しなかった。もちろん警察はそれなりに解決策を練っていたろうが、少なくとも表面的には変化がなかった。世間はすでにおばあちゃんを忘れかけていた。しかし事件はそれだけでは終わらなかった。おばあちゃんの野生はそんなもので終わるはずがなかった。

 全国の病院や老人ホームにいた老人たちが、一斉に脱走したのだ。

 日本中でだ。

 その日、時間つぶしの雑談やお遊戯に興じていたホームの老人たちのすべてと、病床で死を待っていた老人すべてが、一斉に決起し、団結し、脱走したのだ。ある老人は制止した職員を殴り倒し、ある老人は自分にささった点滴をひき抜き、ある老人は慰問にきていた政治家を殺した。そしてめいめいがめいめいの自由を手に入れた。

 そして逃げ出した全国の老人たちは、まるで見えない糸に引かれるように、サファリパークに向かって動き出した。何の指示もなかった。何の申し合わせもなかった。

 老人たちは、まるで飢えたイナゴが一斉に飛び立つように、まるで本能だとしか思えない動きを見せて、うちのおばあちゃんの元に集結した。まるでそれは最初から決まっていたことのようだった。何割かの老人は途中で力尽き、別の老人たちは途中で捕らえられたが、それでも大移動は止まらなかった。

 これは私のオカルトめいた仮説だが、おそらく、うちのおばあちゃんの精神は、人類に共通した無意識のレベルにアクセスしたのだろう。それがほかの老人の本能に共鳴を起こし、彼らをも野生に目覚めさせ、脱走せしめたのだ。そうでも考えないととても説明できない。

 同じことは動物のレベルでも起こった。日本全国の捨て犬や野犬、住みかを失いつつある野生動物たちの一部が、同じように大移動を開始しだした。動物園では集団脱走が起こり、逃げ出した動物たちもまたジャングルに引きよせられた。

 いっぽうで、ジャングルのほうもますます変わっていった。外国から入りこんだらしいその植物群は、初夏の空気の中で驚異的な成長を見せていった。ほとんど超自然的と言っていい成長スピードで、ジャングルはサファリパークの敷地すべてを飲み込み、その周囲の田畑まで浸食していった。そして、そこには老人たちや逃げ出した動物がひしめいていた。

 もはや見過ごすことはできなかった。戦いが始まるしかない。


 しかし何もかもが後手に回っていた。官僚的な日本政府は国民である老人たちと戦うのをためらいつづけた。そのあいだもジャングルは拡大を続けているにもかかわらず、だ。

 日本政府が手をこまねいているあいだも、ジャングルの老人たちは徒党を組んで、野犬を引きつれて、近隣の住民を襲い、犯し、殺しつづけた。彼らは若者をさらうと男女かまわず強姦しようとした。しかし老人たちはインポテンツだったので、代わりに木の枝をねじ込んだり、犬に犯させたりして愉しんだ。そして畑の作物を掠奪し、人間の肉を分けあって食った。

 彼らは鉄材を奪って剣を作り、原始的な板金加工で弓矢や鎧までつくりあげた。彼らは象を乗り回し、猛獣をけしかけ、大波のような野犬の群れを操って、殺しと破壊をくり返した。

 とうとう日本政府が重い腰を上げ、戦いに踏み切ったのは、夏も盛りを過ぎたころだ。政府軍は肥大化したジャングルに踏み行って、戦闘を開始した。

 その夜、私は夢を見た。おばあちゃんが私の夢枕に立っていた。

 しかし、そのおばあちゃんは、私がよく知っているおばあちゃんではなかった。はち切れるような筋肉と、獣の目と、鋭い牙と爪を持った、まるで悪魔のようなおばあちゃんだった。

 「ひさしぶりだねえ!」

 おばあちゃんは老いた獣の声で叫ぶ。

 「いいかい? 聞こえているかい? わが義息子よ! 私が誰だかわかるかい? 私は死さ! 夜の暗闇さ! 私は老いさ! 死人の灰さ! 私は病いさ! あんたらの主さ! 私は恐怖さ! 生まれたての赤子が泣く理由さ! 忘れられた神々……あんたらが地上から追いやったもの、追いやろうとしているもの、追いやったつもりになっているもの、そのすべてさ! 思い出すがいい! 夜の暗さを」

 おばあちゃんの姿をしたものは、そう言った。そう言ったのだ。

 「がんばれ、おばあちゃん」

 隣で眠っている息子が、寝言をつぶやく。

 もう、あれだ。

 応援するしかあるまい。他になにができる?

 そうだ。がんばれ。おばあちゃん。

 私もつぶやく。

 がんばれ。おばあちゃん。

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ジャングルの王者バーサン 枕目 @macrame

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