第4話

 弔いには誰も呼びませんでした。簡単な儀式の後、速やかに、マリカは小さな墓に埋葬されました。白い石で出来た小さな墓に、マリカの名前はありませんでした。そこには、星に纏わる短い名前、青年が結婚したはずの女の名が彫り付けられていました。

 全てが夢ではないかと、青年は石に刻まれた馴染みのない名を、疑いの目で見ました。この小さな石がマリカの、あの輝かしい女の寝床だなどと、到底承服しかねます。

 でももう、どこにもいません。

 発作のように、喪失の事実が青年を襲いました。マリカはどこにもいません。完全に喪われてしまっています。死後への期待さえできません。マリカはそんなものを信じていなかったのですから。青年は夏の日に暖められた土に膝を埋め、熱い石に覆いかぶさりました。頬が石についた瞬間、肉が焼ける音がしました。マリカ。マリカ。マリカ。痛みの中で繰り返しました。気が狂いそうでした。この下にあるのがただの病に食い荒らされた後の残骸だったとしても、一緒に眠りにつくことを切望しました。湿った熱い闇の中腐敗していく死骸を抱いて、そのまま死んでしまいたい。青年の願いはそれだけでした。

 けれど、できませんでした。夏の長い日が翳る頃、青年は立ち上がり、泣きながら家へと帰りました。何一つできませんでした。マリカを幸福にすることも。マリカの命を救うことも。マリカと一緒に葬られることさえ。本当に、何一つ。

 長椅子に顔を埋め、ただ泣き続けていると、呼び鈴が鳴りました。思考を放棄してドアを開けると、そこには宝石商が立っていました。

「……ひどいな」

 青年を見てまず、彼は言いました。青年は自分の姿を見下ろして、確かにひどい、と思いました。服は泥に塗れています。石につけた頬はまだ熱を残していて、おそらく軽い火傷になっているのでしょう。ですが全て些細なことでした。些細ではないことなど一つしかありませんでした。

「入ってもいいかな」

 青年は頷きました。拒絶の理由を考えることも今の彼には不可能でした。明かりのない居間で、宝石商は断りもせず椅子にかけました。青年は立っていました。

「残念だね」

 青年が応えようとしないのを見ると、宝石商は言葉を続けました。

「今日、知ったんだ。病気だということも、知らなかった……可哀想に」

 可哀想に。

 その言葉が何かを切りました。青年はしゃがみこみ、唸りを上げて泣きました。喉が詰まり、息ができません。

「僕は、どう、すれば、」

 苦しい嗚咽の合間に、青年は問いかけました。妻のかつての恋人は、分厚い暖かい手のひらで、うずくまる青年の肩を包んでくれました。

「大丈夫だ。大丈夫だ。君はよくやった。マリカだって君に感謝してるだろう」

 欺瞞だと知っていましたが、それを信じたい自分を確かに感じていました。青年に愛されて、マリカは幸福だった。身よりもない彼女の最期を看取ってくれる人間がいて、感謝しているはずだ。心地のよい、けれど、醜悪な欺瞞です。青年はそうではないことを知っていました。マリカはただ病を受け、看病の相手にたまたま傍にいた男を選び、そして一人で死んでいったのです。マリカは病にも死にも、一人で向き合いました。青年はただ立ち会っただけです。最期まで、青年はマリカの肉体を救えず、魂に寄り添うこともできなかったのです。何もかもを拒絶する、一つの死があるばかりです。

 それでも肩にある手の体温は優しく、投げかけられる落ち着いた声は青年の心をなだめました。青年は救いを求めていました。そして同じぐらい、贖罪を求めていました。今彼を慰撫するこの分厚い手が喉にかかり、力のままに締め付けられることを夢想しました。しかし、ありえないことでした。救いも贖罪も、どこにもありませんでした。

「どうすれば、いい、ですか。マリカのために、僕は、僕は、」

 みっともなく喚きながら、青年は目の前の優しい人に抱きかかえられました。希薄に繋がっているだけの、けれど青年を気遣ってくれる人がそこにいました。青年は弱い人間でした。この人が導いてくれることを期待しました。あるべき方法で、救いか、贖罪の道をつけてくれることを。

「落ち着きなさい。大丈夫。大丈夫だ。マリカは君を責めはしない。大丈夫だ」

 青年は首を振りました。そんなことはわかっていました。求めているのはそんなことではありませんでした。違う。違う。うわ言のように繰り返しながら、いつしか青年は意識をなくしていました。



 次に気がついたとき、青年は自室のベッドに横たわっていました。そこで寝るのは久しぶりでした。口の中はぱさぱさと乾き、しかし身体は敷布ごと汗で濡れています。半ば眠りの中で、自分が着替えてもいないことに気付きました。起き上がり、水差しからぬるい水を飲みます。そして、枕元の書置きに気付きました。

 窓から差し込む日で、青年は書置きを読みました。大きくはっきりとした、見覚えのある字でした。余計なことを考えずにゆっくり休むこと、そしてまた来る旨が書かれていました。そして、大きく崩した宝石商の署名。青年は枕元にそれを置き、顔を洗い、服を着替えました。

 鏡で確認すると、顔の火傷は日焼けほどの跡しかありませんでした。それ以上に、自分がひどくやつれていることが発見でした。頬が萎み、唇や瞼、小鼻までも痩せ、目の下には二重に隈が出来ていました。張り詰めていた肌は細かな皺に覆われています。二十三という年齢も、それに伴う若さも、その顔のどこにも見当たりはしませんでした。

 見知らぬ不吉な顔をした男から目を逸らすと、青年は街の中心へと向かいました。街一番の宝石店、彼と彼の妻を最もよく知る人の元へ。以前ここを通ったときのことが頭をよぎり、眩暈に襲われましたが、口元を押さえて耐え、いつもの店員を探すと、話が既に通してあったのか、何の言葉もなくそのまま支配人室にと通されました。

「君か」

 青年の顔を見ると、その人はごく僅かに微笑みました。丸い穏やかな顔は、疲れに翳っているようでしたが表情はいつものものでした。

「昨日はすみません」

「いいんだよ。大変だったね」

「いえ」

 そこで、青年は言葉に詰まりました。ここに何をしに来たのかも思い出せませんでした。悄然と立ち尽くす青年に、宝石商は穏やかに問いかけます。

「……最近来ないから、どうしているのかと思っていた。黙っていたのは、マリカの意思かい?」

 マリカはやつれた姿を誰にも見せたがりませんでした。

「ええ」

 呆れとも感心とも付かない、あるいはそのどちらでもある溜息を吐きました。

「あの子らしい」

 まるで困った娘を持つ父親の言い方でした。この人ほどに自分はマリカを愛せただろうか。何故かそんなことを考え、青年の喉がひりつきました。この人がマリカに送ったものは、マリカを随分愉しませましたし、生活を助けもしました。それ以上のことが、本当にできたと言えるのでしょうか。

「何をすればいいですか」

 突然の問いに、その人は怪訝に眉を寄せました。

「マリカのために……僕は、何を、できますか」

 馬鹿げた問いかけでした。目の前にいる人はマリカでも、マリカの代弁者でもありません。彼女のかつての恋人で、青年の父親の友人。薄い繋がりです。けれどそんなことを問うべき相手の持ち合わせが、青年には一人もありませんでした。だからその人に聞くほかありませんでした。

 ほんの軽い沈黙の後、しかしその人は口を開きました。

「忘れることだね」

 常のように穏やかな、けれど決然たる声でした。

 青年はただ睫を瞬きました。

「忘れることだ。君は、まだ若い。すぐに傷から立ち直る。死者に出来ることは、それだけだよ」

 青年は首を振りました。そんなはずはない。黒く塗りつぶされた思考で、ただ否定の言葉を繰り返します。そんなはずが。そんな、はずが。

 哀れみの眼差しを受けながら、青年は弱く首を振り続けました。やがて唇を噛み、俯きました。

 一言二言の慰めにおざなりな返事をして、青年は店を去りました。そして雑貨屋へ行き、買い物をして、帰りました。



 光の海に、青年はいました。感覚全てに透明な隔てがあって、ぼやけています。柔らかな光の群が、自分の上にあるのか下にあるのかも、わかりません。ただ闇はくろぐろと空気を濡らし、光はその中を漂い流れていました。どこまでも続く、光の流れ。光の、広がり。

 つるりと白いものが闇を滑ります。つめたい燐光を纏うしなやかな形をしたものは、腕でした。マリカの腕、です。見蕩れます。

 初めからいたのか生まれていくのか、マリカ、と思えば、いたるところに、マリカがいました。赤く膨らんでいるのはマリカの唇。硬く輝くのはマリカの歯。翳りの凹凸はマリカの肋骨。黒い流れはマリカの髪。闇はマリカで、光はマリカでした。全ての美しいものがマリカで、マリカは全ての美でした。

 マリカ。

 呼べば、マリカが微笑むのがわかりました。手を伸ばせば、つめたい皮膚が青年を捕らえます。

 マリカ。

 声をあげなくとも、マリカが応えるのがわかりました。手を伸ばさなくとも、手のひらにマリカの柔らかな頬が触れました。首を曲げずとも、マリカの唇が唇を覆いました。

 マリカ。

 涙が零れ、闇も光もマリカも滲んで混じり合います。

 マリカ。

 マリカの声が聞こえました。玉のように転がり鼓膜を擽り全てを揺らす、マリカのあの笑い声が。いつまでも。どこまでも。

 いつまでも。



 脳が裏返るような痛みと胃を刺されたような吐き気で、青年は目を覚ましました。居間の長椅子に横たえられていました。吐くものもないのに喉が痙攣し、酸っぱいものが舌の奥で蟠ります。

「気がついたかね」

 見覚えのある険しい顔が、目の前にありました。マリカの医者です。青年は、自分が失敗したことを悟りました。強引に含まされた水差しで口を漱ぎ、洗面器に吐き出します。

「勘弁してくれ。何枚死亡診断書を書かせりゃ気が済むんだ」

 飲み込んだ鼠捕りのひどい苦味がいまだ口の中に残っていて、青年は幾度も口を漱ぎました。

 医者は毒づきながらも適切な手当てをしてくれました。看護婦も一人ついていました。幾度も水を飲まされ、幾度も胃液を無理矢理吐き出し、喉の熱さと苦さに呻きました。嘔吐の中で、境目で見ていた夢を思い返していました。美しい、夢でした。何よりも美しいものを、見ました。これから先、あれほど美しいものを見ることはなく、あれほど愛することもないだろう、と青年は確信しました。目を閉じればその闇に光が霞み、苦痛さえ霊的な色調を帯びました。

 後遺症と夢幻の相互作用でなかば恍惚とした思考停止に陥った青年は、医者に何故自分が助かったのか尋ねました。後悔ではなく、ただ単純に疑問だったのです。医者が口にしたのは、宝石商の名前でした。

「寝ようとしてたら呼び出されてな。えらい目にあった。まったく」

 非難がましい眼光を、しかし青年は黙殺しました。

「あの人は?」

「命に別状はないとわかったらさっさと帰ったよ。金持ちは冷たいもんだな。もっとも、ここにいられてもしょうがないがね」

 青年は自分の甘さが可笑しくなりました。妻が死んだ直後にあんな行動を取れば、心配されるのも当たり前です。笑みを浮かべる様子に心配はないと判断したのか、医者は看護婦を残して去りました。

 一週間ほど青年はベッドにいました。倦怠感がひどく起き上がるどころか本を読む気にさえなれませんでしたが、果たしてそれが体調のせいなのかはわかりませんでした。宝石商が手配してくれた看護婦と女中がいたので、痩せた身体を汗で濡らし、マリカと光の海の夢想に浸り、一日中横になっていました。暑くても上掛けをどかすのさえ億劫で、ただただ横たわり、身体が痛くなれば寝返りを打ちます。それだけです。まるでマリカだ、と床に差す日差しの色合いに見蕩れながら自嘲します。悲しみさえ、どこか遠くにありました。自分のどこかもまた、死んでしまった。そんな気がしていました。死んでしまった部分に、マリカが根付いている。そんなふうにも考えました。

 毎日、短い時間ではありましたが、宝石商が見舞いに来てくれました。青年の短慮を責めるでもなく、ただやってきて、一言二言話すと、あとは黙って座っていました。青年はその言葉と、その人がいる空間を無抵抗に受け入れました。

「一度、あちらに帰ってはどうかな」

 ある日の提案に、青年は頷きました。他人に抗ったり、自分で新しいことを考えるのは、その時の青年にはまるで不可能でした。論理や思考や意思は全て泥に似た倦怠感の底に沈み、あえて手を伸ばす気にもなれません。

 医者と看護婦に健康状態を保障されると、青年は汽車に乗り、故郷へと帰りました。汽車の手配から両親への連絡まで、全ての手配は宝石商がつけてくれました。その時は、礼を言うことさえ考えられず、青年は唯々諾々と従うばかりでした。

 思いがけない経緯で久しぶりに乗ることになった汽車の中は無遠慮に暑く、やつれた身体には応えました。鉄と油と人間と食べ物の匂いがしました。自分には馴染まない匂いだと思い、青年は警戒するようにじっと身を縮め、誰とも言葉を交わしませんでした。目を閉じると振動と重い音が体中に木霊しました。

 長い旅を終え、駅に降ります。随分遅い時間ですが、夏の日はまだ沈んではいませんでした。薄あおく染まった空の低い位置に太陽が輝いています。日の光は透き通る金色をして、雲は端だけが赤く染め付けられています。木々の緑は昼のうちに吸い込んだ光を吐き出すようにいまだ青々と燃えています。故郷の夏の景色です。汽車を降りた瞬間に、青年はごく当たり前にこの風景に馴染み、安らぎに似たものさえ覚えました。緑と土と馬の匂いが鼻腔を優しく満たしました。奇妙でした。もう二度と帰ることはないだろうとさえ思っていた場所だというのに、青年は確かにここに属していました。そして、だからこそ青年は故郷を厭っていたのでした。

 両親と、上の兄とその妻、そして下の姉が、家で彼を迎えてくれました。言葉少なに、けれど暖かく、彼は受け入れられました。久方ぶりの我が家の変化のなさに、青年は街にいた時間が幻なのではないかと錯覚するほどでした。使用人の顔ぶれもほとんど変わらず、青年の部屋の調度も元のまま、掃除も手入れも行き届いていました。青年の帰郷は、この家にとっては意外などではなく、待たれていたことなのだと思い知らされました。いつか必ずやってくる彼の帰郷のために、皆用意を整えていたのです。

 青年のための居場所で、何をするでもなく、ただ、身体と心を休めました。朝も遅い時間までベッドから出ず、用意された朝食をとり、昼まで図書室で百科事典を読み、昼食を家族ととる。午後には姉や母のお茶に付き合い、それ以外は図書室にいるか、庭を歩きました。夕食をとり、家族と少し話した後、自室に引き上げ、床に付く。一日はそんなふうに過ぎました。最初の頃こそ母や姉は彼に小説の話をさせたがったりしましたが、彼が曖昧に微笑んで首を振ると、すぐに諦めました。彼はいつでも許されていました。責務もない子供として。以前はいらだたしかったその配慮に青年は甘え切り、痩けた頬に肉をつけていきました。

  家はいつでも丁寧に整えられ、使用人は親切で、食事も美味しく景色は目に優しく、全てが快適でした。風が優しく通るこの地では、夏は祝福された季節でした。夏の花は鮮やかな色で勝ち誇るように咲いています。緑は日差しを蜜の色に弾き、見渡す限りどこまでも続いています。人はみな穏やかでゆったりとした話し方をしました。街とは生活も、人も、風景も、気候も、匂いも、何もかもが違いました。認めざるを得ないことですが、青年はここの人間でした。街は、彼にとってどれほどの時間が経っても非日常であり、旅先でした。

  街からは時折、手紙が来ました。仕事の依頼であったり、マリカの死を知った人間からの弔文であったり、様々でした。どの手紙を読んでも他人に宛てたもののようで、返事を書く気にはなれませんでした。街でのことは、一つを除き、全てがあまりに遠く思えました。

  マリカだけ。彼女とのことだけが常に青年の傍にいました。目を閉じればあの日に見た美しい夢がつめたく浮かびました。宝石商が何か言っておいてくれたのでしょう。家では誰もマリカのことを尋ねず、青年も話しませんでした。二人の間にあったことをここの人々に理解してもらえるとは思えませんでした。いえ、不理解よりも半端な理解を示されることを、青年は恐れました。二人のことに、触れてほしくありませんでした。マリカの記憶は青年だけのものでした。青年がその生涯かけて抱え続けるべき美しい幻でした。

  ある日、母親が昼食の席で彼に言いました。

「今日、お茶の時間にお客様がいらっしゃるの」

 控えめではあるものの楽しそうな笑みを計りかね、青年は言いました。

「僕は失礼したほうがいいですか?」

 母は首を振ります。

「いいえそんな。できればあなたにはいてほしいのよ。ほら、覚えているでしょう、あのお嬢さん」

 母が口にしたのは、この近くに住む母の伯母、つまり青年の大伯母の遠縁の少女でした。普段は少し離れた町に住んでいるのですが、ほんの子供の頃から夏にはよくこちらに逗留していました。

「今伯母様のところに来ているのよ。あなた、昔は随分仲がよかったでしょう?」

「どうでしょう」

 はぐらかしましたが、仲がよかったのは事実でした。幼い頃、親しいと言える異性は彼女ぐらいだったでしょう。

「たまには若い人とお話するのも楽しいと思うわ」

 母はそう結論付けました。青年も特に気にすることなく昼食を終えました。母のお茶会には田舎の女の政治の場という意味合いもありましたので、来客は珍しいものではありませんでした。何らかの政治的な意図があるときこそ青年は参加しませんでしたが、個人的な来客がある際には出席していました。何を話すでもなく、ただ座っているだけでしたが。青年がどれほど気のない様子を見せても、ご婦人方はまったく頓着せず、楽しげにしていました。ご婦人方がお茶会で青年に望んだのは心遣いや機知を示すことではなく、青年そのもの、あるいは彼の若さでした。彼もすぐにそのことに気づき、余計な気を廻そうとすることはやめました。その日も、いつも通りにするつもりでした。

 お茶会は晴れた日には庭で行われました。待っていると、少女がやってきました。

「お久しぶりです」

 あらかじめ聞いていたのでしょう、青年を見て微笑みました。若草色の服に包まれた柔らかな曲線と、すんなりとした脹脛。蜂蜜を溶かしたミルクに似た色の頬。その縁は、産毛が日差しを浴びて金色です。くつろいだ恰好と薄い化粧が、よく似合っています。風に後れ毛が柔らかくそよぎました。

  そこにいたのは少女ではなく、一人の女でした。夏の午後の日差しに似合う、若く健康な、成熟した女。青年とは二つしか年齢が変わらないはずなので、当たり前のことです。しかし突きつけられたその変化に、青年は戸惑いました。彼女の成長は、青年が初めて直面した故郷の変化でした。

 お茶の間、青年は常のように黙って座っていました。彼女はよく笑い、よく話しました。高い声が夏空に投げ上げられます。

「あら、じゃあ今は働いているの?」

「ええ。たいした仕事ではないんですけど、町の図書館の手伝いをしています」

 母の質問に、歯切れよく答えます。言葉の一つ一つがはっきりとしていました。いかにも職業婦人といった風情です。

 時折、彼女の視線が青年の顔を掠めるのを感じました。この家に来てから幾分回復したものの、いまだに窶れの影を残す顔を、不信に思ったのかもしれません。あるいは、その原因について些かの知識があり、好奇心を持ったのかもしれません。どちらにせよ、青年は彼女と視線を合わせるのも、話をするのも、避けました。

 その日から彼女は毎日やってきました。二、三日は青年も参加しましたが、そのうち彼女が来る時間には図書室に篭るようになりました。彼女にはどんな類の落ち度もありませんでした。若い女らしく健やかで、気持ちのよい話し方をします。けれど彼女は青年にとって異分子でした。故郷の空気に馴染まないもの。同じ場所にいるのは、神経が疲れました。

 古びた匂いの百科事典の頁を、読むでもなく捲ります。目に留まった項目を読んだり、挿絵を眺めたりして、漫然とした午後を青年は過ごしていました。窓の外を覗くと、母と姉と幼馴染の彼女の三人が、お茶を飲んでいるのが見えました。視線を頁に落とし、頬杖をつきます。頁を、機械的に捲ります。文字は目に映りますが、意識にまでは入り込みません。暫らくそのまま捲り続けた後、背中に痛みを感じて、伸びをしました。高い背凭れに身体を預けます。

 そろそろ戻ったほうがいいかもしれない、と考えました。唐突な思いつきですが、けれど確かに潮時だったかもしれません。マリカの看病に掛かりきりだった頃から、仕事を全くしていません。金の心配は当分ありませんが、このままでは依頼も来なくなるでしょう。故郷でもものを書くことはできるでしょうが、作家として生きていくとなると、困難です。遠い田舎から送る原稿を待ってもらえるほどの地位は青年にはまだありません。今、何が書けるのかはわかりませんが、それでも書かなくてはいけません。

  街に戻るのは、今は苦痛でしかないかもしれません。故郷は居心地がよく、安らかです。暫らくは何の心配もしなくてもいいでしょう。街ではどこへ行ってもマリカの記憶が自分を苛むでしょうし、マリカを知っている人々に事情を説明するのも、今はまだ苦しいことだとわかっていました。けれど青年にはそろそろ安らぎではなく、苦しみが必要でした。

 マリカのことを思い出します。意識の底に沈みかけたマリカに纏わる記憶を引きずり出して、血が止まり固まりかけた傷を一つ一つ検分するように、考えました。たった三ヶ月だけ一緒に暮らした、彼の妻のことを。夜に愛され、夜を愛した、人のかたちをした獣。過去も信仰も思いやりも持たない、ただただ美しいだけだった、彼の愛しい妻のことを。

 もっと出来たことがあるはずでした。もっと早くに異常に気付くか、あるいは嫉妬にかられて問い詰めれば、マリカはきっと本当のことを話したでしょう。マリカはいつもその場を凌いでいただけです。このままいけば自分の身体がどうなるのか、真実を知った夫がどうなるのか、そんなことは考えなかったに違いありません。マリカには過去もないように、未来もありませんでした。わかっていたつもりでしたが、不信と嫉妬に惑わされた青年には、現実のマリカを観察して適切な対処を取ることが、できませんでした。頭で決めたことを現実にする困難をまだわかっていなかったのです。青年は、マリカを守れませんでした。そのために結婚したというのに、です。

「マリカ」

 小さく、愛しい女の名を呟きました。

「どなたのお名前ですか?」

 椅子の脚が浮き、硬い音を立てました。振り向くと、白い服を着た女が立っていました。見覚えの薄い立ち姿に誰だ、と思い、顔を見てすぐに幼馴染の少女だと思い出しました。

「あ、ごめんなさい」

「君、お茶を飲んでいたはずじゃ」

「ええ、そろそろ失礼されていただこうかと思ったんですけど、その前に久しぶりだから、少しお話したいと思って。ご迷惑でしたか?」

 いや、と青年は曖昧に否定しましたが、迷惑でした。彼女が不躾というわけではありませんが、ここではそんなふうに入り込んでくる人間など一人もいなかったのです。気を使われるべき病人として以外の人との接し方を、青年はすっかり忘れてしまっていました。

「お久しぶりですね。本当に」

 青年の逡巡が伝わらないのか、彼女は屈託なく微笑んでいました。美しい微笑みでした。青年は初めて彼女が美しいことに気付きました。幼い頃から可愛いとは思っていましたが、それは姉が飼う猫や小鳥に対するのと同じ気持ちでした。

「私、街に行ったときに、あなたの劇を観ました。素晴らしかったです。美しくて、哀しくて」

 彼女が口にしたのは娼婦と貧しい事務員の物語でした。

「あの劇はよかったと思うよ。でも、僕の手柄ではないよ。ほとんど関わってないからね」

 謙遜というより賞賛の否定に、彼女は不満げに唇を尖らせました。健康そうな頬が赤く染まっています。

「相変わらずひねくれていますね」

 青年は眉を寄せました。

「相変わらず?」

 彼女は頬を赤くしたまま頷きます。

「子供の頃からずっとそうです。褒められると否定して、素直じゃなくって」

「そうだったかな」

「そうですよ。本当は優しいのに」

「優しくないよ」

 否定すると、彼女は得意そうににっと笑いました。

「ほら。素直じゃないんですから」

 青年は苦笑しました。そして、ずっと彼女を立たせていたことにようやく気付きました。

「座らないかい」

 二つしかない内の一つを勧めると、意外なほど嬉しそうに微笑みました。

「ありがとうございます」

 腰を下ろすときに空気が動き、彼女の香りがしました。香水とは思えない、日差しに乾かされた花と草に似た、優しく懐かしい香りです。こんなに近い距離にいると、子供の時分に戻ったようでした。髪の生え際や目尻、丸く分厚い耳、いたるところに親しみがありました。彼女は活発な女の子でした。青年は木登りをする彼女が落ちないようにしたり、馬に乗るのを手伝ってやったり、彼女が落とした帽子を川に拾いに行ったりしてやったものでした。とりどりの花を取ってきてやって、彼女が作った草の汁でべたついた歪な冠を頭に乗せてもらったこともあります。そして自分が作った小さな指輪を嵌めてあげたことも。成長しても、彼女は彼女でした。見知らぬ女ではありません。

「君、母に言われてここに来たの?」

 ふと思いついて尋ねると、彼女は首まで赤くしました。

「どういう意味ですか?」

「いや、」

 想像していたのと違う反応に戸惑います。彼女は目の縁に赤みを残したまま、青年をじっと見ています。その視線を振り払うように、軽く首を振りました。

「どこまで知っているのかわからないけど、僕は今療養中みたいなものだからね、母には心配されてるんだよ。君に話し相手を頼んだのなら、申し訳ないと思って」

 彼女は何故か不機嫌そうに青年を睨んでいます。

「頼まれましたよ。話し相手」

「そ、そう。すまなかったね」

 彼女は首を振りました。

「でも、来たのは頼まれたからじゃありません。私が話したかったからです」

 ひどく早口で、ほとんど聞き取れないほどでした。言い終わると、顔を俯けて、唇を噛んでしまっています。膝の上で行儀よく揃っていた指も、赤く染まってスカートを掴んでいます。そこまで来ても、青年は腑に落ちない心地でいました。尋常の精神状態からはまだ遠かったのです。ただ漫然と、彼女が話し出すのを待っていました。彼女もまた青年を待っていたのでしょう。正しかったのは多分彼女です。しかし、青年は義務を果たさず、口火を切ったのは彼女でした。

「マリカって、どなたですか?」

 あまりの率直さに虚をつかれ、つい正直に答えてしまいました。

「妻だよ」

 その単語を口にした瞬間、心臓にひどい痛みを覚えました。

「……伺っていたのは違うお名前でしたけど」

 懐疑の視線を向けられます。億劫になり、青年は適当に話を打ち切ろうとしました。

「渾名だよ。僕はそう呼んでいたんだ」

「どんな方だったんですか?」

 青年が語調に滲ませた拒絶の意思を、彼女は無視しました。青年が怒るはずがないという確信がその態度には表れていました。その女性特有の無邪気な傲慢さを感じ取りながら、けれど青年は負けました。青年には、彼女を嫌うことも怒ることも出来ませんでした。幼い頃から、大人たちに任された弱い存在としての彼女を許す習慣が、身体に染み付いているのです。この土地でそれに逆らうことなど出来ませんでした。

「……美しい女だったよ」

 それでもそれ以上のことを、口にすることは出来ませんでした。彼女はもう顔を赤くはしていませんでした。色の薄い瞳をじっと青年の顔に据え、しっかりとした声で言いました。

「愛していらしたんですね」

 質問ではなく確認でした。けれど青年は首を振りました。

「愛してるんだ。今も、これからも」

 額に手を当て、自分の膝を眺めながらも青年は、じっと注がれる強い視線を感じました。短くはない沈黙の後、口火を切ったのはまた、彼女でした。

「私、もうすぐ家に帰るんです」

「そう」

「だから、時間がないんです。あなたはきっとまた、街に行ってしまうんでしょう?」

「そうだね。そのうちには」

 彼女は俯き、深く息を吐きました。露な丸い耳が、また赤くなっていました。顔を上げ、潤んだ目を向けてきます。

「手紙を書いても、いいですか?」

「え? ……かまわないけど」

 答えたその瞬間、青年は気付きました。目の前の女は、自分に恋をしている。しくじった、という悔悟と、さらには正体のわからない恐怖が青年を捕らえました。そんな青年をしっかりと視線で射ち、彼女は続けます。

「今はこんなことを言うときではないと思うんですけど、私、ずっと待っていたんです。あなたにまた会えるのを。小さいときに、指輪をくれたでしょう?」

「でも、あれは……」

 覚えています。ですがあれはどんな約束とも無縁の、ただの素朴な親愛の証のつもりでした。

「わかっています。あなたはただ、お母様にそうしろって言われたから、そうしただけでしょう? わかっていました。でも、嬉しかったんです。本当に嬉しかった。お花が枯れても、ずっと持っていたんです。汚いって母に捨てられてしまいましたけど。そのとき私、泣きました」

 青年は呆然と、話を続ける彼女を見つめていました。こんなに真剣な女というものは初めて見ました。傷つくことも傷つけることも恐れずに、剥き出しの心をぶつけてきます。

「哀しくて苦しくて一日泣いてたら、母が私に言ったんです。いつかあなたが大人になれば、もっと素敵な指輪を下さるわよ、って。多分、苦し紛れにその場凌ぎで言っただけなんでしょう。でも私、それを信じていたんです。それを信じてずっと待っていました」

 そこで言葉を切り、痛みを堪えるように首を振ります。

「……街にあなたが行ってしまったときに、それが私の思い込みだって、知りましたけど」

 逃げ出したい。青年はその考えに支配されていました。けれど思いを裏切り、身体はまるで動きません。

「でも私、ずっとあなたを待っていたんです。あなたが街で作家として成功して帰ってくる日を、待っていました。その日はいつになるかわかりません。でも、きっとやってくるって信じていました。その日が来ればはしたなくても私からお願いして、一緒になっていただこうって。それまではただ、信じてずっと待っていようって。街に行くことがあればあなたの本を買いました。そのうちに部屋にあなたの本だけを置く小さな棚を作りました。春、劇場でお芝居がかかるって知ったときはとっても嬉しくて、私、そのためだけに街に行ったんですよ。初日でした。席は良くなかったけど、あの劇は本当に素晴らしかったです。最初はざわついていた劇場が、段々静かになって、聞こえるのはすすり泣きの音だけ。最後には泣きながら、周りみんな立ち上がって拍手しました。素晴らしかった。私の幼馴染はこんなに素晴らしいんですよって、一人一人に言って回りたくなりました」

 その劇場で、青年はマリカと再会し、その夜のうちに愛を告げ、求婚したのでした。この世でたった一人の愛する女に、一生の全てを捧げると契約した夜でした。青年の手の中にあった、植物の茎めいた細い指。夜のうちでも輝いた白い歪な歯。今はただ土の下に閉じ込められているマリカという女が持っていた特別な美しさ。青年が守ることの出来なかった女と、果たすことの出来なかった約束を、交わした輝かしい夜でした。

 彼女は続けます。

「私、暫らく幸福でした。うきうきして、みんなにいい人でもできたのってからかわれたぐらいです。あなたがきっと、近いうちに帰ってくる。そんな気がしました。ほとんど確信に近いぐらい。でも、また、私の思い込みでした」

 そこで、彼女は唇を噛みました。けれどすぐ、その濡れた唇を開きました。

「あなたの結婚の知らせには、本当にみんなびっくりしました。大騒ぎだったんです。ご家族だけじゃなくて、町ごと大騒ぎだったんですよ。私の家に、お母様がいらしたぐらいです。つまり、その、私とあなたのお母様が街まで行って、別れさせることはできないかって」

 知りませんでしたが、予想はできたことでした。彼女は青年の顔を見ることができないのか、僅かに目を伏せています。その瞼も赤くなっていました。

「でも、私、そんなことはやめるべきだって言ったんです。あなたにとってそんなことに意味はないのはわかっていましたから。その、失礼ですけど、あなたのご家族や町の方たちは、一時の気の迷いだと思っていたんです。都会の女性はこちらとは全然違うふうですから、いいように騙されてしまったんだろうって。でも、私は違うって知っていました。あなたは小さい頃からずっと頑固な方ですから。奥様がどんな方なのか、私には全然想像がつきませんでしたけど、あなたが本当にその方を愛してることだけはわかりました。だから、私、諦められると思いました。私、何があっても待てると思っていましたけど、あなたの決めたことに勝てるとは思いませんでしたから」

 青年は驚きを持って、目を伏せる彼女を見つめました。彼女のことを、青年はよく知りませんでした。幼い頃長いときを過ごしたのは確かで、彼女がどうすれば喜び、どうすれば泣き止むのか、その反応についてはよく知っていたように思いますが、それは理解ではなく習熟の問題でした。青年は彼女を理解しようとしたことなど一度もありませんでした。姉の飼っている猫の扱い方を心得ているのと同じです。彼女はただそこにいて、好ましくはあったけれど、興味の対象ではありませんでした。彼女の笑いは笑いとしてあり、泣き声は泣き声としてあるだけでした。その源泉の喜びにも悲しみにも、青年は無関心でした。

 そうやって長いこと青年の興味の埒外にいた彼女は、しかし青年を理解していました。笑い泣きはしゃぐ間、彼女はずっと青年を見ていたのでした。興味は勿論、おそらくは情熱さえ持って。その強い瞳は、今青年の顔に向けられています。二人の視線が噛みあいました。

「でも、私、また待とうと思います」

 その強さに圧されつつ、かろうじて青年は言いました。

「……僕はマリカを愛している」

 彼女は目を逸らしませんでした。

「知っています。かまいません」

「待っていてほしくないんだ!」

 尖った声に、彼女は顔を歪めましたが、視線は青年の上に据えられていました。

「それでも、待ちます。あなたがご自分の幸せを考えられるようになるまで。その時がきたら、私がそのお手伝いをします。どんな形でも」

「そんな日は来ない」

「来ます!」

 彼女の目に、涙が浮かんでいました。纏められた髪の下、露になった顔の全て、滑らかな首筋も、大きめに刳られた襟から僅かに覗く胸元も、スカートを掴んだふくよかな手も、赤く染まっていました。白い薄手の服には飾り気がなく、曲線に素直に沿っています。混乱の中で、青年は彼女の香りを嗅ぎました。乾いた草と花と、そして若い女の肉の匂いです。

  眩暈がしました。少し手を伸ばせば、その柔らかな首筋に触れることができます。少し力を入れれば、青年の胸に、彼女は身体を預けるでしょう。その肉の感触と重みがどんなものかさえ、予測することができました。かつての青年なら決して知らなかったことです。マリカと、その肉体によって与えられた知識でした。今の青年は、一つの男の肉体として、一つの女の肉体としての彼女を見ることができました。欲望を感じたわけではありません。けれどそこには確かに欲望の種子がありました。青年が意図すれば、いつでもたやすく芽吹くものが。

「来ます。きっと、来ます」

 祈りのように、彼女は繰り返しました。丸く張り詰めた頬の上を、涙が流れ落ちます。青年は恐怖に喉をひりつかせ、それを見つめました。目の前にいるのは、一人の女でした。成熟した肉体と、情熱と意思と理解を持った、青年を愛する、一人の女でした。

「……来てほしく、ないんだ」

 乾ききった喉でようやく絞り出した言葉は、拒絶ではなく懇願でした。張り詰めていた彼女の目が緩み、そこに憐れみが浮かびました。それでも、彼女は許してはくれませんでした。

「それでも、来ます」

 限界でした。青年は無言で席を立ち、その場を後にしました。



 それから三日と経たず、青年は故郷を後にしました。心配する家族に笑顔を返し、仕事を思い出したと言いくるめ、必ず頻繁に手紙を書くことと、次の帰郷の約束さえして、街へと逃げ帰りました。

 長い汽車の旅を終え、車を拾い、青年は墓地へと向かいました。日ももう沈んでいます。暗闇の中、灯りも持たずに青年はまっすぐに妻の墓へと歩み寄ると、その小さな石の上へと膝を折りました。花もない墓の上は、既に土埃でざらついていました。

「マリカ」

 呼びますが、無論、返事などありません。土埃を手のひらで払います。この中にマリカがいます。孤独に生き、孤独に死に、孤独のまま眠る女が。

「マリカ」

 墓には刻まれていない名を、青年は繰り返します。生きている間呼ばれることなどほとんどなかった名で、マリカはここに閉ざされています。永遠に。

「愛しているよ。マリカ。愛してる。永遠に、君だけを愛してる」

 小さな声で、繰り返します。返事はありませんでした。これから先、永遠にありません。



 家に帰った青年は、ある原稿を書き始めました。誰にも依頼されていない、ある貧しい作家の青年と、美しい女の物語を。愚かで、間違い続け、取り返しがつかない失敗をした青年と、この世の誰より孤独な女の物語を。ありふれた愛の物語を。美しくあるべき、けれど美しくなり損ねた愛の物語を。

 そして、その物語はここで終わります。

 長い時間お付き合いいただいて、ありがとうございました。厚かましいこととはわかっているのですが、ここまで読んでいただけたあなたに二つだけ、お願いしたいことがあるのです。

 一つは、覚えていてほしいのです。マリカという女がいた、ということ。彼女がとても美しく、たくさんの男に愛され、様々な偶然から一人の青年と結婚した、ということ。別の名を与えられ、病に斃れ、孤独のうちに死んだ、ということを。今でも別の名の墓の下にたった一人で眠っている、ということを。どうか、忘れないでほしいのです。

 もう一つは、これから私が交わす約束に立ち会ってほしいのです。

 もし私が約束を違えたら、私はあなたたちから礫を浴びることになるでしょう。ご存知の通り、私は弱い人間です。愚かな人間です。ですが、もうそれを知っています。自分自身に誓うだけでは脆すぎて、安心出来ないのです。どうしても礫を投げてくれる人がいると、信じることが必要なのです。

 約束します。

 私はマリカを、あの孤独な女、自分が孤独であることさえ知らぬほど、獣と同じぐらい孤独な女を、永遠に愛します。彼女の美しさを、彼女の明るさを、彼女の残酷さを、彼女のあさはかさを、彼女の孤独を、善いものも悪いものもマリカの持っていたもの全てを。永遠に愛し、永遠にその存在に私自身を結び付けます。この先の全ての幸福に背を向け、どんな女も愛さず、永遠に死者の夫であることを約束します。

 いずれやってくる死の後で、マリカに再び会うために。あの孤独な魂に、少しでも寄り添ってやるために。

 一度私たちを分かった死が、私とマリカを、再び結びつける日のために。

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マリカのために 古池ねじ @satouneji

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