14 さらば、愛しい人

 気分が沈むことがあると、押井克洋は映画館へ行く。少し前までは小ぢんまりとした映画館へ行っていたが、そこが潰れてしまってからは駅前にある大きなシネコンへ行くようになった。


 休日と言えど、そもそも斜陽の文化であるからか、ホールは閑散としている。チケットを発券して、克洋はぼんやりと物販ブースを見ていた包帯まみれの少女にそれを一枚手渡した。

 少女はあちこちを包帯で覆っているのに、露出の高い、胸元を曝け出すようなチューブトップとレザーパンツを身に纏っている。新手のサイコ・キラーかパンク好きのサブカル少女のようだと克洋は思う。

 少女の腰には、青い花のブローチが付けられていた。


「そろそろ開場だ。行こう」

「ん。先行ってて」


 一緒に見ようと言い出したのは向こうだと言うのに、少女の返事は素っ気ないものだった。克洋は軽く肩を竦め、フードコートへ行く。


「ポップコーンのMサイズとオレンジジュース」


 七百円。平凡な男子高校生にとっては少しばかり懐に痛い出費を払い、克洋はシアターへと入って行く。


 装飾の小さな鏡に、少年の顔が映る。柔らかな猫っ毛の黒髪に髪に白い肌。すっきりと通った目鼻立ち。長く、カールした睫毛。控えめに言えば幼い、口の悪い者であれば、女性のような顔立ちと言うだろう。ふっくらとした頬にはほんのりと赤く滲んだガーゼが貼り付けられている。


 身長も、かなり低めだ。一五七センチ。高校二年生の女子の平均身長と同じくらい。けれども、背筋を伸ばしてしゃんと歩く少年に、気後れのようなものは見えなかった。


 夏場でも少年は薄手のジャケットを羽織っていた。その奥に、小さなホルスターが引っかかっていた。そこに入っているのは、アネモネの意匠が刻まれたベレッタP×4。


 克洋は薄暗いシアターに足を踏み入れる。人は誰もいない。終了直前の映画となればこんなものかと克洋はふんと鼻を鳴らした。体育館のものよりはいくらか上等なスクリーンが、やる気の無いコマーシャルを流している。

 

 深くシートに沈み込むように座り、克洋は目を閉じた。


 克洋は、隣に甘い匂いを嗅ぎとった。清潔な石鹸の匂い。少しばかりの火薬と血の匂い。少し遅れて声が聞こえた。


『失礼、隣をいいかしら』

「すみません。先約があるんです」

『へえ、デート?』

「どうでしょう。相手は女性が好きみたいですから」


『けれど、一緒に観るんでしょう? ……今度はポップコーンが食べきれないってことはなさそうね』


 そう言って、声はくすくすと笑った。耳元をくすぐられているような、甘い声だった。


 よっこらせ。間の抜けた声と共に、少女の声が沈み込んだ。千尋の座る席の、反対側だった。


『今から見る映画は?』

「さあ? 確か、恋愛映画だったような」

『さあって、それは無いでしょう』


「これを観たいって言った人は、別の人ですし。ネタバレも恐いから、前情報は仕入れないようにしていて」


 それにしたって、タイトルや主演の一つくらい覚えておいたらと、少女の呆れる声。反論できないなと、克洋ははにかんだ。


『……今度はどんなことがあってここに来たの?』


「それは、どういうことですか?」


『気分が沈むとき、あなたは映画を観るんでしょう?』


「……それですけれど、ちょっとだけ違うんだ」


『ん?』


「押井克洋は、気持ちの整理をつけるために映画館に行く。二時間と少しの間、たっぷりとその世界と、自分と向き合って、気持ちを落ち着けるんです。気付いたのは最近だけど」


『変わらないじゃない』


 変わりますよ。克洋は言った。娯楽を逃避に使うことと、娯楽に沈むことには多分、大きな違いがあるのだ。けれども、そう説明できるほど、克洋は口が上手くない。


『それで、気持ちの整理をつけたくなるようなことって?』


「……好きだった人に、会えなくなったんです」


『そう。辛いね……もしかして、その人を恨んでいる?』


 まさか。克洋は首を振った。惚れた人を憎めるほど、克洋は切り替えが上手くない。上手ければ多分、映画に頼らない。


「全く。と言ったら、嘘になるけれど。それ以上に……」

『今も好き?』


「――ええ」


 克洋は頷いた。ふと、目頭が熱くなった。軽く唇を噛んで、眼を閉じる。手が自然とジャケットの奥に伸びる。そっと銃身を撫でる。その冷たさに、なつきの指を思い出す。


『それだけ聞ければ、充分かな。そろそろ私も行かなくちゃ』


「ぼくからも一つ質問です。また、会えますか?」


『そうだね。押井、あなたが良い人に出会うか、立ち直るまで』


 克洋は目を開けた。チュロスやフライドポテト、ホットドッグ。ジャンクフードを山ほど抱えた千尋が近付いてくる。


 なつきも健啖家だったな。思い出して克洋は顔を歪めた。


「ん、どしたの」

「何でも。当分は、良い人に会えないかなと思ってさ……」


 清潔な石鹸と火薬の匂いは消えていた。堪え切れなかった涙が零れた。それを見て千尋は困ったように肩を竦める。

 ドアが閉じた音がした。


 〝彼女〟がきっと、出て行ったのだ。

 

 ――グッドバイ、なつき。


 ――これで本当にさよならだ。けれど、


 克洋は涙を拭い、スクリーンに溺れることにした。


 青春の中で立ち止ることは悪い事じゃない。また走ることが出来れば、駆け抜けることができるなら。


 だから、しばらくの間、立ち止らせてくれ。遅れた分を取り戻すことは、いつかできる。多分。


 ――ぼくがどうしようもなくなったときは、会いに来てくれ。

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