色狂いの黄昏

「忘れられないか」

 逢魔が刻、窓から差し込む消え入りそうな夕日に照らされながら小さく呟く。

 それらを発見したのは債権管理会社の女性社員だった。ある高校の男性教師と、以前その高校に通っていた少女が、近隣の子供たちが遊び場としていた廃工場で心中をしたらしく、その遺体を債権処理の査定に来ていた女性社員が見つけたのだ。

 だがこの心中で一連の事件が終わったと考えていいものなのかといえば、俺には正直そう結論付けることはできない。

 心中をしたこの二人の周囲では、幾つかの不可解な事件が発生していた。少女によって監禁暴行を受けたはずの教師がその少女と姿を消し、少女の父親が母親と無理心中、頻繁にこの廃工場で遊んでいた女の子と事件を取材していたゴシップ週間誌の記者が行方不明となり、挙句の果てに教師と少女は心中してしまった。

 彼らの周囲で起きた幾つかの事件について捜査したところ、教師と少女はこれらに直接的には係わってはいないと判明している。物的証拠など一つもなく、接触したという状況証拠の欠片すらもない。だが間接的にだが、それら全ての事件において大きな影響を及ぼしたであろうことは、まず間違いないと俺は考えている。

 心証に過ぎないといえばそうだろう。だが、教師と少女の事件に間接的ではあれ、些少なりとも関係のある者たちがこうして巻き込まれている。

 こうして二人の遺体が発見された廃工場の事務所に訪れるのは、もう何度目になるのだろうか。

 不可解が不可解なまま、何一つとして解決していない。だが、事件としてこれ以上の捜査をしても無意味だ。教師と少女の心中を中心に、それぞれが事件と不可解ながらも間接的な係わりがあったが、それを起因とする以上の確証は何一つ得られなかったからだ。

 俺に分かることがあるとすれば、彼らには教師と生徒との禁断の愛なんぞそんな安易な言葉では表現し得ないほどの強い想いがあり、選んだ結果が無残な死であれそれは美しく、魅惑的だったということだ。

「刑事さん」

 不意に声を掛けられちらへと視線を向けると、花束を抱えた女性が立ち竦んでいた。遺体を発見した債権管理会社の女性だ。会社では敏腕で通っており、同僚の男性にとっては高嶺の花らしい。

「どうも」

 事情聴取の際、彼女の目には彼らの死への明らかな憧れの色があった。その気持ちは俺にも痛いほど分かる。

 唇と身体を重ねながら、互いの舌を噛み切るという壮絶な心中であるはずなのに、二人の表情は幸せに満ちていた。喜んで死を受け入れていた。死から数日が過ぎていた為か、唇から溢れた血は既に黒く固まり腐臭すら漂わせていたというのに、二人の遺体は神秘的な美しさすら持っていた。

 そう、死体には慣れている俺ですらも、強く魅せられたのだから。

 女性は躊躇いがちに事務所へと足を踏み入れる。そして目の前のソファを見下ろす私の側に寄ると、同じようにソファを見詰めた。

「どうして、忘れられないのでしょうね」

「俺もそれが知りたい」

「とても、幸せそうでした」

「そうなのだろうか」

「不幸せだったというのですか」

「幸せなら死ぬ必要はないはずだ」

「彼女は普通に生きることができなかったでしょう。男性が彼女を本当に愛していたのだとしたら、もうこうするしかなかったのではないでしょうか」

「そうだとしても、死は終わりでしかない」

「なら、どうしてあなたは彼らの死に惹かれているのですか」

「分からないからここにいる」

 不意に、側に立つ女性の身体が小さく震えていることに気付く。彼女もまた、どうして彼らの死に惹かれているのかが分からないのだ。そして惹かれている自分が恐ろしいのだろう。

「彼らは本当に、愛し合っていたのでしょうか」

「どういう意味だ」

「本質的には、単なる依存関係ではないのでしょうか」

「正論だな。だが、もしもそうだったとしても、心中するほどの想いがあったことだけは確かだ」

「そうなのでしょうか」

「こいつらを否定したいのか」

「い、いえ、そういう訳では」

 憂いと戸惑いを浮かべながら、女性は小さく俯く。

「否定したところで仕方がないさ。まあ、気持ちは分かるがな」

 陵辱の被害者と加害者でありながらも、心中してしまった二人。常識的な感覚の持ち主であれば、理解できるほうがおかしい。

 正論や倫理には説得力の欠片もない。きっと何者も、彼らを説き伏せ心中を思い留まらせることはできなかっただろう。宗教家や哲学者が使い古した糞のような戯言にどれほどの価値があるか。

 一つだけ分かっていることがあるのだとすれば――

「理解できるはずがない。あいつらはイカれていたのだからな」

「精神的に、ですか」

「いや、愛に対して、だ」

「なら、きっと二人は幸せだったはずです」

「なぜそう思う」

「だって、愛にイカれてたのですから」

「なるほど、な」

 女性は小さく微笑んで花束をソファへと手向けた。俺は懐から煙草を取り出し咥えると火を点し、それを床に供える。

「あの世では普通に愛し合えよ、色狂いども」

「どうか、お幸せに」

 偲んでいる訳ではない。妬んでいる訳でもない。これで何かが変わる訳ではない。如何に狂っていようとも、こんなどうでもいい心中事件なんぞ、雑多で煩わしい日常に埋もれていくに違いない。

 だが少なくとも、俺は彼らを忘れはしない。いや、忘れることはできない。きっと、この女性も。

「刑事さん、これから時間ありませんか」

「非番の上に独り身だから腐るほど」

「では、お食事でもご一緒しませんか」

「俺、給料日前だから金ないぜ」

「もちろん、私が奢ります」

 それが何の気紛れなのかは分からない。だが今はこの女性の気紛れに触れたい気分だった。

 妖しく微笑む彼女の腰にそっと手を回す。彼女はそんな俺を上目遣いで見詰め、その細い指で俺の頬を撫ぜた。

「私たちも、愉しみましょうよ」

「ああ、そうだな」

 彼女と色に狂うのも、悪くはない。

 暗がりの中、しっとりと濡れた花弁に、煙草の紫煙が纏わりついていた。

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純愛乙女 秋口峻砂 @dante666

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