「かぎかっこ!」

遠森 倖

「かぎかっこ!」

「かぎかっこ!」

 薬缶から噴出し続ける湯気に、湿る事務所の空気。その重い空気の間をすり抜けるように響く声。

 私は「うう……朝回した洗濯物、完全に干し忘れてきた……あの下着、お気に入りだったのに」と後悔し嘆息しながら、急須へと薬缶のお湯を注ぐ。

 そして、傍と気付いた。

「……先輩、またやりましたね」

「いやー芥子からしちゃん。可愛い後輩がその刷毛のように長い睫を伏せて思い悩んでいたら、やっぱり僕としてはその憂いが気になるわけだよね。ね?」

 先輩は、来客用ソファに仰向けに寝っ転がり、逆さになった顔をこちらに向けていた。

「それで、私の憂いを取り払う方法は見つかりそうですか?」

「そりゃあもう、今まさに無聊を託っている僕が全力で以って君の家の洗濯物を干しに行くという妙案がね。それにしても芥子ちゃんは下着も洗濯機で一緒に回しちゃうタイプなんだねー。傷むから、手洗いにした方がいいよ。ね?」

「あの、とりあえず一回死んでもらえますか?」

 雪雲に覆われているとはいえ、まだ日が高いうちからのセクハラ発言に「次会ったら舛花ますはな刑事に絶対言いつけてやる」と私は強く決意をして――あぁまたやられた。

 何時の間にか先輩の両手は、親指と人差し指だけを伸ばしたLの字を取り器用に組み合わされ、その不健康そうな顔の前で「」の形を作っていた。

「冗談だって芥子ちゃん!表に出てる死んで貰えますかより、そっちの告げ口の方が怖いなー、な?」 

「先輩、その手を解いて下さい」

「はーいはい」

 まるで次に撮る写真を決めるかのように景色を切り取っていた、先輩の「」型の指が空中で解かれる。

「本当に、油断も隙もない」

 先輩が指で形作る「」(カギ括弧)には不思議な力がある。その小さな枠を向けられ先輩の視界に切り取られた人物は、その時の本心を強制的に言葉として切り出され、喋らされてしまうのだ。

「いやあ、僕からすれば、芥子ちゃんのほうが油断も隙も無い子なんだけどね、ねえ?」

「知りませんよ、私には先輩からしての事までは」

 片手に自分の湯飲みを持ったまま、私はソファの横のローテーブルに煎れたばかりのお茶をドンと置いた。起き上がった先輩は猫のように背を丸め、緑玉の照りを放つ小樽焼の湯飲みに顔を寄せふーふーと辛抱強くお茶に息を吹きかける。なんと行儀の悪い。

「それで、芥子ちゃんの干し忘れたお気に入りの下着は何色なの?なあ?」

「そおぃっ!」

 私に問いかけると同時に先輩の空いていた両手が閃く――のをとっくに見越していた私は自分で持っていたお茶を先輩の顔面にぶちまけた。

「うあっつぃ!?」

「当然です。お茶は熱くてなんぼですよ」

「君のポリシーがまさか凶器となるとは……次からうちの事務所ではぬるいお茶しか認めないからね!わかった!?」

 顔面を押さえて床を転がる先輩。試合は終了だと私はお情けでタオルを一枚放ってあげた。先輩は四六時中、徹頭徹尾こんな感じだ。

「本当に……社会に出る前の最後に与えられた自由の謳歌だ、なんて世間で持て囃される大学に入学した十八の春。慣れない校内を一人うろうろしていた所を、中庭の隅で煙草を吹かしていた先輩に目を付けられ、先輩が卒業するまでの辛抱だと散々セクハラされ構われ倒されても耐え続けた二年間。そして見送られる先輩よりも、解放される私が号泣した卒業式」

「そつぎょうしきー」

「そして、その先輩が迎えに来ちゃった私の卒業式……」

「そつぎょうしきー」

「先輩っ!遊ばないでください!」

 私の怒声に先輩が肩を跳ねさせる、と同時に電話のベルがけたたましくなった。

 この札幌の一画の雑居ビル。その三階に構えられた当事務所の固定回線、および調度品の類は、信じられないことに以前に入っていたテナント、という名のヤクザやさんが開店していた頃そのままだ。

 抗争や縄張りの関係で撤退しなければいけなかったらしいとのことで、いざこざやしがらみが無かったのかは不明だが、神経が図太いを通り越して焼き切れて無くなってしまっているとおぼしき先輩は何らかの遣り取りの末にここをまるっとそのまま譲り受けたらしい。

 まあ、テナント料も高熱水道費も、今鳴り響いている嫌に古臭い黒電話の回線費用も、全部自分達が払ってるので他人からとやかく言われる筋合いは無いが。

「また、カムチャッカの方からの間違い電話かなあ?ねえ辞書これだっけ?」

「その辞書、アンダーバーが引かれてる単語が密漁と密入国だけだったんですが……」

「うん、とりあえずその二語が聞き取れれば成り立つからね!ね?」

「成り立たせちゃ駄目ですって!ご破算にしてください!」

 オーケーと指サインを作りながら受話器を耳に押し当てる先輩。意気揚々と辞書と口を大きく開いて、千キロ先の住人へと言葉を投げかけようとして――そして、先輩は急にぶすっとした顔で唇の端を吊り上げた。同時に放り投げられる分厚い辞書。

 ああ、とか、ええ、とか母音しか発しない先輩は、まるで別人のようだ。

 相手はすぐに分かった。さあ、お仕事の時間だ。



 さあ、なんて意気込んだものの、此処はいつもの事なので、本当に、簡略でいいと思う。

「あんた、この人殺したの?そうなの?」

 目の前の女性は腕を組んで鼻息荒く「殺したわよ!」と怒鳴り、そして顔を青ざめさせた。

「へえ、じゃあ凶器は?部屋には無かったよね?なあ?」

 口元を押さえた女性は、しかしその掌の裏から「石狩湾に捨てたの……」とくぐもった声を響かせる。

 まるで写真家の真似事のように、指で作ったカギ括弧でしきりに目の前の女の人を捉えていた先輩はへらりと笑う。

「遠くまでご苦労な事だね。モノは刃渡り20センチの包丁でオーケイ?ん?」

「……そうよ!」

 おっと、最後のは自発的発言かな。私はもういいか、と壁際に一緒に並んで立っていた舛花刑事のスーツの袖を引っ張った。

「そろそろ、取調べ人を替えましょうか」

「何よその男!?これじゃあ私」

「ええ、罪を認めましたね」

「こんなのインチキよ!!」

「ですが暴力も、長時間に渡る取調べも我々は――」

 何時も通りの容疑者――いや、自白した今は犯人か、との押し問答を背後に聞きつつ先輩と私は一足お先に取調室を退散する。録画も録音もされているし、何より凶器の場所まで吐かせたのだから、直にこの事件もカタが着くだろう。

「この真冬に石狩湾だって、ぷぷっ可哀想ー」

「先輩、不謹慎ですよ」

「石狩だったら帰りに美味しい鍋でも食べれたらいいね、舛花もさ。んでケチって経費で落として公費の無駄使いーとか、税金泥棒がーとか言って叩かれたら最高なのにな、ね?」

「……俺は、海のドブさらいにまでは着いて行かねえし、そんなヘマしねーよ」

 背後から流氷の冷たさで流れ込んでくるのは静かな怒りだ。

「……先輩」

「ヤダ」

 頑なに先輩は振り向こうとしない。

「先輩、昔から自分でまいた種は――」

「隙有り!」

 普段ならば仁義無きチャンネル争いでのみでしか見せない素早さで以って伸ばされた先輩の手が私の肩を掴む。抵抗する間もなく私はくるりと180℃回転させられた。

「ひゃあっ!!」

 表情を歪めていないからこそ分かる。怒髪天の怒り……というものがあるのならばまさにこれだろう。そこに、先輩の掛け声。

「今だ!」

 全身を子兎のように震わせながら私は「舛花刑事ぃ……そんな怖い顔しちゃ嫌ですよぅ」と涙目になって訴えた。

 背後でやった、という先輩の声。カギ括弧を構えてにんまり笑っているだろう先輩の姿が見ずとも想像できた。

「芥子ちゃん!清楚可憐な君を泣かせるような事言うわけ無いだろう?あぁ泣くな泣くな!」

 相好を崩しうろたえる舛花刑事。先輩の能力の意地の悪いところは、吐き出した言葉に表情や雰囲気まで連動してしまうところだろう。人を見抜く能力に長けた刑事でも、いやだからこそ、嘘偽り無い純粋な心の露出にはとみに弱い。

 よしよしと私の頭を撫でながら、舛花刑事は険のある視線を先輩へと向ける。

「おいぼーっとしてるお前、今回の件の支払いがあるからさっさと庶務課に行って来い!」

「はーい。じゃあ三十分後に門のところね芥子ちゃん。ね?」

「はい」

 先輩のカギ括弧から解放された私はもう涙も引っ込んで平常通りだ。廊下の先へと小さくなっていく先輩の背中を見送る。

 さて、何処で待っておこうかと小首を傾げていると舛花刑事がたどたどしくもお誘いがかけられた。

「芥子ちゃん、缶コーヒーでもどうだ?」

「……ええ、じゃあブラックで」



 私が一人でここに通っていた頃から連綿と続いていた署内禁煙運動の末に、喫煙所は屋上までの撤退を余儀なくされてしまったそうだ。

 だが最後の優しさか、ボーリング場の喫煙室に似たガラス張りの四畳ほどのスペースは思ったよりも寒くは無かった。誰もいないのをいいことに部屋の一番端の換気扇の下に舛花刑事が、その対角線上の角に置かれたパイプ椅子に私が座る。熱いコーヒーを一口啜って見上げたガラス張りの天井の向こうは、ずっしりと降り積もった雪でただただ灰白いばかりだった。

「思ったより、続いてるな」

「?ああ、先輩のとこでの仕事ですか?まぁあれは、何もしてないようなものですから」

「そうか……その……変なことはされてないか?」

「限りなく黒に近いグレーなセクハラは日々うけてますけど、いたって平穏無事な毎日です――ちょっと舛花刑事、自分で言っといてそんな恥ずかしそうな顔しないでください。一応こっちも大学でコンパや飲み会の手ほどきを受けた二十二歳女子ですよ」

「君の見た目は出会った頃のままだから、心配にもなる」

「舛花刑事もお変わりないですよ」

「その言葉は有難いがもう今年で三十七だ」

「あら――じゃあ、あの事件からもう十年経つんですね。その節は、本当にお世話になりました」

 ぺこり、と私は座ったまま頭を下げる。舛花刑事は苦虫を噛み潰したような顔で首を振った。

「やめてくれ。俺は何もしていないし、できなかった」

「到着した時に終わっていた事柄に関して、できなかった、は間違いですよ」

「俺達はそれが終わる前、いやむしろそれが始まる前に止めてしかるべき存在だ。そうじゃなけりゃ、警察なんて必要ない。鑑識と弁護士と検察で事足りる」

「極論過ぎです。私はどう言われようと舛花刑事に助け出された。それが全て壊されて殺されてさらに飾り付けまでされた後だとしても……まあ、飾り付けたのは私ですけど」

「芥子ちゃん!それは君が」

「あはは……わかってます。そんなこと十年前からとっくに理解してますよ」

 にっこりと微笑みかける。

「自分を責めるなんて、そんなそんな」

 舛花刑事の視線が痛い。割れた花瓶、潰れた死体、腐った果実。そんな、もうどうしようもないものを見るときの目だ。

 その視線を、私はよく知っている。そしてその視線から逃げる方法も、良く知っている。

「先輩のところは、気が楽なんです」

「……あいつの力が、関係あるのか?」

「ええ。先輩のところにいると、表の言葉に価値なんて無いって思えます。私達がこうやって滔々と言葉を重ねても、それは所詮心の表面に結露した薄い滴。滑り落ちていくだけのものでしかないって」

「君に執拗にまでしたメンタルケア、あれが気に喰わなかったのか」

「違います。それによって欠片も心をケアできなかった、自分に失望したんです。どれだけ優しさと慈愛に満ち溢れて、未来へと誘う事だけを祈るような温かい言葉も、私の心に染み込むことは無かった――だって、私の心はとっくに真っ黒な毒で滴るほどに濡れていたんですから」

 胸に手を当てると、どくどくと音がした。黒く、汚いものが此処を中心に体中を巡っている。

 ずっと、ずっと、あの日から。

「先輩は、人に言葉なんてちゃんと響かないと思ってるんです」

「……あの阿呆の考えそうなこったな」

「でしょう?だから、先輩はあんな喋り方なんです。よ?」

「伝染ってんぞ芥子ちゃん」

「ふふ。こうやって、先輩は縋るみたいに最後に念押しするんです。僕はこう言ったぞ、お前はどうなんだ?わかったか?って。自己主張の激しい子供みたいですよね」

「――人は誰だって嘘をつく。聞き流す。あいつはそれも理解できないのか?」

 桝花刑事が煙草の煙を吐いた。その匂いは、先輩の銘柄と同じもの。悪い冗談みたいだ。

「理解はしてるんでしょうね。だから、その度に私は返事をするんです。それでも先輩は信じられなくて、偶に私にもカギ括弧を向ける――そう、言われてみれば、それが私が今先輩のところにいる理由なんでしょうね。舛花刑事、そろそろ煙草は吸い終わりましたか?」

 その言葉と共に、殆ど口にされる事無くフィルターにまで達した煙草が灰皿に押し付けられる。無残に千切られた花のようだと、私はそっと目を伏せた。



「先輩、早かったですね」

「うーん、流石に何度も書類書いてたら、物覚えの悪い僕でも覚えるよね、ねー?」

「それはすばらしいです!……でも先輩は最後の最後に印鑑を上下逆に押すタイプっぽいですが」

「え、あんなもの枠内に押せればどっち向いてても通るんだよ?」

 ああ、逆さに押したんだ。いや、下手したら楕円の判子を横向きに押してるかもしれない。差し出された書類領収書及びその他諸々を先輩から受け取り、ファイルに挟んで鞄にしまう。朝から降り続けている雪は、まだ止む気配は無い。

「今度から、私が代わりに書きましょうか?」

「いやいいよ。あんまり気分のいいものじゃない、だろ?」

 先輩は警察署の門を抜けると同時に煙草を銜えて火をつけた。そしてそのまま歩き出す。

「芥子ちゃん、僕がいない間あのロリコンに変な事されなかったよね、ねえ?」

「されてないですよ、先輩じゃあるまいし……先輩、なんですかその据え膳喰わなかったのかっていう驚愕の表情は」

「……考えを改めよう、舛花はロリコンでかつ変態だな。敢えて手を出さないで悶々とする、それも美学だ、……なあ?」

「先輩。私が成人済みでよかったって、その内一生拝むようになりますからね」

 羊の背のような密度のある雲。はらはらと視界を行き過ぎる雪から、先輩は掌で煙草を守っている。無理して吸わなきゃいいのに。

「――先輩は、何でこの仕事始めたんですか?」

「これしかできないからに決まってるじゃないか」

 即答だった。

「……後は、そうだね。これしかできない以上に、この力と折り合いを付けたかったからかな?うーん?」

 空いた左手がL字型を作る。先輩、それじゃあただの指鉄砲です。

「先輩の不幸は、その力がオートマティックじゃないって事なんでしょうね」

「そう?人の心が四六時中聞こえることの方が、迷惑だと思うけど?どう?」

「確かに、ストレスはそっちの方が遥かに高いし、世の中に絶望するのも、失望するのも早そうですよね――でも、そうであったら被害者であれたと思いませんか?思う存分流れ込んでくる清濁併せ持った思考に酔って振り回されて発狂して、世界の片隅で塞ぎ込んでいられた」

「だけど、この僕は悲劇の主人公にはなれないっと。かな?」

「はい。だって先輩の力は、先輩が自発的に望んで、その対象にカギ括弧を向けて初めて使える力。意志の篭ったその手で括って相手に言葉を吐き出させる力。駆け引きになんて持ち込めない、こっそりと知ることなんてできるはずもない。お互いが吐いた言葉を認識してしまうっていうその特徴――リスクを考慮してでも相手の心を知りたい場面なんて、限られてしまいませんか?」

「……相手を、疑っている時だね。……ホントに芥子ちゃんは良く分かってる、なあ?」

 先輩は笑う。醸成された疲れを感じさせるのに、子供のようにも見える不思議な笑顔だった。

「先輩は心を読むんじゃなく、心を暴露させるんです。そんな力に、可哀想も何も無いじゃないですか」

「うん。だから僕は、」

「そんな自分が嫌い。でしょう?」

 何時に無く饒舌に毒を吐く私を、先輩はきょとんとした目で見つめた後、首を竦めた。同時に息を漏らすような笑い声を聞いた気がしたけど、襟元に口が隠れてしまっていて確認は出来ない。再び現れた時その唇には直ぐに煙草が銜えられてしまった。

「僕は馬鹿だったんだろーなあ」

 先輩は吐いた煙が降り注ぐ雪に掻き消されていく様を見つめる。

「たまたま自分の力に気付いて、それから人が何考えてるのか気になって気になってしょうがなくなった。無関心で居ておけばよかったのに、僕の手は人から言葉を切り出し続けた。一番可哀想なのは両親だよ。『あの人と三ヶ月も性交してないわ』なんて、子供の前で吐かされてさ。ねえ?一時期は両親それぞれの口座残高から、最後は離婚調停の進み具合まで細部にわたって知り尽くしていたんだ。どっちも僕の親権を手放したがっていることまでさ」

「……無関心で居られないのは、人が嘘ばかりつくからですよ」

「そう。僕は、人の言葉が信じられなくなった。人が喋る表の言葉はこの煙と同じくらい頼りないと、僕は自分が刳り抜く「」の言葉しか信じなくなった。だけど皆、人が嘘をつくことも、心を言の葉の裏に隠すことも知っている。皆が知っていることと、僕が知っている事に差なんてない。なのに僕はこの力を使ってしまう――――それは、とても汚い事なんだよ、ね?」

 携帯灰皿に煙草をすべりこませ、先輩はまたゆっくりと歩き出す。ざくざくと、分厚い靴が氷の海を掻き分けて前に進む。

 私は足を止め、先輩の足跡が十を超える頃にかじかんだ唇を開いた。

「先輩」

「なんだい?ん?」

「あっ、そのまま。引き返さなくていいです先輩」

 振り返りかけた足をピタリと止めて、伺うようにこちらを見る灰色の目は、寒空の下ひとりぼっちの子犬みたいだ。私は両手を口元に添え、先輩に向かって言った。

「かぎかっこ!」

 音を吸うように無数に散る粉雪の中で、私の声は先輩に届いた。

 先輩の手が、親指と人差し指だけを伸ばしたLの字を取り器用に組み合わされ、降る雪と同じくらい白く陰気な顔の前で「」を形作る。

 私は心のままに「大好きです!」と叫んでいた。「先輩の事も、先輩の力も、大好きです!」と、「大大大好きです!」と何度も何度も。目をまん丸にしてカギ括弧を解こうとする先輩を、仕草だけで押し留める。

「先輩、私の心はそれこそ汚泥を煮詰めたような、どろどろで真っ黒でえづく程生臭い、そんなものでできています。熱く苦しいそれを核として、十年かけて私はその周りをやっとそれらしい紛い物の心で包みました。そう、ずっと紛い物だと思っていました」

「芥子ちゃん……」

「大学で始めて先輩に会ったあの日、木霊のように怨嗟と呪いと絶望を脳内で反響させながら学食で何を食べようか考えていたあの時。先輩、私は先輩にカギ括弧を向けられてなんて言いましたか?」

「――チンジャオロース定食にしよう、って」 

 笑ってしまう。あの時、あの瞬間に、私は、あんなに簡単に。

「救われたんです。先輩が、先輩のカギ括弧が、あれを私の本心だと切り出してくれて」

「うん、美味しかったよなあれ。ね?」

「ええ、今までの人生で一番美味しいチンジャオロースでした」

 先輩の足跡に重ねるように、私はゆっくりと近づく。

「先輩の力も、力を使おうという意志を持つ先輩の心も、汚いのかもしれません。だけど、その手を通して今話すこの上っ面だけの言葉を――本心だと言ってもらえるならば、それは私にとって何よりの幸いです。だって、まるで狂ってないみたいじゃないですか」

 先輩の正面にまでたどり着くと、私は大きく首を反らせて、三十センチ以上も高みにある先輩の顔を見上げた。

「だから、これからも傍に居させてくださいね。大好きな先輩」

 手を伸ばして「これ、表の言葉じゃ絶対言えませんよ」なんていいながら私は先輩のカギ括弧を解く。先輩はなんとも言えない、笑いを堪えるような、泣き出す寸前のような、表情を消そうとする直前のような、そんな顔をしている。

 今なら先輩の、知りたくて力を使ってしまう気持ちが、良く分かった。

「先輩、返事は無いんですか?もしくはせめて、常軌を逸したテンションで茶化すぐらいのことはしてください……恥ずかしいんで」

 頬が熱い。触れた雪が瞬時に溶けそうな程。だけど先輩は「うー」とか「あー」とか、まるで舛花刑事と電話しているときのような母音ばかりの音を発するばかり。 

 結局、先輩が発したのは逃げの一手だった。

「……折角臨時収入ゲットしたし、中華でも食べに行こうか?ね?」

「あー今、思わずこのハーレムラブコメ主人公系腰抜け野郎が!って言いそうになりました」

「いや、完全に言ってるよね。おかしいなー僕の手は今こんなにフリーなのに」

 手をひらひらと振る先輩を置いて足早に歩き出す。この辺りで一番美味しくて一番値段の張る中華料理店へ。雪を撒き散らしながら先輩が追いかけて横に並んだ。先輩は知っているのだ、そのポジションなら自分の顔が殆ど私から見えないってことを。

「僕は表の言葉でしか遊べないんだよ。裏の言葉の誠実さを誰より知ってるから。だから芥子ちゃんの言葉で遊べるわけがない、だろ?」

「はいはいーわかってますよー」

「いやその顔はわかってないよね、店に入って一発目でフカヒレ!とか言い出す顔だよね、ね?」

「頼みませんよー。私のお給料分は残るようにしますから」

「………やっぱりそっちじゃなくて、いつもの北雪華軒にしよう。うん!あそこなら餃子百皿だって食べ放題だ!ほら!」

 慌てた先輩は、安くて早くて味はまあそれなり、がウリの北雪華軒へ誘導を試みようと私の前に進み出だ。

「先は長そうですね……」

 雪で斑になった黒コートの痩せた背中を、自分の小さな手で作ったカギ括弧が切り抜く。


 だけどやっぱり、その手が先輩の心を切り取ることは無かった。

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「かぎかっこ!」 遠森 倖 @tomori_kou

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