第3話
その日から半月と経たず、青年はマリカと二人で結婚式を挙げ、共に暮らし始めました。
二人の新居は街の外れの治安も便利もいい場所にある一軒家です。大きくはないものの新しく清潔で、調度もよいものが整えられていました。青年は借家を探すか、当分元の下宿で過ごそうと思っていたのですが、この家に落ち着くことになりました。
一週間ほど前、マリカに連れられ、青年は彼女の恋人の宝石店へと赴きました。まだ日も高い時間なので、マリカは薄化粧と簡単に結った髪、林檎の果肉に似た色の袖の長い服という恰好でした。霞んだように光る銀に珊瑚を散らした飾りを髪に挿しています。いつになく上品な装いのマリカと青年という組み合わせには、よく訓練された店員たちでさえ不審の色を隠しきれませんでしたが、いつものごとく速やかに支配人室へと通されました。
「やあ、いらっしゃい」
あらかじめ来訪を告げてあったのでしょう。座ったままの気さくな歓迎に、青年は困惑しつつも挨拶を返しました。マリカは楽しそうに笑っています。
「こんにちは。今日はお話があって来たの」
「何かな。大体想像はつくけれど」
口を開きかけたマリカを手で制し、青年は一歩前に出ました。
「僕たち、結婚します」
「へえ!?」
いっそ楽しそうな驚きの声に、青年は少しばかり怯みました。マリカは明るく笑います。
「驚いた? でも、本当なのよ。私、この人と結婚するの」
面白い冗談でも言っているようなマリカに、宝石商もつられて笑います。
「ああしかし、結婚か。驚いたな。君も家庭の主婦になるわけだ」
「ならなくていいんですって。勿論、あなたとも別れなくても大丈夫みたい」
どういうつもりだい、と雄弁な視線が、青年の顔を撫でます。青年は無理に背筋を伸ばし、赤い顔を汗で濡らしながら弁明します。
「僕は彼女と、マリカと結婚するんです。良い妻を持つために結婚するんじゃありませんから」
くす、と笑い声を漏らし、マリカは言葉を受け継ぎます。
「ですって。でも、あなたとはもう二人で会えないわ。今日のお話はそれだけ」
思わず横を向いた青年に、マリカは歯を覗かせて笑います。薄化粧だと、マリカの顔はつるりと丸い額のせいで子供じみています。
「だって、結婚するんでしょう?」
理屈がよくわかりません。
「そう、だね」
ですが、青年は疑問を飲み込み頷きました。
マリカがそうしたいと言うのであれば、そうすればいいのです。青年はマリカという女全てを引き受けるつもりでした。そんな若い二人を、宝石商は機嫌よく眺めています。
「なるほど。よくわかった。住む家はもう決まったのかい」
「いえ、特に急いで探しているわけでもないですし。いい家でもあれば」
「そうか。じゃあ、いい家を知っているんでね。お祝いに二人に贈るよ」
唐突な提案に、反射的に結構です、と青年はいいかけましたが、その前にマリカが高い声を上げました。
「ありがとう! とっても嬉しいわ」
一切の躊躇も遠慮もない態度に、またしても青年は言葉を飲み込みました。
「少ししたら使いを送るから、万事任せたらいい。結婚した後も、困ったことがあったら何でも私に言いなさい。どうにかしてあげるから」
「まあ、ありがとう。これからもよろしくね」
宝石商は目尻を下げて頷きます。
「ときにマリカ、少し席をはずしてもらってもいいかな。彼と二人で話したいんだ」
「ええ」
マリカは入ってきたのとは反対の、控えめなドアの中へと消えました。おそらくちょっとした私室か書斎でもあるのでしょう。靴の踵が低いせいか歩き方まで普段とは違うマリカの後姿を見送ってから、青年は途方もない結婚祝いをくれた人物へと向き直りました。
「おめでとう」
「ありがとうございます。その、本当に、色々と」
「いいんだよ。たいした出費でもない。マリカも君も、私には可愛いからね。しかし、君が素直に受け取るとは思ってなかったんだが」
「マリカが喜ぶのなら、乞食になってもかまいません」
ぴくりと宝石商の皺っぽい目の際が引き攣りました。口元には愉快そうな笑みが浮かびます。
「私はね、商売人に対しては一目で大体の値踏みができるつもりでいるよ。でも、君がこういう人間とは思っていなかった。見くびっていたのか、買いかぶっていたのか、まだわからないけどね」
「どういう意味ですか」
宝石商は何かを振り切るように小さく首を振りました。
「君は芸術家だったんだな、と思ったんだよ。文章を書く商売人ではないわけだ。偉大な芸術家なのか、卑小な芸術家なのか、それはまだわからないけどね。私は芸術家を判断する術は学んでいないから」
礼を言うべきなのかわからず、青年はとりあえずそうですか、と間の抜けた相槌を返しました。
「しかし、この結婚はいいね。とても楽しい気分になった。ところで君、家族にはもう伝えたのかい?」
痛いところを突かれました。家族とマリカ。この二つを上手く収めるいい案は、青年にはまだ浮かんでいませんでした。当然、家族はマリカとの結婚を喜ばないでしょう。マリカが素性も怪しい女だということだけなら正々堂々とした対話で解決できる問題かもしれませんし、生来正直で生硬な倫理感を持つ青年です。無論そうしたでしょう。しかし、マリカは貧しく身分もない心正しい女などではありませんでした。絢爛たる汚名と表面的な富を持つ、心無い女です。もう一年もすれば青年は目に見えるものも見えないものも全てマリカに奪い取られ失意のうちに彼女の元を去ることになるかもしれません。それもまた、覚悟の上でした。青年はこの結婚によって幸福になるつもりも、マリカにお伽噺に出てくる貧しい娘を期待したつもりもありませんが、しかしそんな青年の事情を、両親に理解してもらうことは不可能でしょう。かといって、秘密裏に結婚することでマリカを賤しい女に貶めることも、青年には出来そうにありませんでした。
そんな不甲斐ない事情を打ち明けるには抵抗がありましたが、恥を忍んで青年は首を振りました。
「いえ、まだです。正直なところ、どうしていいのかわからなくて」
「だろうね。息子の妻として最適の相手とはいえないだろうから」
青年は忸怩たる思いで、けれど素直に頷きました。宝石商は小さく頷き返します。
「私も口添えはするつもりだよ。しかし、マリカの評判は悪すぎるし、余りにも大きすぎる。少しこの街で、ある種の社交をする人間なら誰でも知っている女だ。君の家族は完全にあの辺りに根を下ろしてはいるけれど、こちらにやってくることもあるだろう。こちらに知人もいるだろうし」
青年は唇を噛みました。いちいちその通りです。
「それで提案なんだが、マリカに新しい名前をつけてはどうかな」
「名前を?」
青年の声には非難の色が滲んでいました。それは誠実とはいいがたい行為です。
気に留めた風もなくその非難を黙殺し、宝石商は組んだ分厚い手の上に顎を乗せ、青年を見上げます。
「偽名を使うということじゃない。そもそも、マリカという名前自体が偽名みたいなものだ。マリカには正式の名前の登録は、少なくともこの街にはないはずだよ。その上で、新しく別の名前をつけて、その名前で結婚すればいい。それでも完全に安全とはいえないだろうけれど、まあ、今のままで結婚するよりは幾分ましだろうね」
少しの逡巡ののち、青年は結局、その提案を受け入れることにしました。マリカと共に店を後にして下宿へと帰る道中、青年はマリカに名前についての話をしました。マリカは何の抵抗も反応もすることもなく、受け入れました。
「いいと思うわ。マリカって名前も、この街に来てからつけた名前だし」
「いいのかい? 本当に?」
「ええ。でも、あなたが素敵な名前を考えてくれるなら、ね」
マリカの他愛ない要求に、青年は微笑んで頷きました。一応の念を押したものの、青年はことの成り行きに心底安堵していました。下宿に帰ってから夕食に出かけるまでの間に、青年はマリカの新しい名前を考えました。試行錯誤で二枚の紙がインク塗れになりましたが、結局星に纏わる、綴りの単純なものにしました。結婚証明書に署名しやすくするためです。マリカは新しい名前をたいそう喜び、幾度となく紅で染めた唇でなぞり、青年にも呼びかけさせました。もっとも、結婚したのちその名はほとんど使われることはありませんでしたし、マリカはそんな名前があることさえ忘れていたかもしれません。マリカはあくまでマリカでした。
とにかくそのような経緯があって、星に纏わる短い名前を持つ女と、青年は結婚証明書に署名をしました。両親には手紙で簡単に事情を説明したのみでした。常より時間を置いて届いた返事には、彼の好きにするように、と書かれてありましたが、かつてないほど短い手紙に両親の苦悩が感じ取れました。青年はこの歳になってようやく感謝し始めた彼らの愛に決して報いることができない自分を厭わしく、また申し訳なく思いましたが、せめてマリカのことだけは幸福にしようと、一人で心に言い聞かせました。
マリカとの生活は、思いのほか平穏でした。
青年は結婚して初めて知ったマリカという女の、余りの怠惰さに感動さえ覚えました。マリカは、何もしません。日がな一日様々な形に自分の髪を結ってはほどいたり、化粧をしては落としたり。爪を磨いたり、肌の手入れのため風呂から出ないこともありました。また膨大な数の宝石類を手に取り、飽きもせず指先で精緻な細工をなぞったり、光にかざして見蕩れたり。そうでなければ長椅子に座っているとも寝ているともつかない姿勢で、ただぼんやりとしていることが大半でした。マリカに合わせて宝石商が用意した白い部屋着で、素顔のマリカがくつろぐ様は、青年を決して飽きさせませんでした。以前はマリカの所作の全てから匂っていた演技の気配は、長椅子の上の彼女にはありませんでした。それまでのマリカの個性、細い肩の竦め方や目線の流し方は、男の視線を下着のように纏うことで生まれるものでした。その拘束から外れれば、マリカは一人の女というより一個の動物でした。社会的人格に必要不可欠な義務も責任もマリカにはありません。彼女はただ生命そのもので充足していました。自らの枠を言葉で無理やり作り出しその中に納まりたがる青年には、マリカの怠惰と放縦は輝かしいものと映りました。
マリカは無論家事などしません。お茶の淹れ方一つ知りませんし、ものはただ散らかしていくばかりです。家で摂る食事はつめたいものに限られ、部屋が散らかれば人を呼んで片付けさせました。住み込みでも通いでも、女中は雇いませんでした。青年は当然雇うつもりだったのですが、マリカが反対したのです。マリカは遊興上の蕩尽には慣れていましたが、生活上の贅沢というものには馴染みがありませんでした。青年にとって女中はあくまで女中に過ぎず、人格を付与された家事を行う装置として見做すのは幼少期からの習慣でしたが、マリカには女中とはあくまで他者に過ぎないようでした。マリカの言葉を借りるなら「家の中でまで他の女とは会いたくない」のです。
マリカが動物だとするなら、夜行性でした。ひとたび日が落ちれば、マリカはたちまち目に爛々とした光を宿し、動作も鮮やかでした。青年はマリカが手早く下着やその他の拘束具に似たもので肉体を望みのままに変形させ、髪を後れ毛一つにさえ意図を感じさせる優美さに結い、あどけない顔に艶やかな陰影を描きつけるのを驚嘆を持って見つめました。そんな夫にマリカは特注と思しき大きな鏡越しに得意げな流し目で応え、そろそろあなたも支度をしたら、と告げるのです。青年は名残を惜しみながら部屋を後にします。そして、身支度を終えた頃を見計らいもう一度マリカの部屋のドアを叩き、二人で腕を組んで出かけます。マリカは白い肌を効果的に見せるドレスに身を包み、道行く男たちの視線を纏い、宝石と共に自らの美しさをかき鳴らすようにして歩きました。青年はマリカの隣に立つに相応しい、とまでは言えなくともみすぼらしくはないような着こなしを心がけました。マリカはそんな青年に、内心はどうあれ満足そうな微笑みを零しました。
二人が行くのは以前にも通っていたマリカ行きつけの店のこともありましたが、距離が出来たので少し足は遠のきました。代わりに自宅近くに以前の店よりもさらに静かで品の良い、料理や接客の質もいい店を見つけました。
また、青年の付き合いに、マリカも顔を出すこともありました。尋常の夫人であれば当然論外の振る舞いであり、またマリカの一風変わった性格もあって、実際冷ややかな視線を向けられることもしばしばでした。しかし青年の交友関係には因習を拒絶しようと気負った文化人が多く、またマリカ自身の従来の貴婦人とは違う種類の洗練を感じさせる雰囲気がその気風にあったのか、概ね好意的に受け入れられていきました。
ある日、二人がいつもの集まりに顔を出すと、テーブルを囲む面々がいつになく静まり返っていました。不審に思う青年に中年の劇作家が、まだ歳若い作曲家の死を告げました。付き合っていた女の夫に刺されて死んだと言うのです。青年もよろめくように椅子に腰掛けると、言葉もなく俯きました。無惨な程若い死でした。作曲家は豊かとは言えない才能に、成人を迎える前に老い始めてしまった不安定な美貌と、ひどく意固地な性格が合わさり、見下されつつも可愛がられていた男でした。青年も親しいとまでは言えませんでしたが、幾度か音楽について彼から薀蓄を聞いたことがありました。訥々と乱暴に、けれどいつまでも話をやめず、その掠れ気味の声には妙に人を酔わせる拍子があって、青年も背中を曲げて聞き入っていたものです。
悲しみと寂寥に沈んだ夜が始まろうとしていました。けれどマリカは常と同じ甘えかかった声で給仕を呼び、口元に微笑みを浮かべ、その店で一番高い酒を頼み、全員の杯を満たさせました。立ち上がってグラスを取ると、あろうことか、歌い始めました。明るい恋の歌でした。マリカの甘い声と外れた音程が歌を一層明るく、馬鹿げたほど明るく響かせます。あっけに取られていた面々の目に徐々に敵意の色が宿りかけたとき、青年は立ち上がり、その歌が作曲家が一度だけ街一番の劇場で伴奏した曲だと説明し、歌い続けるマリカと声を合わせました。つられてそのうちの誰かが歌い始め、やがて店は楽しげな不協和音と酔いと泣き声に満ち、朝まで宴は続きました。
朝靄と疲れと酔いの中、縺れあうように青年とマリカは歩いていました。
「どうして歌ったりしたんだい」
青年は尋ねました。無論、彼が歌につけた解説は全くの嘘でした。彼の記憶では、作曲家がこの街の劇場に立ったことは一度もないはずです。マリカは幾度も塗りなおしたのか、まだ鮮やかな赤を残した唇を尖らせました。
「私、しんみりするのって苦手なの。死んじゃった人は死んじゃった人じゃない。楽しくしたほうがいいわ」
青年とは全く遠い考え方でした。ですが、そうだね、と青年は微笑みました。マリカはまだ小さく調子の外れた歌を歌い、青年もそれに合わせました。
ちなみに、青年とマリカがよく足を向ける安酒場には、あの画家の友人も顔を出していました。友人はこの奇妙な夫婦に対し、表向きはこれまでと変わらぬ親しさと気安さを装ってはいましたが、青年には彼がマリカには決して話しかけず、マリカはあたかも彼をいないかのように扱うのがわかりました。
ある日、マリカが化粧直しに立った時、友人は青年にそっと耳打ちをしました。
「お前、本当にいいのか?」
「何がだい?」
青年は静かに聞き返しました。友人の顔には揶揄でも心配でもなく、戸惑いが浮かんでいました。
「マリカがどんな女なのかなんて、お前もう知ってるだろう。いいのか?」
友人はぐるりと酒場を見渡します。作家も画家も演出家も音楽家も、洒落者も野暮なものも、少年も初老も、一様に酒に首筋を赤くし、議論に唾を飛ばしています。
「この中の誰と寝てるかなんかわかりゃしないんだぞ。いいのか」
青年は微笑みました。
「いいさ。マリカが楽しければ、それでいい」
友人は戸惑いの色を拭いきれないまま、口の中で転がすように呟きました。
「まあ、そのぐらいの気持ちでいたのほうが、楽かもな」
手持ちの鋳型にこちらの価値観を押し込まれ、ごく微かな寂しさが胸を掠めましたが、青年は聞かなかった振りをしました。青年と友人はどれほど親しくとも、全く違う精神の持ち主でした。けれど青年は、依然としてその友人が好きでした。かつて彼に抱いていた憧憬に近いものとはまるで違っていましたが、好きでした。肯定しがたい部分があったとしても、彼が施してくれた親切と共に愉しんだ時間が損なわれはしません。話題を変えるため、画壇に現れた新星と呼ばれる画家に関する盗作騒動について尋ねると、友人は音高く手に持ったグラスを卓に叩き付け、持論を滔滔と捲くし立て始めました。
すっかり夜も更けた帰り道、マリカは並んで歩く夫の腕に細い腕を絡ませ、尋ねました。
「あの人と、二人で何を話していたの?」
単純な疑問のようでした。青年は僅かな逡巡のあと、結局素直に白状しました。
「君のことを」
「私の?」
「君のことをすごくひどい女だと思ってるみたいだね」
マリカは首を傾げました。
「あの人がそう思っているのなら、それはそうなんじゃないのかしら」
青年は答えに窮しました。マリカは青年を見上げ、心配そうに言いつけます。
「でも、あまり近づかない方がいいんじゃない? あの人、乱暴だもの」
そんなことはない、と青年は言いませんでした。そうだね、と微笑み、その後マリカのいる場では、友人とは必要最低限の言葉しか交わしませんでした。
結婚して三ヶ月ほどは、マリカが一人で出かけることはほとんどありませんでした。服や宝石なども欲しがりませんでした。意外なことに、マリカはものを強請るということをほとんどしたことがないのだそうです。
「欲しくなる前に、勝手にくれるもの。自分からあああれがないな、ほしいな、って思うことって、ほとんどないわ」
劇の成功以来格段に増えた小切手の額を見て、何か欲しいものはないのかと尋ねると、マリカは長椅子に身体を預けたまま笑いました。
「それより何か、お話をして」
青年も長椅子に座ると、マリカは青年の腿に小さな頭を預けました。その適切な重みと完璧な丸みを腿に味わいながら、青年は新作の概要を妻へと語りました。マリカは青年の物語を好みました。時折ひどく核心をつくような質問を無邪気に投げかけるので、青年は冷や汗をかき、次からはこういう瑕疵のないように、と頭の隅に書き付けました。マリカには信仰と欲望の二律背反の煩悶から自殺する若者や、互いに愛し合いながらも死者への負い目から結ばれることのない恋人たちのことは、まるで理解の外にあるようでした。マリカの強固な唯物論は、青年の書くものにも影響を与えました。筋は単純で変化に富み、美しいものを星のように散りばめ、誰からもわかりやすい物語にするよう苦心しました。以前のような箱庭めいた完璧な論理の組み立てに腐心するのはやめ、多少の無理があろうと広くおおらかで美しい風景を描くように。
自分から強請るくせに、マリカはよく青年の低い声で綴られる物語を子守唄として、そのまま寝入ってしまいました。閉じられた白く薄い瞼の丸みを見ると、青年は降参するように小さな溜息をつきました。マリカの寝息はいつも静かなものでした。部屋は暖かく、外は静かで、妻は自分の脚を枕にして眠っています。青年はそんなとき、泣き出しそうになりました。薄い硝子の縁を叩いたかのように感覚の全てが高く澄んだ音とともに震えて、喉が苦しくなります。いったい人はこんな幸福を得ることが可能なのかとそら恐ろしささえ覚えます。
青年は、まったきものを見ていました。欠けることのない、完璧に満たされた幸福というものを。
一度、何故自分にそんな不相応なほどの幸福が舞い込むことになったのか、マリカに尋ねてみたことがありました。春の昼間。軽い昼食をとったばかりの二人は長椅子に並んで腰掛けていました。青年の膝には送られてきた新人作家の本が置いてありましたが、結局その日に開かれることはありませんでした。
「あなたと結婚した理由?」
マリカは手のひらに様々な色の水晶を花に見立てて散らした銀の髪飾りを乗せ、それに見入ったまま聞き返しました。黒い目の中に黄色、ピンク、水色、黄緑の光がちらちらと瞬いていました。
「うん。少し気になって」
あれほど熱烈に哀願しておいて、今更理由を尋ねるというのも滑稽でしたが、マリカは気にした様子はありませんでした。化粧もしていない顔には不釣合いな赤に染めた爪で銀の蔦をなぞります。水晶と銀という素材なので法外な値段とも思えませんが、青年の目からも見事な細工の品でした。
「初めてだったから」
「初めて?」
マリカは頷き、手を少し高く上げ、窓から入る日差しに髪飾りを透かしました。つい昨日掃除婦が磨いた床に、春の陽をくぐって和らいだ色が宿ります。
「綺麗」
マリカは青年のほうを向いて微笑みました。
「うん」
青年は床の上のとりどりに踊る色に微笑みました。そのまま二人で暫らくそれに見蕩れていましたが、やがて流れた雲が日差しを覆うと、マリカは手を下ろし、質問に応えました。
「私と結婚したいって言う男、あなたが初めてだったの」
「本当に?」
「ええ」
咄嗟に信じられないことですが、それも無理のないことかもしれないと青年は密かに考え直しました。マリカが付き合う男は、友人を除けば皆金を持った男、おそらく立場も家庭もある男だったことでしょう。あの観劇の後に青年が見せた無謀なほどの蛮勇はまこと適切な場面で発揮されたものだったのかもしれません。
「愛しているよ」
ほんの一瞬しかなかったかもしれない機会を捉えて手に入れた妻に、青年は囁きました。
「私もよ」
マリカは嬉しそうに笑うと、青年の唇に裸の唇を重ねました。マリカの口付けは、どれほど軽いものでも肉を感じさせるなまめかしさでした。青年は戦慄するほどの幸福と快楽に溺れそうになりながら、棒のように身体を硬くしました。
ほんのひと時置いてマリカが離れると、青年は先ほどまで自分のそれと触れていたはずの小さく色の薄い唇を見つめました。閉ざされた花の蕾に似た潔癖な愛らしさを持つこの唇が、なぜあれほどの情欲を注ぎ込むことが可能なのか、心底不思議でした。最後のときまで、青年はその唇に気安く触れることができませんでした。肉を切り取るような、焼けた石に触れるような覚悟を持たなければ、口付けることさえ出来ませんでした。
口付けごとに顔を赤くする青年の不器用は、マリカには面白いもののようでした。青年の瞳にちらちらと燃える欲望と自らの肉体への賞賛を感じ取ると、黒い瞳をぬるく潤ませ白い指で青年の顎をなぞります。首の薄い皮膚が粟立ち、青年は助けを求める視線をマリカに送ります。マリカは笑いの形に目を細めると、青年のシャツの釦を咥え、器用にはずしてみせました。
マリカは欲望にいたって素直でしたが、貪欲ではありませんでした。行為の時間にも場所にも制約はありませんでしたが、終わってしまえば満足の溜息をつき、そのままするりと服を着てしまいます。いまだ情欲の余韻と倦怠から抜け出せず荒い息を吐きながらだらしなく長椅子に横たわる夫の額に子供じみたやわい口付けをくれると、マリカは床に落ちた髪飾りを拾いました。
「さっきの質問だけど」
「ああ」
咄嗟に理解が追いつきませんでしたが、青年は曖昧に返事をしました。笑うマリカの白い歯に、さきほど舌先で味わった感触が思い出され、身体の芯に熱が宿ります。マリカはそっと左頬を押さえます。
「次に怪我をしたときに、あなたと結婚したら看病してもらえるって、少し思ったの。それでかもしれない」
「看病か。楽しそうだな」
正直な感想でしたが、冗談でも聞いたようにマリカは笑いました。
結論から言えば、この二人の結婚生活は、五ヶ月と経たずに終わりました。
終わりの始まりは、マリカの外出でした。ある日の午後、青年がタイプライターとの格闘をどうにか終えて居間へ行くと、そこには水色の外出着を着たマリカがいました。既に顔には薄化粧を施し、髪も纏めています。
青年は咄嗟に、マリカがまた新しい化粧か着こなしを試しているのだと思いました。上品な女事務員といった風采です。
「素敵な恰好だね」
それでそう言ってみたのですが、マリカは控え目に結った髪の上に白い小さな帽子を乗せ、にこりと歯を見せて笑いました。
「じゃあ、私、少し出かけてくるわね」
予想外の言葉に、青年が返事を迷っていると、その頬にそっと自分の柔らかな頬をつけ、マリカはそのまま去っていきました。薄い絹の靴下に包まれた足首の腱が綺麗でした。
その午後、青年はマリカの匂いが染み付いた長椅子の上で、ただただマリカの帰りを待ちました。日が翳っていくにつれマリカにもう会えないかのような不安は強くなり、夕方ごろにはほとんど確信に変わっていました。午後のマリカの後姿を反駁し、髪を掻きまわします。読みもしない本を抱え、マリカが出奔先から荷物を送ってきてほしいと言ってきたらどうしようかと案じていると、出掛けと同じ平静さで、マリカは帰宅し、青年の頬に頬をつけました。青年はマリカを抱きしめて、その首筋に顔を埋めました。可笑しそうな笑い声と甘く柔らかな香りを堪能しながら、安堵に泣き出しそうでした。
「仕方のない人ね」
マリカは青年の髪を撫でました。青年はそうだよ、と応えました。幸福でした。
けれど、マリカの一人での外出は続きました。たいてい午後、上品な恰好で出て行き、夕方頃に帰ってきます。長椅子にだらりと寝転がっていることが減り、家にいる間も以前より整った服装で、顔には薄く化粧をしていました。青年との行為も減り、またそれ自体も以前より大人しい性質のものになりました。マリカは青年に肌を見せるのも、触れるのも、避けるようになりました。夜も別々のベッドで眠りました。マリカがそうしてしまえば、青年に強いることなどできません。
男が出来たのだろう、と一人のベッドで青年は考えました。自分以外の体温がない眠りは寂しい清潔さでした。マリカは今頃昼間の情事に疲れた体を一人で休めているのでしょう。青年の触れることのなくなったあの白くどこまでも沈むような肌に、他の男の感触を貼り付けたままで。
しかしその想像は、寧ろ彼を安心させました。それまでの三ヶ月のまさしく蜜のような幸福を、永遠に続けることなどできないことはわかっていました。青年はマリカの浮気に心を痛めましたが、マリカが自分のもとにいる奇跡を考慮すれば、当然引き受けるべき苦痛だと思いました。そのくらいでなければつじつまが合わないと、感じていたのです。
青年はマリカに何も尋ねず、以前と違う香水をつけ、濃い化粧をして出て行く彼女を笑顔で見送りました。
「お出かけは楽しいかい?」
皮肉に聞こえないよう注意深く青年は尋ねました。実際責めるつもりなどなく、知りたかったのです。彼女が幸福なのかどうか。マリカはにこりと歯を見せて笑いました。
「ええ」
「それはよかった。いってらっしゃい」
マリカは青年の頬にそっと頬をつけました。その質感も以前とは違っていることに青年は気付きました。豊かだった肉が僅かに落ちています。確かにマリカは少し痩せたように見えました。後姿の腰の肉が落ち、服が身体に沿っていません。それでもマリカは美しく、青年は苦痛の中に自らの献身を見て満足していました。
ある日青年は一人で街を歩いていました。原稿を届け、ついでに本でも買うつもりでした。青年は歩くマリカを見かけました。迷いましたが、後をつけました。日の下で見るマリカは随分白い顔をしていました。帽子の下で、夏の日差しに顔を顰めています。眉間の皺が、いつになく深く見えました。ずきりと青年の腹が痛みました。
ゆっくりとした足取りで、マリカはある家へと入っていきました。青年の口の中に不吉な唾が溢れました。マリカが入って暫らくすると、家の窓にカーテンが引かれました。後ろめたさに、青年は足早にその場を去りました。
マリカの外出は続きました。青年は自分の手から幸福がすり抜けていくのを、ただただ見守りました。それを愛だと信じていたのです。
マリカはますます痩せていきました。豊かだった頬は削げ、ぴたりと身体に沿っていた服は全て身に着けていても身体の動きが見えないほどに浮いていました。何かがおかしい、と青年は思い始めていました。けれど何も出来ませんでした。幸福か、とマリカに尋ねました。マリカは歯を見せて笑い、幸福だ、と応えました。それだけで青年は何もできなくなりました。どんな穿鑿もせず、ただマリカの思うままにしました。繰り返します。それを愛だと信じていたのです。
真実を知ったときには、もう手遅れでした。ある日、マリカが青年の部屋へとやってきました。夜でした。乏しい光が、マリカの目の下の影を濃くしています。白い寝巻きから突き出した脹脛は子供か老女のような細さです。
「約束をしてくれる?」
マリカは首をかしげて要求しました。青年は考えずに頷きました。
「ああ。何を?」
「深刻になったり、うろたえたりしないって」
来たか、と青年は、安堵しました。不信は随分長く続きました。打ち明けられてしまえば、もう不安を感じなくともよいのです。マリカは、この家からいなくなるかもしれません。けれど、青年は待てるつもりでいました。マリカの不在の間、ときおり来るマリカの便りを待つ程度が、そもそも自分に許される幸福の適量ではないかとさえ、考えました。
「ああ」
応える青年に、マリカは笑いました。いつもの笑顔ではありませんでした。何もつけなくとも長い、けれども細い睫を伏せ、歯も見せずに笑っています。
色のない唇から漏れたのは、思いもかけない言葉でした。
「私、病気なの」
青年は言葉を失い、薄闇に浮かぶ白い顔を見つめました。
「病気?」
「ええ」
マリカは頷き、病名を告げました。それは、青年も耳にしたことのあるものでした。放蕩者が陥る悲劇の先導役、青年にはお伽噺に出てくる魔法使いのような、縁遠くも耳になじんだその言葉。
「看病、してくれる?」
マリカは微笑んでいました。肉が落ちた頬は見知らぬ皺を浮き上がらせています。青年は頷きました。頷くほかありませんでした。事態を把握しきれないまま、尋ねます。
「今まで、どこに行っていたの?」
マリカは男の不信に対する独特の察しのよさを発揮しました。
「お医者さん。薬をもらってたの」
肩を竦めて種明かしをするマリカを、堪らず青年は抱き寄せました。青年の身体が覚えているよりもはるかに細く骨ばった身体。心ではなく肉体の反射として、涙が出そうになりました。細い首筋に顔を伏せ、青年は内側から起こる打撃に耐えようと、じっとしていました。
嘘を、ついていたんだ。
からからと胸の内で思惑がひとりでに回ります。嘘が上手いマリカ。言葉から真実を切り離すマリカ。そんなことは知っていたのに、何故、信じたのでしょう。幸福か、と尋ねれば、マリカはいつでも笑い、頷きました。マリカの貞操など青年は一度も信じたことがありませんでした。けれどマリカのその言葉を、疑ったことは一度もありませんでした。青年はただ、信じたいことを信じていただけだったのです。自分の見たいものだけを見て、マリカの言葉から、自分に都合のいい真実を組み上げていたのです。喉がひりつきます。目頭が焼けるように痛みました。号泣の発作が青年を捉えかけました。
しかし、
深刻になったり、うろたえたりしないでね。
ほんの少し前、マリカが青年に要求したことです。
ああ。
そして青年は、頷いたのです。彼はマリカと、自分が全てを捧げると誓った女と、約束をしたのです。
感覚のない指でマリカの肩を押さえ、そっと身体を離しました。この女を愛している。びりびりと内側から鼓膜を叩くように、青年の全てが叫んでいました。この女を愛している。何よりも愛している。
「新しいベッドはいるかい? 寝巻きは?」
無理やり捻り出した冗談に、マリカは歯を見せて笑いました。白い歯は常のように輝きました。
その夜のうち、青年はマリカから聞きだした医者を家へと呼びました。医者は四十をいくつか越した年頃で、恐ろしく小さな身体をしていました。青年の顔をじろりとにらみつけると、白髪雑じりの頭をかきました。
「あんた、あの女の亭主なのか。驚いたね」
「ご存知じゃなかったんですか」
医者は首を振りました。
「どっかの囲われものなんだと思ってたよ。それにしちゃえらく上品な身なりをしてるなとも思ったが、あ、いや、失敬」
「いいんです」
何がいいのか、言っていて自分でもわかりませんでした。何もかもわかりませんでした。途方にくれる青年に、医者は苦々しく顔を歪めて告げます。
「あんたの女房の病気だがね、はっきり言えば、決していいことはない。見ればわかると思うがね」
気もなく投げられた言葉が、青年の尊厳を抉りました。見ていてもわからなかったのです。誰よりわかっていなくてはならないはずなのに。次々与えられる打撃を避けるすべもなく真正面から受け止め続ける青年に、医者はマリカの病状を告げました。消化器の異常。発熱。手足のしびれ。どれも百科事典でも読んでいるかのように青年の意識を滑ります。本当にそんなことがあるのでしょうか。あのマリカに、そんな現実が振りかかるものでしょうか。肉が削げた頬に刻まれた皺が頭に浮かびました。
「大丈夫かね」
医者が不意に説明をやめて尋ねました。青年は首を傾げ、自分が泣いていることに気付きました。泣いてばかりだ、と青年は涙を拭いながら思います。マリカと出会ってから、青年の涙腺は緩んでばかりです。今も理由さえ定かではないのに、ただ涙は溢れ続けます。
「続けてください」
意味もわからず言う青年に、医者は長い眉を僅かに持ち上げただけで、説明を続けました。時間の問題だ、と医者は言いました。
「その時間の単位は何ですか」
その質問には、医者は僅かに言いよどみました。
「週、では大きすぎる」
青年は自分の顔から血の気が引く音を聞きました。医者はその顔に観察者の目を向けました。
「それから、あんたも調べさせてもらうよ」
そして、そんなことを言いました。
「え? ……ああ」
マリカの病気は感染症です。青年は頷きました。そして、診察は行われました。青年はいたって健康でした。それを告げられた瞬間に覚えた反射的な安堵を、青年は憎みました。しかし、どうしようもありませんでした。医者は次の往診の日にちを告げ、去っていきました。
居間で、青年は長椅子に腰掛けました。マリカが伸びやかに怠惰を謳歌していた長椅子です。もう、何もかもが変わってしまっていました。青年は窓の外を眺めます。夏、生命の季節にざわめく緑に白い小さな花が散っています。細い月が花弁を青く濡らしていました。小さな、けれど美しい光景でした。その美しさが、新しい涙を絞りました。こんなときでも美しいものは美しいのです。とても大きなものが、確かに損なわれてしまった夜なのに。
首を振って、感傷を振り捨てると、青年は涙を拭いました。マリカの前で泣くわけにはいきませんでした。
マリカの部屋へ行くと、彼女はベッドに横たわっていました。
「お医者さん、帰ったの?」
「ああ。また来るって」
「そう」
小さな声です。聞き取るために、青年はマリカに顔を寄せました。以前使っていたものとは違う、薔薇の香水と、その底にあるマリカの香りと、そして何か違うものの匂いを嗅ぎました。どこかで嗅いだことのある香りです。
いぶかしむ青年に微笑むと、マリカはゆったりと目を閉じました。束ねてもいない豊かな髪の流れに、白い小さな顔がぽつりと浮かんでいます。穢れも恐れも知らぬ乙女のような顔。青年は手のひらに爪を立てました。
「私、死ぬのね」
明日は満月ね、とでも言うかのような静けさでした。青年は唖然とし、それから叫びました。
「馬鹿なことを言うな!」
頓狂に裏返った青年の声にマリカは僅かに顔をしかめ、それから微笑みました。
「あなた、死ぬのが怖い?」
青年は、マリカの口元からにおう、嗅ぎ覚えのあるこの奇妙なものの正体に気付きました。それは青年がかつて可愛がっていた馬が疫病にかかったとき、忍び込んだ厩舎で馬の苦しい息にあったもの、そして、祖父の死の床に並んだときに、萎れた老人の息にあったもの、でした。病の、あるいは死の、香り。
「怖いさ」
青年の声は震えていました。かつて夜中に馬の苦痛のひどい有様に厩舎から逃げ帰り、死を眼前にした祖父の手を握ることもできなかったような彼は、病の床にある妻にかけるべき言葉などわかりませんでした。
「私、怖くないわ。不思議ね。みんな、死ぬってどういうことなのか知ってるのかしら。私にはわからないわ。何もわからない。わからないことは私、怖くないわ。病気は、苦しいかもしれない。それは、怖い。でも、死ぬのは、怖くない」
「君は死なない」
「かもしれないわね。でも、苦しむぐらいなら、死んだほうがいいと思うの」
マリカは口元に微笑を湛えたまま、目を瞑っています。青年はベッドに無造作に投げ出された彼女の手を取りました。つめたい手からも、以前の滑らかさは失われていました。
「だから、あなたも怖がらないで。死ぬのはあなたじゃないんだから、怖くないでしょう?」
「怖いよ」
もう、限界でした。青年はマリカが目を瞑ったままでいることを祈りました。肉が薄い罅割れ、細かくささくれだった肌の手を、縋るように握ります。手を離せば逃げていってしまいそうでした。こちらを振り向きもせずに。
「めそめそしないでね。暗いのって、私嫌いよ。知ってるでしょう?」
確かに知っていました。死者を悼む席で歌を歌う女です。格別親しくもない他人の死だけでなく、自分の死に対しても、同じ姿勢でいるというだけのことなのでしょう。けれど青年の常識では、理解どころか受容さえ不可能でした。これほど美しくこれほど生を愉しんだ女が、死を恐れないなどということがあるでしょうか。そして、自分の夫がそんな女を喪うことを悲しまないでいることが可能だと、本当に信じているのでしょうか。青年にはそんなことは考えられませんでした。
死が何かわからないとマリカは言いました。わからないものは怖くない、と。しかし青年は、死がわからないからこそ、恐ろしいのでした。理解できないものは、青年にとっていつでも無限に巨大でした。
青年は不意に、思いつきました。そして、尋ねました。
「だから黙っていたんだね」
「ええ。愁嘆場って苦手なの」
それじゃあ僕のせいじゃないか。
あと少しで、青年は怒鳴りつけてしまうところでした。マリカの手を取り落としそうになり、不器用に握りなおします。得体が知れない。ただ、そう思いました。今自分が触れている女、自分の妻は、青年には存在自体が信じられない生き物でした。ただ、それでも、一つだけ、確かなことがありました。
「愛しているよ」
ある種の絶望とともに吐き出した言葉に、マリカは微笑みます。落ち窪んだ眼窩に闇が溜まっています。肌も萎び、乾いていました。病み衰えベッドの上に横たわる、この小さな女は、かつて夜に祝福され、あらゆる男の視線と汚名を一身に受けた女です。青年の理解と常識の届かない場所にいた女でした。そもそも、彼ら二人の魂が通い合ったことなど一度もないかもしれません。けれど青年は、得体の知れない彼女に焦がれました。始めはその美しさに惹かれ、今はただ、その存在そのものに結び付けられていました。愛していました。どうしようもありませんでした。人智を超えた何かと交わした不幸な約束として、その上で彼自身がマリカに交わした約束として、彼はマリカを、愛していました。
「私もよ」
けれどマリカは、変わらず支払いのことでも話しているかのようでした。
病の力は強大で、膨大な数のひどい味の薬も、毎日の往診も、何の役にも立ちませんでした。
マリカは病に従順でした。燃えるような発熱にも、嘔吐の発作にも、微かに眉を顰め、低いうなり声を漏らし、耐えました。どんな不平も零しませんでした。ただ、付き添いを雇おうかと青年が提案した際には、薄くなった唇ではっきりと拒絶しました。
「他人に看病なんてされたくないわ」
青年はそれを受け入れました。食事の準備とその他の家事をする女中を通いで雇い、マリカの看病は全て一人で行いました。
死に行くマリカ、抗おうとしないマリカと向き合うのは、辛い仕事でした。一日一日、病がマリカの生命を食い潰していくのを、見つめる他ありません。医者の説明などより、床のマリカが雄弁に状況を伝えてくれました。昨日より今日のほうが顔色は悪く、身体は痩せ、骨格さえしぼんでいくようでした。これ以上は悪くなるまいと思っても、病は貪欲にマリカの生命を搾取し続けます。痩せ、荒れた手の中で輝いていた爪が割れてしまったとき、青年は耐え切れず顔を伏せました。無惨でした。時折窓の外を見ると、夏空の下に緑が生気を帯びてざわめいていました。その都度息が詰まりました。
耐えられない、と思っても、耐えるほかありませんでした。
「殺してくれてもいいのよ。口を塞いだら、きっとすぐだわ」
吐息ほどの小ささで、マリカは一度、言いました。歯は変わらず白く、けれど以前のように光ることはありませんでした。
「できるわけがないだろう」
青年はもう、涙を隠すこともできませんでした。マリカは抜け落ち、まばらになった睫を伏せました。
「残念」
何もできませんでした。ただ、マリカの手を握りました。マリカの力は弱く、握り返しているのかさえ定かではありません。病床のマリカの手を握っていると、青年はあることを思い出しました。雪の日、マリカを思いながら抱えていた一人の娼婦のことです。彼女の手も、程度の差こそあれこんなふうに荒れていました。彼女もまた、マリカと同じ病に苛まれていたのかもしれません。ありそうな話でした。ああいう類の女には、ありふれた悲劇です。ならばこれもまた、ありふれた悲劇なのでしょうか。
「何か、お話をして」
時折マリカは強請りました。青年は困りました。病も死もかかわりのない話など、そう持ち合わせはありません。青年はそれで、お伽噺をしてやりました。針がないハリネズミの、人の言葉を話す猫の、遠い昔に聞かされたありふれた冒険譚を。マリカは薄く目を開いて、小さく微笑んで、物語を愉しみました。
「こんなに面白い話、聞いた事がない」
掠れた声で、そう言いました。
「聞いたこと、ない? この話」
「ないわ。有名なの?」
「ああ」
とても有名です。子供のころ、違う相手から何度も話してもらいました。母にも、乳母にも、姉たちにも。マリカは顎を微かに動かしました。
「そうでしょうね。こんなに面白いんだもの」
そのときに青年は気付きましたが、眼前にある死を自覚しながらも、マリカは自分の家族に一度も言及しませんでした。子供のころの話も、一度もしませんでした。青年も尋ねはしませんでした。
死の直前、マリカは青年に言いました。もうほとんど聞き取れないような声で。
「私が死んだら、あなた、悲しい?」
「ああ」
仕方なく、頷きました。そんな話は聞きたくありませんでした。
「じゃあ、早く奥さんを見つけるといいわ」
「ふざけないでくれ」
力なく青年は反論しました。
「だって、私は死んじゃうのよ」
「その後だって会えるだろ」
「その後?」
マリカには本当にわからないようでした。青年は説明を諦めました。ただ、祈りました。何を祈っていいのかさえわかりませんでしたが、ただ、祈りました。マリカを。どうか。マリカを。どうか。お願いします。夫が祈る間、マリカは目を瞑っていました。
翌日の朝、青年が椅子の上で目を覚ますと、マリカは死んでいました。
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