愛の焔

 唯一の救いは、結果としてあれと彼とが相思相愛であったことなのだろうか。その自分の愚かな考えが滑稽で、私は自嘲気味に口元を歪めた。

 私と妻はどこであれの教育を間違ったのだろうか。私は中堅とはいえ証券会社に勤めており、愛しい妻も事務員の仕事をしているので収入はそれなりにある。郊外にとはいえ家も持っている。何不自由なく育ててきたはずだ。それなのに、あれは中学生になった頃から反抗的になり、学校も休みがちになった。叱り付けようとも宥めすかそうとも全く聞く耳を持たず、何とか入った高校も底辺に近く、親戚に訊かれて説明する際には恥ずかしい思いをしたものだった。

 ただ、そんな高校でも学校生活は楽しいものなのか、入学した頃から少しずつ落ち着いてきたように思えた。真面目に学校へと通うようになり、妻と安堵の溜息を漏らしたものだった。

 だが外見のそれとは別に、いつの間にか、自室であれは奇行を繰り返すようになっていた。リストカットをし血塗れになりながら延々と自慰行為を繰り返す。時に数時間にも及ぶそれは、父親である私から見ても異様としか表現しようのない光景だった。ひと月ほどもすれば、左手首には無数の切創が刻まれていた。毎夜毎夜繰り返されるそれに妻までもノイローゼになり、苦しむ妻の姿を見かねた私は、あれを知り合いの心療内科へと連れて行った。うつ病と診断され、あれは何種類かの薬を飲むようになった。

 だが奇行はエスカレートしていくばかりだった。処方箋を大量に飲んだ上でリストカット、そして血塗れになりながらの自慰行為。強引に止めようとすれば、甲高い悲鳴を上げながら、手に握ったカミソリを振り回す。その時、あれの眼は激しい劣情の色に混濁しており、私にはもう狂っているとしか思えなかった。

 手の付けようがなかった。

 だが二年に進級した頃から、少しずつその奇行が治まっていった。その頃の私と妻にはその理由なんて想像もつかなかった。部屋を覗くと、嬉しそうに文庫本を読んでいるではないか。読書なんてしなかったはずのに、何の心境の変化なのかと戸惑ったものの、どうかこのまま平穏を取り戻せますようにと、信じてもいない神に祈ったものだった。

 そんなある日、私はふとあれがどんな本を読んでいたのかが気になった。あれの部屋のローテーブルに置いてあったのは、夢野久作のドクラ・マグラの上巻だった。私は思わず息を呑み、言葉を失った。作品としての出来や優劣は別として、今のあれにとって精神衛生上よい作品とはとても思えなかったからだ。

 だが、やっと取り戻しつつある妻との平穏を壊したくなかった私は、その不安を言葉にはせず喉の奥へと呑み込んだ。あれの奇行は今、治まりつつある。きっとこのまま治まる。それが答えなのだと思い込もうとした。

 それは現実から目を背けていただけであり、その数日後、あれは私と妻に破滅的な結果をもたらした。

 ある雨の日、あれは唐突に姿を消した。私と妻は高校の担任に連絡し、心当たりを捜し回ったが、あれを見つけることはできなかった。それも当然なのかもしれない。私はあれが反抗し始めた頃から、あれを叱り宥めることはしたが、あれの内面に触れようとはしなかったのだから。

 信じてもいない神様に願ったのが間違いだったのか。数日後、担任から連絡を受けて駆けつけた病院で事情を聞き、私と妻は絶句してした。

 あれは新任の教師に恋をし、焦がれ、色狂い、もう数年来使われていなかった図書室に教師を拘束監禁し、数日間に亘って強姦したというのだ。助け出された時、あまりにも激しすぎた行為の前に、教師の身体は衰弱し意識は激しく混濁しており、まるで許しを請うように「愛している」と呟き続けていたらしい。

 彼がある事情から天涯孤独の身だったことは、私と妻にとっては不幸中の幸いだったように感じた。

 娘には「彼はお前を愛しているが、このままでは彼が死んでしまう」と言い包めて、隔離病棟のある大きな精神病院へと隔離入院させた。

 私にも世間体というものがある。これが表面化すれば、面子の全てを失ってしまう。それを恐れた。いや、それよりもあれをこのまま野放しにすれば、愛しい妻がまた苦しむことになるだろう。それだけは避けたかった。

 幸いにも被害者の教師には数日間の記憶がなく、彼には謝罪をした上で十分な額の迷惑金を支払うつもりでいたが、教師は金は受け取らなかった。

「あなた、もう警察に届けるしかないのではありませんか」

「しかし、それでは」

 あれが彼と姿を消してより数日。妻は憔悴しきっている。あれを隔離入院させてやっと取り戻したはずの平穏が、たった半年であっさりと崩れさってしまった。

 もうどれくらいの時間をこのダイニングですごしてのだろうか。コーヒーは当の昔に冷め、妻が剥いてくれた林檎も酷く変色してしまっていた。

 その時、一体どういう状況だったのかは分からないが、あれは拘束着を解き、中年の看護士の舌を噛み切り、病室の鍵を奪い病院を逃げ出したという。そして夕刻の学校に現れ、被害者であるはずの彼と共に姿を消した。彼の車で学校から出て行くところを、以前のクラスメイトが見ていた。

 中年の看護士は一命を取り留めたことから、担当の医師に頭を下げ金を積み、病院には何とか内々に処理してもらった。だが、あれが野放しになっていることに違いはない。

「ど、どうすれば」

 こんなことが表沙汰になれば、妻は絶望し、社会的な地位の全てを失うことになるだろう。

「あなたは、いつまで逃げるつもりなのですか」

「な、何を言うか。私はお前との生活を守るため必死に」

「娘のためとは言ってくださらないのですね」

「お前は何を」

「あなたは、娘について何を知っていらっしゃいますか」

「どういう意味だ」

「私も偉そうなことは言えません。ずっと目を背けてましたから。でも、知らないから知る必要はないなんて、親として無責任すぎるのではありませんか」

「お前はこの生活を失ってもいい、そういうのか。あれの奇行のために、これまでお前と築いてきたもの全てを捨てろと」

「あの子をあれなんて呼ばないで」

「私はただ、お前との生活を」

「もういい加減にしてっ」

 私の頬をあの貞淑であるはずの妻が強く引っ叩いた。妻の目には強い怒りと激しい失望の色が浮かんでいた。

 その瞬間、私の中で何かか切れ、崩れ落ちた。必死になって守ろうとしてきた目の前のそれに抱いてきた想いが、実は無意味で無価値な虚実と虚構に過ぎなかったのではないかという疑念を私の心に湧き上がらせた。

「ひっ」

 何かを意識した訳ではない。気付いた時にはそれの顔面に拳を振り下ろしていた。それは悲鳴を上げて倒れこむ。私はこれまでそれに手を上げたことはなかった。だからなのか、それは妙に怯えた目で私を見上げていた。

 意識が混濁していく。

 まるで何かに操られるかのように、私はただひたすらにそれを殴り続けた。どれだけそうしていたのかは分からない。何度も小さな悲鳴を漏らしていたようにも思う。視線を向けると、それは目を見開いたままぐったりとしていた。

 私は不意に結論に辿り着く。守るべきものであるはずのそれが動かなくなったというのに、どうして私は動いているのだろうか。

 あれがどうなろうがもう知ったことではない。私にはもうどうでもよいことだ。あれが彼を犯そうが壊そうが、そしてその果てに殺そうが。

 私はガレージに行き、キャンプ道具の中からジェル状の着火剤を取り出しダイニングに戻った。着火剤を横たわるそれと自分の身体に満遍なく丁寧に塗る。そして愛しかったはずのそれに火を点け、自らもその火に触れた。一気に全身へと火は広がり、猛烈な熱気と激しい痛みの中で私は悟った。

 狂愛に堕ちたあれは間違いなく、私の娘だったのだと。

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