やがて来る美しき日々
「はっ……はっ……」
薄暗い路地を、少女が駆けていた。栗色の髪に、色素の薄い瞳にどことなく愛嬌のある、どんぐりのような眼は、利発な犬を思わせる。
少女は制服姿だった。けれども、通学用には少し大仰すぎるブーツを履いていた。分厚い繊維は、そんじょそこらのスニーカーとは比べものにならないほど頑丈で重たそうだったけれど、少女の足取りは軽やかだ。
スカートの下から伸びる足は細く、けれども華奢ではない。カモシカやシマウマを思わせる、一切の無駄が無い引き締まったそれが、リズムよく地面を蹴る。
腿が上がる度に、スカートの裏に、微かに革製のベルトが留まっているのが見える。そこに挟まった、金属の塊も。
額にうっすらと汗を滲ませ、少女は胸ポケットから携帯電話を取り出した。時代に逆行した、分厚いそれを開いて、時計の表示を見る。予定の時間は刻々と近づいている。
「あっちゃー……マっズ」
少女はわずかにペースを緩め、このまま走って間に合うかを脳内で計算する。すぐに難しいだろうなと結論付ける。直線距離で言えばそれほど遠くは無いのだが、変に入り組んでいるせいで時間を食ってしまうのだ。
「さすがに初入部で遅刻はマズいよね……んじゃっ」
少女は近くにあるコインパーキングへと飛び込む。一気に加速してブロック塀の手前で跳躍する。腕を伸ばして塀の縁を掴み、腕と背筋、塀を蹴る力で一気に身体を引き上げる。
そのまま腕を支点に、脚を曲げてひょいと下半身を通して身体を塀の向こうへと運ぶ。猫のように体を丸めて着地。そのまま地面を蹴って再度スタートを切る。
ゴミや空調の室外機を、塀を跳び越える。
普通に走るよりも、刺激的で気持ちが良い。彼女はこの瞬間が一番好きだった。陳腐な表現だが、自分が自然と一体化したような気持ち。風に溶けて、まわりの混沌とした空気も自分も一緒くたになって、まぜこぜになった世界が好きだった。
数十メートル先、外から光が差し込んでいる。ああ、もう終わりなのか。少女は思う。光を抜ければその先は普通の街並みだ。管理され、計算しつくされた退屈な世界。けれども、またすぐにまぜこぜのセカイに飛び込めるから別にいいか、とも思う。
開けた視界。左手にあるカラオケボックスの前に、二人の男女が立っていた。女の方は、派手な外見だった。ひざ上までの極端に短いスカートに、つり目がちで勝気そうな顔立ち。緩いウェーブのかかった髪は金色に染め上げられている。けれど、ずぼらなのか頭頂部は少し黒っぽい。プリンみたいだと少女は思う。
もう一人の男は、隣の女ほどではないが、背が低かった。もしかすると、自分と同じくらいかもと少女は思う。一五〇センチの後半くらい。柔らかそうな黒髪は校則違反にならない程度に伸ばしていて、顔立ちはどこか子供っぽい。軍用のサングラスが恐ろしいほどに似合わない。
カラオケボックスの前で雑談をする二人に変わった様子は見られない。手元にアタッシュケースを持っている以外は。けれども、通りを行く人とはどこか違った。
どこかピリピリとしていて、そしてどこか虚ろというか、自身を背中から見ているような、達観した雰囲気だった。シューティングゲームを操作しているみたいな落ち着きがある。なんとか、間に合ったようだと
金髪の女がこちらを向いた。ニヤリと口許を歪ませている。
「遅かったじゃん。アンタ抜きで始めようかって話し合ってたとこ」
「あはは……すんません。ええと、安藤さんに、押井さん」
「ああ、千尋でいいよ。あっちのお嬢さんは克洋って呼んであげて。女の子に間違われちゃうって拗ねるから」
くすくすと千尋は笑う。少女は、はぁと炭酸のように気の抜けた返事をするだけだった。そこまでかなぁと言いたげに小首を傾げる。
「新しく入る部員だよね。ぼくは押井克洋、よろしく。ええと、名前は……」
「はいっ! 庵野悠です」
はきはきと悠が返事をすると、克洋は困ったように笑った。それを見て悠は再び小首を傾げる。
「小難しい映画を作りそうな名前だなと思ってさ」
「は、はぁ……」
「それじゃ、本題に入ろう。ここの三階にあるカラオケボックスが、スナッチャーの潜伏場所だ」
顔から笑みを消して、克洋は建物を軽く指差した。それを聞いて、悠も小さく頷いた。彼女も顔も、どこか自分を遠くから見ているようだった。
「はい。動きはどのように?」
「千尋がポイントマンを務める。ぼくは彼女に続いて支援。庵野は警戒とバックアップを」
後ろに下げられるのか。悠の眉根が少しだけ下がった。餌のお預けをくらった犬みたいだなと、彼は思う。そして、彼女はスナッチャーにどのような感情を抱いているのだろう、と。それを聞くにはお互いを知らなすぎる。克洋はそんなことを思いながら悠をなだめる。
「悪いけれど、ぼくらは君を知らない。そして君はぼくらを知らない。今日の所は我慢してくれ」
「……りょうかいです」
「良い返事だ。それで、武器は?」
「腰にグロックの9ミリを。隠し持てるタイプです」
「.45口径を使ったことは?」
「一通り」
「よし。なら、次からはそれで頼む。千尋」
「あいよ」
克洋の質問に、悠は淡々と答える。克洋の言葉に、千尋は頷いてアタッシュケースの一つを差し出した。表面は合皮でコーティングされているが、その重さに悠は目を見開いた。
「これ……」
「サブマシンガンさ。流石に往来で見せびらかすものじゃないからね」
デスペラードみたいだろう? 克洋はそう言って数本の予備弾倉を彼女に渡し、軽く使い方を説明した。
「さて、そろそろお喋りの時間は終わりにしようか」
「そだね。新入りちゃん。気楽に行こうか」
「は、はい」
克洋たちは軽く首を鳴らし、ドアをくぐる。克洋は、少し前を思いだしていた。能天気に映画で泣いていたあの頃を。そして、彼をここまで導いた、美しい人を。
そうだ。ぼくは、
ぼくらは、戦い続けなければならない。
戦って、戦って、いつかは死ぬ。
けれどもそれは、今じゃない。
この眩しい青春を生き抜いてからだ。
そして、戦いが始まる。
ヴァルキュリアの葬送 文月遼、 @ryo_humiduki
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