文字にする ――十八歳
進路希望調査書。
学習机の上に置いたその紙を前にして、じっと目を閉じていた。
紙の上半分に、本人記入欄。下半分には保護者の記入欄。
好きなラジオを聞いていたはずが、いつの間にかヘッドフォンをつけていることを忘れる位にじっと、じっと。
もしかして今夜この一瞬が、人生のターニングポイントって奴かもしれない、と。
本当にやりたいことを考えてみなさい、と担任の先生がおっしゃった。
本当にやりたいこと。君の人生において何となくやってみたいことを思い浮かべて、そこにつながる仕事、さらにその仕事につながる学部や専門学校を考えてほしいんだ、と。
君が本当にやりたいこと。
自分が本当にやってみたいこと。
本当はやってみたいと思っていることを。
今、自分が何にどきどきしているのかを。
まずはここに、こっそり書いてみたらいいんじゃないかなって。
例えば、そう。
初めてカメラを覗いたのは、小学校五年生の時。確か学芸発表会か何かの記録用のハンディカメラだった。薄暗い体育館に並んだパイプ椅子と、そこに座る生徒やPTAの間の通路。そこにぽつんと置かれた先生のカメラを、放送委員だった私が覗いた――その瞬間。
目の前に、とんでもない世界が現れた。
それは私の見ていた世界とはまるで違って、それでいて同じでもある不思議な世界だった。ステージの上に置かれた跳び箱で教わった技を披露する生徒達と、見守っている大人達の頭、あたま、アタマ……それから壁に掛けられた校歌の歌詞や、バスケのゴールの更に上で光を遮る黒いカーテンも。
同じモノを見てるのに、何かが違う。全然違う。言葉にならない驚きを飲み込みながら、何度も何度も肉眼世界とカメラの中の世界を見比べたのを覚えている。
それから発表会が終わるまでの間、夢中でカメラを弄っていた。跳び箱に飛びかかる男の子の顔をアップにしてみたり、待機列で鼻をほじる一年生の指先を追いかけて見たり。
以来、テレビを見てもYouTubeを見る時も写真を見る時にさえ、本当はどんな風に見えているのかなとかそんなことを考えていた。だってそれは明らかに人間の目に――少なくとも当時から眼鏡が必要だったこの目に映る世界とは違っているのに、それをみんなが正しい物として受け入れている感覚、
もしかしてこれが兄の言うイデアの世界なんじゃないかとか、そんなことを考えながら幾つもの映像をパソコンに齧りつくように見つめていた。
それでどんどん目が悪くなっていくモノだから、動画を見る時間を減らしてくれればと考えたのかもしれない。中学に上がる時に、両親がハンディカメラを与えてくれた。
高2の時に自分で買った奴がメインになった今でも、あのカメラは宝物だ。
カメラを覗くのは楽しい。レンズの向こうの世界が好きだ。
だから、もっと映像を撮っていたい。
だから、映像を撮る仕事に就きたい。
出来れば、アイドルやバンドなんかのライブを撮る人になってみたい。格好いいシャウトとかたまらん可愛い表情とかの見えている物と、その瞬間にぶわーって出てるカリスマだとかエネルギーみたいな見えない物や、自分の胸に湧き上がる興奮だとか感動を、時間や場所を越えてちゃんと感じ取れるような映像を撮り続けたい。
だから、そういう大学や専門学校に行ってみたい。
実はもう、希望の学部と学校の名前は知っている。そこがとても人気があるって事も調べはついている。入学試験に『映像作品の審査』があることも。もしも入れたとしても、そこから先に映像のプロを目指すとなるとさらに厳しくなるらしいという事だって、図書室で借りた本でなんとなくは知っている。
なんとなく。なんとなく。ぼんやりと思っていたその未来の輪郭がここに書いたらはっきりする様な気がした。カメラを覗いたあの時みたいにまるで違う明日が待っているのでは、と。
ひょっとしたら両親と喧嘩になるかもしれない、もしくは頑張れって応援してくれるかも。
どっちにしろ将来の夢なんてものが親や先生や友達にバレるのは、なんだかちょっと恥ずかしい。もしも途中でダメになったり嫌になったりしてしまったら、もっと恥ずかしいかもしれないわけで。
本当にやりたいことや本当はやってみたいことが。その『本当』がいつか嘘になるかもしれないわけで。
カチャンとボールペンで机を叩いて、椅子の背もたれで思いっきり背中を伸ばす。
あー。いつか有名になってインタビューとかされちゃったら『きっかけは小学校の発表会です』って言うのかなー。それともヨーロッパのドキュメンタリーとかをあげた方が格好いいのかなーなんて考えながら。
短編集 ありふれた幸せ たけむらちひろ @cosmic-ojisan
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