月村茉莉つきむらまつりが頬に当たる生温い風で目を覚ましたのは、夜も更けてしばらくたった頃だった。


「お、目が覚めたか」

 壱子が茉莉に顔を近付けて言う。

「ここは……?」

 茉莉は自分が後ろ手に縛られていることに気が付いた。なぜ自分が縛られているのが理解できない。


 戸惑う茉莉を尻目に、壱子が再び口を開いた。

「手荒な事をしてしまって済まぬな。ここはお主が気を失った蔵前から、東へ数里行った山の中じゃ。暴れられては困るので縛らせてもらった」

「なぜ、あなたが私を縛るのですか……?」

 茉莉の記憶では、あの時皇女を保護したところまでは覚えている。が、そこからプッツリと記憶が無くなっていた。


「皇女様、私はあなたを助けに来たのです」

「わかっておるよ」

「では何故――」

「私は自分の意思で王宮を抜け、ここまで来たのだ。だから茉莉、私を連れ戻そうとするお主に従うわけには行かぬ。無論、私がここにいると言うことを口外させることも喜ばしいことではない」

「そんなはずは……殿下は何者かに連れ去られたと聞いております。もしや、その者に脅迫されておられるのですか!?」

「連れ去られたと言うのは誤りじゃ。今言った通りここに来たのは私の意志で――」

 壱子は、傍でいびきをかいて寝入っている平間を指差す。

「あの男は私に頼まれて一緒に旅をしておる。脅されてもおらぬし、洗脳なぞもされておらぬ」


「そんな……何故そのようなことを」

「私にも色々あるのだ」

「わかりませぬ」

「わからなくとも良い。さて、ここから交渉じゃ。私としてもお主にはあまり手荒なことはしたくない。だが――」

 壱子の声色が変わる。


「もしお主がなお私を連れ戻そうと言うのならただで帰すわけには行かぬし、仮にそのせいで私が王宮へ戻ることになった場合、私はお主が、そこで寝ておる男と共謀し私をさらった末、連れ戻したという功績を挙げようとした、と虚言を上申じょうしんし、お主とそこの哀れな男に死を授ける」

 その声の冷たさに茉莉の背筋に寒気が走る。夜の闇に紛れて壱子の表情は良く見えなかった。


「そのようなむごいことを皇女様がなさるはずが……」

「脅しだと思うかの?」

「……」

 茉莉にはそうは思えなかった。そう感じさせる雰囲気をこの皇女は持っている。


 無言の茉莉を気にすることなく、壱子が続ける。

「しかし、お主が私と会ったことを一切他言せずにしばらくその辺りで油を売って『皇女は見つかりませんでした』と報告すると言うのであれば、私はその縄を解き、お主を無傷で解き放つ。無辜むこの民を悪戯に死に追いやる趣味は私にも無い。しかもお主は私付きの青嵐の者じゃから、なおさら死なせたくは無い。どうじゃろう、大人しく私に従ってはくれぬか」

「私は――」


 その時、草葉のこすれる音が壱子の耳を突いた。

「獣か……?」

 壱子が立ち上がり、辺りを見回す。風ではない。何かを踏みしめる音だ。

 物音は四方から聞こえていた。囲まれている。

皇都に近いこの辺りは、少なくなったとは言えまだ狼などの肉食獣の被害が出ている。

 しかし――


「皇女様! これは獣ではありません!」

 茉莉が叫んだ。

「これは、この足音は――人間です!」

 言うと同時に、茂みの影から複数の人影が姿を現す。

 いずれも服装こそ町人それを纏っているが、顔の下半分を布で隠していた。


 壱子が口を開く。

「知り合いか?」

「違います」

「狙いは何じゃと思う」

「恐らくその男でも、私でもありません」

「と言うことは、やはりこの皇女であろうな」


 人影は少しずつ囲みを小さくして来ている。そして、抜刀。

「まずいのう……」

 少女を捕らえようとする者が刀を抜く事は無い。となると、狙われているのは壱子の身柄ではなく、彼女の命だ。


壱子は平間の背を思い切り蹴り上げる。

「起きるのじゃ平間、逃げるぞ。追っ手じゃ」

まことでありますか……」

「真じゃ。それも少々まずい状況になっておる。茉莉、お主はどことでも逃げるが良い。女の身でも、近衛ならばこのような者たちまず遅れは取らぬじゃろ」

 茉莉を縛っていた縄が壱子によって切られる。

「剣は奪っておらぬ。では、達者でな」

「殿下、参りましょう!」

 平間の声。かがんでこちらに背を向けている。

 壱子が平間の背に飛び乗った。


「平間、お主の脚の見せ所じゃ! 抜けられるか?」

「抜ける抜けられぬではありません。抜けて見せます!」

 敵は五人。既に囲みもかなり小さくなり、いつ斬り掛って来てもおかしくない。

 平間は、脚に力を込めた。

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八咫の皇女は奇病を食む(やたのこうじょはきびょうをはむ) 八山たかを。 @8yama_tko

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