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儀海みち

『儀海みち』
                          清水太郎
   はじめに
 日野市高幡不動尊金剛寺の中興開山権少僧都儀海は鎌倉期の弘安二年(一二七九)から文和三年(一三五四)までの生涯の大半を、新義真言宗教学の研鑽に情熱を捧げた僧である。この間の様々な人々との出会いや出来事を通じてこの時代を理解したい。
儀海の足跡は奥州小手保の甘露寺、下野小山の金剛福寺、常陸亀隅の成福寺、武州横河の慈根寺、同じく北河口の長楽寺、相模鎌倉の大仏谷や佐々目、山城醍醐の三宝院、紀州高野山金剛峯寺、同じく蓮花谷の誓願院、紀州根来の大谷院、同じく豊福寺中性院など各地の談義所を繰り返し訪れている。その地を辿ることによって、従来等閑視されてきた儀海の研究を深めていきたい。
 各地における儀海の足跡図(現存しない寺を含む)

① 陸奥川俣甘露寺 福島県伊達郡川俣町(不明)②下野金剛福福寺 栃木県小山市(不明)③常陸亀熊成福寺 茨城県桜川市真壁町亀熊(不明)④武蔵慈根寺 東京都八王子市元八王子町(廃寺)長楽寺 東京都八王子市川口町(現存)高幡不動 東京都日野市高幡(現存)⑤鎌倉大仏谷・佐々目 神奈川県鎌倉市(地名有)⑥醍醐三宝院 京都府伏見区醍醐(現存)⑦高野山金剛峯寺・誓願院 和歌山県伊都郡高野山(誓願院は不明)⑧紀州根来大谷院・豊福寺中性院 和歌山県岩出市(根来寺の前身)
儀海についての研究は櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』正(昭和三十九年)・続(昭和五十年)、細谷勘助氏「儀海の布教活動と中世多摩地方」(『八王子市郷土資料館紀要第一号』)、高幡不動尊金剛寺貫主川澄祐勝氏「儀海上人と高幡不動尊金剛寺」(『多摩のあゆみ』一〇四号平成十三年)などがある。それらの著述の基となるのは昭和十年に著された黒板勝美編『真福寺善本目録』正・続二冊(昭和十年)である。現在は智山伝法院編『大須観音真福寺文庫撮影目録上・下巻』(平成九年三月三十一日発行)がこれを補っている。
 名古屋市大須の真福寺開山である能信は、その伝に「赴東部、謁高幡不動儀海和上、探中性一流之源底、今吾寺称武蔵方是也」とあり、儀海を師主として、新義教学の布教につとめた。師主儀海は事教二相の達人で、法脈を「虚空蔵院儀海方」と称し、それは能信に附法され「武蔵方」といわれる。儀海が諸域で書写した密教経典は、能信をはじめとする弟子たちによって書写され、この写本を通して、また各地方に転写されていったので、教学は関東のみならず、広く広範囲に伝わることとなった。また、能信は真福寺を開くにあたり、自ら書写したものを含め、多くの経典を名古屋へ移したが、それらはまとまった形で今日に伝えられている。それゆえ私たちはこの経典に奥書を通して、儀海の行動を知ることができるのである(『細谷勘助』)。

一  密教(容易に知りえない秘密の教えの意味)
 現在、チベット周辺と日本だけに残る仏教の一つの宗派である。密教は唐の開元初年,インドの善無畏と金剛智が『大日教』(胎蔵界)系統と『金剛頂経』(金剛界)系統の密教を伝え,唐の一行・不空・恵果らがこれを継承発展させた。この隆盛期に,空海・最澄・円仁・円珍らが入唐して日本にこれを伝え,真言密教(東密)と天台密教(台密)をおこした。これ以前の密教である雑密と区別して,純密と称される。すでに奈良時代には密教経典とその修法も伝えられていたが,その体系化は空海以降のことである。金胎両部ないし胎金蘇(蘇悉地)三部にもとつき身口意三密加持による即身成仏を説き,潅頂・修法・曼荼羅の作成が行われた。特に荘厳な儀法全体に意味があり,それは秘密に口伝されたが,道教・陰陽道・神祇思想や作法と混合するところも少なくない。
 次に専門的語彙について若干の解説に触れておきたい。
胎蔵界 金剛界に対する密教の両部(両界)の一つ。正しくは胎蔵(法)という。胎蔵とは,母体で胎児を保護養育することにたとえて万法をふくみおさめること。これを図像化したものが,胎蔵(界)曼荼羅。
【金剛界】密教の両部(両界)の一つで,胎蔵界に対するもの。金剛とは堅固な宝石のことで大日如来の堅固な知恵にたとえられ,その悟りの境地を金剛界という。この境地に至る道程を図案化したのが金剛界曼荼羅。
曼荼羅(曼陀羅)梵語の音訳。インドでは祭典用の土壇を築いて諸仏を配置したものをいい,中国・日本では密教の修法のため多くの尊像を一定の方法にもとついて整然と描いた図像をいう。費用減形式から区別すると,諸尊の形相を彩画した大曼荼羅(原図曼荼羅),諸尊の持物で仏体を表した三味耶曼荼羅,諸尊を表す梵字(種子)の記号だけで表した種子曼荼羅(法曼荼羅),諸尊の形像または持物を立体的に鋳造・彫刻した羯磨曼荼羅に分けられる。また内容によって区別すると,大日如来を中心に各部の諸尊を配置した都部曼荼羅と,大日の別身である阿閦・阿弥陀・観音などの特定尊を本尊とした別尊曼荼羅とに分けられ,前者の代表は金剛界と胎蔵界の両界曼荼羅であり,後者は仏頂・経法・菩薩・天部の各曼荼羅がふくまれる。なお垂迹画や変相図などを曼荼羅とよぶこともある。
即身成仏 現世でこの身のまま悟りを開き仏となること。特に真言密教では根本教義とし,法界中で平等な仏と衆生は心・口・意による観想・真言・印の作法により一体化し,衆生は成仏すると説く。
潅頂 如来の五智を象徴する水を仏弟子の頭頂に注ぎ,仏の位の継承を示す密教の儀式。阿闍梨位を得るための伝法潅頂,多くの人々に仏縁を結ばせるための結縁潅頂など,種類は多い。
東密 真言宗に伝わる密教。天台宗の台密に対する呼称。東寺を根本道場とする。唐より帰国した空海は,密教のみが真実の教えであるとして,東寺を中心に弘布した。のち広沢・小野二流に分かれ,さらに多数の流派に分かれた。台密の胎蔵界・金剛界・蘇悉地の三大法に対して金剛胎蔵両界説を説く。
台密 比叡山延暦寺を総本山とする天台宗に伝わる密教。真言宗の東密にたいする呼称。山門派と寺門派の二派がある。東密の金剛胎蔵両界説に対し,胎蔵界・金剛界・蘇悉地の三大法を説く。
道教 中国で二世紀頃始まった,多様な民間信仰と神仙思想・養生思想・儒教・仏教などが習合した信仰。神仙となることや不老長生をもとめる。日本では特に陰陽道や修験道に影響を与え,庚申信仰にはその色彩が顕著である。
陰陽道 古代中国の陰陽五行思想にもとづき,災異や人間界の吉凶を説明し易占などを行うことを主要な要素とし,これに祓や祭祀もふくめ日本において体系化された技術。十世紀ころ陰陽道という名称が一般化し,天文・暦などをふくむ学問体系として発展した。日本へは六世紀ころ百済から伝来し,天武朝に国家による組織化が進み,大宝令で陰陽道の担い手となる陰陽寮が中務省の被官としておかれた。とくに平安時代には貴族社会を中心に発展し,新たな禁忌や様々な陰陽道祭祀がうまれた。十一世紀後半以降,安部・賀茂両氏によって陰陽道は家業化された。中世になると,武家,有力寺社,民間へと広がり,他の思想・信仰・芸能などと習合して様々な展開をみせ,近世に至って幕府の宗教統制の一環として土御門家によって組織化され,朝廷や幕府の礼儀などにも取り入れられた。明治維新後,陰陽寮・太陰暦の廃止により,公的な場で陰陽道は用いられなくなったが,一部の禁忌等はその後も民衆生活に影響を与えた。
神祇思想神 にかかわる観念や信仰の総称。狭義には令制の「天神地祇」に関する思想であるが,広く土着の神観念をもふくむ複合的で,また歴史的に形成された緩やかな概念として用いられている。もともと日本では,天地の神や,人格的な祖先とその系譜神を祭る慣行がなく,しかも教説もなくて,各種の自然形象を共同体や生業の神として祭った。その後,仏教の受容や道教の部分的な接触とも関係して,神を偶像として命名することや,ケガレ(穢)と祓を重視すること,『古事記』『日本書紀』にみられる神話(日本神話)の創作などが進んだ。そして,天皇の祭祀権のもとで二義的な「天神地祇」が編みだされた。この二重構造のもとで,奈良後半期からさらに氏神祭祀が派生し,平安時代からは広く民衆をとりこむ形で怨霊信仰が生まれた。やがて密教・陰陽道・中国思想などもふくみこんで,天地生成を説く中世神道が誕生したが,なお『日本書紀』にある神観念が強く影響した。ここには教説の成熟もみられないが,禁忌・清浄に関する考え方などは一貫している。

 二  偉大なる日本密教の祖師たち
 インドで七世紀以降密教が成立すると、最澄や空海が入唐しその教えを我国につたえた。
古代末から中世は仏教の時代であるといえるが、その中でも密教は中心的存在である。空海の真言宗に遅れをとつていた天台宗の教義も限りなく真言宗に近づき、追い越してゆくそれを可能にしたのが、円仁と円珍である。やがて、南都諸寺も次第に真言化してゆくことになる。儀海は空海の法脈を伝えた真言僧である。祖師、空海に対する憧憬の念は真福寺文庫の聖教類の奥書に窺うことができる。次に空海・最澄・円仁・円珍について略歴を記しておきたい。
空海 宝亀五年(七七四)~承和二年(八三五)平安初期の僧。真言宗の開祖。諡号弘法大師。讃岐の人。父は佐伯氏,母は阿刀氏。幼名真魚。延暦七年(七八八)伯父阿刀大足トともに入京,七九一年大学に入るが退学して仏道を志し,四国の難所で苦行を重ねた。七九七年京にもどり『三教指帰』を著わした。八〇四年唐にわたり,長安で清竜寺の恵果に師事して密教を学び,胎蔵・金剛両部さらに伝法阿闍梨の潅頂をうけた。大同元年(八〇六)密教の図像や経論などを携えて帰国し,その目録を朝廷に献上。筑前観世音寺・和泉槙尾山寺を経て八〇九年京に入り高雄山寺に入住。以後最澄と交際し,また詩文などの素養により嵯峨天皇に寵遇された。弘仁二年(八一一)乙訓寺の別当となり,翌年高雄山寺で最澄とその門弟に両部潅頂を授けたが,このご最澄との間に確執が生じた。八一六年嵯峨天皇より高野山の地を賜って金剛峯寺の建設に着手した。八二二年東大寺内に潅頂道場(真言院)を創建し,八二三年東寺を賜って真言宗の根本道場とし,教王護国寺と名づけた。天長元年(八二四)少僧都,八二七年大僧都。八二八年庶民教育のために綜芸種智院を建立。承和元年(八三四)宮中に真言院をもうけ後七日御修法を創始し,翌年高野山で死去した。詩論書『文鏡秘府論』,宗論書『弁顕密二教論』『秘密曼荼羅十住心論』。その漢詩は弟子真済編『性霊集』に,筆跡は『風信怗』にうかがえる。
最澄 神護景雲元年(七六七)~弘仁十三年(八二二)平安初期の僧。天台宗の開祖。幼名広野。諡号伝教大師。叡山大師とも。近江の人。父は三津首百枝。行表の弟子となり十五歳の時,国分寺僧として得度。延暦四年(七八五)東大寺で受戒したが比叡山に入り,山中に草庵を結んで修業の生活を送った。七九七年十禅師に任ぜられ,翌年比叡山で法華十講を始終,八〇二年和気氏の催す高雄山寺での天台会の講師をつとめた。八〇四年遣唐使に伴い入党して天台山に参じ,台州で天台の教義・戒律・禅を学び,また越州で順暁から密教の潅頂を受け,翌年多くの仏典を携えて帰国した。最澄を援助した桓武天皇は高雄山寺に潅頂道場を設立。天皇看病の功により大同元年(八〇六)止観業と遮那業の天台宗年分度者二人が許可され,日本天台宗が開かれた。遅れて帰国した空海と親交を結んで密教を学び,高雄山寺で空海から潅頂をうけたが、のちその仲は険悪となった。弘仁五年(八一四)九州,八一七年関東へと赴き,天台教学の布教につとめたが,特に会津の法相宗僧徳一との三一権実論争は有名。八一八年~八一九年,三度にわたって朝廷に『山家学生式』と総称される天台僧養成の規定を奉り,大乗戒壇の設立を懇請したが,南都の僧綱の反対により許可されなかった。『顕戒論』はその際に南都の僧綱が提出した奏状に反論したもの。八二二年最澄死去の直後,弟子光定の尽力や藤原冬嗣らの援助で大乗戒壇設立は嵯峨天皇により勅許された。
円仁 延暦十三年(七九四)~貞観六年(八六四)平安前期の天台宗の僧。山門派の祖。諡号慈覚大師。俗姓壬生氏。比叡山に上がり最澄に師事。伝法潅頂をうける。承和五年(八三八)入唐。五台山参拝ののち長安に入る。武宗による廃仏が始まり,還俗姿で帰途につく。八四七年帰国し比叡山にもどる。斉衛元年(八五四)三世天台座主となり,天台宗密教化に貢献した。文徳・清和両天皇や藤原良房らの帰依をうけた。主著『入唐求法巡礼行記』『顕揚大戒論』。
円珍 弘仁五年(八一四)~寛平三年(八九一)平安前期の天台宗の僧。寺門派の祖。諡号智証大師。俗姓因支氏,のち和気氏と改姓。讃岐の人。十五歳で比叡山に上がり,座主義真に師事。嘉祥三年(八五〇)内供奉十禅師となり,仁寿三年(八五三)入唐。天台山・長安などで修業し,天安二年(八五八)帰国。入唐の記録『行歴録』がある。翌年三井寺(園城寺)を修造し将来した経典をおさめる。貞観十年(八六八)延暦寺座主。寛平二年(八九〇)少僧都となり,翌年没した。

 三  鎌倉新仏教の開祖たち
 筆者が高校生の時代であった、昭和四十年代の社会史の教科書では鎌倉仏教の成立について、堕落した平安仏教に代わって登場した仏教であるというのが定義で、当時の主流であると教えられた。開祖達は易行を主張し、人々もそれに同調して鎌倉仏教を信仰していたとされていた。しかし、現在の定義では鎌倉新仏教は異端であり、当時の主流は南都北嶺の顕密勢力であったとされている(黒田俊男の顕密体制論)。密教でも易行化が進められて、真言宗に阿弥陀信仰が取り入れられた新しい流れが、覚鑁を祖とする近世の新義真言宗である。儀海はその流れの中にいた。儀海が生まれた、弘安二年(一二七四)には異端と弾圧された鎌倉新仏教の開祖たちの多くが没していた。開祖たちは仏法を人々に伝え広めるための苦難を乗り越えて生涯を送ったのである。現在の私たちの日常生活に接している仏教は鎌倉新仏教である。しかし、その多くが葬式仏教になってしまっていることに祖師たちはどのように思っているであろうか。
鎌倉仏教 日本の仏教史のなかで鎌倉時代の仏教を特別視するのは近代以降のことである。特に、禅や浄土系の諸宗、日蓮宗など、この時代に端を発する諸宗や、その祖師の活動を〈鎌倉新仏教〉と呼んで、日本の仏教史の中でも特別優れたものとして評価することは、戦前から戦後にかけて長い間常識視されてきた。その特徴として、民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対して宗教の自立性を主張したことなどが挙げられた。それに対して、南都北嶺の仏教や真言密教などは旧仏教とされ、新仏教の活動を阻害したり敵対したりする勢力と見なされた。このような見方は、一九七〇年代に黒田俊雄によって顕密体制論が提示されて大きく変わることになった。黒田は、当時の仏教界の主流はあくまで従来旧仏教といわれてきたものであり、これを顕密仏教と呼び、それにたいして、いわゆる新仏教は当時極めて勢力の小さな異端派に過ぎなかったと主張した。黒田以後、いわゆる旧仏教に関する研究が急速に進められるようになり、従来新仏教の特徴とさてきた民衆中心の教化や実践方法の単純化は旧仏教にも見られることが明らかにされ、新仏教と旧仏教という二分化が疑問視されるようになってきた。新仏教という用語を用いる場合でも、永尊の律宗教団を含むなど、新たな見直しが提案されている。さらに言えば、鎌倉時代の仏教を特別視することにも必然性はなく、鎌倉仏教も他の時代の仏教の中で相対化して理解されなければならなくなってきている。
法然 長承二年(一一三三)~建暦二年(一二一二)浄土宗の開祖。名は源空。法然は号。父は漆間時国。美作稲岡荘に生まれる。永冶元年(一一四一)荘園支配をめぐる内紛で討たれた父の遺言により九歳で僧となることを決意,十五歳で比叡山延暦寺に入寺,受戒する。十八歳で遁世して西塔黒谷に住み,天台の円頓戒を相承したが,『往生要集』を読んで以降しだいに浄土教に傾斜し,安元元年(一一七五)四十三歳で専修念仏へ転入した。以後,比叡山を下りて東山大谷など京都の所々に住み,武士・庶民だけでなく九条兼実など貴族の帰依をうけた。建久九年(一一九八)専修念仏を顕密仏教と別立することの意義を説いた『選択本願念仏集』を著した。法然の専修念仏は,念仏は阿弥陀が選択した唯一の往生行であるので,念仏以外では往生できないとして所業往生を否定し,念仏以外の造像起塔などの雑修雑信仰の宗教的価値を剥奪して,此岸におけるすべての人間の宗教的平等を説いた点に意義がある。このため延暦寺や興福寺など顕密寺院は法然の専修念仏を偏執として弾圧を要求,建永二年(一二〇七)二月,後鳥羽院は専修念仏禁止を発令,法然の弟子,安楽・遵西が死罪に,法然は同年中には赦免されて摂津国勝尾寺に住し,さらに建暦元年(一二一一)京都への帰還が許されたが,翌年八十歳で死去した。
明庵栄西 永冶元年(一一四一)~建保三年(一二一五)鎌倉前期の僧。日本臨済宗の開祖。栄西は「ようさい」とも読み,千光法師・葉上房とも称す。備中の人。平治元年(一一五九)比叡山の天台教学を学ぶ。仁安三年(一一六八)入宋。重源に会い,ともに天台山万年寺に登り,帰国。文治三年(一一八七)再度入宋。インド行きを試みるがはたさず,帰国の船に乗ったが,温州瑞安県に漂着。天台山万年寺の虚庵懐敞に臨済禅を学び,伽藍の補修にも尽力。虚庵の法をついで建久二年(一一九一)帰国し,翌年宋の天童山に「千仏閣」の修造用材を送る。建久五年(一一九五)京都で布教するが,比叡山州都の妨害にあう。翌年博多に聖福寺を建立。九条兼実之ために『興禅護国論』を著す。正冶元年(一一九九)鎌倉にて北条政子の帰依をうけ,翌年正月,源頼朝の一周忌仏事をつとめ,寿福寺を開山。建仁二年(一二〇二)京都に台(天台)・密(真言)・禅三宗兼学の建仁寺を建立。この間『日本仏教中興願文』を著し,戒律の厳守を主張。建永元年(一二〇六)重源のあとの東大寺大勧進職となり,建保元年(一二一三)権僧正となった。著書に『出家大綱』『喫茶養生記』など,墨跡に福岡市誓願寺蔵『盂蘭盆縁起』(国宝)がある。
親鸞 承安三年(一一七三)~弘長二年(一二六二)鎌倉時代の僧。浄土真宗の開祖。父は日野有範。九歳のとき慈円のもとで出家し,範宴と号したという。比叡山で堂衆として修業した後,夢告により建仁元年(一二〇一)法然の門に入り専修念仏に帰依,綽空と号す。承元元年(一二〇七)比叡山や興福寺の衆徒の念仏禁止要求をうけた朝廷の念仏弾圧により,藤井善信の俗名をあたえられて越後国国府に流罪となる。配流後,愚禿と称す。建暦元年(一二一一)赦免されたが同国にとどまり,健保二年(一二一四)妻恵心尼らを伴い関東への布教に旅立つ。以後,二〇年間にわたる布教に専念。この間,下野高田の真仏・顕智,下総横曽根の性真,同国蕗北の善信,常陸鹿島の順真,同国河和田の唯円,奥州大網の如信などを中心とする初期真宗教団が関東各地で成立した。この東国在住中に浄土真宗の根本教義を説く『教行信証』を著し,帰京後たびたび手を加えて完成をみた。帰京の年や恵心尼の関東同伴については諸説あり,定かではない。京都では『三怗和讃』『愚禿鈔』などの著述により門弟の教化につとめた。一二六二年十一月二十八日三条富小路善法坊で没し大谷に納骨される。のち東国門徒によって墓所が改修され,大谷本廟が営まれ,のち本願寺となる。弟子唯円が著した『歎異鈔』が,悪人正機説や他力本願など,親鸞の信仰やことばを伝えている。
道元 正冶二年(一二〇〇)~建長五年(一二五三)鎌倉前期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。号は希玄。父、源通親(一説に通具)母は藤原基房の娘。建暦二年(一二一二)出家して比叡山横川の首楞厳院の般若谷千光坊にとどまり,健保元年(一二一三)天台座主公円について得度,仏法道元と名のった。一二一八年建仁寺に赴き,明庵栄西門下の仏樹坊明全に禅を学んだ。貞応二年(一二二三)名全らと入宋。天童山の長翁如淨の法をついで,安貞元年(一二二七)帰国。しばらく建仁寺に身を寄せたが,人々に坐禅を強固に勧めたため,比叡山の衆徒に追われ建仁寺を出て,寛喜元年(一二二九)京都深草の安養院に住した。ついで天福元年(一二三三)藤原教家・正覚尼らの勧めで山城に7興聖寺を開き,只管打坐(ただひたすら打ち座る)・修証一如(修行と悟りはひ等しい)の禅をとなえた。寛元元年(一二四三)波多野義重の招きで越前志比荘に移り,宝治元年(一二四七)大仏寺を永平寺と改める。この時からい一段ときびしい修行に励み,当初となえた在家成仏や女人成仏よりも,出家至上主義に傾いていく。同年北条時頼の招きにより鎌倉に赴くが,翌年永平寺に帰り,やがて永平寺を孤雲壊奘に譲り,京都で死去した。でしはほかに詮慧・僧海・寂光などがいる。孝明天皇から仏性伝東国師,明治天皇から承陽大師の称号を贈られた。著書は『正法眼蔵』『普勧坐禅儀』『永平清規』(『典座教訓』をおさめる)『学童用心集』『宝慶記など。
日蓮 貞応元年(一二二二)~弘安五年(一二八二)鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。号は蓮長。安房の人。父母は荘官層といわれる。十二歳にして近郊の天台寺院清澄寺に入る。のち鎌倉・京畿への留学を経て法華至上主義を確信。建長五年(一二五三)同寺にて立宗を宣言。以後鎌倉を中心に法華信仰を宣楊するとともに,文応元年(一二六〇)幕府に『立正安国論』を提出し,安国実現のために
念仏禁止をもとめた。しかし,そのはげしい他宗批判は既成教団の反発を招き,幕府からも危険視されて一二六一年伊豆流罪,一二七一年佐渡流罪など,様々な法難をよびおこした。日蓮はそれらの受難の体験を『法華経』普及のエネルギーに転化させた。佐渡で著した『開目鈔』と『観心本尊抄』は,その新たな信仰世界の確立を示すものであった。文永一一年(一二七四)佐渡流罪赦免後,鎌倉で平頼綱と会見。蒙古襲来を防ぐための密教祈祷の停止を求めるが,いれられず,甲斐身延に入山。その後山中にとどまり,『撰時抄』『報恩抄』などの重要著作の執筆,弟子の育成,手紙を通じての信徒の激励などに専念した。一二八二年療養のため常陸の温泉に向かったが,健康悪化のため武蔵の池上宗仲宅で目的を断念。日昭ら六人を本弟子(六老師)に指定して死去した。墓所は遺言により身延に設けられ,当初で本弟子が輪番で守った。大正一一年(一九九二)立正大師号を贈られる。
一遍 延応元年(一二三九)~正応二年(一二八九)鎌倉中期の僧。時宗の開祖。幼名松寿丸,法名髄縁・智真。諡号円照大師・証誠大師。父は河野通広。十歳で出家して浄土宗西山派の聖達や華台に学び,信濃善光寺参籠や伊予窪寺での修業を経て,「十一不二頌」に代表される独自の宗教的悟りに達し,みずから一遍と称した。これ以降「南無阿弥陀仏,決定往生六十万人」という名号札を配り(賦算),全国各地に念仏を勧進した(遊行)ので遊行上人とよばれた。踊念仏による布教で教線は拡大し,賦算は二百五十万人,門弟は約千人に及んだという。兵庫県真光寺に廟所がある。体系的な著作はないが『一遍聖絵』や『一遍上人伝絵』が教化のようすを伝え,門弟の聞き書きを収録した『播州法語集』『一遍上人語録』などからその思想がうかがえる。
叡尊 建仁元年(一二〇一)~正応三年(一二九〇)鎌倉中期の西大寺流律宗の僧。号は思円。大和の人。はじめ醍醐寺などで真言宗を学んだが,真言の行者が戒律をおろそかにしていることに疑問を感じ,嘉禎二年(一二三六)覚盛・円晴・有厳とともに東大寺法華堂で自誓受戒をした。以後,戒律と真言密教の共存が西大寺流の特徴となる。奈良西大寺を拠点として戒律復興運動や畿内の古代寺院の復興などの勧進活動に奔走する一方,奈良坂・清水坂などで文殊信仰にもとつく非人・癩者救済を実践した。叡尊の非人救済の中心となったのは,食物,乞食の道具類を非人に施すことと,斎戒を授けることによる非人
の生活統制である。また奈良法

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