第13話 巣立ち
また、一週間が始まる。
まるで、何事もなかったかのように。
それでも、わたしには見るものすべてが新鮮で、貴重なものに思えた。
佐野が教室に入り、机に荷物を置くと、前の席の藤森千佳が、小さな声で、おはようと言った。
放課後、例によって佐野は図書室へ向かおうとしていた。
どうせ時間をつぶすなら、こんなに天気がいい日くらい、屋上で日向ぼっこでもすればいいのに、と思う。
すると、その声が聞こえたかのように、佐野が「そうだな」と呟いたので、わたしはびっくりした。
風が吹きぬける無人の屋上は、佐野も気に入ったらしく、目を細めて手すりに寄りかかっていた。
わたしのことに気づいていると言った佐野は、やはり無言のままで、いつもと変わった様子には見えない。さっき、わたしの声が伝わったように思えたのも、気のせいだったのかもしれない。
「佐野君」
背後からかけられた声に驚き、わたしと佐野は振り返った。
屋上の出入り口で、藤森千佳が──、千佳ちゃんが、伏し目がちにもじもじしながら立っていた。
「やあ、藤森さん。久しぶりだね、っていうべきかな?」
佐野が、ぎこちなく笑みを浮かべながら応える。
「──憶えていてくれたの? 私のこと……」
「正直に言うと、つい最近まで、同じ小学校に行っていた、あの藤森さんだとは気づかなかった」
それどころか、蜃気楼だとか幽霊などと思っていたのだ。
わたしですら、あの千佳ちゃんが目の前にいるとは、とても考え付かなかった。髪の毛をばっさりと短く切り、その陰影のある面持ちは、かつての陽気で天真爛漫だった彼女とは、まるで似ても似つかなかった。
「海に落ちて……、かろうじて命は助かったけど、頭に大怪我をして、……その、ずっと入院していたから……。学校も転校して、高校だって、昔の知り合いがいないような所を受けたのに、まさか佐野君と会うとは思ってもみなかった」
わたしの葬式の時も、千佳ちゃんは入院中で、だからあの事件から五年間、彼女とは一度も会っていなかった。わたしも、とても彼女の顔は見れないと思っていた。
「あの事件を忘れよう、もう一度生まれ変わるんだと、何度も自分に言い聞かせた。でも、それは逃げているだけだった。高校で佐野君に会って、なるべく顔を合わせないようにしていたけど、それは間違いなんだって気づいたの」
千佳ちゃんは笑った。それは間違いなく、大人になり、そしてさらに綺麗になった、千佳ちゃんの顔だった。
麻生の手紙では、わたしは小さな女の子だと書かれていた。だとしたら、こうして高校生になった、佐野と千佳ちゃんの前にいる自分が、少し恥ずかしくて悲しかった。
いつまでも小学生のわたしでは、二人のそばには釣り合わない。
「心臓が悪かったんだっけ? そっちはもうよくなったの?」
「不思議とね、佐野君に会って、昔のことから逃げないと決心したら、びっくりするほど調子がよくなったんだ。だから、ここのところ、毎日、学校にも来ているしね」
そんなことはあり得ないと思いつつも、わたしは柚木の力のおかげかもしれないと考えていた。柚木は、自分の果たせなかったこの世界での夢を、千佳ちゃんに託して逝ったのだ。
「佐野君もつらかったでしょう。あんなところを目撃して誰にも言えずにいて」
千佳ちゃんは、手すりに身を寄せると、風に乱れる髪をそっと押さえつける。細くて、綺麗な指だった。
「私、どう思えばいいのか、少しも分からなかった。私は、あの子に殺されそうになって、でも、私は助かって、逆にあの子が死んじゃった」
崖から落ちる前、千佳ちゃんは佐野の姿を目撃していたのだ。だから、事件から逃げるように転校していった。もちろん、わたしが突き落としたことなど、誰にも言わずに。
千佳ちゃんも、わたしと同じだったんだ、と思った。
ただただ怖かった。なんで、こんなことが起きてしまうんだろうと、それだけがただ怖くてたまらなかった。
「君を突き落とした、あの子のことを恨んでないの?」
佐野の言葉に、ドキリとする。
千佳ちゃんはちょっと首を傾げ、自分の言葉を、一言一言、確認するように答えた。
「今はよく分かるんだ。私、自分が卑怯者になりたくない、その一心であの子に無理をさせていたんだって」
千佳ちゃんがうつむく。その声が、風に消えそうになる。
「あの子は、本当に私のことを思ってくれていたのに。私に嫌われるようなことをするのがどんなに辛かったか……。あの子に、あんな思いをさせたことが悔やまれてしょうがないの」
彼女の目から涙が落ちて、足元のコンクリートにポツポツとその痕がついた。
「いつも考えるの。一人の誕生日の時、本当だったらあの子がいたのにって。転校してクラスに馴染めない時、本当だったらあの子といっしょに登下校できたのにって。そればっかり。本当に、思うのは毎日そればっかり……」
ごめんね。
わたしは言って、彼女をゆっくりと抱きしめた。もちろん、わたしには身体がないから、形ばかりの行為だ。
その時、千佳ちゃんは、はっとした表情で泣き顔を上げた。不思議そうな様子で自分の身体を見ている。
突き落としたりしてごめんね。
怖い思いをさせてごめんね。
一人にしてごめんね──。
それから、今でもわたしと友達でいてくれてありがとう──。
生きていればよかった。
わたしは、今になって本当にそう思った。
千佳ちゃんは、赤い目をこすりながら照れくさそうに笑った。
「変なの。なんだか佐野君に話していたら、あの子といっしょにいるような気がしてきた……」
佐野は、何か言いたげな表情で彼女を見ていたが、ただ「……帰ろうか」とだけ、ぽつりと呟いた。
千佳ちゃんは頷き、佐野の横を並んで歩く。
「あ、そうだ」
校門の前で、千佳ちゃんが思い出したようにカバンを開けた。
「あ、あの、私が病気で休んでいる間、ノートを取っていてくれたの佐野君でしょう?」
そう言って、佐野の名前が入ったシャーペンを取り出して見せる。佐野は、とたんにうんざりしたような顔になった。
「その、何と言うか、どうもありがとう。でも、意外。佐野君って、見た目と違って、女の子みたいな綺麗な字を書くんだね」
佐野は、今までに見た中でも最上級に困ったような顔をした。
わたしも麻生と同じで、彼のこの表情を見るのが大好きだった。
「うーん、話せば長くなるんだけど」
頭をかきながら、佐野は歩き始めた。早足の彼に並ぼうと、千佳ちゃんは小走りになる。
佐野は、話し始めるだろう。彼らしく、たどたどしく、不器用に、麻生や柚木の物語を。
わたしは、もうそれを聞く必要がない。
いつ以来のことになるだろう、わたしは佐野を追うことをやめ、その場に立ち止まった。
校門を出た二人の姿が、どんどんと小さくなる。
佐野はちょっと足を止めてわたしの方を見た。
そして、慌てたような、意外そうな顔をした。
わたしは彼に背を向け、歩き始める。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
もし、自分が高校生になったら、どんな生活が送れただろう。
それは、さほど難しい想像ではなかった。
病弱だけど可愛らしいクラスメイトや、口うるさいけど情に厚い友達がいる。そして、本気でケンカができる親友もいるし、情けなさそうな困った顔が愛嬌のある幼なじみがいる。
みんなで海へ行き、時間がたつのも忘れてはしゃぎまわる。そして、夕陽に包まれながらいつまでも馬鹿な話をして笑い合うのだ。
麻生と柚木の二人は、無事逝けただろうか。
もし、わたしも同じ場所に行けたなら、みんなでこの物語を思い出そう。
そう考えると胸が弾んだ。
わたしの足が、軽くなる。
目を開けると、空が近かった。
最後にもう一度だけ。
わたしが二人の姿を眼下に求めると、佐野と千佳ちゃんは、何かを探すように空を見上げていた。
いつまでも、わたしのことを見てくれていた。
──了──
蜃気楼の教室 相馬冬 @soumatou
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