『土屋備前守軍役人数書立に見る戦国』
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第1話
『土屋備前守軍役人數書立に見る戦国』
清水太郎
はじめに
御北条氏の家臣団についての研究は、杉山博・下山冶久編『戦国遺文・御北条氏編一~六巻』及び下山冶久編『戦国遺文・御北条氏補遺遍』の完成によって容易になった。また、二〇〇六年九月二〇日に下山冶久編『御北条氏家臣団・人名辞典』の出版によって、尚一層前進した。すでに下山冶久氏は『八王子城主・北条氏照』を平成六年十二月十五日に出版されており、その精力的業績は多いに評価されている。地域史では後北条氏の遺臣について『多摩のあゆみ』第四十六号(昭和六十二年二月)が「特集・近世初期の多摩」で詳しく触れている。本稿は着到状「土屋備前守軍役人数書立」の書かれた背景とその時期、及び名を連ねた家臣についての詳細をできる限り明らかにして行きたい。
五日市街道の終点は東京からJR五日市駅を過ぎて、あきる野市五日市出張所の信号のある右手にある栗原呉服店の一角であろう、ここはかって五日市村の下土屋勘兵衛の屋敷であった(あきる野市五日市一番地)。この上隣が、今はりそな銀行になっているが、上土屋常七の屋敷跡である。雄山閣版『新編武蔵風土記稿』第六巻五八頁には、この土屋氏について次のように記されている。
舊家 百姓勘平 先祖は甲州武田家の家臣土屋右衛門尉直村の三男にて、土屋越後守宗昌と號せしが、天正十七年當村へ來りて農民となれりと云う、家に古き鎗一筋、薙刀一振、及家系を所持せり、やりは直鎗にて穂長さ五寸八分、柄九尺許、薙刀は身の長さ一尺三寸五分、ものに會ひしとみえて丒三四ヶ所缺てあり、柄は五尺六寸、いずれも赤銅かなもの、鐏は鉄なり、皆無銘ものもにて、最古色にみえたり、
杉山博・萩原龍夫編『新編武州古文書上』に〔旧五日市村名主勘平所蔵土屋氏〕の「一二八 土屋備前守軍役人數書立」がある。この古文書は、下山冶久著『八王子城主・北条氏照』に「三二〇 北条氏照着到書立写 諸州古文書一二」としてあり、下山氏の解説に次のようにある。
「大石惣四郎や土屋豊前守は氏照の家臣。氏照の軍勢の実状がよくわかる貴重な文書である。安積弥五郎以下名前の見える侍が寄親で、その上の人員から寄親一人分を除いた人員が寄子になる。合計一四人の寄親に七八人の寄子がついている。馬上侍は大石惣四朗と土屋備前守の二人。それにしてもこれだけ員数がいて、鉄砲が一挺とはいかにもすくない。天正初年か」。
三二〇 北条氏照着到書立写 諸州古文書一二
一丁弓
六人上下 一丁やり 安積弥五郎
一本さし物
二人手明
此外 安藤
歩弓 栗原
以上
やり一本
五人上下 一本さし物 守留藤左衛門
二人手明
以上
やり一本
五人上下 一本さし物 倉林弾正
二人手明
以上
一本やり
三人上下 一本さし物 羽生源七郎
以上
一本やり
三人上下 一本さし物 豊泉和泉
以上
1本やり
三人上下 一本さし物 豊泉与一
以上
1本やり
三人上下 一本さし物 池上平三
以上
二本やり
六人上下 一本さし物 志村将監
二人手明き
以上
1本やり
五人上下 一本さし物 志村甚二郎
二人手明き
以上
1本やり
十一人上下 一本さし物 月齋
八人手明
以上
1本やり
六人上下 一本さし物 広瀬殿
三人手明
以上
一本鑓
六人上下 一本さし物 東三郎左衛門殿
三人手明
以上
十四上下 大石惣四郎
此内
騎馬 神保宮内
鑓持 弐人
差物持 二人
手明 八人
已上十四人
十四人上下 土屋備前守
此内
騎馬 安藤彦二郎
鐡砲 安田伝右衛門
歩鑓 伊藤弾左衛門
向風次右衛門
一人ハ腹中
煩高坂ニ差置申候此由由木ニ申断候
四丁鑓 持□…□四人
一 着到状の時代と背景
着到状は武士が変事や合戦にあたり、はせ参じたことを上申する文書。大将または奉行の承認の文言と花押(証判)をもらって、後日恩賞請求の証拠とした。鎌倉後期から南北朝期に多く用いられた。本稿の着到状の上申者は土屋備前守某であり、奉行は由木である。由木氏には、天正五年十一月七日の由木奉之の北条氏照朱印状(網代文書)と天正七年六月六日の北条氏照朱印状(新井文書)の由木左衛門尉の二家があった。本稿の由木は天正十八年六月二十三日、八王子城で討死した由木豊前守であろうと思われる。氏照の家臣団には「由井衆」がいるが、筆者はこの着到状はむしろ、「由木衆」のものであろうと思はれる。
北条氏康は元亀二年(一五七一)十月三日に没した、五十七年の生涯であった。武田信玄は天正元年(一五七三)信濃の駒場で没した。上杉謙信は天正六年(一五七八)三月十五日脳溢血で没した。そして、織田信長は天正十年(一五八二)六月二日未明に明智光秀によって本能寺で自刃させられた。このように元亀二年から天正十年にかけては戦国武将の交代期といえる。そして、豊臣秀吉、徳川家康によって戦国の世は終焉するのである。
北条氏康の六男は景虎で、天文二十三年(一五五四)の生まれと伝えられている。幼名、西堂丸。永禄十二年(一五六九)末から元亀元年初めに、久野北条宗哲の婿養子になり、元服して、久野北条氏当主歴代の仮名の三郎を称した。次いで同年三月に越後上杉謙信の養子になって、越後に移り、謙信から前名を与えられて景虎を名乗った。天正六年(一五七八)三月の謙信死去により、義兄弟の景勝と家督をめぐって抗争したが、敗北、同七年三月二十四日に死去した。享年二十六歳、法名徳源院要山浄公とされる(花ヶ前盛明「越後長尾氏系図」『上杉景勝のすべて』)。
永禄十一年(一五六八)十二月に武田信玄は北条・上杉・武田の三国同盟を破棄した。駿河侵攻である。山国の甲斐は海のある駿河を目指していた、今川氏真は北条に助けを求めるより方法がなかった。これより、駿河は武田信玄・徳川家康の狩場となる。最終的に氏真は北条氏を頼り小田原に亡命する。北条氏は元もと駿河の今川氏より西、京を目指すつもりはなかった。早雲の代から始まり、伊豆・相模・武蔵・関東へと北条氏綱・氏康が領土を広げていったのも、今川氏の代理として関東の静謐を図るという大義名分があったからである。氏綱の代に北条の名跡を称するのもそのあらわれである。
信玄の駿河侵攻は北条氏の外交政策を大転換させた、謙信との同盟を図ることであった。氏康の三男氏照・四男氏邦は謙信に書状を送り、同盟の成立に向け動き出す。永禄十二年(一五六九)六月に成立を見る。越相同盟と称した。条件は①関東管領の譲渡、②領土割譲、③養子縁組にまとめられる。
関東管領の譲渡とは、北条氏のその地位を謙信に譲ることである。これは両氏間の身分関係にも変化を生じさせた。三月までは北条氏は謙信を「上杉弾正少弼殿」と宛名書きして、対等の大名として扱っているが、四月からは「山内殿」と宛名書きし、関東管領として目上の扱いに変化している。
領土割譲については、現状で北条領国となっている東上野・北武蔵が焦点であり、上野は上杉本国ということで謙信に割譲されることとなった。武蔵は基本的には北条氏の領国とされたが、かつて上杉氏の勢力下にあった藤田・秩父・成田・岩付・松山・深谷・羽生の各国衆領の帰属が問題となった。北条氏は基本的に割譲に応じるが、藤田・秩父領は氏邦の支配領域、岩付領は直接的支配領域となっていたように、現実的には難しかった。そのためそれは謙信の自力次第とされた。結局、これ以前から謙信に従っていた羽生領、この同盟を機に謙信に従属した深谷上杉憲盛の深谷領だけが、謙信方に帰属した。
養子縁組は、氏政の子が謙信の養子となってその名跡を継承する、というものである。六月の時点で、その養子には氏政の次男国増丸(のち太田源五郎)が予定されていたが、十月には氏政はあまりに幼少であることを理由に、難色を示している。結局、翌元亀元年(一五七〇)二月には、養子は氏政の末弟三郎に変更された。三郎は、三月五日に小田原城を出立、同十日に沼田城に到着し、翌日に謙信に従って越後に入り、同二十五日その本拠春日山城(上越市)で養子縁組を遂げて、謙信からその初名景虎を与えられ、上杉三郎景虎と名乗った。この養子縁組は、この同盟において実現された関東管領職や領土の譲渡を保証するものであった。そのため、後に同盟が破綻しても謙信は景虎を離縁しなかった。景虎が存在していれば、北条氏もそれを尊重せざるをえず、それらの契約内容が維持されたからである。後の越後御舘の乱による景虎の滅亡をうけてはじめて、上野支配権を主張するようになる(黒田基樹『戦国北条一族』)。
戦国を考察する時に特に注意することがあるように思う。男色(なんしょく)の問題である。信玄・謙信・信長は皆、男色で有名である。しかし、また女色も行っていた。謙信だけは例外であるらしい。北条氏綱の娘は足利晴氏の室となり、芳春院と呼ばれたが絶世の美女であった。古河公方を味方にするのが目的である。氏康の六男、三郎も美男であった。北条氏は男の欲望を巧みに使い分けたのである。氏照はこの叔母と弟のために尽力している。
筆者が謙信と三郎景虎の養子関係に拘泥するのは、両人が男色であったことだけではなく、本論の「土屋備前守軍役人数書立」の時期が、天正六年八月中旬、北条高広・景広親子は北条氏輝・氏邦らとともに関東勢四万を率いて景虎助勢のため厩橋より南魚沼郡上田城に達し、坂戸城の深沢利重・栗林政頼らを攻撃した(『前橋市史通史巻一』)。此のことに関係あると思われる。
『武州古文書上』には百姓勘平(土屋氏)が佐野宗綱より結城晴朝に送った書状の寫を持っている。そこに「…仍北安厩橋之地開渡之由…」とあり、全文は不明な点も多いが、日付は、九月廿四日 結城殿御報と記されている。
氏照が下野方面に人員や物資を送るのには所沢市にあつた滝の城を使ったのではなかろうか、清戸(清瀬市)には番所が置かれていた重要地点である。そして、下総方面にも近い。「土屋備前守軍役人数書立」の最後にある部分に「…一人ハ腹中煩高坂ニ差置申候此由由木ニ申断候…」とある。これより推測すると高坂(坂戸市高坂)は北に偏っている、下野・下総方面への移動ではなく、上野の厩橋方面への出動であつたと思われる。
二 天正期における北条氏照家臣団
【安積弥五郎】 本稿の着到状以外にその名はない。
安積氏はその出自を陸奥国安積郷とするが、各地に異流がある。「アサカ」氏は安積臣、大伴安積連、伊東流、がある。「アズミ」氏は播磨国宍栗郡安積保の下司公文職をもつ国御家人で、「嘉吉の乱」では赤松満祐の家臣として、安積監物行秀が知られている。
【守留藤左衛門】本稿の着到状以外にその名はない。
留守氏は頼朝の奥州征伐後、陸奥国留守職に任命された伊沢左近将監家景を祖としている。二代家元以降、留守を称した。留守氏は多賀城国府周辺の「高用名」と呼ばれた地域の地頭で、初期の居城は、利府の加瀬あたりと考証され、代々塩釜神社の神主として強い支配力を有していた。十二代詮家の応永年間より、家督相続などで大崎・伊達氏の干渉を受けることが多くなり文明年間に伊達持宗の子郡宗が十四代を相続し、完全に伊達氏の勢力圏に入った。この一族か。
【倉林弾正】 徳川家康に仕えた倉林弾正の名がある。『寛政重修譜家譜』に次のようにある。
●友則(弾正の父)刑部大輔 北条氏輝に仕へ、天正十八年四月前田利家武蔵国松山の城をせむるの時、友則援兵となりてかの城に籠り、防戦して討死す。法名善慶。●昌知 四郎兵衛(弾正の兄) 小田原没落ののち、武蔵国八王子の眞學寺にあり。天正十八年九月めされて東照宮に勤仕し、のち尾張大納言義直卿に附属せらる。●則房 弾正 五郎左衛門 今の呈譜秀房に作る。小田原落城ののち、兄とともに八王子の眞學寺に寓居す。そののち相模国藤沢の遊行寺にをいて東照宮にまみえたてまつり、御家人に列し、武蔵国都筑郡の内に於いて新墾田をあはせ、采地百六〇石餘及び月俸三口を賜ひ、後關原の役をよび大阪兩度の御陣に供奉し、其のち川越に住し、御鷹塒飼をつとめ、御代官をかぬ。寛永二年十一月十一日後朱印を下さる。三年かの地にをいて死す。年七十六.法名機珊。
倉林和泉守 『町田市史』五八七頁に〔…市内小山町の島崎兵吉家所蔵の『覚書』(宝暦七年正月)に弘冶元年正月に主君の倉林和泉守家次から「島崎三郎次吉」の名乗り下賜わされた同家の祖が…〕とある。
【羽生源七郎】 本稿の着到状以外にその名はない。
日の出町平井川流域には広く板碑が分布している。そして、中世には大久野七騎(和田・羽生・清水・小山・田中・野口・浜中)という武士団が存在した。同地の中羽生家の過去帳に次のような記載がある。
惠日院殿本寥陽心居士 平山兵部大輔景季
耕徳院天信道祐居士 羽生伊賀守 天正十七年八月廿日
義峯院正安全通居士 大膳事羽生彦右衛門 慶長八年正月廿七日
中羽生家には「創羽生大権現記」と記された板版があり、そこに、〔…中羽生伊賀父子北条氏尚公事相劦小田原領先地未幾北条氏羽生餘裔為農業凡九十年…」是時延宝八歳庚申天…〕と記されている。
【豊泉和泉】本稿の着到状以外にその名はない。
【豊泉与一】 本稿の着到状以外にその名はない。
北条氏照朱印状(和田文書)に、甲子五月廿三日(永禄七年)清戸三番衆、三田冶部少輔以下に「…豊泉十兵衛・同かけゆ・同隼人・同惣五郎・同半十郎・同惣二郎…」の人々がいる。氏照は青梅(青梅市)の辛垣城の三田綱秀を滅ぼして、旧臣の三田冶部少輔の引率する師岡采女佑秀光以下四〇人の侍衆を配下に加え、清戸番所詰めの守備隊として組織した。
『新編武蔵風土記稿』「巻之百六十、入間郡之五」の中神村、豊泉寺開基豊泉左近将監、天正三年九月十二日卒す。法名豊泉院名山大譽居士。小谷田村、舊家七兵衛。豊泉氏なり、先祖は小田原北条氏に仕え、後浪人となり、左近将監と云し由、何の頃より爰へ土著せしや、その所以は知らず、中神村豊泉寺を開基せし事は其村の條に辨せり。
【池上平三】 着到状以外にその名はないが、池上将監丞の一族である可能性がある。
○北条氏照の家臣に池上某がいる。天正五年(カ)七月五日北条氏照書状(金上文書)では会津黒川城(会津若松市)の城主芦名盛隆と北条氏照との外交交渉で使者に赴いた。天正十四年九月二十六日北条氏照判物写(佐野家蔵文書)では下野国鹿沼(鹿沼市)への加勢として氏照の家臣小野田源太左衛門尉と池上将監丞等を派遣し、軍律を守るように申し渡す。
○八王子城横山口(八王子市元八王子町二丁目通称石神坂)に池上新右衛門道善の屋敷があったと言われる。元禄二年には氏照の旧臣の子孫であろうと思われる、池上新右衛門が讃州高松家中にいる(『多摩文化』第十四号)。
慶長十三年(一六〇八)、徳川家康はその子頼房を水戸に封ずるにあたって、附家老として、元北条氏の家臣で勇名をはせた中山勘解由の子・信吉を選んだ。中山氏は戦国期、飯能市中山周辺の土豪であり、北条氏に仕えていた関係であろう、配下の者一七名を、北条の遺臣たちから選んだらしく、この中には青梅市域内から「清戸三番衆状」に名が出てくる、富岡あたりの久下兵庫助、厚沢の住人若林作兵衛、二俣尾居住の神田伊兵衛、師岡の住人で、後に吉野織部之助に協力して新町開拓を行った池上新左衛門らが含まれていたが、いずれもその後間もなく水戸家の仕官を辞し、帰村してしまった(滝沢博「帰農した地侍たち」『多摩のあゆみ』第四十六号)。
【志村将監】 あきる野市上代継の志村氏と八王子市元八王子町志村氏の二人の将監がいたと思われる(後述)。
【志村甚二郎】出自不明。志村将監とは兄弟か、その一族。
○八菅山大権現は戦国初期の永正二年(一五〇五)兵火の罹り焼失したので、天文十年(一五四一)に再興されたと思われる。当地の地頭は内藤康行、代官は志村昌瑞と見える。志村氏は遠山氏の被官であろうと思われ、後北条氏の家臣で江戸衆の武士にも志村氏がいる。
志村氏は武蔵の名族豊嶋氏の一族で、武蔵国豊島郡志村郷(東京都板橋区)を本拠とする鎌倉武士の出身で、戦国時代には早くから北条氏の家臣となっていた。天文十年十一月二日には、北条氏康から武蔵川越城(埼玉県川越市)での戦功によって志村弥四郎に感状が与えられた(『諸名将等感状集記』所収文書)。志村昌瑞はその一族であろうと推定される。享徳の乱の頃には、志村氏は扇谷上杉氏の配下に属しており、同じく扇谷家に仕えた内藤氏の被官になったものと思われる。
○東京都下の檜原村にも志村氏を名乗る武士がいるが、江戸志村氏の一族であるか否かは不明である(『城山町史』)。現本村の志村氏は数戸あるだけだが、前記御銅帳、文禄四年(一五九五)の所に志村大隅が記され、下川乗、清水章好家文書(天正元年~天正十年の年記が見える)にも馬場・志村仁左衛門が記されている。志村大隅は平山六人衆の一人と言われている人であろう(『檜原村史』)。
○あきる野市の志村将監 あきる野市上代継の志村行次宅には、慶長十年(一六〇五)一月二十日付の大久保長安署名の折紙がある。内容は志村将監殿老母が「御入候後、家にかかり候、むね(棟)役幷屋敷年貢我等方よりわきまへ指上候而、右分被申付間敷、其上田畑とも年貢さえ取被申候者、かかり役之儀一切可被致無用候」というものである。同家のは二種の系図が所蔵されており、その一つには「東武多摩郡阿伎留郷代継村居住 志村将監吉次 天正九乙巳二月廿日切腹 法名青透院殿功山道無居士」とあり、他の方は「東多麻郡阿伎留郷代継村居住 志村将監吉次 慶長十七年乙巳二月廿日切腹 法名切山道無居士 母号昔鑑栄秀大姉 同年七月二日死」と年次が違っている。志村家は武田家の旧臣であり、系図にある将監吉次の切腹と、所蔵の大久保長安署名の折紙がどのように関係あるのか、今のところ不明であるが、後日再検討を加え、改めてこの文書の全文と史料価値について紹介したいと思っている(村上直氏『多摩文化第二十一号』)。
○八王子市元八王子町の志村将監 〔『新編武蔵風土記稿「巻之百四 多摩郡之十六」』〕に「…百姓清左衛門、小名中宿に住せり、先祖を志村将監と云、北条の家人なり、落城後こゝに隠逸せりと云う、…」とある。この志村将監は慶長の中頃に八王子権現の再興に尽力している。同市下恩方町の山本康臣家所蔵の『三ッ鱗翁物語巻五』は志村景殷によって加筆さてたようであるが、文中に「…志村将監景光…」とあり、八王子城戦での活躍が詳しく記されている。この『三ッ鱗翁物語』の作者は不明であるが、この志村氏のように思われる。隣家の志村茂氏の家伝によれば、八王子城を定めた折に廿里山で兄弟が出会って現在地に来住したようである。
○あきる野市引田には、引田城があり、旧武田家臣・志村景元の居館跡と言われている。この志村景元は慶友社版『武蔵名勝図会』(植田孟縉著)四二九頁に次のようにある。
古額 山王社に掲ぐ、堅七寸八分。幅五寸五分。絵は猿が馬を牽く図を高彫せしものなり。裏銘も彫り付けたり。
古額の裏銘
武州多西郡引田村当領主日奉朝臣平山右衛門大夫也。此家中
令知行当所内、有山王権現古跡、中絶年久者也。忝信某得心
過去因現在果未来業、今歳天正十七己丑奉再興新殿一宇、次某
自男号角蔵者十七歳而刻之、奉寄進当社也。仍而如件
甲州鶴郡鶴川組生 志村肥前守景元(花押)
所願成就令満足 引田真正寺
この志村肥前守景元は引田の正音寺を開基したとされ、正音寺は現在、無住で引田の真照寺の管理となっている。この正音寺の裏山「中平」に舘をかまえ、八王子城の落城の際に自刃した悲劇の人である。地元の言い伝えに「馬場坂で馬の訓練をし、乗馬姿の美しい殿様であった。」とある。この志村肥前守景元と八王子市元八王子町の志村将監景光とは同族と思われる。
志村氏は『甲斐国志』等に「小笠原長清の孫、伴野太郎時直の後裔・右近允真武、信濃国佐久郡志村にありて志村氏を称す。大永年中当国に来たりて武田氏に仕う、其子に鷹山重右衛門栄貞・志村太郎右衛門貞盛・又右衛門貞時等あり」。この志村氏は千人頭の志村氏である。家紋は一文字、替紋五丁字。八王子市元八王子町の志村氏の家紋は三丁字である。
○千人頭の志村又左衛門貞盈は、天正三年(一五七五)五月長篠合戦の時山縣昌景の首を背旗に包んで必死に逃げ帰ったと伝えられる。天正十年三月武田家滅亡の後に千人頭河野但馬守通重と共に北条氏に仕えたと思われる。
小田原市下堀地区に「穴部国府津線関連遺跡」がある。遺跡は小田原市の中央部、JR鴨宮駅の北方約一、七キロメートルに所在し、遺跡の南側には中世土豪の舘跡とされる「下堀方形居館」がある。ここは甲州武田氏の家臣であった志村氏が、武田氏滅亡後、小田原北条氏に下った際に下賜された土地であると伝えられている。
○武田信玄の四女於松は武田家滅亡の際、北条氏照の元に避難してきた。その時警護にあたって付いて来た家臣に志村大膳がいる。
【月齋】 月斎吟領(げっさいぎんりょう)
武蔵国滝山城(八王子市)城主北条氏照の家臣。使者を務める。天正八年十月二日北条氏照朱印状写(佐野家蔵文書)では小野田源太左衛門尉に武田勝頼との戦いに出陣を命じ、先駆けを申し渡した。奉者は吟段とあり吟領の間違いか。年未詳初春(一月)七日月斎吟領書状写(寺院証文一・四二六一)では古河公方の奉行月輪院道久に新年の挨拶を述べ、五明(扇)と芳名(茶)を贈呈された礼に杉原(紙)を贈呈した。「月斎吟領(花押)」と署名。天正十八年正月十七日北条氏直書状(仙台市博物館所蔵伊達文書・三六一七)では奥州会津黒川城(福島・会津若松市)城主伊達正宗に北条方に味方して出陣の事を聞いて甲冑を贈呈し、月斎吟領を使者として派遣すると伝えた。以前から北条氏と伊達氏の交渉役は北条氏照の役であり、そのために月斎吟領を使者として派遣した。年未詳九月二十六日北条氏照朱印状写では相模国西郡早川(神・小田原市)海蔵寺に合力として白綿廿把を寄進した。奉者は月斎(吟領)。
【広瀬殿】 着到状以外にその名はない。
武蔵国入間郡に広瀬荘あり、比呂世と註す。風土記傳に「今高麗郡の内に広瀬村ありしも、此處ならんには、後世郡界の変ずること知るべし」と。また神名式に入間郡広瀬神社が見え(上広瀬村)、法恩寺寶冶元年文書に入西郡春原荘広瀬郷、健治二年文書も同じ、又広瀬社天正十年銅佛銘には「高麗郡広瀬郷」とある。春原荘は入間川左岸の低地に立地しており、現在の狭山市上広瀬・下広瀬に比定される。
甲斐の豪族広瀬氏は八代小石沢筋郡広瀬邑より起る。清和源氏武田氏の族と云う。角田氏の舊記には「一族也」と述べる。広瀬郷左衛門尉景房・最も名あり。一騎當千の士と称せられる。甲陽軍監に初め板垣衆と。又家忠日記等に見える、但し左馬介に作るは非也。大阪役に広瀬左馬助戦死す、郷左の養子かと云う。恵林寺靑表紙日記に「山形三郎兵衛同心広瀬清八、同清次郎、藤次郎」等あり、此處にも広瀬の地あり(甲斐国志)。
巨摩郡の名族に小笠原氏の族あり、中巨摩郡の誠忠舊家録に「山縣昌景衆、広瀬主計輔景則の後胤、天正自後醫術を業と為す、藤田村広瀬周平和泉」とある。東山梨郡八幡邑の名族、又甲府の名族にあり(姓氏家系大辞典)。
○千人同心の広瀬氏 「千人同心由緒之書付 河野与五衛門組 元禄十二年卯十月」
「権現様御代より御奉公仕候 一 曾祖父 本国甲州 生国甲州 広瀬太郎左衛門 病死 一 祖父 本国甲州 生国武蔵 広瀬波右衛門 一 父 本国甲州 生国武蔵 広瀬市郎左衛門 病死 一 御切米高弐拾六俵 本国甲州 生国武蔵 広瀬源左衛門 当卯ニ四十三歳」。逸見敏刀著『多摩御陵の周囲』に次のようにある広瀬氏がこの千人同心の広瀬氏と思われる。
「…御霊明神の裏に広瀬助之亟と云う家がある。この家は八王子城攻めの時、金子曲輪に於いて壮烈な戦死をした、城方一方の勇将金子三郎左衛門尉家重の末だと云う。當時の古文書數通(広瀬家文書)を所持している。現在の姓広瀬は後千人隊の株を買った時以来のものだと云ふ。広瀬は郷八と云ひ、甲州の士広瀬郷右衛門が弟子であって、郷右衛門は高天神城責めのとき家康から賞讃の言葉を賜わった程の大剛の勇士であった。郷八の子孫は後断絶したと言ふから、之の株を買ったものであらう。…」。
【東三郎左衛門殿】 着到状以外にその名はない。
東氏(とうし)は中世の武家で、千葉氏の庶流。桓武平氏。古今伝授の家として有名。鎌倉時代の初めに千葉常胤の六男胤頼が下総国東荘(千葉県東庄町)に住み、東大社の神官(本来の東氏)より名前を譲り受け、東六郎大夫と称したのに始まる。子の重胤、孫の胤行は歌道に優れ、ともに鎌倉幕府三代将軍源実朝に重んじられた。室町時代中期の当主東常縁は古今伝授をうけ、歌人として有名である。東氏は戦国時代に入ると衰退し、永禄二年(一五五九)東常慶は一族(異説あり)の遠藤氏と対立し、遠藤盛数に攻められ滅亡した。
○郡上の東氏に、東益之(一三七六―一四四一)号素明。通称三郎。官途左衛門尉。東貞常の孫で東師氏の養嗣子。歌人として貴顕と交わる。その子、東氏数(????―一四七一)号素忻。通称左衛門・下総守。歌人。その子か、東元胤(????―????)号素通。通称三郎がいる。この一族が、東三郎左衛門殿と同族か。
【大石惣四郎】 もと松田惣四郎のち大石照基と名のる。信濃守を称す。
北条氏政・氏照の家臣。氏照の持城の下野国小山城(栃・小山市)の城将。大石綱周の弟信濃守の養子となり家督を相続。『異本小田原記』巻四に「大石源左衛門綱周の伯父大石遠江守は永禄十二年十月の三増合戦で武田信玄に捕らわれて甲斐国に連行された。弟信濃守の家督は松田筑前守の孫六郎左衛門(定勝ヵ)の弟が継いで大石惣四郎、次いで信濃守をしょうした」とある。氏照の偏諱をうけた側近家臣。天正五年正月足利義氏年頭申上衆書立(東京史料編纂所所蔵・埼玉県史資料編八、六七二頁)には古河公方足利義氏への年頭の挨拶に北条氏政より太刀と扇が贈られ代官として大石信濃守が挨拶に来たので太刀を答礼として贈る。同年四月二十六日北条氏照朱印状(矢島文書・一九〇五)では小山城(祇園城)の諸触口中に小甫方備前守は他国衆のために彼の家臣等の手作地については違乱の無い様にせよとした。奉者は大石信濃守。同年十月十九日北条氏照朱印状(小山市立博物館所蔵大橋文書・一九五〇)では大橋播磨守に下野国都賀郡卒島郷(小山市)内で知行一〇〇〇疋(一〇貫文)を宛行う。同日北条氏照朱印状写(晃程文書・一九五一)では菅谷左衛門五郎に同郡友沼之郷(栃・野木町、小山市)内で知行一〇〇〇疋を宛行う。奉者は共に大石信濃守。天正六年十月二十六日北条氏照朱印状(青梅市郷土博物館所蔵並木文書・二〇二七)では三田谷(東・青梅市)の並木弥七郎に照基が同道して小山城へ向かった。天正八年二月十九日大石照基書状(小山市立博物館所蔵大橋・四七三一)では大橋播磨守に生井郷(小山市)を宛行う。天正十四年七月十八日北条家朱印状写(楓軒文書纂六〇・二九七二)では常陸国の佐竹義重が下野国都賀郡に侵攻し壬生(栃・壬生町)・鹿沼(栃・鹿沼市)方面に向かうため、対する北条氏は小山衆をこの方面に向かわせる事になり壬生へ水海衆の鉄砲・弓衆を五〇人加勢として送り、加勢衆に良い指揮官を付けて大石信濃守の注進次第に小山城に入る事とした。天正十六年十一月二十八日大石照基判物(小島文書・三三九三)では枝惣右衛門尉を小山領の鋳物師の司の任命し北条氏の御用を務めるように命じた。「大石信濃守(花押)」と署名。ただし、当文書は疑問点がある。年未詳五月二日大石照基(ヵ)黒印状(小山市立博物館所蔵大橋文書・四〇九〇)では下野国寒河郡生江郷(小山市)の年貢を四〇貫文と定め大橋氏の諸役を免除する。月日行下に印文「国所」の黒印を捺印。『北条記』では永禄十二年正月に伊豆国三島(静・三島市)に出陣して武田勢と戦っている。また、照基は天正十八年六月二十三日八王子城(東・八王子市)で討死しておらず、松田惣四郎松庵と復姓し、結城秀康に二三〇〇石で召抱えられた(秀康卿給帳)。
○『大石宗虎屋敷とサルスベリ』(八王子市松木一四九一)
「ここは松木台と称し、永禄(一五五八~一五六九)の頃、大石信濃守宗虎が居館を構えていたと伝えられている。宗虎の養子である照基がここを利用したかは定かではないが、屋敷自体は定基が没した元亀二年(一五七一)から八王子落城の天正十八年(一五九〇)の間に廃されたと思われる。また滝山城にある信濃郭も信濃守すなわち宗虎、あるいは照基の屋敷があったと考えられる。宝鏡印塔の前のサルスベリ(百日紅)は、この松木台の屋敷が機能していた頃のものと思われ、樹齢四〇〇年、根もとの周囲三メートル余、樹高十五メートルと近在にもまれな巨木である」。この屋敷内に墓地があり、そこに、忘れられたような小さな墓石が建っている。他から移したものと言われるが、宗虎夫妻の法名を併刻してある。永林寺過去帳とは少し異なるが次のようである。
蓮心院法性開華大居士(宗虎)
法蓮院春応妙華大禅定尼(宗虎室)
この墓石の左側面に「御法名天正七□□…」と微かに判読できる。これによれば、照基の養父宗虎はこの年次に没したと思われる。照基が信濃守を称するのが天正五年頃であり、家督を譲られたのはこの頃であろう。また、『新編武蔵風土記稿』多摩郡城野村(八王子市)譜願寺の条には開基大石信濃守宗虎の墓があると記し「五輪塔の石塔なり、宗虎は滝山城の城主大石源左衛門定久の嫡子にて初は内記と称せり、近郷由木に居館を構ふ、元亀二年六月八日に没せり」とあり、もしくは定基と同人物か。
【土屋備前守】 着到状以外にその名はないが、あきる野市横沢の大悲願寺過去帳によれば、八王子城で討死の人々の名前に「土屋備前」となっている。その記載順序が、「中山勘解由、狩野一庵、近藤出羽、土屋備前……」となっていることから、身分が高かったと推測できる。武田家の土屋氏と関係深い人物と思われる。
○雄山閣版『新編武蔵風土記稿』第七巻二三四頁に、安立郡上青木村の名族として「…宗信寺…寛永六年村民土屋冶郎左衛門が父豊前守追福のため今の地に移し、本寺十九世の僧を請じて中興開基せり、則父豊前守が法諡及び己が逆修の法號を取て、長陽山宗信寺と號すと云、かの豊前守は甲斐國武田氏に仕え、同國にて卒せりと云のみにて、其傳詳ならず、…」とある。
○北条氏照ヵ朱印状写(土屋和夫氏所蔵文書)に「此度才原、敵打捕候、神妙ニ被恩召候、仍俵子被下候、向後弥軽身命於走廻者、御恩賞仁望可被与旨、被仰出者、也、仍如件、
(天正八年)辰(印文未詳朱印)六月八日 土屋五郎左衛門」とある。
〔解説〕天正八年五月十五日、北条氏照の軍勢と甲斐の武田勝頼の軍勢が西原峠(東京都桧原村)で合戦に及んだ。その時、氏照配下の土屋五郎左衛門が戦功をたてた。そこで氏照が感状を与えたもの。西原を才原と書いている(下山冶久著『八王子城主。北条氏照』)。
また、土屋和夫家には、天正八年(一五八〇)卯月十九日柏木野の坂本四郎右衛門繁直と共に、小河内に攻め入り、才藤六を打取ったときに、戦場で平山氏重より賜わった直筆の感状がある。そこに「…土屋内蔵助との」とある。この人物は土屋五郎左衛門であろう。
○雄山閣版『新編武蔵風土記稿』第六巻五八頁に次のようにある土屋氏。
「…舊家 百姓勘平 先祖は甲州武田家の家臣土屋右衛門尉直村の三男にて、土屋越後守宗昌と號せしが、天正十七年に當村(あきる野市五日市)に来たりて農民となれりと云う、…」。土屋右衛門尉直村は土屋右衛門昌次と同一人物であるらしい。土屋右衛門尉昌次は(平八郎・右衛門尉・法名道官)武田信玄家臣。侍大将。金丸虎義の二男。元亀二年(一五七一)、三河賀茂郡の遠征、同三年、三方ヶ原の戦で戦功をあげる。天正三年(一五七五)長篠の戦で戦死した。その子、土屋越後守宗昌が北条氏照に仕えていた土屋備前守の元に来たのである。北条氏が滅亡する天正十八年八月の直前に五日市村(あきる野市五日市町)に来住しているのは、土屋豊前守と同族の縁を頼っての事であろう。武田家が滅亡したのは、天正十年三月であるから、その間の空白がある、何処でどうしていたのであろうか。後に、徳川家に仕ええた土屋氏も同様であるらしい。北条氏家に仕えた土屋氏、今川家に仕えた土屋氏、武田家に仕えた土屋氏がある。徳川家に仕えた土屋氏は『寛政重修諸家譜』にその系譜がある。
○武田家滅亡に際し、上野国(群馬)まで逃げた者がいる。武田二十四将の一人小幡虎昌・昌盛の本貫地である児玉郷に逃れ、帰農したと言う土屋源左衛門、勝頼十六将の一人で軍用金をもって土谷沢(群馬県下仁田)に落ち延びた土屋山城守高久。また、信州の伊那には土屋惣蔵昌恒の子である宗右衛門が瑞光禅院に落ちて来たという、その外、伊豆の下田に土屋外記、勝長、玄蕃の三人が落ち延び隠れ住んだという。
○土屋氏は桓武平氏中村氏族。相模国大住郡土屋村より起こる。中村荘司宗平の子宗遠が土屋弥三郎と称したのに始まるとされている。豊前守氏遠の時、武田氏に仕え家臣となった。それとは別の土屋氏がある。足利氏の一族一色氏満範の弟範貞を祖とする家で、範貞の曾孫一色藤次が甲斐に下り、武田氏の支流金丸氏の家名を継いだ。戦国時代に、金丸虎義の子が土屋氏の家名を継いで、土屋氏となったものである。
○武田家には土屋備前守がいる。岡部忠兵衛晴綱を以て直村名蹟とした土屋備前守である。この人物は土屋右衛門尉昌次の養父であるが、それらの経緯は少し判り難い。長篠の戦いで戦死した。
【由木】 着到状に「由木」とあるが、天正十八年六月二十三日、八王子城で討死した、由木豊前守(道景禅定門)であると思われる。由木主水佑(西竿禅定門)も共に討死しているが、主水佑には、子の西蔵とその姉(妙野禅尼)がいる。主水佑は由木備前守の子か、兄弟であると思われる(大悲願寺過去帳)。天正五年十一月七日北条氏照朱印状(網代友甫氏所蔵文書・一九五六)では武蔵国網代郷(東・あきる野市)の山作の棟別銭を免除した。奉者は由木某。年月未詳二十日北条氏照書状(秋山断氏所蔵文書・三九二一)では大石四郎右衛門尉・大石左近丞に加勢衆として鉄砲一〇挺を七人の衆から出させ、その一人に「由木」とある。
○由木左衛門尉景盛 興真の嫡男。武蔵国滝山城(東・八王子市)北条氏照の家臣。奉者を務める。天正六年三月十七日由木景盛奉納状写(昆陽漫録四・四七二六)では紀伊国高野山(和・高野町)龍光院の内の宗忍房に両親の菩提料として金二両と宗国の刀を納入した。「北条陸奥守平氏照内、由木左衛門尉景盛」とある。天正七年六月六日北条氏照朱印状(新井巳代治氏所蔵文書・二〇八〇)では武蔵国柏原(埼・狭山市)の鍛冶職の荒井新左衛門等に鑓の穂先を納入させた。奉者は由木左衛門尉景盛。東京都あきる野市の大悲願寺の過去帳には景盛の法名は西安信士、慶長十七年十月二十一日越前国で切腹し嫡男源左衛門も切腹した。この時、両名の妻達も殉じた(越前騒動)。
○由木氏は八王子市上柚木・下柚木・南大沢辺を拠点に鎌倉時代から戦国時代までを生きた武士。源姓。中興系図に「由木 源、本国武蔵由木、左衛門尉利重・之を称す」とある。○由木利重の子である存応(観知国師)は増上寺が徳川家康の菩提寺となったときの僧。家康に最初に仕えた僧の一人である。後に、金地院崇伝・南光坊天海がいる。
おわりに
本稿は筆者の平成十四年二月「天正期における氏照家臣団と志村氏」を全面改稿したものである。当時に比べ、筆者の研究も少しずつ進んでいるが、土屋備前守については不明な所が多く、今後、尚一層の努力を期したい。着到状の氏照家臣達の生きた戦国の世がどの様であったか、今後の研究課題は尽きない。
『土屋備前守軍役人数書立に見る戦国』 @19643812
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