鬼籍は御免
吉水ガリ
第1話
鬼を見るのは初めてではなかった。だが、その求婚を目にしたのは初めてだった。
一連の出来事を前にして、糸江由井子はただただ呆気にとられた傍観者だった。
「今度は勝つ!」
「そうなったらいいね」
拳を握り意気込む由井子に対し、浦田咲は微笑みながらそう答えた。
まるで子供の相手をする母親のような、余裕に満ちた笑み。小学校からの付き合いだからかれこれ十年、由井子は咲のこの表情を何度となく目にしてきた。
そしてその度、
「その余裕さに腹が立つって言ってるじゃん、いつも!」
「ごめんねぇ」
謝りはするが、咲がその表情を変えることはない。それもいつものこと。
だから由井子は文句を言うのを諦め、口を閉じた。
中間試験の結果発表があった日の、その帰り道。二人は住宅街を並んで歩いていた。由井子の順位は学年四位。対する咲の順位は学年一位。咲をライバル視している由井子にとって、この結果は残念極まりないものだった。
しかし、ライバルといっても一方通行。由井子の敗北は、もう何度目となるかもわからない。試験に限らず、何においても由井子は咲に勝ったためしがない。
「あたしが一位になるのは無理だと思ってるんでしょ」
「そんなことないよ。でも、由井子だって四位だったんだからそんなに悔しがることないんじゃないかなぁ、とは思ってる」
「あんたに勝たなきゃ意味ないの!」
「勝っても何も起きないよー」
「でも一番じゃなければダメでしょ。意味ないでしょ」
「そんなことはないでしょ」
鼻息を荒くする由井子に、咲が苦笑を漏らした。
しかし、由井子は真剣な顔を変えることなく言う。
「いや、そんなことあるね。いい? 研究者っていうのは、一番じゃなきゃ成果を上げたことにはならないの。他の誰かに劣っていたり同じものがあったりすれば、それはもう何もしてないのと同じ! そんな世界なの!」
「なんで研究者?」
咲が小首を傾げる。
「延長線上だから。――スポーツに打ち込んでいれば、将来はプロの選手やオリンピックを目指す。音楽だったら歌手に作曲家に演奏家。絵だったら画家。勉強が得意だったら、その先にあるのは研究者でしょ」
しばしの間。
のち、
「……そう?」
咲は少しばかり困惑している。
「そうだって。そういうもんだってば。あんたは何でもできるから、そこん所がぼんやりしてるだけ! 普通はそうなる!」
運動は中の下、芸術系のセンスは皆無、容姿も十人並みで人からはよく目つきが悪いと指摘が入る。人に誇れる趣味も特技も持たない由井子にとって、唯一得意としているのが、勉強である。由井子の取り柄はそれしかないといっても過言ではない。
そして咲も、最も得意とするのは勉強である。しかし由井子と違うのは、勉強のみならず他のこともそつなくこなすことができる点。なおかつ容姿にも恵まれ、穏やかで人当たりも良く、同年代の人間にも目上の者にも好かれやすい。勉強という一点で上を行くだけでは飽き足らず、すべての点で由井子を上回る力を持っているのである。
「あたしが得意なのは勉強でしょ。だから目指すべき道のずーっと先にあるのは研究者ってわけ。そしてそこに行きつくためには、あんたなんかに負けてちゃ駄目ってこと」
傍から見ればライバルというのもおこがましい能力差であるが、由井子は頑なに咲を超えることを目標としている。
「わかった?」
熱弁を振るい自分の正しさを主張する由井子。対する咲は、ああ、と納得した声を上げ、
「由井子は、研究者になるために日夜努力してるってことか」
満面の笑みでそう言った。
「いや……そういうわけでもないんだけど」
由井子は口ごもる。
「違うの? 学業に専念して、未来の研究者目指してまずは学年一位を目標に邁進中。今はまだ力が及ばないけれど、研究者としての信念、心構え、精神はトップクラスのものを持ち続けています。ってことじゃないの?」
「違う! 全然違う!」
由井子は手をぶんぶんと振り、否定した。咲は、えー、と不満げな声を漏らす。
「由井子にやっと将来の夢ができたと思ったのに……」
「保護者みたいな上から目線はやめんか」
「でもやっぱり心配だしね」
咲は頬に手をあて、悩ましげな顔をする。
「人の前に自分でしょ。あんたはどうなの? 何か決まってるの?」
咲は恵まれた人間だ。いろいろな才能を持っている。いくらでも選択肢があるからさぞかし悩んでいることだろう。
由井子の問いに、咲はにんまりとした笑顔で答えた。
「もちろん決まってるよ」
「え?」
はっきりとした、明確な答えだった。それは由井子の予想とは違うものだ。
「意外だわ。何か一つに絞れずに目移りしてるかと思ってた」
「結構前から決まってたよ。小さな頃から思ってはいたんだけど、いまひとつ決心できなくて。でも、よーく考えてみたらやっぱりこれしかないなーってなって」
由井子は、へー、と呆けた声を返した。
予想とは違ったものの不思議なことではない。しっかり者で何でもできる咲であれば自分の人生計画ぐらい綿密に決めていてもおかしくはない。むしろそれが当然とも言える。
「それで、その夢ってなに?」
「それはね――」
咲が口を開いたのと同時、不意に別の声が割って入った。
「申し訳ありません」
それは野太く、張りのある声だった。太鼓を打ち鳴らした時のような、低く響きのあるもの。そんな声の持ち主の姿は、由井子と咲には容易に想像できた。
振り返った二人の視線の先、そこに立つのは、ひとりの鬼だった。赤黒い肌に、筋肉に覆われた逞しい腕、額から伸びているのは指の長さ程の角。着流し姿の街中でよく見かける、ごく一般的な鬼の姿である。
「なんですか?」
由井子は、つっけんどんにそう訊いた。
鬼を見るのは別段珍しくもないが、声をかけられるとなると話は別だ。鬼の知り合いや親戚のいない由井子にとって、そんなことは日常的な出来事ではない。
「突然失礼いたします」
そう言って、鬼は恭しく頭を下げた。
由井子は鬼から視線を外さずに、咲は深々と、それぞれ頭を下げ返す。
「浦田咲さん、本日はあなたに御用があって参りました」
鬼はまっすぐに咲を見た。
由井子は、値踏みするように鬼の身体に視線を這わせた。ふと、その腰に目が留まる。そこにあるのは一振りの刀だった。鬼が刀を帯び、見ず知らずの十代女子に声をかける。この状況に、由井子はこれから何が起きるかの予想がついた。
ちらりと咲に目を向ければ、咲も刀の存在には気付いている様子である。おそらく由井子と同様の予想が頭の中にできているはずだ。
そんな二人の様子に気付いているのかどうか、鬼は口を開いた。
「単刀直入に申し上げます」
咲の顔から視線を外すことなく、その目を見つめ、
「私と結婚してください!」
辺りに響く、よく通る声でそう言った。
その発言は由井子の想像通りのもの。そして、咲にとってもそうだっただろう。その証拠に、咲は鬼の言葉に驚くことも困惑することもなく、毅然とした態度で、
「はい! 喜んで!」
満面の笑みを浮かべて答えた。
「えぇッ!?」
由井子が思わず声をあげたのと、鬼の身体が雷に打たれたようにびくりと震えたのはほぼ同時だった。鬼の目は目一杯に見開かれ、その口は僅かに震えていた。
しかしそれも一瞬のことで、鬼はすぐに表情を引き締めた。
そして、再度恭しく頭を下げ、
「ありがとうございます」
同時に、その右手が動いた。頭を上げながら、刀の束に手が伸びる。
「では、参ります」
束をしっかりと握り、いつでも抜ける状態になる。
咲は小さく頭を下げる。
「よろしくお願いします」
言って、頭を上げる。鬼の顔をまっすぐに見るその表情は、真剣そのものだった。しかし、それでもその口元には、由井子が見慣れたいつもの笑みがうっすらと浮かんでいた。
鬼が動く。
一つ大きく息を吐き、
「――――ッ!」
刀を抜く。と同時に、真っ直ぐ前へと突き出す。
刃が、咲の胸を貫いた。一瞬の間を置き、咲の口から鮮血が零れる。
由井子はその様子を、声を上げることもなくただただ見ていた。
その日、浦田咲は鬼籍に入った。
由井子は一週間前と同じ帰り道を、ひとり歩いていた。
通りを抜け、住宅地に入る。その一角の公園の前を通りかかったとき、不意に由井子を呼ぶ声がした。
「由井子ー、おかえりなさーい」
足を止め、声がした公園の中に顔を向ける。
見れば、入口から向かって正面に据えられたベンチに、ひとりの老婆が座っている。それはよくよく見知った顔。由井子の祖母の糸江タミだった。
にこにこと笑い、由井子に向かって手を振っている。その周りには数羽の鳩が集まっていた。
由井子は軽く手を上げ、力ない笑みを浮かべた顔で祖母のもとに駆け寄った。
「ただいま」
「あら、まだ機嫌悪いのね」
いきなりのタミの言葉に、由井子は沈黙を返した。
取り繕った笑顔を浮かべてみても、身近な人間には内面が見透かされてしまうものだ。
タミは由井子にとって、母方の祖母にあたる。由井子が生まれたのとほぼ同じ頃に母方の祖父が亡くなり、タミは娘夫婦と一緒に暮らすことになった。由井子にとっては生まれてからずっとそばにいる人間のひとりである。年がら年中顔を合わせていれば、自分のことなど手に取るようにわかるのだろう。
「いや、こんなもんだよ。毎日見てるから知ってるでしょ。目つきが悪いからそう見えるだけだって」
「そんなことはないでしょ。いつもの由井子は顔にも声にももっと張りがあるもの。今とは全然違う。ここ一週間だけよ、そんな感じなのは」
タミの言葉に、由井子は反応を返さない。ただ黙ってタミの隣にと腰を下ろした。
由井子は、周囲にちらりと目をやる。
「また鳩に餌やり?」
ベンチの周囲には、タミを取り囲むようにして鳩が群がっている。そしてタミの手には小袋に入った大豆。
「そう、日向ぼっこ兼餌やり。日課だからね」
言いながら大豆を一粒摘み、足元に落とす。地面に落ちて転がる大豆に、ちょこちょことした足取りで鳩たちが寄ってくる。その頼りない足取りとは裏腹に、大豆が射程圏内に入るや否や猛烈な勢いで一心不乱に啄み始める。餌付けされている鳩とはいえ、野生は野生。大豆を奪い合う鳩たちの姿は平和の象徴としての姿とは若干の齟齬があるように見えた。
「で、話を戻すとして。やっぱりショック?」
激しい鳩の動きを見て複雑な表情を浮かべている由井子に、タミが問いかける。由井子の顔を覗き込むように、やや前かがみになりながら。
「なにが?」
棘のある言い方を自覚しながら、由井子はタミの方を見ることなく言った。
「咲ちゃんが鬼籍に入ったこと」
タミはぼかすこともなく、単刀直入にそう言った。
浦田咲はもう鬼籍に入った。つまり、鬼の嫁になったのだ。
鬼にも人間と等しくあらゆる権利が認められ、人間と同じように日常生活を送っているこの現代社会。かつては人間と争い、一時は迫害もされていたという彼らであるが、それもとうに昔の話。現在では保護の名目で国から職の斡旋や金銭の支給もなされており、鬼であるというだけで、一般的な人間よりは恵まれた生活を送ることができる世の中である。
そしてそんな現代で鬼と人間の婚姻関係がないわけではない。人間と比較すれば鬼の絶対数が少ないため、婚姻はごくごく一般的に見受けられるものとまでは言えないが、驚くほどの珍事でも異常事態というわけでもない。当人同士が納得していれば何ら問題のないことである。近頃では、恒久的な資金援助などの優遇っぷりから、鬼籍に入って障害安泰の生活を夢見る若者も増えている。
「別にショックってわけじゃないよ」
「でも、それが原因なんでしょ? 咲ちゃんがいなくなって寂しくて」
「違う、そうじゃない」
由井子は、不貞腐れた声でそう言った。。
一週間前のあの日以来、由井子の機嫌はよろしくない。それは事実である。タミに言い当てられるまでもなく、傍から見ればそれはありありとわかるだろう。しかしそれは、咲を失った悲しみや寂しさから来ているものではない。そもそも咲は嫁に行っただけで、鬼そのものに生まれ変わったわけでも二度と会えないわけでもない。由井子が寂しがる理由などないのだ。
そもそも、由井子が感じているのは寂しさではない。はっきりとした形を持って、由井子の心の中に沸き上がっているこの感情、それは自覚できている。
「あたしは怒ってるの!」
由井子はきっぱりとそう言った。
「あの馬鹿にむかっ腹が立ってるの! 文句の一つも言ってやりたいぐらい!」
ぐぐっと右の拳を握りしめる。
タミは、えーっと、と呟き、
「な、なんで?」
戸惑いながらそう訊いた。孫娘のこの反応は予想していなかったらしい。
「鬼籍に入ったから!」
由井子はタミに向き直り、そう言った。
「鬼の嫁になんてなったから! だからあたしは怒ってるの!」
これまでに溜まった鬱憤を晴らそうとでもするように、由井子は言葉をぶちまける。
「あいつは何でもできちゃうスーパー女なの。それはばあちゃんも当然知ってるよね」
タミは無言でこくりと頷いた。
「勉強ができるのはもちろん、身体を動かすのも得意でおまけに歌もうまいし絵もうまい。しかもそれが小さな頃限定じゃなく、高校生になった今でも高水準を保ってる。それに専念してる人と比べれば劣るかもしれないけど、それでも十分すぎるほどの能力がある。つまり、才能に溢れてる!」
由井子の声はどんどん熱を帯びていく。
「そんな才能の塊系女子のあいつが、あろうことか鬼の嫁になるなんて――そんなの許せないでしょ!」
「なんで?」
タミは心底不思議そうにそう訊いた。
由井子はその問いに目を見開き、返す刀で言葉を作る。
「勿体ないでしょ! それだけの才能に恵まれていて、選択したのが鬼の嫁って! 主婦って! 末は博士か大臣かって奴がだよ?」
「古い……」
「あいつには、もっとやるべきことがあるんじゃないかってこと!」
「でもそれは当人の勝手でしょ? 自分がどうするかなんて、自分で選ぶことでしょうよ」
「駄目だよそれじゃ!」
「なんで?」
「あれだけの才能――」
一転、由井子はトーンを落とし、
「生かさないのは世間が許さないね」
神妙な面持ちでそう言った。そして、堂々たるしたり顔。
しかしタミはそんな由井子の言葉に感心するでもなく、一声唸る。そして疑問の言葉を口にした。
「本当にそう思ってる?」
その問いかけに、由井子は怪訝な顔を返した。
「そんな理屈は由井子らしくないし、それらしい大義名分を並べ立てただけじゃない? 不機嫌な理由はそんなことじゃないでしょ。もっと正直な気持ちがあるんじゃないの?」
タミの問いかけは、すでに答えがわかっているような、そんな風な響きを持っていた。
由井子は黙ったまま視線を明後日の方向に向ける。
「言いづらいのなら、代わりに言ってあげる」
タミは人差し指を立てる。
「ずばり、嫉妬でしょ!」
「は?」
間の抜けた声とともに、由井子は視線をタミに戻す。眼前には、口元をにやりと歪ませて自信満々の表情を浮かべた祖母の顔。
「いつも一緒だった咲ちゃんを鬼にとられて、それで嫉妬してるんでしょ?」
「いや、それはちが――」
「わかる。わかるわよ、その気持ち」
否定の言葉を遮り、タミはうんうんと数度頷いた。
「実はわたしも同じような経験をしたことがあるの。そう、あれはもう何十年も昔のこと」
由井子の声がその耳に届くことはなく、タミは遠い目をしながら滔々と語りだした。
「いまの由井子や咲ちゃんと同じ年頃のこと。わたしには憧れの先輩がいたの。目鼻立ちがきりっとしていて身体を動かすのが得意で、制服の上からでも鍛えられているのがわかるような、そんな内面も外面も逞しい人だった。当然わたしに限らず他の女子にとっても憧れの存在で、みんなお近づきになりたいと思っていた。幸いその先輩にはお付き合いしている相手はいないみたいで、皆いつかは自分が隣になんてことを夢見ていたの。でもそんな夢を永遠に見ていられるわけがなかった。夢が消え去る時は何の脈絡もなく突然やってきたの。その先輩が、鬼籍に入った。あろうことか、鬼の婿になったのよ。わたしたちはなによりもまず驚いた。なんでそんなことに。なんであの先輩が。そんな思いが頭の中をぐるぐる回ったわ。そして、次に浮かんだのは怒りの感情。そう、相手の鬼に対する怒り。わたしもそして皆も『体が大きくてごつくて魅力皆無の女のくせに!』なんて、今考えれば酷い怨嗟の声を上げたものよ。その怒りは止まることを知らず、わたしは先輩を奪還しようと鬼に挑むまでに至った。まあ、結果は燦々たるものだったけど。それでもしばらくはどうにか鬼を攻略できないか、何か情報はないか、その思いだけを抱きながら必死に駆けずり回ったわ。それも、鬼に対する嫉妬の気持ちがあってこそ、ね。――まあ、そんなわけでわたしも由井子の気持ちはよくわかる。怨嗟の声、上げたいんでしょ?」
「違う!」
由井子は全力で叫んだ。
「違ーう! そんな衝動はない! まったくない!」
「え、嫉妬してないの?」
何がそんなに意外なのか、タミは呆然自失の表情で由井子を見る。
「勝手に重ね合わせないでよ。あたしは、そんな嫉妬心には駆られてないから」
タミは、なんだ、とため息を吐いた。
「やっぱり寂しいだけか」
「だからそれも違うって」
由井子は呆れ声で返す。
「学校で会えないぐらいじゃん。寂しくなんてないよ」
鬼籍に入ったからといって、何も監禁されるわけでも隔離されるわけでもない。鬼たちは基本的に人間とさして変わらない生活を送っているため、生活が激変することもないのだ。
連絡だっていつでもとれる。寂しくなるわけがない。
しかしタミは、
「そうじゃなくて、追いかけるものが突然消えたから寂しいんじゃない?」
愉快そうにそう言った。
対する由井子は眉根を寄せ、訝しげにタミの顔を見返す。
「どういう意味?」
「ライバルがいなくなって張り合いがないんじゃない? ってこと」
「はあ?」
自然と由井子の片眉が上がった。
「由井子は咲ちゃんのことをライバルだと思ってるでしょ?」
「もちろん。っていうか思ってるだけじゃなくて、事実そうだから」
「その割には力が均衡してない気がするんだけど……」
「いや、同じだよ! ギリギリ同じレベルに入ってる!」
「まあ、それはどうでもいいんだけど。ライバルがいなくなってしまって、競い合えなくなってしまってそれで寂しいんじゃない?」
タミの何度目かになる問いかけに、由井子はまたもや無言になった。腕を組み、静かに考える。
咲は由井子のライバルである。最大にして唯一のライバルである。小学生のころから、何をするにも咲の姿を追いかけ、そこに追いつけるように追い越せるように、そんな思いで頑張ってきた。勉強以外の分野ではすぐさま水をあけられたので競う以前の問題だったが、それでも勉強だけは競ってきたつもりだ。
しかし、それだけだ。
「そうだとしても、そこまで寂しがることじゃないでしょ。最愛の人じゃなし。今生の別れでもなし。ただライバルがいなくなっただけなんだったらさ」
それが、由井子が出す結論。
ライバルがいなくなってしまえば、張り合いはなくなる。成長のスピードも落ちるかもしれない。しかし、それだけなのだ。そんなに精神的なダメージを受けることではないし、由井子はそれほどナイーブではない。
由井子は自分が正しく反論したと思ったが、しかし目の前のタミの顔は、その答えに満足している様子ではなかった。小さな声で唸り、一つため息を吐く。
「察しの悪い子」
びしっと由井子の顔を指差した。
「な、なにさ、それ!」
「ただのライバルじゃないでしょ。咲ちゃんは由井子にとっての人生目標だったんだから」
「なッ!」
由井子は反論しようと口を開いたが、素早くタミに遮られる。
「由井子の将来の夢ってなに?」
それは唐突な質問。しかもかなりベタな質問である。さらにそれは、つい一週間前に咲とも話した気がする。
「夢って……。それはまあ、今の調子で勉強を頑張って、良い大学に行ってもっと勉強して、それで……、教授とかに認められて研究の道に進むか、それか、どこか良い企業に就職できればなぁ、と。そんな感じだけど」
今の自分が考えていること、具体性もなく夢と言っていいのかもわからない将来についての希望だが、とにかくありのまま伝えた。
タミは、ふんふんと軽く頷き、
「そうじゃないんじゃない? 咲ちゃんに勝つことが目的だったんじゃないの?」
疑問を投げかける。
「由井子の目的はあくまで咲ちゃんに勝つこと。いまの夢は、ただその延長線上にあるものでしょ。つまり単なる結果」
「うッ……」
由井子は口ごもる。
それに対して、タミは饒舌に話し続ける。
「由井子の目標は小学生の頃からずっと咲ちゃんに勝つこと。それだけを目指してる。わたしはずっと見てたから知ってるわよ。そんなだから、いま困ってるんでしょ? 目の前の目標を失ったから」
由井子は言葉を返さない。その頬は、うっすらと赤らんでいる。
「図星?」
「…………その通り……です」
蚊の鳴くような声で答える。
それを聞いて、タミの顔がぱっと明るくなった。やっぱりね、と小さく呟き満足げにうんうんと頷く。
由井子は自分でもわかっていた。自分が咲を目標に、人生の目印にしていたことを。趣味にするほど好きなこともなく、人に誇れるほどの特技もない。そんな自分は何をすべきなのか。不意に湧き上がってくるそんな思いから、由井子はいつも耳を塞いで逃げていた。とにかくいまは咲を目標に勉強を頑張る。そうしていれば間違いはないはずだ。
無意識のうちに、そんなことを考えていた。
「他人を軸にするとこうなっちゃうからね。自分をしっかり持たないと」
「わかってるよー……」
由井子は空を仰いだ。そのままぼんやりと虚空に視線を漂わせる。
周りの人間に知られたくなかったから祖母を相手にもシラを切るつもりでいたが、抵抗むなしく看破されてしまった。
「恥っず……」
思わず声も漏れる。
「ほかに夢はないの? こうなったらいいなぁって程度のものでもいいから」
「ないねぇ」
間髪入れずに答える。それは正直な答えだ。
いま何をするべきか、答えなど出てこない。この間までは、ただただ咲の姿を追い続けていれば、それでいい気がしていたのだが。残念ながらこれからはそうはいかない。
咲の方はと言えば、そんな自分とは対照的にさっさと自分の生き方を決断してしまった。由井子と咲の差は、由井子が考えている以上に大きなものだったのかもしれない。
「いっそ誰かに決めてもらえば楽なんだけどね」
ぽつりと呟いたその言葉に、答える声があった。
「――ならば俺が決めてやろう」
それはタミのものではない、低く、重い声。
二人の真正面、いつ現れたのか公園のど真ん中にひとりの鬼が立っていた。腰に刀を差した着流し姿のその鬼は、当然ながら由井子の知っている顔ではない。二人とも話に熱中していたためか、鬼の気配にも物音にもまったく気づけていなかった。
由井子が言葉を返す間もなく、鬼はその右手を伸ばし、由井子を指差した。
「貴様は俺の嫁になれ!」
高らかに叫んだ。
「はぁ?」
疑問よりも不快感と嫌悪感が如実に表れた、そんな声が口から漏れた。
「あらまあ、何事かしら?」
タミはさして驚いた様子もなく、のんきに呟く。
突然会話に割って入り、素っ頓狂なことを叫ぶ不審者。そんな者に礼や遠慮が必要か。由井子は自問自答し、すぐさま答えを出した。
「あんたなに言ってんの? 馬鹿?」
「貴様は自分の将来に不安を持っているんだろう? だから俺が道を示してやっているのだ。貴様は俺の嫁になれ! 鬼籍に入れ!」
にい、と鬼の口が醜く歪んだ。
「やだ」
由井子はそんな鬼を目で威嚇しながら、きっぱりと言った。
「いきなり出てきて訳わからないし。そもそもあんたは誰よって話だし。相手がだれであろうがあたしは鬼の嫁になるつもりはないし。それに、赤の他人に求婚されて承諾する馬鹿がどこにいる」
つい一週間前にそんな女を目にしたばかりだが、あれは例外である。一般論には含まれない。
「残念だけど他をあたれ」
そう言って由井子は会話を切り上げる。自分の進路に思い悩む今日この頃、狂人にかかずらっている暇などない。由井子は盛大にため息を吐き、警戒の色を含んだ目で鬼を見た。さっさとどっかに行ってくれるかな、とそんな思いを持って見たのだが、しかし、相手はそうすんなりと諦めてはくれなかった。
鬼は突然頭を抱え、
「なん……で、なんでだ! なんでなんだ――――ッ!」
地面に膝をつき、叫んだ。
「なんでどいつもこいつも承諾しない。あいつは上手くいったのに……! 幼馴染なのにこんなに違いがあってたまるかッ!」
くそっ、と地面を拳で殴りつける。拳の当たった箇所がえぐれ、陥没する。
「俺とあいつの何が違う! 何故あいつだけ一発で成功するんだ! 何故俺は十人以上声をかけても成功しないんだ!」
「なんだこいつ」
由井子は呆れ顔で目の前の鬼を見た。
叫ぶ内容から察するに、目の前の鬼が手当たり次第に女に声をかけているのは分かった。どうやら知人の鬼が求婚に成功したのに感化され、次は自分もと相手も選ばずに求婚しているのだろう。
その行動力は目を見張ると言えなくもないが、それで成功することなど万に一つもありえないだろう。
「時々いるのよね、こんな馬鹿な子が」
鬼に軽蔑の眼差しを向ける由井子とは対照的に、タミは微笑みを浮かべていた。
「見慣れた光景なの?」
「時々いるのよ、こういう風に焦って妙なことをしちゃう子。鬼も人間とあまり変わらないってことね。あ、由井子はこれを反面教師にしなきゃだめよ」
「心配しなくても、反面教師にするまでもないよ」
そんな由井子たちの会話も耳に入らぬ様子で、鬼はひとり何かを呟いている。
「なんで……、なんでだ。あいつは美人で頭も良くて気立ても良くてなんでも器用にこなせる万能嫁を手に入れたのに……! それなのに俺は、こんな目つきが悪くて口も悪い、おまけに頭も悪そうな妥協女にすら相手にされないのか!」
「おい、待て」
「あらあら」
嫁の成り手がいないのも頷ける。出会って数分も経っていないが、この鬼は知り合いでいることも御免こうむりたいと思わせる何かを持っている。
「――こうなったら、強硬手段だ」
そう言って、鬼は立ち上がった。同時に、ごく自然な流れるような動作でその腰の刀を鞘から抜いた。
「貴様――」
由井子を正面に捉え、刀を構える。
「俺の嫁になれ!」
言い終える前に、その足は地面を蹴っていた。
それは突然の出来事だったが、由井子の目は振り上げられた刀をどうにか捉え、追っていた。
「――ッ!」
由井子は息を飲み、体を捻りながら左に跳んだ。自分が刀を避けられたことを認識するよりも早く、刀が起こした風圧を肌に感じる。
「――ッと」
若干つんのめりながらも、無事に地面に足をつける。背後で、群れを成していた鳩たちのけたたましい羽音が響いた。すぐさま振り返って鬼の姿を確認する。鬼は刀を振り下ろした体勢のまま、憎々しげに顔を歪ませていた。
由井子は、そんな鬼の顔に負けず劣らずの怒りの形相で、
「いきなり斬りかかるな、馬鹿!」
至極真っ当な非難の声を浴びせた。
心臓がバクバクと音を立てている。額から、首筋から、いまになって汗がたらりと流れ落ちるのがわかる。
「嫁にならんと言うのなら、無理矢理殺して鬼籍に入れるだけのことだ」
鬼はいまの行動や表情に似つかわしくない淡々とした声で答えた。
「殺すって……。結婚に同意しなきゃ、殺すだけじゃ嫁にはならないでしょ」
「だから選べ。同意せずにただ死ぬか、それとも同意して俺の嫁になるか。貴様の進路はこの二つに絞られた」
鬼は刀を構え直す。
「おいおいおい」
由井子は思わず後ずさる。目の前の鬼は求婚に失敗しすぎて自暴自棄になっているのか、本気で由井子を殺そうとしている。その血走った眼には余裕が一切感じられない。いまにも一歩を踏み出し、由井子に斬りかかろうという状態だ。そんな状況で由井子に抗う術はない。
相手は鬼。人間とは元来持っている肉体の質が異なっている鬼は、一般的に同性、同年代の人間と比較して身体能力が勝っているのが常である。素手で喧嘩などしようものなら十中八九鬼に敵う人間はいない。そんな前提があるうえ、今現在由井子の目の前に立ちふさがるのは刀を手にした鬼である。勝算などある筈もない。
よって、取るべき選択は、
――とりあえず警察!
国家権力に頼ること。銃ならば、刀を持った鬼であれ制圧可能だ。由井子はすぐさま携帯を取り出した。
しかし、同時に鬼が動く。
「――――ッ!」
間合いを詰めようと足を出す。
由井子は後ろを向いて駆け出した。足がもつれ、転びそうになるが、由井子は全速力で鬼から距離を取る。
「大人しく斬られろッ!」
鬼は怒号を上げ、構えをそのままに由井子の後を追う。
「こんな見通しのいい場所で、鬼から逃げられると思うか? たかが人間の女がよォ!」
鬼の言葉を背中で聞きながら、由井子は思った。
――その通りだ、うん。
その言葉は正しい。
こうなると警察に連絡するのも難しい。これだけ全力で走っていればまともに番号を押すこともできない。となれば、タミに連絡をしてもらうしかない。そうしたとしても、警察が来るまでの間、由井子が鬼の凶刃から逃れ続けられるかは怪しい所ではあるが。
由井子は走る動作をそのままに、視線をタミに向けた。その瞬間、
「――待ちなさい!」
公園内に、タミの声が響いた。
由井子も、鬼も、予想もしていない出来事に思わずその足が止まった。
両者の視線が向けられる中、タミはゆっくりと腰を上げ、鬼に視線を合わせた。
「あんた、救いようのない馬鹿かもしれないね」
先ほどの一喝する声とは違い、低く、冷たい響きを持った声。まっすぐに鬼に向けられたそのタミの声は、由井子が久しく聞いていない声色だった。
祖母のとった行動の意図がわからず、由井子は半ば呆然として立ち止まったままだ。どうしてタミは鬼に対してあんな挑発的な言葉を投げつけるのか。つい先ほどまでニコニコと余裕さえ感じられる様子だったタミが、何故いまは一変して攻撃的な態度をとっているのか。
「ババア、俺に説教する気か?」
鬼が刀を構え直す。
「そんなことは目下の奴にするもんだ。分不相応なことはやめて黙ってろ」
「分不相応はあんただろう?」
タミの声に、明らかな怒気の色が含まれた。
「うちの可愛い孫娘に手を付けようなんて、頭の貧相な糞餓鬼には分不相応だ」
「あぁ?」
刀を握る鬼の手に血管が浮かぶ。鬼の背後に立つ由井子からはその顔を窺い知ることはできないが、そこには怒りの表情が浮かんでいることだろう。
この状況は危険すぎる。先ほどまでも危険極まりない状況ではあったが、タミは鬼の怒りのボルテージをどんどん上げている。最早タミはいつ鬼に斬り捨てられてもおかしくない。
――なにしてんの、ばあちゃん!?
しかし、そんな由井子の思いをよそに、タミはなおも強気な姿勢に出る。
「初めは、ただ威勢のいいだけの馬鹿が来たと思っていたから口を出さなかったけど……。度が過ぎたね」
言って、タミは右手をゆっくりと上げた。拳を握るでもなく指を差すでもなく、手の力を抜いて腕を肩の高さまで、まっすぐと前に。
由井子には、そのタミの行動が何を意図したものかまったく以てわからない。由井子の顔には不安と困惑の表情が浮かんでいた。
「さっさと済ませようか」
その言葉と同時に、大きな羽音が響いた。タミの周りに集まっていた鳩の内、一羽が空に羽ばたいたのだ。鳩はそのまま上空に留まり、タミの上を旋回している。
鬼は鳩の不可解な挙動に気を取られたのか、刀を構えたまま動かずにいる。
対するタミは落ち着き払った様子で、表情一つ変えることなくただ一言呟いた。
「行け」
由井子の耳に、再度大きな羽音が響いた。
直後、感じたのは風圧だった。
前方、身体を真正面から打ちつける風。砂が舞い、土煙が上がる。由井子は反射的に顔を腕で覆う。
次いで、
「あああぁぁぁぁぁあああぁあぁあああ――――ッ!」
野太い絶叫が轟いた。
その声が誰のものかは明白である。由井子は腕の隙間から鬼の姿を覗き見た。
鬼は膝を折り、地面に腰を落としている状態だ。顔を俯かせ、その口からは呻き声が漏れている。その姿は、つい先ほどこの公園内で見た鬼の姿と寸分違わないものであったが、一つだけ差異があった。
鬼の傍らに、その右腕が落ちている。
刀をしっかりと握った、赤黒く、太く逞しい鬼の右腕。それがいま、鬼の身体から離れ無造作に地面に転がっていた。
由井子は思わず息を飲んだ。
「ごめんね、由井子。ちょっと刺激が強かったかもね」
タミが言った。鬼に対するものとはまったく違う、優しく、柔らかな声。その顔には微かに笑みさえ浮かんでいる。
「何をッ! 何をしたぁ――ッ!」
鬼が咆哮を上げた。
「鳩」
タミは鬼の背後、由井子の方を指差した。鬼が振り向き、由井子も慌てて自分の周りを見回す。
足元に、一羽の鳩がいた。小さく鳴きながら、地面をしきりに啄んでいる。
「その鳩がやったのよ。きれいにちぎれ飛んだね」
あっはっは、とタミは高らかに笑った。
「何故……何故そんなものに…………」
鬼は呆然とした顔で、ただ鳩を見ている。怒りも痛みも忘れたように、一心に見つめている。
「あんたたち鬼が最も苦手とするものは何か。人間はともかく、鬼の間じゃ常識問題よね。答えは簡単、大豆」
タミはしたり顔で言葉を紡ぐ。
「古来より鬼を払うのには大豆を用いるっていうのが定番中の定番。昔は大豆を撒いて邪気や鬼を払う行事もあったって話だからねぇ。もちろんそれそのままじゃ大した効力は期待できないけど、そこに念を込めればあら不思議、鬼も裸足で逃げ出す必殺兵器に早変わり。由井子、知ってた?」
突然話を振られ、由井子はびくりと身体を震わせた。ぶんぶんと首を横に振る。
鬼には弱点がある、というのはインターネットなどでたびたび話題に上がっているものであるが、正確な情報に出会えることなどない。どれも眉唾モノの噂や仮説ばかりである。そのため、一説では鬼に対する迫害を危惧する政府が情報統制を行っているという話まである。
「あの鳩たちは来る日も来る日もわたしの念のこもった大豆を食べていたでしょ。だから、結果として対鬼用生物兵器になりました、というわけよ」
わかった? と確認の問いかけ。
しかし由井子は素直には頷けない。
「いや、食べただけでそうなるの? それは無理があるんじゃない?」
鳩にせっせと大豆をあげていたら、鬼を倒せるように成長しました、なんてことをそう易々と信じられるわけがない。
「無理も何も、現実としてそうなってるじゃない。目の前で起きたことぐらいは信じて受け入れる度量って大事よ」
「ふざけるなッ!」
鬼が立ち上がる。切断された右腕を左手で庇うように押さえ、荒い呼吸を繰り返す。しかし、その足はしっかりと地面を踏みしめている。
「そんなふざけたことがあってたまるか! 鳩如きにこの俺が、鬼が――」
「黙れ」
喚く鬼の言葉は、タミの一声で止められた。
「次は頭を飛ばされたいか?」
特別大きいわけでも激しいわけでもない、むしろ淡々とした声。しかしその声は、鬼を御するのに十分なものだ。鬼の口から言葉が出ることはなく、ただ空気のみが繰り返し吐き出される。
「片腕で済ませてやったんだ。さっさと拾ってねぐらに帰りな糞餓鬼。腕をくっつけてもらって、大人しく寝とけ」
やはり鬼の口から言葉は発せられない。タミを見据えたまま、微動だにしない。
由井子も口を噤み、ただ目の前の状況を、その成り行きを見守った。声を出すことも、何か行動することも憚れる。そんな緊張感。
しばしの間、公園を静寂が包んだ。
不意に、鳩の羽音が鳴った。
瞬間、びくりと鬼の体が震えた。
その日、由井子は決意した。
「朝からよく食べるわね」
呆れ半分感心半分の母親の声。
「だってこれがないとさ、駄目じゃん」
言いながら、由井子はしきりに右手を動かす。右手には箸、左手にあるのは納豆。円を描くように、時折縦の回転も意識して。ぐるぐるぐるぐると力強くかき混ぜる。
糸江家の朝食には先日から必ず納豆が出るようになっていた。ただし由井子限定で。
さらに、
「これも結構お腹にたまると思うんだけど」
豆乳。
「ほら、朝ご飯はしっかりとらなきゃいけないって言うじゃん。大事大事」
グラスに注がれた豆乳を、ごくりと一口。
由井子は鬼に求婚されたあの日以来、大豆を食べる生活を続けている。それはもちろん、
「これも鬼に勝つ体づくりのため。そのためにはあたし、努力を惜しまないから」
「なんで鬼に勝たなきゃいけないの?」
母親が至極真っ当な疑問を口にした。
「別にそれが目的って訳じゃないけどさ。よく考えてみてよお母さん。鬼に勝てるようになるってことはだよ、他の大抵のこともやればできるようになるってことじゃない?」
「いや、そうはならないでしょ」
訳のわからない論理展開を切って捨てる。
「いや、そうなるね。きっと」
しかし由井子は諦めない。
「鬼に勝てるようになったらさ、あたし何でもできちゃう気がする。なんでもやってやるぜ! て感じで」
鼻息荒く、熱弁する。支離滅裂なことを言っている気がするのだが、何故か由井子の瞳がキラキラと輝いているように見えた。
「母さん、もしかしてあの話したの?」
母親の声に、ソファに座ってテレビを見ていたタミが振り向いた。
「したわよ。成り行きでね」
「もー、変な影響受けてるじゃなーい」
「別に悪いことじゃないでしょ? 副作用があるわけでもなし」
タミはいつもと変わらぬ笑みを浮かべている。
「それはそうだけど……」
「まずは自信を持つこと。それだけでも大きな一歩でしょ?」
「それもそうだけど……」
母親の言葉に、タミはふっふっふ、と満足そうな笑みを見せた。
「由井子、しっかり食べて着実に力を蓄えるのよ。念を込めるのも忘れずに」
「うん!」
由井子は納豆ご飯をかきこみながら力強く答えた。
「そして鬼を打ち倒し、咲ちゃんを奪い返すのよ」
「だからそれは違うって!」
「じゃあ、この間の馬鹿な鬼にひとつお礼参りを……」
「それは……やりたい気もするけど、そんな陰湿なことはしない!」
えー、とタミは不満げな声を上げる。
「あたしは自分のために力をつけるの。誰かのためじゃなく、目先の目的のためでもなく!」
空になった茶碗を置き、グラスに残った豆乳を一息に飲み干す。
ぷはー、と一声上げて、
「あたしも人生満喫してるぞって、咲に面と向かって言ってやるから!」
そう言って、由井子は立ち上がった。
鞄を手に取り、小走りで玄関まで駆けていく。
「いってきまーッす!」
溌剌とした声が響いた。
残されたタミと母親は顔を見合わせた。
「まだちょっと咲ちゃんに引っ張られてない?」
眉根を寄せる母親の問いに、
「大丈夫よ」
タミは笑みのまま答えた。
「今度は目印じゃなくて、本当のライバルだもの」
鬼籍は御免 吉水ガリ @mizu0044
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