それは堕落か
少年はそれをただ呆然と見詰めていた――
不況の煽りを受け数年前に閉鎖されたその工場は、今では少年たちの格好の遊び場となっていた。無論、「危険だから」と大人たちはいい顔をしないが、無機質な廃墟と化した廃工場は、子供たちの好奇心を酷く煽った。
彼は、ここで遊ぶ子供たちの中で最も小柄で気が弱く、いつも他のやんちゃな少年たちの後ろに隠れているような子供だった。
普段ならここへ一人で訪れることはない。この気弱な少年にとってこの廃工場は、好奇心よりも遥かに恐怖心を煽った。少年にはどうしても、暗がりに恐ろしい何者かが潜んでいるように感じてしまう。
普段なら決してありえない、普段なら。
だが、今は恐ろしさよりも好奇心のほうが遥かに強かった。
友人の家に向かっている時だった。廃工場のフェンスを乗り越えていく男女の姿を見た。一人は眼鏡を掛けた線の細い男で、もう一人は純白い服を着た高校生くらいの少女だった。
男と女がこういう場所に訪れて何をするのかについては、如何に少年であれある程度の知識はある。そういったものに興味がなかったとは決していえないが、何よりも二人の眼の色が気になった。異様とも思えるほどに見開き、それは恐ろしいほどに爛々と輝いていた。そして何よりも強く餓えているように見えた。
フェンスを乗り越えた直後、不意に二人が視線を絡めあった。二人が餓えるほどに求めているものが何なのか、少年は気付いた。
廃工場に入った二人は、事務室として使われていた奥の部屋へと姿を消した。思わずそれを追い、事務室の窓を少しだけ開け、中を覗いて見ると、そこではこれまで少年が得た知識からは想像もつかないほどに甘く、悪臭く、何よりも強く愛に狂った世界が広がっていた。
暗闇の中、古びたソファの上で女の白く美しい身体が揺れ、濡れ、弾け、喘いでいた。愛しげに見詰める眼、だが同時にそれは、悪魔のように口元を歪めながら、男の首を強く締め上げている。苦悶と快楽の狭間で男が恍惚としている。
それは少年の価値観と倫理観を容易に破壊した。喘ぐ女に、胸の奥に秘めた初恋の少女の姿が重なった。天真爛漫な笑顔が好きだった。仲の良い友達にすら教えたことはない。脳裏で初恋の少女が喘いでいる。それはどす黒く悪臭く駄菓子のように甘い香りを放ちながら、少年の心を満たし腐らせていく。
何かに操られているかのように、少年の手が股間へと伸びる。そしてそして膨張したそれをまさぐり始めた。
意識に靄が掛かってしまっている。少年はただ、二人の痴態を夢中で覗き続けた。
「せんせぇ、ごめんね、ごめんね」
「愛してる、愛してるよ」
時折二人から漏れる言葉は重なっていないようでありながら、強く求め合い重なっているのが分かった。そして、もう二人は止まることができないこともまた、本能的に理解することができた。どれだけ強く求め合えば、これほどまでに激しく愛し合うことができるのだろうか。
不意に、女の頬を涙が伝った。男はその頬に優しく触れ、哀しげに微笑んでみせた。そして小さく頷くと、女と唇を重ねた。上り詰めていく二人を見詰めながら、少年もまた初めての快楽に身をゆだねた。
二人と共に果てた後、心に訪れた強い背徳感を前に、少年は強い後悔を抱いていた。だが同時に、これまで得たことのない強い快楽に触れた。それを忘れ去ることなど、決してできはしないだろう。
あれは何だったのだろうか。
あの二人の行為は少なくとも少年が知っているそれとは全く違った。だが同時に、あの二人の行為からは、互いを強く愛し求め合っていることが伝わってきてた。
例えばあの二人のあの行為が普通ではなかったとしても、それを否定してはならないのではないかと少年は思った。理由は分からない。分かるはずもない。少年のああいう行為についての知識は、保健体育の授業で得たものくらいでしかないのだから。
二人は果てた後、強く抱きしめ合いながら唇を重ねていた。不意にその身体が大きく痙攣したかと思う、二人はとても幸せそうにそのままソファへと倒れてしまった。きっと疲れ果てて眠ってしまったのだろうと思った。
何も考えられなくなっていた。ただ、あの二人の愛の営みが脳裏に焼きついていて、どうしても離れなかった。
「あれれ、なにしてるの」
廃工場のフェンスを乗り越えて裏道に戻った少年に、天真爛漫な笑顔の少女が声を掛けた。
「工場に行ってた」
「えっ、一人で行っても面白くないでしょ」
少年の心の中で、強い劣情が渦を巻いていた。この何も知らない天真爛漫な笑顔を、あの二人のような行為で快楽と苦悶に歪めてみたい。
「いいものを見つけたんだ、僕」
「えっ、いいものってなによ、教えて」
「誰にも内緒にしてくれるんなら、教えてあげる」
「うん、内緒にする。だから教えてよ」
好奇心に瞳を輝かせる少女の手を引き、少年は再び廃工場のフェンスを乗り越えた。そして口元を歪めると、暗闇の中へと少女を誘う。
少年が見たあれは純愛だったのか、それとも堕落だったのか。少なくとも少年はその答えを知っていた。
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