一人、或いは六人の容疑者

鬼虫兵庫

一人、或いは六人の容疑者

 ああ、あれはまったく奇妙な事件だった。

 殺人事件に容疑者が一人のシンプルな事件。

 普通に考えれば、その容疑者が犯人に決まっている。

 馬鹿でもわかる話だ。

 ところがどっこい、ことはそう簡単には進まない。

 実は、容疑者は全部で六人いたんだ。

「おいおい、さっき容疑者は一人だって言ったばかりじゃないか」

 そんな文句が聞こえてきそうだが、まあ抑えてくれ。

 確かにそれは正解でもあるが、同時に間違いでもある。

 ややこしい話だが、容疑者は一人でもあり、そして六人でもあったんだ。

 今でもあの事件を思い返すと、頭がこんがらがりそうになる。

 そうだな……あの事件の教訓を一言で表すと、

「人は見かけによらない」

 ってところかな?

 いや、違うか。

 まあ、ともかくこれはそんな話だ。



 1,イントロダクション


「先生、遅いですよ。遅刻です」

 事務所へと戻り、扉を開けた時、その目前にむくれた様子のこいが立っていた。

 いつもの通り、白シャツに赤のネクタイ。紺のスカート。頭の黒髪は寝癖ではねている。眠そうにも見えるがそれは地顔だ。

「馬鹿を言うなよ。時間ぴったりのはずだ」

 俺は腕時計に視線を向けようとするが、つい今し方、その腕時計を修理に出したことを思い出し、視線をはずした。

 一時間に五分もずれてしまうようになったのでオーバーホールに出したのだ。

「ともかく遅れてないはずだ」

「いーえ、三分の遅刻ですよ。先生は気づいてないのもしれませんけど、先生の車の時計は三分遅いんです。あれ、直しておいた方がいいですよ。毎回毎回三分遅れですもん」

「三分なんて誤差の範囲だろ……」

 鯉はムスッと顔を歪める。

「なに言ってんですか。私は今日という日をとても楽しみにしてたんですから。たかが三分でもとても貴重な時間なんですよ」

「わかった、わかった。まあ、そう急かすなよ。別に予約制というわけでもあるまい」

「また、そんなこと言ってる内に、依頼人が来たりしたらどうするんですか? さあ、今すぐクローズドの看板かけて。モマにリンジー・アンバーの企画展を観に行きますよ」

 俺は眉を寄せる。

「そもそも俺は、そのリンジー・アンバーって画家のことはよく知らんのだが。そいつはどんくらいの値がつく画家なんだ?」

 鯉は俺の質問に対してジトッとその目を細めた。

「ああ、価値、価格、値段、金。なんて嘆かわしい。先生は絵の魅力と値段はイコールだとでも思っているんですか? まあ、一応説明しますとですね。リンジー・アンバーは正体不明の仮面作家で、近頃になって非常に価値が高騰した作家ですよ。ちなみに直近のクリスティーズでは二百万ドルの値段がつきました。……ですけど、その魅力はお金じゃないんです。あれは魂の叫び、その発露ですよ」

 俺はヒューと口笛を吹いた。

「そいつは凄いな、二百万ドルの絵か。俄然興味が沸いてきたぜ」

「……そんなので興味もたれてもそれはそれでむかつきますが……まあ、興味がわいてきたならいいです。さっさと行きましょう」

「了解だ」

 だが、俺が事務所の扉を閉め、その扉にクローズドの看板をかけようとした時、一人の女が事務所へと続く階段を上っていることに気づいた。

 女は黒のインナーにグレーの服を重ね、ウェーブのかかった長い髪をしている。

 一見して、そこらにいるニューヨーカーの一人のようにしか見えないが、その足取りは酷く弱々しいものだ。

 だが、その女は階段の上にいる俺達の姿に気づくとパッとその顔を明るくさせた。あまりにも無垢で少女のようなその笑顔は女の容姿に似つかわしくないほどだった。

「見つけたわ! あなたが池田戦いけだせんね! 探偵の人!」

 女はたどたどしい足取りで階段を駆け上り始める。

 上から見ている俺たちが冷や冷やするほどにおぼつかない足取りだ。

 恐らく、片方のヒールが折れているのだろう。

 だが、女はそんなことを気にする様子もなく駆け上がり、そして俺の手を取った。

「背が高くて、アジアの人。短い髪で口ひげ! メモの通りだわ!」

「あ……いや、悪いがあんたは一体……」

「お願い。助けて。大変なことになっちゃったの。人殺しよ。悪い人。誰かが人を殺しちゃったの。あなただけが頼りなの。お願い助けてちょうだい。ああ、忘れてたわ。先に自分の名前を名乗らないと失礼よね。私の名前は『少女』」

 その女、『少女』と名乗った女の口調はまるで本当に少女のように幼く、滑稽に思える程だった。この手の頭の弱そうなブロンド女はたまにいることはいるが、それにしてはこの女の身なりはしっかりしていてそれに似つかわしくない。

 手を取られながらもただ呆然とする俺に対して、その『少女』は頬を膨らませる。

「もう! 本当に本当に大変なんだから! あ、大変! もう時間が来たみたいだわ! どうしよう、ああ……!」

 と、『少女』は言ったきりその視線を宙に浮かせ、まるで意識を失ったかのように動きを止める。

「おい……大丈夫か?」

 そう俺が問いかけた直後、女は突然ビクリとその意識を取り戻した。

 だが、その表情は先ほどまでのものとは違う冷徹な表情へと変化している。

「ここは? ……あなたは誰ですか? ふむ、失礼……」

 まるで男のような口調で呟き、怪訝な表情を浮かべながら俺から手を離す。

 スーツのポケットから黒色のシンプルな手帳を取り出し、それに眼を通し始めた直後、女はその目を見開き、己の顔を両手で覆って声を上げた。

「ああ! なんということだ! 危惧していたことが……危惧していたことが本当に起こってしまったということか! だが、私がここで現れたのは不幸中の幸いかもしれない」

 女は手帳をポケットの中へと仕舞い、俺に向かって手を差し出す。

「初めまして、池田戦さん。私の名は『弁護士』。この女性の中にいる六人の人格の内の一人です」

 俺は唖然としながらも一応その手を握り返す。

「急なお願いになって大変申し訳ないのですが、あなたに捜査のお願いをしたいのです。依頼内容はただ一つ。私たちの人格の中に潜んでいる一人の殺人者を暴いて欲しいのです」

 その真剣な様子の『弁護士』の言葉に、俺と鯉の二人はただ引きつった笑みを浮かべるだけで精一杯だった。



 2、『弁護士』


「この女性の身体は解離性同一性障害に罹患しているのです」

『弁護士』は自分の身体に手を当て、まるで他人のことを説明するかのように言った。

「コーヒデス」

 鯉がぎこちない動きで『弁護士』の前にコーヒーを置く。

 鯉の視線は宙を向いたままどこにも向けられていない。

 俺はその奇妙な鯉の表情に視線を向けた後、『弁護士』に視線を戻す。

「つまり……多重人格ってことでいいのかね?」

「端的に言えばそうなりますね」

「…………」

 俺はふむとあごに手を当て、その身をソファにもたれかからせる。

 今、俺の頭の中では二つの考えが巡っていた。

『この女の言っていることは本当である』

『この女は単なる頭のいかれた女である』

 正直言って、この事務所にはナポレオンの生まれ変わりと、アレクサンドロス大王の生まれ変わりが訪ねてきたことがあるので、自然とこの手の人物には警戒感が沸く。

 だが、これは単なる直感ではあるが、この女……いや、男の言っていることにはある種の整合性があるような気がした。

「それで依頼の具体的な内容というのは? なにやら殺人者を探して欲しいという話だったようだが……」

「ええ、それを説明する為にはまず私たちの境遇から説明する必要があるでしょう」

『弁護士』はいかにも説明的な固い口調で語り始めた。

「この身体の中には私を含め、六人の人格が存在しています。すなわち私『弁護士』と『女優』、『暴漢』、『少女』、『学生』そして『主人格』の六人です。それぞれの人格は完全に独立し、一人の人格は他の人格の行動を察知することが出来ません」

『弁護士』はポケットの中からあの黒い手帳を取り出し、それを机の上に置いた。

「その為、この手帳にそれぞれの行動を記録し、お互いに情報を共有しあっているのです。まあ、中には非協力的な人格もいるようですがね」

「手帳か、なかなかにアナログだな」

 俺の言葉に『弁護士は』苦笑を浮かべる。

「私たちは携帯も持っていないくらいですよ。『少女』がデジタル機器を扱えないというのもありますが、そもそも我々にとって扱いづらい代物ですからね」

 確かに、電話がかかってきても誰が出るのかわからんのでは、使い物にならんのだろう。

 そんなことも思いつつ、俺はその手帳に視線を戻す。

「見てみてもいいかね?」

「ええ、どうぞ。恐らく依頼に関係するのは……ええっと、そうですね。この辺りからだと思います」

 俺は『弁護士』から手渡された手帳に眼を通し始める。

『六月一日、18:00。三十分かけて家に到着。『牧師』が殺されてから私の意識が悪化しているのを感じる。何か誰かが酷くバランスを崩しているのだ。このままでは、或いはすべての人格が死ぬ……破滅的な出来事が起きるような気がする』

 丁重な文字、几帳面な印象を受ける。

『22:00。『女優』。街の中、酷く酔っている。あのくっそったれの『暴漢』が酒を飲みに出かけたに違いない。ストレス。男でも釣ってみる』

 乱れた文字だが、荒々しさはない。女の文字という感じ。

『00:34! 00:34! ……六月二日! なんてこった! ついにやった!ついに誰かがやった! だが、僕じゃない! ああ、僕は『学生』だ! だが、僕じゃない! 糞! (下に三行の記述が続くが、黒く塗りつぶされている)状況を説明する。僕は目覚めた時、ホテルの客室にいた。バスルームからシャワーの音が聞こえたんで、見に行くと男の死体があったんだ。だが、自然死じゃない。明らかに殺された死体だ。多分だが、後頭部を鈍器のようなもので殴りつけた後、水を張った浴槽に沈めて殺したんだ。浴槽は血で赤く染まっている。ああ、鈍器は見つけた。重そうな大理石の時計に血がついている。部屋の中は酷く荒らされてる。まるで熊が暴れたみたいに滅茶苦茶だ。警察に連絡するべきか悩むが、踏ん切りがつかない。ああ……もうじき時間が来る』

 酷く乱れた文字。震えているが筆圧は強い。男の文字といった印象を受ける。

『ああ、えーと。『暴漢』俺が起きたのは02:32だ。手帳の内容見ると『学生』からの引き継ぎみたいだが……。一体、ありゃどうなってるんだ? 誰かがついにやっちまったってことか? 一応言っておくが、俺じゃねぇぞ。俺は酒を飲みに出かけただけだ。あと、お前らに忠告する。サツには連絡するな。どうあがいてもあの状況じゃ刑務所送りだ。それだけはごめんだからな。お前らが馬鹿でないことを祈るぜ。ああ、部屋の指紋はすべて拭き取って証拠は消しておいた。ホテルからも顔を隠して出たから誰も俺のことに気づいていないはずだ。へまはしていねぇ。なに、うまくやれば逃げおおせるさ。ああ、野郎の財布から金を抜き取っておいた。死体は金を使えねぇからな。逃走資金というやつだ。なに、心配するな。これを書いてるのは十ブロックも離れたバーの中だ(二行ほどの空白を置き)家に帰って寝る』

 荒々しい文字。確実に男のもの。文字自体が大きく、ページをかなり多く使っている。

『朝、07:15。自宅にて睡眠から目覚める。(酷くページがくしゃくしゃにされている)なんてことなの。ああ、恐れていたことが……たぶん私たちの中、この世界を乱している誰かが殺人を犯した。世界が酷く混乱し、破滅的な方向に向かっているのを感じる。私の感覚、確信。恐らくこのままではこの世界はあと一日しか持たない。次の睡眠を迎えればすべては崩壊してしまう……それまでに対処しなければ……。―通信『弁護士』に依頼。殺人者を見つけ出しクロフェナピリドを投与すること。実行者は、私の記憶にあるオフィス『旅の道』の池田戦という探偵が適任かと思われる。背が高く、東洋系だが彫りの深い顔立ち。短髪、口ひげを生やした男。以下、住所を記載。注意。タクシーは使用しないこと』

 恐らくはじめに書いてあった文章と同じ書き手。混乱していながらも文章は整然としている。

『あさ09:15。たいへん! 『少女』りょうかい。池田戦のじゅうしょにいく』

 酷く幼く、つたない文字。

 その『少女』の文字を最後にして手帳の記述は終わった。

「なるほど……だいたいの状況はこれで把握できた……が……」

 すべての文章を読み終えた俺は深いため息を吐き出す。

 これは厄介な状況だ。

 今、目の前にいる女は殺人者であることは間違いないのだ。多重人格だろうがなんだろうが、この女が殺したことに変わりはない。

 いや、悩むことなどない。ただ警察に突き出す。それで終わりだ。

「ご懸念、ごもっともかと思います。常識的に考えれば、確かにこの女は殺人者でしょう」

『弁護士』は俺の考えを見透かしたかのように、頷きながら口を開く。

「ですが、実際には我々の中にただ一人だけ殺人衝動を持つ人格が巣くっていたのです。他の皆は善良な市民達なのです。お願いします。その一人の犯人を暴いてください」

 俺はこめかみに手を当てながら、抱いていた疑問を口にする。

「一つ疑問なんだが……その殺人犯を暴いてどうする? その一人だけを刑務所にいれるというわけにもいくまい」

「それに関しては方法があります」

『弁護士』はメモの一カ所を指さす。

 指さした箇所にはクロフェナピリドという薬品名が書かれていた。

「このクロフェナピリドはかつて乖離性同一性障害の治療薬として使用された薬ですが、副作用に重大な問題があり、今では使用禁止となっているものです」

「治療薬?」

 俺は思わずその片眉を下げ、顔に怪訝な表情を浮かべる。

「ええ。具体的に言えば、この薬は乖離性同一性障害の人格を消し去ってしまうのです。実際に我々の中にいた『牧師』という人格は、数日前、この薬の投与によって消滅してしまいました」

「わからんな……何故、そんな危険な薬が今頃投与されたんだ?」

『弁護士』は神妙な様子で頷く。

「そこです。その何者かは計画的にクロフェナピリドを入手し、それを『牧師』が飲むように仕向けたのです。つまり『牧師』はその殺人者によって計画的に殺害されたのです」

「なるほど……そしてその何者かは実際の殺人をも犯してしまった……というわけか」

「その通りです。これで依頼の内容がおわかりになったと思います」

『弁護士』の話を聞き終えた俺はその顔を歪め、小さく左右に首を振った。

「駄目だな。あんたはその殺人者を暴いて消せと言っているわけだ。それもあんたを警察からかばった上で……。リスクが大きすぎる。とても受けれる依頼じゃない。それに、俺の依頼金はその仕事の難易度に応じて上下する。言っちゃ悪いが、とてもあんたがその金額を払えるとは思えないぜ」

「二百万ドルで依頼すると言ってもですか?」

 その『弁護士』の言葉に俺はピクリと片眉を動かした。

「二百万ドルだと?」

「正確には二百万ドル相当です。それで依頼は受けられるでしょうか?」

「内容にもよる……一応言っておくが、空手形はごめんだぞ」

「ええ、勿論そうでしょう。……失礼ですが、池田さんはリンジー・アンバーという画家をご存じですか?」

 俺はチラリと鯉に視線を向けた後、思考を巡らす振りをする。

「確か……近年になって価値が高騰した正体不明の画家……だと聞いているが……」

「実は……私がそのリンジー・アンバーなのです」

 俺と鯉の二人は『弁護士』に向かってギョッと視線を向けた。

『弁護士』はその視線に反応するように小さく頷いた後、話を続ける。

「正確には私達の人格のいずれかの一人がですがね。その正体は私も知りません。ですが、この依頼を受けていただけるのならばその絵を一枚お譲りすることを保証します」

『弁護士』は手帳の中から一枚の写真を撮りだし、それを机の上に置いた。

 そこには描きかけと思われる絵が写されていた。オレンジ色を大胆に使った抽象画だ。

「これは世間に知られていないリンジー・アンバーの未発表作です。専門家に見てもらえれば本物であるとわかるはずです。これを私の話の判断材料にしていただけると助かります」

「なるほど……それが二百万ドル相当の報酬ってわけか……」

 俺はジッとその写真に視線を向けたまま、呟く。

「如何でしょう? あなたは非合法の依頼やマフィアからの危険な依頼も受ける特別な人物だと伺っています。どうかこの依頼を受けていただけないでしょうか?」

「俺に『殺人』を犯せっていうのかい?」

 おどけながら答えた俺の言葉に『弁護士』は肩をすくめた。

「勿論、これは法律的には殺人には当たりません。これに関してあなたが罪に問われることはないでしょう。そしてこの殺人者を暴き、殺害することは、同時に私達、他の五人の命を救うことになるのです。そうです。正確にはこれは殺害依頼ではありません。なのです」

 俺は無言のままジッと『弁護士』を見つめる。

 やがてそうした後、

「流石、『弁護士』。交渉が上手いな」

『弁護士』は思わずその身を前に乗りだした。

「では……」

「だが、いいか? 俺がやるのは殺人者の人格を見つけ出し、それを排除することだけだ。殺人容疑を逸らすまでの手助けはしない。いいな?」

「勿論です。それで十分です。ありがとう。ありがとうございます」

「まったく……こいつは厄介な仕事になりそうだな」



 3、『女優』


 俺は鯉に二三の依頼を言いつけて外に向かわせた後、『弁護士』に向かって質問を投げかけた。

「そのクロフェナピリドを手に入れ、犯人に投与する……ってことまではわかった。だが、疑問が一つある。それをただ投与するだけじゃ、狙った相手を始末することは出来ないはずだ」

「ええ、おっしゃる通りです。その点が難しいのです。クロフェナピリドはその狙った人格が現れている時に投与しなければなりません。その上、相手に気づかれずにです」

「相手に気づかれずにね……例えばそのコーヒーのように?」

 コーヒーを飲んでいた『弁護士』は一瞬ギョッとその動きを止めた後、再びそれを口にする。

「ええ、そうです。このコーヒーのようにしてです。幸い、クロフェナピリドは強い味も匂いもありません。コーヒーなど香りが強い飲料なら混ぜて飲ませることができるでしょう。薬品の効果が現れる時間は約三十分。それまで犯人に気づかれてはなりません。ですが、犯人は既に『牧師』をこの薬によって殺害しているのです。薬の投与には相当に警戒しているはずです」

「確かにそうだろうな。薬の投与方法も考えないといけないわけか……」

「それと、私たちの人格の切り替わり方には厳格なルールがあることを覚えておいてください。これは絶対のルールです。誰もこれを破ることは出来ません」

『弁護士』はそう言って手帳にメモを書き始める。

 ・人格が切り替わってから三十分後以降なら任意で自分の時間を切り上げることが出来る。

 ・どのような手段を用いても一人格が現れることが出来る最大時間は二時間である。

 ・一人格は他の人格に干渉出来ない。

 ・人格が現れる順番に法則性はないが、同じ人格が現れる為には一人以上の人格を間に挟む必要がある。

「なるほど。参考にさせてもらう」

 俺はそう言った後、ふと事務所の外へと視線を向ける。

「ところでだが……ここに来るまで人目につくような真似はしなかっただろうな? ああ、すまん。そうか、お前は他の人格のことは把握出来ないのか」

「いえ、手帳の記述から推測すると私の前は『少女』ですね……これは確かにまずいかもしれません。『少女』は幼いので、かなり人目についてしまった可能性があります」

 俺はあのヒールが折れたまま酷くぎこちない様子で歩いていた『少女』のことを思い出す。

 街中で誰かにここの住所を聞くような真似をしてしまったかもしれない。

「移動した方が無難か……ついてこい、場所を変える」


 事務所近くの駐車場で車に乗り込もうとした時、『弁護士』が緊張した視線を俺に向けた。

「まずいですね。そろそろ時間が来たようです」

「人格が切り替わる時間か。そうか、もう二時間経ったのか」

 俺は腕時計に眼を向けようとして、それがそこにないことを思い出し、舌打ちをする。

 重要な時に時計がないとは不便なものだ。

「いいですか、池田さん。殺人者は犯人を暴こうとするあなたに危害を与える可能性もあります。くれぐれも注意してください」

「ああ、十分注意する」

「それではよろしくお願いします。幸運を」

 そういったきり『弁護士』の視線は宙に固定されたまま止まった。

 人格が切り替わろうとしているのだ。

 一瞬の後、その瞳に光が戻った。

 その瞳の視線はきょろきょろと辺りへと向けられた後、俺に向かって集中する。

 俺はその瞳を見返しながら、

「心配するな。問題ない。車に乗ってくれ」

 笑みを浮かべつつ言った。

 だが、その何者かの人格は俺に不審な視線を向けたまま後ずさり、路地の外に向かって駆けだしてしまう。

 俺は咄嗟にそれを追い、その手を掴む。

「待て! 危害を加えるつもりはない。表に出るのはまずい。こっちに来るんだ!」

「誰か助けて! 連れ去られそうなの! 助けて!」

 女は絶叫を吐き出し、助けを求める。

 表通りを歩いていた数人がこちらに向かって怪訝な視線を向けた。

 一人の男が携帯を操作し、警察に連絡をしようとしているのが見えた。

 俺は無理矢理、女を押し込み、車のエンジンをかける。

 路地に集まり始めていた野次馬を蹴散らすように駆けだし、俺たちはその場を後にした。


「くそっ! 余計なことしやがって! お前は自分の立場をわかっているのか!」

 マンハッタンへと向かう車の中、俺はその自分自身の言葉でこの人格が何者であるのかを理解した。自分が追われる立場だとわかっていない女の人格。

 この人格は『女優』だ。

「……あなたどう見ても悪人って面だわ。マフィアかなにかでしょ? 一緒にいるときっと酷いことになる……そんな気がしたから逃げたのよ。私の勘はよく当たるのよ」

『女優』はすました様子でそんなことを言う。

「お気楽なことだな、『女優』さんよ」

「……? なんで私の名前を……」

 俺は『女優』に手帳を投げ渡す。

 その手帳に眼を通した『女優』はその顔をサッと青ざめさせ、両手を震わせた。

「ああ! なんてこと! 誰かが殺人を犯しただなんて……最低……最低だわ!なんであなたはさっき私を止めてくれなかったのよ! 私は警察に追われているんでしょ! 警察に通報されるような真似をして、ほんと最低じゃない!」

『女優』は先ほどの行動を忘れたかのように文句を垂れ、自らの膝を抱くかのようにその身を縮める。

「状況はわかったか? 協力してもらうぞ『女優』」

「あなたはこのメモに書かれていた池田って探偵なの?」

「そうだ」

 俺がそう答えた後、『女優』はその身体をさっと起こした。

「頼りなさそうな探偵ね。きっとあなたでは犯人は突き止められないと思うわ」

 先ほどまでの取り乱した様子はその表情からまったく消え去っている。

 さすが『女優』だな。

 俺は心の中で呟く。

「それでこの車はどこに向かってるの? まさか、目的もなくただ走り回ってるわけじゃないんでしょ?」

「ああ、そうだ。この車は今、墓地に向かっている」

 その俺の言葉に『女優』は怪訝な表情を浮かべた。


 155番通り角にあるトリニティ墓地へと到着したのはそれから約三十分後のことだった。

 墓地にたどり着くと既にそこに到着していた小男トニオが大仰に手を広げ、歓迎の格好で俺達を出迎えた。

「チャオ。池田の旦那。待ってたぜ」

「おい、あまり目立つ真似をするな」

「大丈夫だ。辺りには人はいねぇよ。確認済みさ。しかし久しぶりの再会がこんな陰気な墓地とはね。嫌になってくるじゃないか」

 小柄なわりに妙にめかし込んでいるイタリアンスーツは相変わらず滑稽だ。

 トニオは俺と会話を交わした後、ニヤニヤと下卑た視線を『女優』へと向ける。

こんにちはビアチェーレ、お嬢さん。こんな陰気な場所でデートかい? いや、あんたは暗い墓地の中でただ一つ輝く一輪の花。そんな感じだね」

『女優』はただ無言のまま、トニオに向かって微笑を返すにとどめる。

「トニオ、無駄話はいい。例のものは?」

「勿論用意してるさ。旦那の依頼にしてはイージーだったな」

 トニオはポケットの中から茶の封筒を取りだし、それを手渡す。

 俺はその中身を確認する。中にクロフェナピリドの液剤が入っていることを確認し、それを元にしまった。

 そうした直後、トニオはおもむろに俺に近づき、小声で耳打ちをする。

「あー……旦那。余計なお世話かもしれないが、その薬には媚薬的効果もハイになれる成分も入ってないんだぜ。効き目がなかったとか後で文句を言わないでくれよ」

 俺はトニオを睨み付ける。

「大きなお世話だ。乗ってきた車は?」

「俺のは向こうの駐車場に止めてあるが……乗り換えか?」

 俺は車のキーをトニオに投げ渡す。

「そうだ」

「OK。経費上乗せで対応するぜ。茶のセダンだ」

 俺はトニオが投げたキーを受け取り、『女優』に車に向かうようにあごを上げて示す。

 むくれた様子で俺に従い歩き始めた『女優』に向かってトニオは投げキスをしてみせた。

じゃあなチャオチャオ。お二人さん。ごゆっくりアッコモダーテヴィ


「あなたが受け取ったそれって、クロフェナピリドなんでしょ?」

「……なんのことかな?」

 トニオの車に乗り込み、郊外へと車を走らせている俺は『女優』の言葉にとぼけてみせた。

「しらばっくれても駄目よ。メモに書いてあったわ。それを使って私達の中にいる誰かを殺すつもりなんでしょ? ねぇ、私には使わないでよ?」

「使わないさ。あんたが犯人でない限りな」

 トニオの車は酷く年代物の車だ。カーオーディオさえ取り外されてしまっている為、時間すら確認することが出来ない。かろうじてエアコンはついていたが、その効きは酷く悪かった。

 恐らくこの車は海外に売り飛ばすつもりなのだろう。つまりは足がつきにくい車というわけだ。

「だから捜査に協力して欲しい。あの殺人が起きた日、お前のした行動を正確に教えてくれ」

「拒否権はなさそうね」

『女優』はふうとため息を吐き出し、言葉を続ける。

「私が起きたのは22:00丁度。身体が酷く酔っているのを感じたわ。私達の中で酒を飲むのは私と『暴漢』だけだからきっと『暴漢』が酒を飲んだんだと思った。酷くむしゃくしゃしたんで、適当に男でも釣ろうかと思ったの。ああ、一応言っておくけど殺してないからね?」

「男を釣るために、どこに向かった?」

「ホテルのバーよ。そこで曰くありげな感じでため息を出しながら一人で酒を飲むの、そうすれば勝手に男が寄ってくるのよ。その日もすぐに男が釣れたわ」

「ホテルとバーの名前を覚えているか?」

「ああ、えーと……ホテルグランデのサロメってバーだったわ。バーについて男が釣れたのはそうね、多分三十分後くらいだったかしら」

「サロメか……その後はどうした?」

『女優』は俺の質問に呆れたような表情を浮かべる。

「どうしたかですって? 決まってるでしょ?」

「一応、これは捜査なもんでね。ちゃんと話してもらおうか」

『女優』はふんと鼻息を吐き出す。

「男の部屋に行って、ベッドイン。やることやって男がシャワーを浴びにいったんで、私はその隙に帰ってしまおうと思ったの。金を少しいただいてね」

「他の人格が切り替わる時間が近づいていたからか?」

「ええ、そうよ。だから目が覚めてから二時間経った頃だったと思うわ。でも、ベッドに横になってリラックスしてたし、今から急いで帰るのも馬鹿馬鹿しいと思ってそのままその部屋にいることにしたの。私の意識はそこで途絶えた。私が知っているのはそこまでよ」

「なるほどね」

「ねぇ、信じて。私は殺してないわ。私が殺したのならこんな自分に不利になるようなこと話すわけないじゃない。私は男を連れ込んだけど、殺してはいない。そりゃ、他の人格がベッドの上で目覚めたら面白そうっていう悪戯心はあったけどね。ただそれだけよ」

「まあ、大体の話はわかった。あんたの人格が切り替わる前に一応聞いておきたいんだが、他の人格で殺人を起こしそうな奴に心当たりはあるか?」

「そうねぇ……」

『女優』は顎に手をやり、しばらく思考を巡らした後、

「『暴漢』だと思うわ。男と一緒にベッドインしていることに気づいたらきっと逆上するでしょうから」

 俺はふむと小さく頷く。

「なるほど、参考になったよ」

「どういたしまして、探偵さん」

「ああ、一ついいかい? あんたらの一人が絵を描いているそうだが……」

『女優』は眉間に皺を寄せて、その顔にあからさまな嫌悪の表情を浮かべた。

「ああ、あの絵ね。私、あの絵嫌いなのよ。誰が描いているのかしらないけど。何度かナイフで破ってやったこともあったくらいだわ」

「なんでまたそんなことを……」

 俺は頭の中に『二百万ドル』という金額がよぎりながら問い返す。

「私の趣味に合わないのよ。ただそれだけよ。ああ、このとこは秘密にしておいてね。恨みを買われて殺されるのはまっぴらだから」

「まあ、善処する」

「じゃあね、探偵さん。私は帰るわ」

『女優』は家に帰るかのような口調で言って、その意識を途絶えさせた。

 その人格が切り替わる隙に俺は携帯で鯉に連絡を行う。

「鯉。ホテルグランデのサロメというバーに向かえ」



 4,『学生』


「あー、わかりました。ホテルグランデのサロメですね。そこで女の人の聞き込みをするってわけですね。具体的には何を聞けば……あ、切れちゃった。もう! いっつも話の途中で切るんだから!」

 私は携帯をスカートのポケットの中にしまい、眼の前にいる学芸員に視線を戻す。

 眼の前のモマ専属の学芸員は私が渡した写真を食い入るように見つめているところだった。

「それで、どうでした? これは本物っぽいですか?」

 私の言葉に学芸員はハッと我に返り、視線を戻す。

「え、ええ。これは正真正銘のリンジー・アンバーの未発表作です。間違いありません。絵のタッチ、色調、構成、すべてがリンジーの画風そのものです。この写真をどこで手に入れたんですか? あ、いや! も、もしかするとちょっとだけ贋作の可能性があるかもなぁ。じ、実際のキャンバスを見せてもらえればもっと正確に判断出来そうなんだけど……」

 学芸員はチラチラと私の方を覗き込み、期待するような視線を向ける。

 私のここでの目的はとりあえずまあこれで達成出来たと言えるだろう。

「ああ、それはまた今度で……。お手間おかけしました。じゃあ、また」

 私は写真を取り返して、そそくさとその場を後にする。

「ああ、ちょっと待って! その写真、せめてコピーを取らせて!」

 私は追ってくる学芸員を振り払い、モマを後にする。

 なんだかしばらくモマに近づけないような気がして憂鬱だったが、その代わり、この依頼が成功すれば本物のリンジー・アンバーの絵が手に入るのだ。

 私は期待に胸を膨らませてホテルグランデへと向かって駆け始めた。


『女優』の人格が切り替わり次の人格が現れた時、俺は車をハドソン川沿いの人気のない路肩に止め、女の様子を注視した。

 女は額を手で抑えるような形を取り、小さく唸り声を上げる。

「あ、あなたは誰ですか……?」

 その何者かは俺に警戒した視線を向ける。

 怯えた様子、そして気弱そうな男の口調。

「『学生』だな?」

 俺はこれまでの経緯を説明し、『学生』に協力を求める。

「わ、わかりました……」

 学生はキョロキョロと辺りを見渡した後、

「で、でも、この車の中は暑すぎて息がつまりそうです。少しだけ外に出ませんか?」


 俺達は車を止め、すぐ横のハドソン川沿いの遊歩道を歩くことにした。

「ぼ、僕の証言はあまり目新しいことはないと思いますよ。手帳の中に書いてあることがすべてです」

『学生』は尚も酷く怯えている様子だ。恐らく、俺が『学生』に危害を与えることを恐れているのだろう。

「それでも何か見落としていることがあるかもしれん。教えてくれないか?」

「そ、そうですね……僕が目覚めたときはベッドの上でした。僕はその時、ああ、また『女優』が男をつれこんだんだな、そう思ったんです。ベッドサイドに置いてあった腕時計を見ると時間は00:34でした。ただ、時計を見つけるのに多少手間取ったので実際に僕が起きた時間はそれよりも数分前だったかもしれませんが……」

「続けてくれ」

「それから僕は服を着てすぐにその場を後にしようとしたんです。だってわかるでしょ? 僕は男と寝る趣味なんてないんです。ところが、部屋の中が妙に荒らされていることに気づいたんです。これはおかしいぞ、と思いました。シャワールームからはシャワーの音は聞こえているけど、人が動いている様子がない。用心しながら僕がシャワールームに入るとそこに……」

「死体があったってわけか」

『学生』は頭を両手で抱える。

「い、言わないでください。今でもあの恐ろしい光景がよみがえってきそうなんですから……」

「失礼。それで何かその部屋でおかしい点に気づかなかったか。或いは何か物を動かしたとか」

「そうですね。シャワーの水が流しっぱなしだったんでそれの水を止めました。他に散乱している物を片付けようと思ったんですが、下手に物を動かしちゃいけないと思って思いとどまりました。それにシャワールームに落ちていたあの重そうな大理石の時計に血痕がついているのに気づいて、僕は怯えてしまって……。何も出来ませんでした。その後は手帳に書いた通りです。結局警察には通報出来ずに次の人格に変わってしまったようです」

「ふむ……」

 俺は『学生』の話を聞きながら考えを巡らす。

 もしも『学生』が犯人だとしたら、わざわざ自分の不利になるようなことを手帳には記載しなかっただろう。手帳に記載しなければ犯人だと疑われることもなかったはずだ。

 ややこしいことになってきた、俺はそう思った。

 容疑者を絞り込める要素があまりにもないのだ。

 ただ、彼らの証言を信じるのならば『女優』と『学生』の二人は容疑者から外れるようにも思われた。彼らが犯人だとすると、活動可能な二時間以上の時間が必要になってしまうからだ。

 となると、犯人は残りの四人ということになるが……。

 果たして犯人がわざわざ俺に依頼をするように仕向けるだろうか?

『弁護士』と『リンジー』は犯人の可能性が低い。

 そうなると必然的に疑われるのは『少女』と『暴漢』。

 だが、何かピンとこない。それはあまりにも単純すぎる。

 何かが間違っている。

「す、すいません。何も手助け出来なくて……」

「ああ、いや……十分に参考になった。ありがとう」

 不意に遠くから鐘の音が鳴り響いた。

『学生』はその音に驚き、身体をビクリと跳ね上げる。

 間近の時計は丁度16:00を示していた。

「あ、あの! 僕を殺さないでください! 僕は犯人じゃない! 信じてください!」

『学生』は震えながら俺の手を取り、懇願した。

 俺は小さく頷く。

「ああ、信じるよ」

 俺の言葉に『学生』は安堵し、震える息を吐き出した。

「じゃ、じゃあ僕は眠って、次の人に引き継ぎますので」

 まだリミットの二時間にはなっていないはずだったが、この状況は酷く堪えるのか、『学生』は早めに自分の時間を切り上げ眠りについた。

 俺は人格が切り替わる時、

『学生』もまだ容疑者の一人だ。

 そんなことを考えていた。



 5,『暴漢』


「ちょっといいですか? バーテンさん」

 私はグランデホテルの中にあるサロメというバーに入り、バーテンに話しかけた。

「なんだいお嬢ちゃん。まだオープン前だ。それにここはお嬢ちゃんの来るような場所じゃないんだぜ。ここは大人の社交場なんだ」

 がたいがよく、ひげを生やしたバーテンはチラリと私に視線を向けた後、無視を決め込みワイングラスを磨き始める。

「昨夜のことに関して話を聞きたいんですけど……灰色のスーツを着た、ウェーブのかかった女性のことで……」

 バーテンダーの手の動きがぴたりと止まった。

「まさかあの事件のことか? おいおい、なんでそんなことをお嬢ちゃんみたいなのが聞きたがるんだ?」

「人に頼まれたんですよ。教えてくれませんかねぇ……」

「駄目だね。知っているか? いいバーテンダーの条件ってのを。バーテンダーは他の客のことは話さない。それが鉄則だ」

 私は無言のまま胸ポケットから十ドルを取り出しそれをテーブルの上に滑らせる。

「…………」

 バーテンダーはジッとその十ドルに視線を向けた後、それを自分のポケットの中にくしゃくしゃにして押し込んだ。

「なんだか急に独り言が喋りたくなったな……」

 バーテンダーは私に視線も向けず、再びグラスを磨きながらを呟き始める。

「美人の女、かなりなまめかしいいい女だった。それにちゃらそうな男が話しかけてたっけな。女はわけありって感じで男はすぐにそれに食いついたって感じだった。特に大した話はしていなかったな。そうだな「それ、いい時計だね」なんて男が言っていたが、単に話のきっかけを作りたかっただけだろう。俺が見てもその女の腕時計は普通のクォーツだったからな」

 バーテンはそれからも二三の話を続けたが、どれも事件とは関係のなさそうな単なる世間話だった。

 大体の情報を得れたと思った私はそのバーを後にすることにした。

 その去り際、

「ところで、その時計大きいですね」

 私はバーテンの後ろにかけられている大きな時計を指さす。

「ああ、いい時計だろ」

「でも、時間が滅茶苦茶なんですけど……えーと、四時間二十分くらい遅れてますよね。その時計」

「時間を気にしないようにわざと滅茶苦茶な時間に合わせてあるのさ。現代人は時間に追われ過ぎだからな」


「ここはどこだ……」

 現れたその人格は僅かに呂律が回っていない感じの男の口調だった。

 見た目が完全な女であるというのにその口調は荒々しく、まさしく男のものだ。

 あまりにも不釣り合いなその声を聞いた俺は、改めてこの異常な状況を突きつけられた気がした。

「『暴漢』だな?」

 その人格は俺に向かってジッと視線を向ける。

「あんた、刑事……って感じでもねぇな……。一体なにもんだ?」

「俺は池田戦。『弁護士』に依頼されて、殺人を犯した人格を追っている探偵だ」

「探偵……?」

『暴漢』は怪訝な表情を顔に浮かべ、ジッと俺の顔を睨みつける。

「そいつは嘘だろう。あんたは探偵って感じじゃない。むしろ軍人……いや、それよりもっと恐ろしい何かだ。目を見ればわかる。ただもんじゃないな。ああ、安心したぜ。あんたなら大丈夫だ。きっと犯人を暴いてくれる」

「お褒めにあずかり恐縮だ。さあ、お前が知っていることを話して貰おうか。そうだな昨日の夜の出来事からだ」

「ああ、いいぜ。だが、こんな日差しの場所で話しをするのはまっぴらだね。そうだな……あそこで酒でも飲みながら話すってのはどうだ?」


「ああ、確かに俺は夜中、酒を飲みに出かけたぜ。手帳にメモを残さなかったのは悪かったと思うがね、別に酒を飲みに行くくらいなんだ、メモを残さなくてもいいだろう? それに俺がメモを残さないことは他の連中も知っているからな」

 ハドソン川沿いのカフェの中、俺の前にコーヒーが、『暴漢』の前にビールが運ばれてくる。

「一杯だけだぞ。それ以上飲んでべろべろになられても困る」

『暴漢』は肩をすくめて苦笑を浮かべる。

「まあ、大事な捜査だってことはわかってる。俺も一杯で我慢するさ」

「それで、お前が起きたのは何時だったか覚えているか?」

「ああ? 何時かだって? 悪いな、俺はあまり時計ってやつをみないんだ。例えば、今はえーと、16:15かね?」

『暴漢』は自分の腕時計に視線を向け、呟く。

 俺は携帯の時計を見た後、店にある時計へと視線を向ける。

 二つとも16:18を示していた。

「いやそれだと三分遅いな。今は16:18だ」

「ああ、そうかい。だが、三分なんて誤差の範囲だろ?」

 笑いながら言った『暴漢』の言葉に俺はにやりと笑みを浮かべる。

 こいつとはなかなか気が合いそうだ。

「まあ、多分20:00頃だったと思うぜ。『リンジー』の野郎が18:00時に目覚めたって書いていたからな」

「目が覚めてからは、バーに?」

「ああ、何回か行っているバーだ。サンク……なんとかっていう名前のバーだな。そこで何杯か飲んだ。それで時間が来たんで、支払を済ませて外に出たってわけさ。その時はそれくらいだったな。おかしなことなんて別になかった」

「二時間、時間を使ったとして。支払を終えて外に出たのは22:00頃ってわけか?」

「まあ、そうなるかね? ああ、多分そうだ」

「次に目が覚めた時のことについて教えてくれ」

『暴漢』はふんと鼻息を吐き出し、ビールを一気に飲み干す。

 そうした後、右腕の袖で鼻をかき、口を開いた。

「あれは02:32だったな。それは間違いない。その時ばかりはちゃんとを見たからな。ついに誰かがやっちまった、俺はそう思ったよ。だから部屋にある指紋を丁重に消して、なるべく人目につかないようにして外に出た。へまはしていないはずだ」

「ふむ……何か部屋におかしな点はなかったか?」

「おかしな点ね……そうだな。部屋が妙に荒れていたな。ベッドボードが壊されていたし、シーツも滅茶苦茶。スタンドも倒れていた。何か争いがあったような感じだったな」

「死体は見たか?」

「ああ。恐らくシャワーを浴びている時に鈍器で一発。あの重そうな置時計で背後から殴りつけたんだろう。あれで後頭部を叩けば女の力でも気絶させるのは簡単だ。あとは浴槽に沈めて終わり。……ああ、そういえば今気づいたんだが、少し妙だな。死体には抵抗したような様子がなかった」

「抵抗した様子がなかった?」

「後頭部に一撃だ。争いが出来るような状態じゃない。それに部屋は水で濡れていなかったし、血痕は浴槽の中にしかなかった」

 俺は顎に手をやって、ふむと小さく声を上げる。

「妙だな……抵抗した様子がないのに部屋は荒らされていた……」

「偽装かね?」

「かもしれん。だとして……一体何の意味が……」

 しばらく思考を巡らした後、俺はふと『暴漢』に苦笑を向ける。

「ああ、あとあれはまずかったぜ。死体から金を盗るのはまずい。罪状が重くなるぞ」

「ほとぼりが冷めるまで他の州に逃げるつもりだったんだが、確かにこうなっちまえば金はとらなかった方がよかったかもな」

『暴漢』も苦笑を浮かべてそう答えた後、チッと舌打ちをした。

「糞っ、そろそろ時間みたいだ」

「ああ、あと一つ。お前は誰が犯人だと思う?」

「誰が犯人かだと? さあな、俺にはわからんね。男を引き込んだのが『女優』なんだから『女優』なんじゃないか?」

「なるほど」

「じゃあな、池田。うまくやれよ」



 6、『少女』


「あ! 探偵さん! どう? 悪い奴は見つかった?」

 明るい声で俺に向かって言ったその口調からすぐにそれが『少女』であることがわかった。

 ただし、何故か少し呂律が回っていない。

『暴漢』が飲んだビールが抜け切れていないのかもしれない。

「あーいや、全然だな。酷くまいってるよ。手助けしてくれないか?」

「だらしないのね! でもいいわ! 私が知ってることならなんでも教えてあげる!」

「そりゃ、助かるよ」

 俺は気のない返事をする。

『少女』は恐らくあまり正確な記憶を持っていなさそうだし、更に事件があった時刻には直接的な関わりがないのだ。しかも酔ってる。

 助けが欲しいと言ったものの、『少女』からは重要な証言が得られるようには思えなかった。

「『少女』はどうやって俺の事務所まで来たんだ? 大変だっただろ。結構わかりづらいところにあるから」

 俺はインターバルを置くつもりで適当な問いかけをする。

「そうでもないわ。おまわりさんに聞いたら親切に教えてくれたもの。私、もうこれでも立派なレディなのよ。道くらい普通に聞けるわ」

「おう……そりゃ凄いな」

 俺は絶望を感じながら顔を覆い、なんとかそれだけの返事をした。

 よりによって警察に俺の事務所の場所を聞いているとは、あまりの間抜けな行動に頭が痛くなってくる。

『少女』はあのメモを見て、自分が警察に追われている立場だということに気づかなかったのだろうか……?

 まあ、相手は『少女』なのだ。

 俺はそう思い返し、無理矢理、顔に引きつった笑みを浮かべた。

「なあ、他の人格で何か悪そうな奴とかしらないか? なんか悪いことしそうだなーって奴」

「私、他の人に会ったことないからあんまり知らないけど、そうね。『弁護士』さんは真面目そうだし。『暴漢』さんはちょっと乱暴者みたいね。『学生』さんは気が弱そうで。『女優』さんは怒りっぽい。『リンジー』はだいぶ参ってるみたいだわ。でもみんないい人だと思うわ。もし悪い人がいるとしたら、その人はきっといい人の振りをしてるのよ」

「まあ、そりゃそうだろ」

 俺は早く三十分経たないものかと携帯の時計にチラチラ視線を向ける。

「あ、いけないのよ。人といる時に携帯とか時計を見るのは相手に失礼なのよ。レディの前なんだからそんなの見ちゃ駄目よ」

「『少女』は時計はあまり見ないのか?」

「人前ではあまり見ないわ。でも、私が起きた時にはちゃんとチェックして手帳にメモは残してる。だってそうしないとみんなに迷惑でしょ」

「ああ、そうだな。えらいなー」

 俺は適当に相づちを打ちながらカフェの時計にチラリと視線を向ける。

 もうそろそろ三十分が経とうとしていた。人格を切り替えることが出来る時間だ。

「ああ、そうだ。誰かが絵を描いているそうなんだが、『少女』は何か知ってないか?」

「絵? あの絵ね! あれはとても素晴らしい絵だわ。私、あの絵、好きよ。私もいつかあんな絵を描いてみたいとずっと思ってるの。でも、酷い人がいるのよ。あの絵を滅茶苦茶にする人がいるの。もしかするとその人が犯人なのかもしれないわ。いいえ、きっと犯人よ。あんな素晴らしい絵を滅茶苦茶に出来るのは悪人しかいないと思うもの」

「なるほど。貴重な意見ありがとう。あ、それで悪いんだが、ちょっと他の人に切り替わって貰っていいかな? 他の人にも話を聞かないといけないんだ。頼むよ」

「何よ! 私だと頼りにならないっていうの? 失礼ね!」

『少女』はむくれた様子で頬を膨らます。

「ああ、そうじゃない。実は犯人がわかったんだ。だから、切り替わって貰えると凄く助かるんだよ」

 まあ、それは嘘だが。

「え? 本当に犯人がわかったの? 凄いわ!」

「だから、な。ほら、お願いだから」

 俺はなんとか『少女』をおだてて、持ち上げ。

 とりあえず切り替わってもらうことに成功した。



 7、リンジー・アンバー


 それまでの人格のどれとも違う憂鬱そうな表情が現れたのを見て、俺はそれがリンジー・アンバーであることを確信した。

 ついに主人格である『リンジー』が姿を現したのだ。

「リンジー・アンバーだな?」

「ええ……あなたは池田さんね。初めまして……」

『リンジー』はそう弱々しい声で答えた後、その場で崩れ落ち、そのまま泣きじゃくり始める。

「もう嫌よ……嫌……こんなのは沢山だわ……なんでこんなことになっちゃったの……」

 俺は『リンジー』に今までの捜査の流れを説明する。

 だが、事件の鍵を握ると思われた『リンジー』の登場はその期待を裏切った。

 主人格であるはずの彼女も他の人格と同様の立場の存在でしかなかったのだ。

「ねぇ、池田さん。お願いがあるの……」

「クロフェナピリドをあんたに投与するってお願い以外だったら、なんでも聞いてやるぜ」

『リンジー』はその視線を地面へ落とし、小さくため息を吐き出す。

「なんでもお見通しなのね……」

「つらいだろうが、協力してくれ。情報が欲しいんだ。なんでもいい。犯人に関わること。その身体に関わる情報どんな些細な物でもいい。情報をくれ」

「私が知っていることはそんなに多くないわ……あなたが『弁護士』から聞いた情報と私が知っている情報には大差はないもの……私、ほんとに駄目な女なのよ……」

「泣いてる場合じゃないんだ。なあ、何かおかしかったこと、何か今身体に感じるおかしい点でもなんでもいい。どんな些細なことでもいいんだ。あんたは俺に依頼するメモを残すことが出来た強い女だ。さあ、立ってくれ。皆を救うために」

 その俺の言葉にそれまで泣きじゃくっていた『リンジー』はその身体を起こし、泣きはらした目で俺に強い視線を向けた。

「わかったわ……協力する」


 俺達は共にあの車まで戻り、再び街を駆け始めた。

「『リンジー』。このままだと近いうちに精神が崩壊する。これは本当なのか?」

「ええ、私の精神バランスは今とても酷い混乱の中にある。私の直感がそう訴えているの……このままだと間違いなく崩壊は引き起こされる。……次の睡眠を迎える時……恐らくそのタイムリミットは今夜日付が変わる頃……」

「他の皆もそれを信じている?」

「精神に関する私の予感はいつも当たっていたから。多分……皆も信じていると思うわ」

「それを回避する方法は、殺人者の排除しかないのか?」

「ええ、殺人者の排除……いえ、もしかすると殺人者以外の一人の人格を排除しても或いは僅かな安定を得れるのかもしれない……でもそれは所詮気休めだわ。殺人者を排除しなければどのみち精神は崩壊する」

「一人の人格の排除か……」

 俺はあの手帳を取り出し、それを『リンジー』に手渡す。

 手帳にはそれぞれの証言から得た時間が書かれている。


 18:00  『リンジー』 家に帰宅。

 20:00  『暴漢』   酒を飲みに出かける。

 22:00  『女優』   バーで男を釣り、部屋へ。

 00:00  『容疑者X』 男を殺害。

 00:34  『学生』   部屋でパニックになる。

 02:32  『暴漢』   部屋の証拠を消し、バーへ。家に帰り睡眠を取る。

 07:15  『リンジー』 家で目覚める。

 09:15  『少女』   事務所へと向かう。

 11:15  『弁護士』  依頼を行う。


「それぞれの証言からこの流れを書き出したが、これに何か疑問はないか?」

「いえ、これは凄く正しい記述だと思うわ。この記述には間違いはないと思う」

 だが何故か、俺は『リンジー』のその言葉に納得できないでいた。

 何かおかしい、この時間表に何かの違和感を覚えるのだ。

 だが、その違和感とは一体何だというのか……?

 俺はネオン広告の下にあるデジタル時計に視線を向ける。

 既に時刻は七時を回り、辺りは暗くなり始めていた。

「糞、もう七時か」

 タイムリミットまで時間がない。しかもそのタイムリミットまで都合のいい人格が現れるという保証もないのである。

 どうすればいい。だれが犯人だ? その証拠は?

 駄目だ、何もない。何も証拠がないんだ。

 だがその時不意に、『リンジー』は街頭のデジタル時計に視線を向け、僅かにその顔に怪訝な表情を浮かべた。

 その様子に気づいた俺は『リンジー』に問いかける。

「なんだ、時計がどうかしたのか?」

「いえ……たいしたことじゃないのだけど……」

「なんでもいい。言ってくれ」

『リンジー』は腕時計を俺に見せながら口を開く。

「この腕時計が三分遅れていることに気づいて……」

「ああ、そんなことか……」

 俺はあの『暴漢』との会話を思い出す。

 三分は誤差だ。大した問題じゃない。

「その時計は機械式か? ずれるようなら修理に出した方がいい。俺のも丁度修理に出していてね。ちゃんと扱わないと機械式はよくずれる」

「いえ、この時計はクォーツよ」

 その『リンジー』の言葉に俺はビクリと動きを止めた。

「クォーツ? その時計は正確なのか?」

「ええ、勿論。私達にとっては時間の正確さはとても重要ですもの。信頼の置ける時計を使っているわ。でも変ね……昨日起きた時、私はこの時計がぴったり合っているのを確認したはずなのに……」

 その言葉に俺は車を急停車させる。

 そして、『リンジー』の肩を掴み、声を上げた。

「その話は本当か? その時計はぴったり正確な時間を示していたんだな。それがずれていた! そして今朝は殺人に動揺し、時計があっているかどうか確認出来なかった。そうだな!」

「え、ええ……そうよ」

「そうか! そうなると答えは二人までに絞られる! だが、どっちだ。いや待て、三分。三分のずれの意味はなんだ。そのずれに何の意味がある……?」

 直後、ついに俺はその『三分』の意味に気づいた。

「そうか三分! そう三分だ! 三分ずれる必然性があったんだ! わかったぞ!犯人が! 全部わかった!」

 俺は絶叫した後、顎に手を当て思考を巡らす。

「問題はどうやって奴に薬を飲ますかだ。これもかなりの難題だが……」

 俺は携帯を使い、トニオに電話を行う。

 そうした直後、鯉から着信があった。

 俺は鯉の話を聞いて自分の推理に更なる確信を持つ。

「すべてはわかった。後はこの大芝居が上手くいくかどうかだ」

 興奮する俺の横、『リンジー』は何もわかっていない様子でポカンと口を半開きにし、唖然とし続けていた。



 8,芝居開幕


「よう。えーと……お前は誰かな?」

 俺はソファに座るその誰かの人格に向かって声をかけた。

「私は『女優』よ。ここはどこ?」

「ここは俺のオフィスだ」

 俺はそう答えてあくびをする。

「まったくこの数日本当に苦労したぜ。本当に厄介な仕事だったよ。おかげで俺は徹夜だ。少し寝させてもらうとするかな」

「ちょっと待って、なんだか随分気が抜けてるみたいだけど。殺人者は見つかったの? 誰かの人格を排除したの? 教えてちょうだい」

 俺は『女優』の言葉にふうとため息を吐き出し、頷く。

「ああ、いいぜ。鯉、眠いところ悪いが、コーヒー入れてくれ」

「あ、はい。了解ですー」

 同じく寝ぼけた様子の鯉が答えてコーヒーを用意しはじめる。

「『女優』はいるかい?」

「いえ……私は結構よ。それよりも教えてちょうだい。一体何がどうなったの?」

「まあ、これを見ればわかるだろう」

 俺はコーヒーを飲みながらテレビの電源をつける。

 そこから朝のニュースが流れ始めた。

『六月三日、朝六時です。おはようございます。今日、ニューヨーク市では恒例の……』

『女優』はそのテレビの映像を見て目を見開く。

「六月三日ですって? じゃあ、本当に終わったの?」

「ああ、終わったよ。全部な」

 俺はコーヒーに口をつける。

『女優』は尚も信じられない様子でそのニュースを見ていたが、やがてしてふうと小さく安堵の息を吐き出した。

「ああ、やっぱり私にもコーヒーをちょうだい。ブラックでね」

 鯉がコーヒーを置き、『女優』はそれを口にする。

「結末はこうだ。犯人は『暴漢』だった」

「『暴漢』が犯人? ああ、やっぱりね。そんな気がしていたわ。何か証拠はあったの? 『暴漢』が犯人だっていう証拠は」

「こういうことさ。同じ人格は連続して現れることが出来ない。そして『女優』と『学生』はその殺害予想時刻の前後に活動出来る限界の二時間の行動を行っていた。つまり、この二人は犯人から除外される」

「ええ、そういうことになるわね」

「そして、次に『弁護士』と『リンジー』だ。彼らは俺に依頼を行った。犯人であるのなら俺に依頼を行うはずがない。それに協力した『少女』も限りなく犯人の可能性が低い。となると残りは『暴漢』というわけさ」

「なるほどね……確かに言われてみればそうだわ。それは私も納得できる。そうか、やっぱりあいつが……でもこれで安心したわ。あなた意外と出来る探偵じゃない」

「そりゃどうも」

 俺はコーヒーを飲みチラリと時間を確認する。間もなく三十分の時間が経とうとしていた。

 そこで俺はもう一つの話を切り出し始める。

「ところで、もう一つの仮説ってのもあったんだが、聞いてみるかい? なに、これは結局使わずじまいだったんだがね……」

『女優』はおどけた様子でその顔に笑みを浮かべた。

「教えてちょうだい。探偵さん」

 俺はふうと息を吐き出し、その仮説を語り始める。

「その犯人はバーに行き、男を釣った。その時、これから起こす行動の為にあらかじめ腕時計を三十分程度進めたんだ。殺害に手間取り、時計を進める余裕がなくなる可能性を恐れてな。だが、あいにくそのバーの時計の時間は滅茶苦茶だったんで時間を何分ずらしていいのかがわかりづらかった。その上、犯人は男の前にいる手前、あからさまに腕時計をいじる真似ができなかったんだ。その為、犯人は三十分程度しか時計を進めることが出来なかった。だが、それはあまり問題じゃない。三十分以上ならば支障はなかったからだ。三十分以上時計を進めれば、謎の容疑者の存在をでっち上げることが出来たからだ。そう。腕時計は約三十分ずらされていた」

 始め、笑顔でその話を聞いていた『女優』の表情が緊張を帯び始めた。

「だが、犯人はある行動を絶対に行う必要があった。それは再び目覚めた時、ずらしていた腕時計の針を元に戻すことだ。ずれた時計に気づかれたらこのトリックは破綻してしまう。その為、犯人は重い大理石の時計を凶器にし、部屋を荒らして部屋の時計を破壊した。他の人格が時間のずれを確認出来なくする為にだ」

 俺の口調は自然と鋭くなり『女優』の顔は青ざめる。

「犯人の目論見は見事に成功した。後に目覚めた犯人は腕時計を見て、己の勝利を確信したことだろう。三十分ずれたままの腕時計は、他の人間がそのトリックに気づいていないことを示していたからだ。後は簡単だ。目の前にあるデジタル時計に腕時計の針を合わせればいい。だが、何故かぴったり時計を合わせたはずのその腕時計は三分ずれていた。そう、三分だ! 何故、三分ずれたのか! その三分という時間のずれには一体なんの意味があるのか!」

 その場の皆は全員息を飲み、一瞬の静寂が訪れる。

「そうだ! 犯人は腕時計の針を! 俺の車の中で、! その機会があった人物はただ一人しかいない!」

 俺は息を吸い込み、鋭い口調で言い放つ。

「つまり犯人は……『女優』だ」

『女優』は顔を真っ青に青ざめさせ、その頭を両腕で抱えたままぶつぶつと言葉を繰り返す。

「なんで……なんで切り替わらないのよ。なんで私の時間を終えれないの……何故……」

「もう三十分経っている。クロフェナピリドの作用時間が来たんだ。もう人格は切り替えられない」

『女優』は青ざめた顔でキッと俺の顔を睨みつける。

「こんな馬鹿なことはありえないわ! じゃあ、このニュースはなんなの! 確かにこれは三日のニュースよ。これが見れると言うことは既に一回の睡眠を挟んでいると言うことだわ!」

「これはフェイクだよ。実際の今の時刻は二日の夜十一時なんだ。悪いね」

「フェイク? フェイクですってそんな馬鹿な!」

 今にも飛びかかりそうな『女優』に向かって俺は固い苦笑を浮かべる。

「トニオに頼んで用意してもらったのさ」

「まさか! これがフェイクだなんてありえないわ! スタジオやキャスター、セットまで用意してこの映像を作ったっていうの? キャスターの動きも演技っぽさはまったく感じられない! こんな動画を数時間で作り上げるのは不可能よ!」

「ああ、いや……」

 俺は小さく頭を左右に振る。

「俺のトニオへの依頼はこうだ……『一年前のニュース動画を取り寄せてくれ』」

『女優』は俺の言葉を聞き、しばらく呆然と言葉を失う。

 そうした後、『女優』は妙に明るい笑い声を立てた。

「ああ……馬鹿ね。馬鹿よ、私。そうね完敗だわ……完敗よ、探偵さん。ねぇ覚えてる? 私言ったでしょ? 『あなたと一緒にいるときっとろくでもないことが起こる』って。その通りだったみたいね。私の勘はよく当たるのよ。……でも、私の演技、とてもよかったでしょ?」

「ああ、名演技だったよ。俺も一度は騙された」

 俺は僅かに微笑を浮かべて答える。

 そして、俺は一つの疑問を『女優』へと投げかけた。

「なあ。何故、あんたはあんな殺人なんて真似をしたんだ? 一体、何が目的だったんだか教えてくれないか?」

『女優』はふふっと自虐的な笑みを浮かべる。

「私……あの絵を描く奴に嫉妬していたのよ。確かにあの絵は私が見てもとてもとても素晴らしいものだった……それだけに許せなかった。あいつは自分の才能を形にして世間から認められることが出来る。だけど、私にはそれが出来ない。絶対に出来ない……」

『女優』は俺の目をジッと見つめ、言葉を続ける。

「二時間しか活動出来ない『』なんて滑稽なだけでしょ?」

「なるほどね……」

 俺はジッと『女優』の目を見返し、呟く。

 その独白は素晴らしく心を打つものだった。これが演技だとすれば彼女はまさしく最高の『女優』だと言えるだろう。だが、彼女はその才能を世間に披露することも示すことも出来ないのだ。

 恐らく彼女は『牧師』を殺害し、己の時間の延長を目論んだのだろう、だがそれが不可能とわかった時、彼女は別の行動……実際の殺人を起こすことに決めたのだ。

 いや、或いは彼女はこの殺人という舞台の上で、己のその才能を示したかったのかもしれない。

 そうして彼女は消え去るつもりだったのだ。

 彼らを道連れにして。

「ああ……もう時間みたいだわ……私は誰にも知られずに生まれて、誰にも知られずに消えていくのね。とても悲しいわ。とても悲しい存在……とても悲しい『女優』……」

「少なくとも俺は忘れない」

 そう言った俺に向かって『女優』は酷く悲しげな視線を向け、その顔に苦笑を浮かべた。

「それなら少しはマシかもね」

『女優』はふうと息を吐き出し、その身をソファにもたれかからせる。

「じゃあね、探偵さん。車の時計は直しておきなさい。時間にルーズな男は嫌われるわよ」

 最後にそう言い残し『女優』はこの醜くも美しい舞台から永遠に去っていった。



 9,二百万ドルの絵


 その後、当初の約束通り、俺の事務所に一枚の絵が送られきた。

 俺はそれを事務所の壁にかけた後、思わず唸り声を上げる。

「オレンジを基調としたすばらしい絵だな。流石、リンジー・アンバーの作品だ」

 鯉もその絵へとジッと視線を向ける。

「いい絵ですねー。じゃあ見たところで売りましょう」

 俺はその鯉の唐突な言葉に面食らい、唖然と動きを止めた。

「魂の発露だとかなんとかいう話はどうなったんだ。おい」

「それはそれ。これはこれです。ウチの財政状況は火の車なんですからこれを売って楽になりましょう」

「馬鹿を言うな。俺はこの絵を飾るぞ。絶対に売らん!」

「なーに言ってんですか! 先生だって金金金って言いまくってたじゃないですか!絶対に売りますからね! 扱いきれないほどの大金手にして破滅する人生体験してみましょうよ! 先生!」

「馬鹿! 俺の人生の教訓は『平穏が一番』なんだよ! そんな大金なんぞいらん!俺はこの絵が気に入ったんだ!」

「どこが平穏なんですか! 毎回毎回、自分から厄介ごとに頭突っ込んでばかりじゃないですかー!」

 俺たちは延々とくだらない言い合いを交わし続ける。

 しばらくそれを続け、二人とも息が切れてきた頃、不意に鯉が俺に問いかけた。

「そういえば結局、この絵を描いていたのは誰だったんですか? これ一応、リンジー・アンバーの名義になってますけど、絵を描いているのは別の人格の誰かなんですよね? 先生、それが誰なのか気づきました?」

「ああ、そんなことか。この絵を描いたのは『暴漢』だよ」

「え? 『暴漢』ってあの荒々しい人格の人ですか?」

「そうだ。奴はパレットナイフを持っている時の癖で袖で鼻をかいていた。手帳に行動を記載しないのは絵を描いていることを他の人格に悟られない為だ。それに、手帳に絵の具がついたりしたら厄介だろ?」

「そうなんですか……へぇ」

「人は見かけによらないってことなのかね? まあ見かけは全員同じなんだが」

 俺は言いながらふとその額の端へと視線を向ける。

 そこには絵のタイトルと思われる文字が刻まれていた。

 絵のタイトルは『時間タイム』。

 確かにこれは時間に振り回された事件だったな。

 そんなことを思い、俺は皮肉げな笑みを浮かべた。







                      「一人、或いは六人の容疑者」 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一人、或いは六人の容疑者 鬼虫兵庫 @ikedasen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ