第2話

 その日から、青年とマリカはずっと親しくなりました。ふとしたときに、マリカは青年の部屋を訪ね、二人は食事に行きました。マリカはいつも黒いドレスを着ていました。少しずつ違った形の、けれどいつも黒一色のものでした。レースや縁飾りさえついておらず、ただ胸元の形や襞の寄せ方の工夫で主の肉体の曲線を強調し、それ自体がどんな装飾より目に鮮やかでした。

  初めて行ったのと同じ店で、勘定はいつもマリカが持ちました。青年は、マリカに色々な話をしました。故郷のことや友人のこと、読んだ小説や見た劇のことなど。マリカはどんな話でも、楽しそうに聞いていました。

 マリカの新しい恋人だと噂されているのは青年の耳にも届きましたが、事実ではありませんでした。もちろん、青年の思いはマリカに伝わっていたことでしょう。ですが青年はマリカの頬に唇を落とすことさえできませんでした。懇願すれば、おそらくマリカは許してくれたでしょうが、それは違うような気がしたのです。

 マリカは自分のことをほとんど話さない女でした。青年も、あえて聞きたいとは思いませんでした。恋人のことなど聞かされたら、と思うだけで、青年は強張りました。ですが会話の端々から、マリカがまだ宝石商と付き合いがあること、そして今の恋人が彼だけではないのは伝わりました。青年はそれを、つとめて考えないことにしていました。どう受け止めていいのか、自分でもわからなかったのです。

「いつか、君のことを小説にしたいな」

 ある日、酔いとマリカでぼうっとなった青年は、マリカに囁きました。

「私を?」

 濃い睫がひらひらとはためきます。マリカは常のように華やかで、けばけばしく、マリカそのものでした。マリカでしかないのに、その他全ての美でもあるような、その美しさ。その瞳の奥に、光が点っています。店の灯りが映っているだけですが、マリカの内にある光が溢れているようだと、青年は思いました。マリカの額に額をつけ、その目を覗き込みたい。そんな熱をこめて、青年は告げました。

「うん。君のことを書くべきだと思うんだ。君が、美しいから」

 マリカは喉元を軽く擽られたかのように笑いました。きゅっと細い肩が窄まり、楽器のように笑い声を奏でます。青年はその丸く高い声を、永遠にとどめることができたらいいと思いました。もし音を固めることができれば、マリカの笑い声はきっと丸く小さな宝石になるでしょう。それを好きなときにいつでも手のひらで転がすことができれば、どれほど心地よいでしょう。

 青年はそのとき、理解しました。それができないから、自分は小説を書いているのだと。どんな美しさも、永遠に留めておくことはできません。たった今聞こえたマリカの笑い声は、もうどこにもないように。全ては一瞬のものです。でも小説にすれば、全てではないにしろ、マリカが美しかったことを、紙に縫いとめることができます。

 しかしそれを、そのときマリカには伝えませんでした。笑うマリカを、泣きたいような思いで見つめていただけでした。はっきり言えば、青年は、臆病者でした。

 マリカの傍にいることができれば、それで満足だと、青年は思い込もうとしました。マリカは青年に恋をしているとは考えられませんが、少なくとも、会いに来るのは彼女のほうでしたし、青年の感情を不愉快だとは思っていないようでした。青年の前で、マリカはいつも美しく、楽しそうでした。それで満足だと、これ以上望むことはないと、青年は自分に言い聞かせます。それでもふとしたときに青年の指は無防備に晒されたマリカの二の腕の柔らかさや温度を知りたがりましたし、唇は酒で温まったマリカの吐息がどれほど甘いのか確かめたくて堪りませんでした。

 時が過ぎ、冬もすっかり深まった頃、青年は友人と二人、歩いていました。もう辺りは薄暗く、空を不穏な雲が厚く覆っていました。雪でも降りそうな気配です。二人は無言でいつもの店へと急ぎます。

 賑わう通りをうつむきがちに歩く青年の視界の端に、見覚えのある姿がちらりと掠めました。豊かな黒髪を高く結い上げたその姿。暖かそうな毛皮に、細い体を包んでいます。

「マリカだ」

 脚を止めた青年に、友人が言いました。青年は答えず、彼女を見つめます。

 マリカが立っているのは、とある店の前でした。この街一番の、宝石店。気付いた瞬間、青年は息さえ出来なくなりました。友人も、心得たように青年の傍に立っています。

 店から、予期した人物が出てきました。恰幅のいい体格に見合った、悠々とした歩き方。裕福な宝石商とその美しい愛人は目を合わせ、いかにも仲睦まじそうに微笑み合いました。日陰の仲であることなど一切感じさせない、幸福な恋人同士そのものの態度でした。

 宝石商はマリカの小さな背に分厚い手のひらを当て、二人は並んで歩き出しました。どこへ行くのか、青年には見当もつきません。二人は寒さなど感じていないかのような、弾むような足取りで、遠ざかっていきます。

 すっかり二人が視界から消えてしまうまで、青年はただ、そこに立っていました。

「行こう」

 友人に促された後も、青年は上の空でした。脳裏にはマリカの笑顔が貼りついています。幸福そうな、青年には向けたことのない、マリカの笑顔が。

 酒と肉の焼ける匂いと人いきれでむっとしたいつもの店に入った後も、青年の顔は青ざめたままでした。つられたように、友人も言葉少なでした。

「女なんて、みんなああしたもんだな」

 彼のその言葉に、青年は返事をしませんでした。

  友人が気を使ってくれたのでしょう。二人は店を常よりはるかに早い時間に切り上げました。

 街には雪が、降り出していました。灰色の空から、白く重たい雪が、きりもなく落ちます。がちがち、と歯が鳴ります。髪にも肩にも雪は積もっていきますが、払うこともせず、背を丸め、下宿へと歩きます。

 身体は冷え切っていますが、身体の奥に溶かした鉄のようなものが蟠っています。ぐつぐつ、と内臓が煮える音さえ聞こえるようでした。苦しい。青年は震える奥歯を噛み締めます。苦しい。苦しい。苦しい。

 髪から落ちる雪が靴に掛かるのを眺めながら、青年は秋、友人にマリカの生業を聞かされた日のことを思い出しました。あの日はまだ、こんなに苦しむことになるとは思っていませんでした。あの日だって苦しくなかったわけではありません。しかし、今にして思えば、あれはただの概念上の苦しみに過ぎませんでした。さらにはそのほんの少し前まで、彼は恋をしたいとさえ思っていたのでした。もうすぐ雪に降られ、臓腑を煮えたぎらせながら寄る辺もなくこの街の冬を一人歩くことになるなんてまったく知らず、恋は苦しみさえ甘美なものに違いないと夢見ていたのでした。何もかもが変わってしまっています。ただ、マリカに出会っただけなのに。

 マリカ。

 本当にただ、出会っただけでした。まだ口付けさえ交わしていません。想いさえ告げていません。マリカのどんな部分さえ、彼のものではありません。

 マリカ。

 彼女の美しさに対して、青年はどんな権利もないのです。彼に出来るのはただマリカの姿を見て、マリカの声を聞いて、マリカの香りを嗅いで、その美しさを永遠に留めたいと願うだけでした。

 マリカ。

 たったそれだけだというのに、何故苦しみばかりがこんなに大きいのでしょう。想い一つのことなのに、何故それさえ自由にならないのでしょう。苦しみたいわけではないのに。マリカに恋をしたかったわけでもないのに。どうして。

 マリカ。

 それでも、それでもどうして、想うのをやめられないのでしょう。

 もうやめてしまいたい。心から、そう願いました。この恋を捨ててしまいたい。けれど青年の心臓が、それを裏切ります。恋人に向けたマリカの微笑が脳裏に舞うだけできりきりと心臓は痛みます。そして今の青年にとって、その痛みだけが全てでした。これを今失うことは、自分自身を失うことと同じでした。今の青年の肉体を動かしているのはマリカでした。心臓ごと切り離さなくては、恋を捨てることなどできない。

 できない。

 顔を上げた青年の目に、女が映りました。あの日に見かけたような、街角に立つ娼婦。違う女でしたが、その違いにどれほどの意味があるというのでしょう。粗末な外套から白い首がぬっと突き出ています。色の褪めた肌に、紅の色だけが毒々しく映えています。その唇を、青年はただ見つめていました。髪に、肩に、雪が厚く積もっています。がちがち、と歯が鳴る音で自分が凍えていることはわかりました。寒さにも痛みにも、ひどく鈍感になっていました。泥の中にいるような、重たく鈍い感覚。

 女が、立ち尽くし、自分を凝視する青年に気付きました。あの日のように、娼婦は唇の端を上げ、ゆっくりと、こちらに近づいてきます。

 青年は、逃げませんでした。震えながらただ、微笑を象った唇が近づいてくるのを、見つめていました。



 女が青年を案内した宿は、狭く、粗末なものでした。薄暗い灯りに照らされた女は、厚い化粧でも隠しきれないほど肌が荒れています。外套の下、腕さえ覆っていない黒いドレスは身体に沿わず、痩せ過ぎた体を痛々しく強調していました。

「まだ、震えているのね。寒い?」

 女の声も、寒さのためかかすかに震えていました。青年は話すのも億劫で、ただベッドに腰を下ろしました。まだ外套も着込んだままです。女は青年の隣に座り、彼の腿の上に手を置きました。爪こそ赤く彩られていますが、荒れた手でした。その罅割れた肌に興味が沸いて、青年は彼女の手の甲に、そっと指先で触れました。ざらざらとした感触が、かじかんだ指先から伝わってきます。細かくささくれ立った皮膚はどこか脆い柔らかさで、今まで触れた何とも違う手触りでした。

 この女のどんな場所にでも、触れることが出来る。

 手首を掴み、女を無理に引き寄せました。青年の身体に、不自然なほど柔らかく、女の身体が落ちてきます。小さな痩せた身体は冷たく硬く、冬の街の埃と、濃い化粧の匂いが混じっていました。

 乱暴ね、と女は笑みを含んだ声を零します。青年の熱に溶ける様に、女はぴたりと青年の体に沿います。埃と化粧の匂いの奥から、油っぽく獣めいた女の匂いが立ち上ってきます。胸の中に入れると、女は本当に小さく、小説を書くほか何も知らぬ青年の腕でも抱き壊してしまえそうでした。

 寒さのせいではない震えが、青年を襲いました。震える唇を、女の筋張った首につけました。荒れもその部分には及んでいませんでした。女の肌はこんなにも柔らかくなめらかで暖かく湿っているのだと、青年は初めて知りました。マリカの肌も、こんなふうなのでしょうか。今頃、マリカの首筋にも、恋人が唇をつけているのでしょうか。マリカの丸い膨らみがあの分厚い手で形を変え、マリカの唇から喜びの声が漏れるのでしょうか。

「寒い」

 呟いた青年の背を、くすぐるように女の指がなぞります。それは青年が初めて知る、労わりの方法でした。知れず、青年の睫が涙で濡れました。

「寒い」

 二度目の呟きには、青年自身さえ意図しない甘えが含まれていました。女は手のひらも使って、青年の背を撫でました。青年は女を胸の中に抱えなおしました。女はもう冷たくはありませんでした。暖かく、それは青年が久しく触れていなかった暖かさでした。人間の暖かさです。

 一人の女が、この状況を受け入れて青年を温めてくれているのだと考えると、青年は腕の中の小さな熱が、ひどく尊く思われました。自分には、冬の日に女を胸に抱くことが許されているのです。

「お兄さん、悲しいことでもあったの?」

 青年の胸に顔を伏せたままの、くぐもった声が尋ねます。ひどく屈託のない、子供じみた質問でしたので、青年はつい答えました。

「恋をしているんだ」

 自分の言葉に、涙が溢れそうでした。

「可哀想に」

 青年は答えることができませんでした。ただ女の首筋に顔を埋め、喉を震わせ泣きました。息が苦しく、胸が痛く、女に触れていない部分が寒くて、細い体にしがみつきました。

「ああ。ああ。可哀想に」

 あやすように女は青年を撫で続けます。泣きながら、この女を離したくないと青年は願いました。この女にずっと暖めていてほしい。けれど今どれほどこの温もりを求め、それが続くことを願いながらも、その願いがほんの儚い、いっときのものであることにも、青年は気付いていました。傷の痛みを、薬で和らげることは出来ます。けれど、痛みを感じなくても、傷はそこにあるのです。女は痛みを和らげてはくれますが、傷を癒やしてはくれません。それが出来るのは、たった一人でした。マリカでなくてはいけないのです。どうしても。

 何故マリカなのか、青年にもわからなくなってきました。けれどマリカの微笑を思うだけで、あの白く光る肌を思うだけで、心臓が引き絞られるかのように痛みました。マリカの黒く煌く瞳には、そこにしかないものが、確かにありました。マリカしか持たない、全てを越えるような「何か」が。真実とでも呼ぶしかないもの。欠けることのないまったき美しさが。

 マリカを、青年は思いました。どうしようもなくマリカがほしくて、手に入らなければ気が狂ってしまうと思いました。けれど、マリカは今頃きっと、恋人の手に抱かれているでしょう。そうでなくとも、マリカは青年のものではありません。金を払っても、こんなふうに腕に抱くこともできません。青年に出来るのはただ嗚咽を金で買った女の首筋に吐き出すことだけでした。



 夜が明け、青年は女に金を払い、別れました。窓から差す朝日に照らされた女は、荒れた肌にこびりついた化粧がひどい有様でしたが、変わらない優しさで青年に微笑みました。青年は釣られて微笑み、自分がまだ微笑むことができるということを、静かな驚きを持って受け止めました。

 またね、と言う女に、青年はありがとう、と頭を下げました。女と、そしてその微笑と、そのぬくもり。荒れた手の甲の感触や、ごつごつとした細い背骨、なめらかに湿っていた首筋と、埃と化粧と獣めいた女の香り。その全てがひどく名残惜しくなりました。もう、二度と会わない女だからこそ。

 宿を一歩出ると、世界は白く染まっていました。

 雪でした。夜の間に積もった雪が、朝日に濡れて光っています。

 明るい冷気が青年の皮膚と眼球を突き刺します。よろめくように、青年は分厚い雪に足跡をつけました。冷たさよりも、ずず、と僅かに沈む感触が鮮やかでした。

 普段は朝日には薄汚れたけばけばしさを晒すばかりの看板の数々も、道端のごみにも、等しく雪は白く積もっています。どこを歩いても、雪が彼の足の下にありました。

 青年はゆっくりと脚を運びます。雪の上を歩くのは、あんな夜を越えた朝にも、楽しいことでした。そして、彼のどんな感傷さえも寄せ付けないほどに、街は美しいのでした。

  肚の奥から暖かい液体が湧き出て、それが冷えた血肉を少しずつ溶かしていくようでした。少しずつ。酒と寝不足のせいでひどく疲れていましたが、内にはそれでは侵しきれぬものがあり、時が経てば自分が癒やされることを、青年は理解しました。

  生きているということは、よいことなのかもしれない。

  白く柔らかく明るい街を見ているうちに、青年はそんなことを思いました。こんなに美しいものがときに現れるのだから、と。そして、ある言葉を思い出しました。

  美しい愛の物語。

  青年は、冷たい唇で呟きました。吐き出されたのは声ではなく、白い息ばかりでした。

  美しい、愛の、物語。

  はっきりとした重さで、その言葉は彼に迫ってきます。まさにそれを書くために、青年はこの街に来たのでした。そしてマリカに出会って、その物語は青年の中でマリカの物語になりました。美しい愛の物語。それがマリカの物語であるのなら、同時に青年の愛の物語でもあるはずでした。

  けれどこれは少しも美しくはない。

  ぎゅうっ、と雪がつぶれる音が足元で鳴りました。

  青年にとっては、どう考えても自分自身のマリカに対する一連の想いは、美しいものではありませんでした。マリカに恋をしたこと自体を不本意だと考えましたし、いざ想いを認めても、青年に与えられたのはほんのつかのまの楽しみと、比べ物にならないような痛みでした。昨夜のことを思い出そうとするだけで、まだ息が詰まりました。

  青年の願いはただ、マリカを自分だけのものにすることでした。自分だけのものにする、という言葉が意味するのは、青年にとって、あの小さな柔らかな身体を腕の中に入れて、首筋に唇をつけ、夜通し二人とも身動きもせずに抱きしめあうことだけでした。

  その願いそのものなら、美しいものだと言い張ることができたかもしれません。けれど、その願いはすでに汚されていました。青年自身の弱さによって。

  昨夜、見知らぬ女を、青年はマリカの身代わりにしたのでした。金でもって、本来なら女という生き物が本当に心を許した男とだけ過ごすはずの一夜を、彼はあの女から購ったのでした。痛みに耐えかねて、彼は普段なら決して自分に許さない行為に出たのです。

  依然として彼は肉体的には潔癖でしたが、それを自分に対する言い訳には出来ませんでした。いえ、ともすると、あの女から購ったものが娼婦として当たり前に売り買いする肉体的交接であるほうが、まだましだったかもしれません。それならばただ肉体的な飢えに耐えかねただけだと自分に言い訳することも出来たでしょう。彼はただ潔癖症の坊やではなくなり、一人の平凡な男として、一人の特別な女を想うことになるだけ、と言うこともできたでしょう。

  けれど青年が実際購ったのは、肉体が求めたものではなく、精神が求めたものでした。たった一人の女にだけ求めるはずのものを、他の女から金で買ったのです。青年が汚したのはあの娼婦の一人の人間としての精神の価値、そして、青年自身のマリカへの愛でした。他の女を身代わりとした以上、マリカに捧げる愛を唯一無二のものとは、もう言えません。

  そのとき青年はそこまで整然と論理を組み立てたわけではもちろんありませんが、昨夜の行為に対し、取り返しがつかないという漠然とした、けれど決定的な思いを持ちました。折れてはいけないときに折れてしまったのだと。

  しかし自分の考えを、たとえば友人たちにでも話せば、暖かく彼を笑い、からかいながらも慰めてくれることも、青年にはわかっていました。まさしく青年の論理は潔癖症の坊やにしか持ち得ないものでした。自らの行いに些かの傷もつけたくはないという、自分本位で身勝手な潔癖症です。そんなことは、さすがの青年にもわかっていました。

  それでも、彼は傷のないものがほしかったのです。完璧なものが。マリカのように。あの日の光の海のように。全てがそこにあり、そこで全てが完結しているかのように、美しいものが。それを手に入れることが不可能でも、せめて美しく、まったき愛を持ちたかったのです。

  ですが青年にはもう、その存在自体を信じられなくなりました。美しい愛。本当に、そんなものはありえるのでしょうか。そもそも、どんな愛なら美しいと呼べるのでしょうか。

  足元で、雪が溶けていきます。白く、柔らかく、真新しい雪が、踏みにじられ、埃雑じりの水となって、青年の靴を濡らしました。



 マリカが青年の部屋へやってきたのは、翌日の昼のことでした。

 軽やかな、青年には「愛らしい」としか表現できないマリカ独特のやり方で扉を叩かれて、一瞬青年は自分が時間を勘違いしているのかと思いました。昼も夜もないようなぼんやりとした一日を過ごした後でしたし、マリカが彼を誘うのはいつも夕方のことでしたから。

 驚きが複雑な感情を一時彼の頭から追い出し、青年は躊躇なく扉を開きました。そして、思わず小さな悲鳴を漏らしました。

 マリカの顔は、ひどい有様でした。

 部屋着の化粧着の上に、毛皮を無造作に羽織ったマリカは、初めて会ったときのように素顔を晒していました。けれどその幼げな顔の口元は切れ、左目の周りは鬱血してどす黒く変色しています。腫れているのか、左目はほとんど開いていません。肌は血の気がうせたように白く、痣の色は不気味なほどに鮮やかでした。

  明らかな暴力の跡でした。その生々しさに、青年は言葉を失い、僅かに後ずさりました。

「ごめんなさいねこんな恰好で」

 口の中も切れているのでしょうか。マリカの声は低くくぐもっています。色のない唇から漏れる息も寒さのために白く、寒空の下に放り出された子供のような痛々しさでした。無造作に流した豊かな髪ばかりが不釣合いにつややかで、どこか猥雑です。

「いや……」

 青年は曖昧に否定しました。狼狽した様子がおかしかったのか、ふっ、とマリカは微笑みました。いつもは華やかで愛らしいその微笑も、その顔の上ではいっそう翳を深くしただけです。

「あのね、お願いがあってきたの。聞いてもらえる?」

 顔が腫れていても、声がくぐもっていても、マリカはマリカの方法でものを言いました。断られる可能性などまるで考慮に入れていないような、いっそ無邪気なほどの高慢さです。

 その態度に怪我のわけを聞くのも忘れ、青年は頷きました。マリカはよかった、と歯を見せて笑います。大きな前歯は、いつもと同じ白さで、青年は少しばかりほっとしました。

「今日、人と約束をしていたんだけど、こんな顔じゃ行けないから、言付けを頼みたいの」

 そして彼女が告げたのは、宝石商の名前でした。

「今の時間ならお店にいるわ。もしいなくてもその辺りの誰かに言って置いてくれれば大丈夫だから。お店の場所はね、」

「いや、それは知ってる」

「そう? それで、行ってもらえるかしら?」

  青年は頷きました。断るべきなのかもしれないとは思いましたが、マリカの細すぎる首や、分厚い毛皮を羽織っても狭い肩。なにより顔に残る傷跡が、青年から他の選択を奪い取りました。

「ありがとう。助かるわ」

 マリカは胸元に透けそうに薄い手のひらを重ね、青年を見つめて礼を言いました。

 傍から見れば、そのときのマリカの姿は滑稽だったかもしれません。豪華な毛皮に身を包んだ、痛めつけられた子供のような、痩せぎすの女。それでも青年は、その痣の紫や開ききらない目元の睫の際、切れた唇の引き攣れに、やはり何かを見出しました。青年の脳裏にしっかりとその姿を焼き付け、思い返すたびに胸が引きちぎれそうなほどに愛おしい苦痛を彼にもたらす、何かを。



  煌びやかというよりは落ち着いた外観の、けれど銀行以外では街で一番の現金を持っているに違いないその場所に行って名前を言うと、青年と自分の主人の淡い関係さえ把握している店員は、すぐに彼を支配人室へと通してくれました。その部屋は派手ではないもののすっきりと洗練されていて、季節を考えると奇妙なほど暖かく、青年は今更ながらマリカの恋人の持つものを意識させられました。久しぶりに会う父の友人は、青年の訪問に僅かな戸惑いを見せはしたものの、裕福な人間特有の余裕で歓迎してくれました。

「やあ。急に来るなんて珍しいじゃないか」

 その人はもちろん美男子などではありませんが、ある種の力を持っていることは誰の目からも明らかでした。人を動かすことに慣れ、求めるもののために何をなすべきなのかわかっている人です。青年は初めて彼と自分を並べて考えました。何も持たない、何も成しえない自分と、ほしいと思った全てを自分の力で手に入れ、悠然と微笑んでいる人とを。マリカはこの人のものではないかもしれません。けれどあの黒い瞳に親密な甘さを溶かしたマリカの微笑は、確かにこの人のものでした。マリカがこの人に一人の女として差し出したものです。

「マリカのことで」

 その人の太い、もう白いものの混じっている眉が怪訝そうに歪みました。

「マリカ? ああ。彼女がどうかしたのかい」

 尋ねながらも、その顔に優しい笑みが浮かびました。その見当違いの寛容さに青年はいたたまれなくなります。

「伝言を頼まれたんです。今日は行けないそうで」

「ああ。そうなんだね。何かあったのかな」

 青年は躊躇しましたが、結局口を開きました。

「顔に怪我をしていました。誰かに殴られたみたいで」

「なんだって? 怪我を?」

 青年は頷きます。

「事情は僕にもわかりませんけど、あなたもご存知ないんですか」

「ああ。何も知らない。ひどい様子なのかい?」

 その人は明らかにうろたえていました。初めて見る姿です。その様に溜飲を下げる自分の小ささを思い知り、罪悪感から青年ははっきりと首を振りました。

「いえ、普通に歩いていましたし、そこまでひどい怪我でもないと思います。ただ、その、顔が、一時的なものだと思いますが、ひどく腫れていて」

 青年の言葉に、その人はおおぶりの指輪のはまった分厚い手のひらの中に顔を埋め、痛みに喘ぐように声を漏らしました。その呻きに、青年は覚えがありました。主語こそ異なっていますが、それは同じ痛みから齎された呻きでした。幾度となく青年が味わったものと、同じ。それは青年の苦痛にすっかり慣らされて鈍くなった心臓の核の部分に共鳴し、呼び起こし、あやうく青年はまた泣き出してしまうところでした。

 けれど、それはほんのまたたきほどの間でした。手のひらをどけた後、その人の顔にはいつもと同じ穏やかな笑みが浮かんでいました。

「すまなかったね。伝言をありがとう。君がマリカと親しいとは知らなかったが」

 その言葉から嫉妬の香りを嗅ぎ取ることは、青年には出来ませんでした。

「親しいといっても、あなたのように親しいわけではないと思います。時々食事に行くだけです」

「そういう仄めかしができるようになったのかい。君も」

 青年は答えませんでした。何を言っても不利になるだけのような気がしました。その態度をどう受け止めたのか、街一番の宝石商は指輪についた大きな宝石を指でなぞりながら語ります。

「……マリカは何の役にも立たない女だよ。ただ美しくて楽しいだけの、砂糖菓子でできた人形みたいな女だ。食べることもできないし、いつも虫がつかないように気をつけなくちゃいけない。世の中にはパンのような女もステーキのような女もいる。本当に、そんな女はいくらでもいる。美味しくて、腹が膨れて、金が掛からず、害もない。でも、私にはマリカが可愛いんだ。マリカが何をしようとね」

「どういう意味ですか」

 青年の眉が不快に寄りました。仄めかされたのはわかりましたが、それが何かしかとはわかりません。

「ただ、君がマリカの相手だったらいいと思っただけだよ。粗暴な芸術家なんかと付き合っているよりは、君のほうがよほどいい」

「マリカを殴った相手に心当たりがあるんですか?」

「あるともないとも言い切れないな。少なくとも、マリカには私以外に一人は恋人がいる。貧乏な芸術家だということは聞いているけれど、一体どんな男なのかは知らない。その男か、その男に関係する誰かの仕業だとは思うが、さてね。詳しい話を聞いてみないことには」

 自嘲めいた笑みを浮かべます。目の下から頬へと抉られたかのように深い皺が、丸みを持った顔に影をもたらします。

「しかし、あれは自分のことを話さない女だからね」

 青年はふと、マリカはどんな女なのだろうと考えました。一体どんな土地とどんな経験が、あんな肌とあんな瞳を持つ美しい生き物を作り出すのでしょう。青年はほとんど初めて深刻にそれを知りたくなりました。マリカという女の実態を、青年はこれまで自分が知るべきではないから知らない事実として受け止めていました。もしそれに手を伸ばせば、ぴしゃりと鞭をもらい、子供じみた不躾さを笑われるはめになるだろうと思っていたのです。

 けれど今、この人でさえその事実から遠ざけられているのだと知った今、マリカの実態は青年が属することができない人々が楽しんでいる美酒ではなく、なめらかに光る天鵞絨の中に隠された神秘として青年の前に顕れました。

「さて、」

 と声を一つ上げると、たちまち若い恋人に頭を悩ませる男は、街一番の宝石商の余裕を取り戻しました。

「今日はわざわざありがとう。マリカには何か見舞いの品を送っておくよ。今度また食事でもしよう」

 青年は頭を下げ、店を後にしました。



 確かに伝えたとマリカに教えるために、青年は下宿の階段を上りました。三階建ての建物ですが、三階には紹介されたときに見て回ったときに一度上ったきりです。

 教えられていたマリカの部屋の前に立ち、ノックをしようとしました。

 中から、女の悲鳴が聞こえました。

 何も考えず、青年はドアを開けました。鍵が掛かっていなかったので、ドアはあっけなく開きました。勢いに押されて部屋の中に転がり込む青年の目に、マリカの姿が映りました。壁際に追い詰められ、身体を縮めて目を瞑っています。その前に、大きな身体の男が立っています。

「おい!」

 切迫した雰囲気に、青年は声を上げました。マリカが目を見開き、男が振り返ります。

 青年は目を疑いました。

「ああ……なんだ、お前か」

 そこに立っていたのは、友人でした。マリカのことを青年に話し、この下宿を紹介してくれた、芸術家の友人です。常のように青年に向かって、明るく笑いかけてきます。状況が理解できなくて、青年は僅かに身を引きました。不穏な気配に身体は冷えるのに、何故だか汗がべたりと皮膚を濡らします。

「ちょっと席をはずしてくれないか。話し合いをしているんだ」

 友人は笑顔を保っています。有無を言わせない圧力を感じましたが、何かに対する義務感から、青年は頷くのを躊躇いました。マリカが小さく言います。

「いいえ。あなたはそこにいて。お願いだから」

 マリカの声は喉の奥から無理やり絞り出したかのようでした。青年はここを動くわけにはいかないと、心を決めました。とにかく、マリカを友人と二人きりにしてはいけない。

「……僕は彼女に用があるんだ」

「それは後でもいいだろう? 先約は俺だ」

「ここは彼女の部屋だろう。彼女の意見に従う」

 緊迫したとき特有の回転の速さで、頭にはとめどなく思考の断片が浮かんでは消えていきます。背中を流れ続ける汗の冷たさに震えながら、青年は自分の経験の少なさを悔やみました。恋愛、あるいは人間関係にまつわる衝突の。こういう場面の振る舞いの規範となるような記憶が一つとしてないのです。ただ、退くべきではないことだけがわかっていました。

「おいマリカ、彼には帰ってもらうように言ってくれないか。まだ少し二人で話し合いたいことがあるんだ」

 友人の声には身内に対するような馴れ馴れしさが滲んでいました。母親や女中に対するような、自分が許されていることを知っている類の馴れ馴れしさです。それは青年の気をくじきましたが、マリカは背を壁につけながらも、顎を高く上げていました。腫れた口元の毒々しい色合いと対照的な、陶器のように繊細で滑らかな皮膚と輪郭で作られたその顎は、なにか生々しく、性的でさえありました。

 光る目を刃物のように細めて、マリカは友人を睨み付けます。

「いやよ。あなたが出て行って。もう二度とここには来ないで」

 友人の顔から笑みが消えます。

「……なんだと?」

 マリカは友人の顔をにらんだまま、それでも頭を高く掲げ、青年の近くに歩み寄りました。

「わかっているでしょう? 私、もうあなたのことなんか好きじゃないの。彼のほうがずっといいわ。少なくとも、彼は紳士だもの。そんなの当たり前のことだと思ってたけど」

 友人の皮膚が、白く褪めていきます。青年の思考は彼が受け止めえる限界を超えて、淀んで沈んでいるようでした。

 マリカの傷に引き連れた唇が笑みの形に歪みます。青年の肩に細い指を軽くかけ、腫れた瞼の下で流し目をしました。紫の皮膚のうちの青いほどに澄んだ白目を黒い光が流れます。

「私、見込み違いをしていたのよね。あなたをたいした男だと思ったことはないけれど、こんなにくだらない男だとも思ってなかった。殴られたのは、もういいわ。許してあげる。でも、もう二度と顔も見たくない」

 ふっ、と細い鼻から息を吐き、マリカは吐き捨てました。

「あなたのこと、楽しくて優しい人だと思ってたのよ。何の才能もない、くだらない絵しか描けない芸術家きどりだってことは知ってたけど」

 その途端、立ち尽くしていた大きな男は、意思を持った凶器としてマリカに飛び掛ってきました。考えるより先に、青年の肉体はすべきことをしました。マリカの前に立ちふさがったのです。自分のものより二周り大きな拳が、青年の頬に突き刺さります。頬の皮膚が摩擦で熱くなるところまで、青年の記憶はひどく鮮明でした。友人の唇の端から、唾液が珠となって宙に散りました。

  痛みというより、衝撃でした。刹那、視界は白く飛び、青年は自分の生命を疑いました。

 意識が戻ったときには、床に倒れていました。頬が熱く重たく、顔が歪んでいるようで、目を開けるのさえ痛みのために困難でした。舌の全面が血の味に覆われています。

 それでも瞼を無理に押し上げると、まず目に入ったのは、友人の顔でした。怯え切った顔で青年の様子を窺っています。先ほどまでの不穏さはなりを潜め、いつもの友人でした。安心させるために青年は笑おうとしましたが、さすがにそれは不可能でした。苦痛に喘ぐ青年に、友人はただただ怯えています。

 友人は、青年を殴れるような男ではありませんでした。ほんの子供のころから知っている、ある意味では家族以上に近い、大事な存在です。そこまでは、青年も知っていました。

 ですが、彼はマリカなら、殴れるのです。青年はたった今、それを知りました。

「さあ、出て行って」

 淡々と、マリカは告げました。未練がましく青年に視線を投げながらも、友人は部屋を去りました。マリカが静かにドアを閉じます。

「ありがとう。本当に助かったわ。本当にありがとう」

 出会った日と同じ心からの口調でマリカは言い、青年の傷の上に掠めるように唇をつけました。焼かれているような痛みと歓喜の震えが彼の背筋を走りました。マリカは青年の身体をそっと支えて抱き起こし、ベッドに横たえてくれました。ベッドは彼の重さで軋みます。下宿に備え付けのものをそのまま使っているのでしょう。粗末なものでした。ただ、敷布に染み付いた甘い香りがマリカらしさを持っていました。そもそもマリカの生活ぶりからすると、部屋自体がひどく簡素でした。飾り気がなく、高価なものもほとんど見当たりません。宝石や毛皮やドレスは、おそらく人目につかない場所にしまいこまれているのでしょう。

「君は……いつから彼と?」

「さあ。でも、ずいぶん長いわね。私がこの街に来た頃からだから」

 悪びれもせずに答えたマリカはベッドの横に椅子を持ってくるとそこに座り、青年の額に掛かる髪をそっと撫でました。

「本当にありがとう……あなたがいてくれて本当に、よかった」

 その声の寄りかかるような調子で、青年は理解しました。友人は、マリカを殴ることはできます。ですが、青年を殴ることはできない。だから、マリカは彼を挑発したのです。青年が自分をかばい、友人に殴られることで、この場を収めようとしたのです。

 頬の傷は、息を一つする毎に痛みを増していくようです。口の中が切れ、腫れ上がり始めました。骨に影響はないだろうと青年は判断を下しましたが、完全に癒えるにはかなりの時間を必要とすることは明らかでした。食事さえ暫らくは満足に取ることはできないでしょう。

 友人はマリカを殴りに来たわけではなかったのだろうと青年は考えました。ただ、マリカの所有権の裏づけがほしかったのだろう、と。だからこの痛みは、マリカ自身が意図して引き起こしたものです。青年が自分に向ける賛美の報いに、マリカが与えたのはこの痛みでした。

 青年は混乱していました。そんな駆け引きとはまるで無縁の世界で生きていたのです。

「君は……いったいどんな人間なんだ」

 青年の問いに、マリカは僅かに首を傾げました。肩から髪が滑り落ち、粗末な灯りを豪奢に弾きました。

「どんなって、見ての通りよ。それ以上のことは何もないわ」

 青年はマリカを見ました。ベッドの傍らに座る、化粧着を痩せた身体に緩く着て、顔を腫らした女を。背筋を伸ばし、くつろいだ笑みを歪んだ口元に湛えています。奇妙な姿でした。それが美しいのか醜いのか、しかとはわかりません。しかし、ある種の力がそこにあることだけは確かでした。あるいは異教の聖像はこんな姿かもしれないと青年は考えます。青年の理解の埒外にある、けれど強い力。

 解釈を諦めた青年は、ふと思い出して口にしました。

「あの人に、ちゃんと伝えたよ。君が行けないってことは」

「そう。本当に、色々とありがとう」

「心配していたよ、君のこと」

「でしょうね。あの人は優しいもの」

「愛しているの? 彼のこと」

 怪我のためでしょうか。青年の問いはひどくあどけなく響きました。幼子に向けるような微笑をマリカは浮かべ、頷きます。

「ええ。愛しているわ」

「じゃあ、あいつのことは?」

 誰のことを指しているのか咄嗟に理解できなかったのでしょう。マリカはいぶかしげに眉を寄せ、それから首を振りました。ひどく素っ気無い動作でした。

「愛していないわ」

「でも、愛していたこともある?」

「ええ。おとといまで」

 その声音には愛という言葉が青年に呼び起こす熱や苦痛は全く感じ取れませんでした。まるで支払いのことでも話しているかのようです。

「でも、愛していたんだろう?」

 質問というより、取調べ、あるいは哀願に似たものでした。その青年の熱意をまったく忖度していないかのように、マリカはあっさりと頷きました。

「ええ。さっき言ったでしょう?」

「じゃあ、どうしてそんなに平然としていられるんだ?」

 問いを発した瞬間に、青年はマリカの答えを悟りました。マリカの唇が青年の思いの通りに動きます。

「だって、もう愛していないもの」

 ごく当たり前の事実として、マリカは告げました。青年は息が詰まるようで、目を閉じました。その瞼に、冷たいものが触れます。マリカの指です。青年の身体から力が抜けます。指のやわらかな冷たさは、青年の鼓動や熱を穏やか、というよりも死にも似た静けさへと落とし込みました。

「あなたは優しいのね」

 その声は好意に溢れていました。

 もし今青年が愛していると言えば、マリカは青年に同じ言葉を返すだろうと、青年は理解しました。そして、だからこそ自分は決してマリカに愛しているとは言えないことを知りました。彼がマリカに求めているのは決してそんなものではありませんでした。

「君は、どうしてこんな生活をしているんだ?」

 目を閉じたまま青年は尋ねます。

「こんなって?」

「恋人を何人も作るような、そんな、」

 ふふ、とマリカは愛らしい笑い声を立てました。

「女に必要なものって、一人の男じゃ賄えないのよ」

「でも、危ないだろう。そんなのは」

「でも、あなたが助けてくれたわ。これからも、いつだって助けてくれるでしょう?」

 あまりの屈託のなさに青年は絶句します。

「……そうとは限らない」

 どうにか絞り出した青年の言葉を受けて、マリカは軽やかに笑います。

「そう? でも、信じているわ。いつでも。あなたを」

 青年の心臓が軋みました。その信頼の重さに対してではなく、軽さに。青年のどんな言葉もマリカの心には届かず、マリカのどんな言葉にも青年の知りたいことはありません。青年にとって、言葉は真実を映す鏡、いえ、真実そのものでした。青年はそう信じるという自覚さえなく、火が熱く氷が冷たいという事実と同じように、ただそれを「知っていた」のでした。たとえそのとき言葉が事実をそのまま表してはいないとしても、言葉が生まれた瞬間にある種の力が生まれる。それが青年が見ていた世界でした。青年にとって、嘘には嘘の重さがあるものでした。そう信じていなければ、作家になどなれません。

 けれど、マリカはそうではありません。マリカにとって、言葉は装いでした。ドレスや宝石を選ぶそうに、その場にあった言葉を口にするだけです。言葉は真実の変奏などではなく、ただの道具です。マリカの見ているものは、青年が見ているものとはあまりにも違います。

「こんなのは、もうやめたほうがいい」

 どんな言葉もマリカに本当に届くことはない。それを知りながら、青年は訴えをやめることができませんでした。

「どうして?」

 青年の差し出がましい要求に、やはりマリカは怒ることもありません。それでも青年は続けます。

「あいつは君を殴ったじゃないか」

「殴られる女と殴られない女がいるんじゃなくて、くだらない男と素敵な男がいるだけよ。くだらない男は、貞淑じゃないって理由でも女を殴るし、貞淑すぎるって理由でも殴るわ」

「でもあいつは違うじゃないか。あいつは君が自分だけの恋人だったら殴ったりはしなかった。君は、恋を商売道具にすることで自分の価値を自分で貶めてるんだ」

 青年は目を開き、マリカを見つめます。不思議そうにマリカは青年の目を見つめ返します。

「貶めている? 私が? 自分の価値を?」

「そうだよ。そんな生活をしていたら、君は誰にも一人の人間として尊重されはしない」

 くっ、とマリカは細い喉を痙攣させたような声を立てました。

「こんな生活をしていなかったら、道端で飢えて死ぬだけじゃない」

 青年は、今度こそ本当に言葉を失いました。

 恥辱に赤らんだ頬を冷ますように、マリカの指先が触れます。マリカには相手を辱める意図などないのは青年にもわかっていました。だからこそ余計青年は恥ずかしいのでした。

 死。飢え。貧しさ。そのどれも彼の肌に触れたことはありません。柔らかな産着に包まれてこの世に生を受け、日の光と愛情を燦燦と浴びて育まれました。今でも両親からの手紙は途切れることがありません。当たり前に豊かで、当たり前に愛されていました。そして青年は、そのこと自体に劣等感を抱いていたのでした。しかしその屈託は、坊やの屈託でした。与えられたものを享受することもできないのは、子供の駄々です。マリカがもし青年が生まれながらに与えられたものを自分のものとしていたら、決してこんな生活をすることはなかったでしょう。そんなことは考えずともわかっているべきでした。

 一人の人間としての尊厳。青年にとってそれは重要なものでした。しかしそれは勿論、生存を保障された人間の理屈です。明日の命さえ定かではない生き物にとって、尊厳などただの絵空事に過ぎません。青年はマリカに、命よりも絵空事を選べと迫り、マリカはそれを笑いました。怒るのではなく、笑ったのです。青年は相手にもされていませんでした。

「でも、安心して。こんなのも今だけのことだわ。そのうち、私もおばあさんになって、宝石も全部売って、小さな下宿でも始めるわ。女が美しくいられるのなんて、ほんの短い間のことだもの」

 青年がマリカの言葉に真実か、あるいはそれに属するものを感じ取ったのは、このときが初めてでした。自分に向けた青年の視線をさえぎるように、マリカは言葉を繋ぎます。

「でも、思っていたよりももっと短いかもしれないわね。この顔の傷、治らないかもしれないし」

 青年は何かを言おうとしましたが、言うべきことは浮かびませんでした。

「……そろそろ、帰るよ」

 それで、そう言いました。



 部屋に帰ろうとすると、ドアの前には友人が立っていました。彼を見た瞬間に青年が感じたのは怒りではなく、億劫さでした。傷もまだ痛むというのに愁嘆場を演じることになるのかと思うと、ただただ面倒でした。

「すまなかった」

 白い息ともに吐かれた謝罪は、震えて空気に溶けました。

 友人は青年を直視することさえ出来ない様子で頭を垂れています。それを前にすると、どうしても青年の心は動いてしまいます。億劫に感じた自分自身を恥じ、傷の痛みなどたいした問題ではないように思ってしまうのです。

「いいんだ。すぐに治る」

 安心させるためとは言え、思ってもみないことを言ったことに対する嫌悪の念が自然と沸き起こってきて、その生理反応にも似た自身の精神構造に青年はうんざりしました。

  友人はドアの前を塞いでいて、彼にどいてもらわないことには部屋に帰ることも叶いません。どうすれば穏便に部屋に戻れるのか思案しますが、痛みに阻まれろくな考えも浮かびません。改めて見ると、友人の顔は鬱蒼と髭に覆われ、目の下の皮膚が深い隈に抉り取られたかのようでした。皮膚どころか短い髪まで青ざめて見えました。マリカへの想いが残した彼の顔に残した爪痕の惨さに比べれば、自分の頬の傷など確かに些少なことにも感じました。今助けや慰めを必要としているのは、もしかすると友人のほうかもしれません。傷の痛みは時間と共に減じていきますが、マリカは彼から永遠に失われてしまっているのです。そしてこのままでは、青年も友人を失ってしまいそうでした。躊躇いつつも、青年はその衝動に身を任せました。

「中に入らないか。こんなところで立ち話もなんだろう」

 友人は無言でドアの前から一歩下がりました。青年はドアを開け、友人の肩に手をかけ、部屋の中へと招きました。友人の外套は冷え切っていました。

 いつものように青年は書き物机の前、友人はベッドの脇の、椅子へと腰を落ち着けました。習慣に導かれる肉体と動顚した精神状態の落差は、青年に吐き気に似た不快感を与えました。ほとんど友人を部屋に入れたのを後悔したほどです。

 青年の顔色の悪さを痛みと暴力のせいだと誤解したのでしょう。友人は喉から絞り出すような掠れた声を上げました。

「すまなかった。本当に」

「それはもういいんだ。傷は治る」

 先ほど告げたのと同じような言葉でしたが、今度は心から言いました。痛みも傷も、大きな問題ではありましたが、一番大きなものではないのだと青年はすでに気付いていました。

 一番大きな問題は、友人自身でした。長い間青年の目からは隠されていた彼の性質でした。

  友人に血の気が多いことは知っていました。幼い頃から諍いで服に鉤裂き一つ作ったこともない青年とは違い、友人は暴力に関する逸話に事欠かない類の少年でした。その逸話は常に複数の上級生が下級生に言いがかりをつけていたのを一人で制圧しただとか、年齢を偽って入った酒場で喧嘩になり、刃物を持った相手と渡り合っただとか、友人の骨の太い身体や厳しい顔付きに大人びた陰影を描きこんでくれるようなものでした。友人の暴力は、英雄的な力の発露であり、彼の逸話は少年たちの身近な神話でした。

  しかしマリカに対する暴力に、英雄的な部分は些かもありません。卑近で、黴臭い、みすぼらしい、人間の尊厳に対する蹂躙としての暴力です。青年にとっては唾棄すべき卑劣としか思えない行為でした。そういうものに対して、青年は友人と同じ価値観を共有していると信じていたのです。

 不意に、友人が言いました。

「……愛しているんだ」

 苦痛に喘ぐような声でした。その日、青年はそれに似たものをすでに聞いていました。宝石店の支配人室で。マリカに関わる男は、全てこの苦痛に喘ぐことになるのでしょうか。

「じゃあ、どうして殴ったりするんだ」

 好奇心ではなく単なる惰性で、青年は尋ねました。友人とマリカに何があり、何故殴ったのか、もう知りたくなどありませんでした。細かい事情こそ定かではありませんでしたが、要諦は既知のことのように思えました。

 友人は俯いたまま、長いこと沈黙していました。青年は立ち上がり、ストーブに火を入れました。青年の背に、友人は呟きます。

「俺が、見つけたんだ」

「何を」

「マリカを。あいつは、街に立っていたんだ。三年前のことかな。酒を飲んで家に帰る途中に見かけたんだ。本当にひどい有様だった。痩せこけて、髪まで薄くなっていて。目ばっかり大きくて、化粧した骸骨みたいだった。ぼろぼろのドレスを着て、突っ立ってたんだ」

 友人の青い唇から、言葉はひとりでに漏れ出していくかのようでした。

「よくいる病気持ちの婆さんかと思ったんだ。そのぐらいひどかった。目を合わせないように通り過ぎようとした。でも、何かがおかしな気がして、近づいたときにもう一度だけ見てみたんだ。こっちには気付かれないように見たつもりだったのに、気付いてたんだな。あいつ、こっちを見て笑ったんだ。婆さんだと思ってたのに、子供みたいな笑い方だった。真っ白い前歯だった。春の雲みたいに白い歯だった。あんまりにも白い歯だったから、気がついたら、家に連れて帰ってた」

 温もっていく部屋の空気と共に、友人の唇にも色が宿っていきます。

「そのあとしばらく、一緒に暮らした。マリカは何も持っちゃいなかった。化粧道具と着ているものと、後はマリカっていう名前だけだ。一緒のベッドで眠って、一つのパンを二人で食べた。マリカはいつも笑っていた。俺はマリカの絵を描いた。それを見て、マリカは喜んだ。見たこともないぐらいに「私」だって、そんなことを言って」

 友人は言葉を切り、顔を歪めました。青年には、彼が泣き出しそうに見えました。

「……夢みたいに楽しかった」

 熱に浮かされた人のような呟きでした。青年は友人の部屋の絵を、思い出していました。灰色の壁に散らされた、水色、黄色、ピンク、黄緑。とりどりの明るい色で、撥ねるような筆致で描かれた、女の絵。どの絵でも、女は笑っていました。友人が切り取ったその一瞬一瞬の、全てで。青年はその絵が、とても好きでした。

「しばらくすると、マリカは自分の部屋がほしいと言ったんだ。今の俺と結婚するわけにはいかないから、自活しなくちゃって。それはその通りだから、俺は何も言えなかった」

 それはそうだろうと青年は考えます。友人は、青年ほどではありませんが旧い家の出です。そして青年とは違い、今も実家からいくらか援助を受けている様子があります。街で拾った女と結婚すれば、勿論今まで通りというわけにはいかないでしょう。そもそも同棲していること自体、故郷には隠しておきたい事実だったはずです。

「この下宿は、俺が探したんだ。二人でマリカの荷物を運んで、こまごましたものを買ってやった。マリカは楽しそうだった。引っ越して、暫らく経つと、マリカは他の男を作った」

 友人は髭に汚れた右の頬で笑いました。

「相手は劇場の支配人だった。がりがりに痩せた胸元に薔薇を挿して、金の鎖をつけた片眼鏡をかけてるような、いけすかない伊達男だよ。俺はマリカが金のためにそいつと付き合ってるんだと思ってた。だから止めなかった。俺と会う回数は減ったけれど、会えばいつでもマリカは楽しそうだった。俺を見ると、嬉しそうに笑うんだ。会いたかったって」

 青年には容易にその様を思い浮かべることができました。

「マリカはじきに男と別れた。自分で言ったよりもずっとけちな野郎だったらしいな。でも、また違う男を恋人にした。いつだって、誰と付き合ってるのか、マリカは自分から話すことはないけれど隠そうともしなかった。俺もそれでかまわないと思ってた。マリカは、金が好きな女だ。綺麗にして、楽しくしてるのが好きな女だ。それ以外には何もできないし、する気がない。貢がれるか、飢え死にするか。その二つしかないような女だ。だから金を持っている男と寝るし、そいつらに好意も持つ。ただ、男はあくまで金にくっついてるおまけみたいなもんだ。俺はそう思っていた。マリカには確かにたくさん恋人がいる。でも結局、本当に愛しているのは俺だけなんだって。マリカに金以外の楽しみを与えてやれるのは、俺しかいないって」

 その続きをもう、話させたくないような気がしました。言葉と一緒に血でも吐いているかのようなその告白は、悲痛ではありましたがそれ以上に俗悪で、滑稽でした。しかし友人自身がそのことに気付いてしまっているという事実は、身に迫るほど、青年のはらわたを捻るほどに、悲痛でした。

 「でも、わかるだろう? そうじゃない。マリカにとって、俺はたった一人の男なんかじゃない。マリカの顔を見ただろう? あいつに向けたあの顔を。うっとりして、楽しそうで。俺に向けたのと、あれじゃおんなじじゃないか。嘘だったんだよ。俺だけを愛してるなんて、そんなの嘘だったんだよ」

 友人は笑っています。笑うほかにどうしようもなくて作ったような歪んだ笑みです。

「でも、マリカが言ったんだ。愛しているのはあなただけよ、って。あなたの描く絵が世界で一番素晴らしいって。なあ、そんな嘘があるか? そんな嘘をつける人間なんているのか?」

 青年は、やはり何の答えも返せませんでした。確かに、胸が悪くなるような嘘です。たとえば青年や友人なら、どんな罪に心を汚してもそんな嘘をつく日は来ないでしょう。しかし、だからと言ってマリカを非難するのは、蠅を不潔だと責めるほどに無意味なことにも思えました。

  マリカは、そういう嘘をつく女です。いえ、マリカにとって、それは嘘でさえなかったのかもしれません。マリカはただ寒い日に毛皮を着るように、劇場に行くために宝石をつけるように、その場に合った言葉を口にしただけなのでしょう。それが自分を愛する男にどんな作用を齎すか、深く考えることなどなく。

  三人の間に起こった暴力に纏わる一連の出来事を通して、青年にはマリカという女の全容が、わかってしまいました。

  マリカにとって、生きるということは瞬間瞬間に移ろい行く感覚の集合体に過ぎないのです。禁忌も義務も規範も信仰も、ありません。ただ今そのときを快適に過ごすことだけが、マリカの全てでした。

  マリカはいわば、魂のない女でした。

 人の形と機能を持った、女という獣。彼女自身が言ったように、マリカは見ての通りの女です。あのある種完璧な肉体だけが、マリカでした。それ以上のものなど何もありません。それが、マリカです。そして、だからこそ男たちは美しい夢を彼女に見るのです。美しい、自分自身の夢を。艶やかな天鵞絨の内に秘められていたものは、それだけです。

「俺を、裏切ったんだ。ずっと裏切り続けてたんだ。俺が、拾ったのに。俺のものだったのに。ずっと、ずっと、嘘をついていたんだ。それなのに、会いに行ったらしゃあしゃあと俺を愛してるって言うんだ。嘘なのに」

 友人は口早に繰り返します。マリカを詰りながらも、重ねるたびに言葉は重さを失っていきます。どれほどマリカの卑劣を指摘しても、マリカの心を傷つけることはできないでしょう。友人を裏切ったのは、本当のところマリカではなく、彼自身の夢でした。マリカはただそれを察知し、従っていただけでした。マリカには友人に対する悪意などまるでありません。暴力を振るわれた今でもまだ、ないでしょう。ただ危険な男だと認識され、忘れ去られるだけです。その空虚を思うと、青年は恐ろしくなりました。

 友人はもう言うべき言葉も尽きたかのように、目を閉じています。部屋はすっかりと暖まっていましたが、その大きな身体は震えていました。青年はただそれを見つめていました。

 青年の中からはもう、友人に対する嫌悪は消えていました。あるのはただ、哀れみでした。

「すまなかった」

 場を埋めるためのような虚ろな謝罪に、青年はいいんだ、と答えました。頬は怠い重さに痺れていて、部屋を温めすぎたのか、髪の中が汗で湿っています。ひどく疲れていました。



 友人が部屋を出て行った後も、青年はぼんやりと椅子に座っていました。外はすっかり暮れています。

 美しい愛の物語。

 その言葉を唇に乗せただけで、心臓が引きちぎれそうでした。思慕ではなく、恥辱で。まともな手当てもしていない頬はまだ傷みますし、口の中は塩辛いような血の味です。その上空腹で、青年はひどく惨めな思いで座っていました。

 愛。

 マリカへの、愛。その愛が彼に与えたのはほんのつかの間の愉しみと、女を抱えていなければ耐え難い夜と、この頬の傷と、孤独。それから、自分の幼さに対するいたたまれなさと、空虚。それで全てでした。彼が求めたものは何一つ得られませんでした。

 友人が、マリカが自分だけを愛しているという夢に裏切られたのと同じように、青年もまた、自分の夢に裏切られていました。愛が美しいものであるという、潔癖症の坊やの夢です。今更、青年はそんな思い込みに何の根拠もないことに気付きました。

 愛とは、ある種の執着に過ぎません。それは宝石商のようにマリカの身を飾ったり、友人のように暴力という形で表現されることもあるでしょう。空腹を満たす手段が人それぞれであるように、一人の女を求める手段がそれぞれだというだけです。

 あの彼を見つめて煌いた黒い瞳にも濡れた百合の花弁めいて光る肌にも彼の名を呼び大切そうに微笑んだ赤いふくよかな唇にも、どんな種類の真実も、善も、ありませんでした。マリカはただ、美しいだけです。

 何ひとつ、ありませんでした。彼がほしがったものは何も。

 今、青年には友人がマリカを殴った気持ちが、納得こそ出来ないものの、理解は出来ました。彼はマリカの反応がほしかったのでしょう。彼が望み、マリカが演じてみせた以外の、マリカ自身の反応が。怒りでも恐怖でも、マリカの本当の姿がほしかったのでしょう。理解できます。けれど青年は、たとえばマリカをどれほど打ち据えようと彼女の唇からは痛みへの喘ぎしか漏れないこともまた、理解していました。

 愛。

 青年は自分の傷に指を突っ込んで嬲るような思考から逃れようと呻きます。愛。けれど肉体の痛みと一体となって、自己嫌悪は彼を苛みました。愛。何故そんなものに愚かな期待をかけたのでしょう。

 この街は、ひどく寒い。

 灰色と茶色に沈んだ部屋の片隅で燃えるストーブの火の赤さも、火の当たりが強すぎて炙られたようになっている背中の皮膚さえ、寒さを引き立てるばかりでした。窓の外はどこまでも青黒く、一歩外に出ようものなら凍え、帰る場所さえ見失ってしまいそうです。

「かえりたい」

 ほとんど無意識に唇から零れた一言に、青年は目を瞠りました。驚きとともに呟きは弾け、青年の身体の隅々まで郷愁が染み渡りました。赤々と燃える暖炉。広い家の隅々までを満たしていた親しい気配。

 帰りたい。

 今度は意思を乗せて、けれども音にすることはなく、青年は呟きました。声を出してしまえば心が折れるのがわかっていました。

 こんなことは初めてでした。

 何もかも自分で手配し自分で勘定を払う生活の不便や気候の厳しさから故郷を懐かしむことはあっても、帰りたいと思ったのは、初めてのことでした。

 青年は書き物机の隅に重ねておいてある故郷からの手紙を手に取りました。母の使う麝香混じりの薔薇の香りがほのかに残る、上質な紙の白と、鮮やかな黒。母の伸びやかな手蹟。全てが快適に整えてある、あの家に相応しい手紙です。

  一番新しいものは冬の初めに届きました。いつものように、故郷に取り寄せた青年の最新作のいっそ素っ気無いほど穏当な感想、青年の健康への配慮と、家族や、近しい人々の様子が、青年からすれば素朴なほど素直に綴られています。普段なら機械的に読み下すだけのその手紙の、単語の一つ一つの意味が、空の胃に染み込む熱いスープのように、目から飛び込み、青年の心に染みました。

  「愛を込めて」

  そうやって手紙は結ばれています。今までなら彼はこの言葉を読みさえしませんでした。ただ目に映していただけです。けれど、なんと簡潔で完成された表現でしょう。

  この慣用句が生まれるまで、一体どれほどのペンが紙の上を滑ったことでしょう。どれほどの気遣いと愛情がこの言葉として結晶していることでしょう。青年は作家としての自分が一生を賭けてもこれだけの言葉を生み出すこともできないような気がしました。

 初めて青年は二年前の拙い出奔を悔やみました。特別に不出来だったわけではありませんが、青年は幼い頃から常に両親の期待には応えられませんでした。学校の成績なら、確かに恥じることはありませんでした。けれど青年の行動はいつも青年自身のためになされたものであり、両親の愛に報いる振る舞いをしたことなど、皆無でした。そして終には、彼らの息子でいることさえ擲ったのです。それでも両親は彼を見捨てはしませんでした。旅装を整え、汽車の切符まで用意してくれたのです。その時の心中を思い返し、青年は悔恨に奥歯を噛みました。二十歳の彼は、息苦しい、と思ったのです。放っておいてくれればいいのに、と。余りに幼く、余りに愚かでした。

 内臓が踏み潰されたかのような声が青年の喉から溢れました。血の味のする唾を飲み下し、青年は溺れる人のように紙へと手を伸ばしました。

 ペンを手に取り、青年は書き始めました。白い紙が苦痛に汚れるように文字で埋まっていきます。

「お父さん、お母さん。

  ご存知の通り、僕はとんだ親不孝ものです。そしてほんの少し前まで、親孝行な息子であるぐらいならいっそ親不孝ものだと勘当されてしまったほうがいいと考えていたのです。恥ずかしく恐ろしい心根です。僕は息子として愚かなだけでなく、一人の人間として下劣でした。不遜なことと思いますが、お二人にどうか許しを乞いたいのです。僕の不孝を、そして僕がお二人を愛することを許してください。

  お父さんとお母さんからいただいたもの全てに感謝し、遠くからお父さんとお母さんの幸福と健康を願っています。

  愛を込めて

  貴方たちの息子より」

  短い手紙を書き終えると、青年は荒い息を吐き、封筒へとしまい、封をしました。

  まだ心臓は胸郭の内で跳ね回って、青年を急かしています。額を濡らすぬるい汗を乱暴に拭い、部屋を歩き回ります。何かに導かれるように、青年は本棚の前で立ち止まり、積み重ねてある反故に手を伸ばしました。安物の紙の上には埃が薄く積もっています。

  美しい愛の物語。

  もう幾度となく繰り返した言葉をもう一度頭の中で唱えながら、青年は埃を払い、立ったまま読み始めました。

  貧しい青年と、娼婦の物語です。青年は裕福な家に生まれましたが、両親の死後親戚に騙され財産を失います。その後小さな事務所に勤めますが、善良すぎるため人に踏みつけにされる日々です。ある晩、諍いに巻き込まれ打ちのめされて路傍にうずくまる彼に美しい女が声をかけます。小さな形のいい頭に毛皮の帽子を乗せ、花弁のような耳に偽物のエメラルドのイヤリングをつけた、化粧の濃い、けれどその顔のどこかにあどけなさを残した女です。女は青年を家へと連れて帰り、手当てをしてくれました。自分は女優だと言い張る女は、青年と二人で戯れに古い恋物語を演じます。貧民窟にある小さな古びた家で、二人は清らかな水の妖精と騎士になり、口付けを交わします。青年はそのあばら屋で一夜を過ごしましたが、女は最後まで彼に名前さえ告げませんでした。一夜の記憶を珠のように慈しみ、女を捜していた青年は、ある日、女を街角で見かけます。街灯に背を預け、道行く男に仇な流し目を投げる、美しい女を。それは、あの夜水の妖精を演じた、あの女でした。女は自分を見つめる青年に気付きます。途端、娼婦の表情は女の顔から剥がれ落ち、化粧に汚れた目は涙を一筋零します。白粉を落としながら滑らかな頬をつたう涙が街灯の光を捉え、まるで流れる星のようでした。

  話は、そこで途切れていました。

  ただ情熱を吐き出したくて書いたものです。文章はあるところでは粗くあるところでは冗長で、筋立ては陳腐です。ですがそこには無垢な、あまりにも無垢な、美しいものへの憧れがありました。青年はそれを書いたほんの何ヶ月か前の自分、潔癖症の坊やと呼ばれた男に、憐憫と、羨望を覚えました。本当のことを書こう、と無邪気な情熱でこの物語を書いた男に。

  青年が今日失った夢が、そこにはそのまま描かれていました。確かに、欺瞞に満ちてはいます。けれどそのあどけない欺瞞さえ、今の青年には耐え難いほどいとおしいのでした。

  青年は机に向き直り、タイプライターに紙を差し込みました。そして、その物語の続きを、書き始めました。痛みも恥辱も空腹も何もかも忘れ、青年はタイプライターを叩き続けました。指は重さに痺れ、規則的な音が内耳を掻き回し、朦朧とした意識は自己の境を危うくし、青年は自分が娼婦に恋をする貧しい事務員であるかのような錯誤を覚えました。

  最後の文字を打ったとき、外はすっかり明るんでいました。ストーブの火はとっくに絶えています。青年は冷え切った机に倒れ込みました。務めを果たした両の腕は荷物のように萎えて垂れ下がり、頬と唇は腫れ上がり鼓動のたびに不気味に痛みます。

  青年は目を閉じました。そこから涙は溢れ、机をぬるく濡らしていきました。声もなく、悲しみもなく、ただ、涙を流しました。



 それから三ヶ月が経ちました。頬の傷は跡も残さず癒え、冬は終わり、石で出来た街にも花の色が零れています。その日、薄青い闇にぽつぽつと灯が宿り始める時分に、青年は珍しく帽子を被り、持っているものの中では一番上等の服を着て歩いていました。劇場に向かっていたのです。貧しい青年と、娼婦の芝居を観るためです。勿論それは、あの日に身体を削り取るようにして書いた物語でした。出来上がった原稿を持ち込むと、読み終えた編集者は出版を是としたばかりでなく、これを元にした戯曲を書くことも勧めました。彼の関係している劇団で芝居にかけたいと言うのです。

 申し出を受け速やかに戯曲を書き上げ小切手に変えてしまうと、事は青年の手を離れ、そのまますんなりと初日を迎えました。一体どんな芝居に仕上がっているかもわからず、不安と気恥ずかしさに帽子の位置を何度も直しながら劇場へと辿り着きました。入り口の金の飾りに威圧され、唾を飲み込みます。自作の上演自体は初めてではありませんが、いつもの芝居小屋ではなく、さして大きくはないとは言えれっきとした劇場での上演です。

 もらった切符を出して、席へと向かいます。普段は取れないようないい席です。行儀のいい人の流れに乗ると劇場らしい雰囲気が肌に感じられて、知れず頬が緩みました。開演も近く、オーケストラはもう演奏を始めていました。弦楽器の均整の取れた演奏に控えめな話し声や足音、咳払い、笑い声が絡まり、開演前の劇場にしか存在しない高揚を誘うあの音楽となり耳朶を打ちます。

 自分のボックス席に入ろうとしたとき、青年はある後姿を目にしました。

 黒いドレスに細い身体を包み、白い腕と肩甲骨を晒した女。結い上げた黒髪に、ダイヤモンドを散らした髪飾りが挿してあります。青年がこの三ヶ月強いて避けていた、けれど忘れることのなかった後ろ姿でした。

 青年の視線の強烈さに答えるかのように女は、振り向きました。青年の焔を宿した瞳と、その黒い煌く瞳が、かちりと噛み合います。奈落に落ちたかのように全身の力が抜け落ち、青年はただ女を、マリカを見つめるしかありません。

 紅く塗られた唇の端を持ち上げて、にこり、とマリカは笑います。白い大きな前歯が、マリカだけが持つ白い宝石が眩しく光りました。この世の他の誰が、こんなふうに笑うことができるというのでしょう。青年の喉は干からび、シャツは汗に湿ります。

 立ち尽くすばかりの青年から視線を外すと、女は一つのボックスへと滑り込み、青年の視界から消えました。

 迷うことなどありませんでした。今このとき、マリカがここにいて、微笑んだのです。他の行動など頭に浮かびもしませんでした。恋した若者特有の鋭い動作で彼はマリカの後を追い、ボックスに飛び込みました。

 マリカは勿論、そこにいました。背を向けて立っています。ここに入ればマリカがいるのは自明のことだというのに、青年はその事実に戸惑いました。マリカに話すべきことも、マリカから話させるべきことも、青年にはまだわかっていませんでした。それなのに追いかけてしまったのです。

 青年の言葉を待っているのでしょう。そこに彼がいるのはわかっているに違いないのに、マリカはただ立っています。背中には何かを塗っているのでしょうか。傷の一つ、しみの一つなく、血の気さえ拒絶し、ただ肩甲骨と背骨の隆起が白さに陰影を添えています。その骨の一つ一つが、青年の目には口づけを誘うためだけに形作られたとしか映りませんでした。ありうべからざる奇跡めいた、美。けれど、それだけだということもまた、青年にはわかっていました。マリカに関しては、目に映るものだけ、それだけが真実です。マリカは何の象徴でもなく、ただ美しい姿をとっているだけです。

 マリカ。

 胸の内で呼びかけます。マリカは、振り向きません。

「マリカ」

 怯えながら、囁きほどに小さな声で、呼びました。マリカとの短い距離を渡る間に、音楽とざわめきに攪拌されてしまうほどの声でした。

 マリカは、振り向きました。

「久しぶり」

 マリカは微笑んでいます。親しく寄りかかる甘い声に、どうしてこれを自分から遠ざけていたのか青年はわからなくなりました。この三ヶ月が自分の恋を殺すのに何の役にも立たなかったことを悟るほかありません。彼女から味わった肉体的苦痛や煩悶をもう一度味わうことになったとしても、その足元に跪く以外に何ができるというのでしょう。

 マリカは一歩青年に歩み寄りました。甘い香り、マリカの香りが漂います。

「会うかもしれないと思っていたの」

「何故?」

「あなたの書いたお話なんでしょう? これ」

「ああ。でも、だいぶ変えられてると思うけどね」

 マリカは布張りの椅子に腰掛け、青年にも椅子を勧めました。青年はそれに習いながら、マリカに連れがいないか気になりました。マリカは音楽に浸るように背もたれに身体を預け、目を閉じています。

「本当は、あなたの小説を読めたらよかったんだけど、劇をやるって聞いたから、こっちを待っていたの」

「一人で来たの?」

「ええ」

 目を閉じたまま、マリカは満足そうに微笑みます。

「ここ、私の席だから」

 青年はあの日友人の話したマリカの最初の恋人を思い出し、勝手に合点した気分になりました。

「私、劇って好きよ」

「そうなんだ」

「綺麗だし、自分の目で見られるもの。みんなが着飾ってて、香水の匂いがして、いっせいに笑ったり泣いたりしてて、それも好き」

「君、女優になればよかったのに」

 意図したわけではありませんが、皮肉がかってしまいました。マリカは屈託なく笑います。

「無理よ。私、字が読めないもの」

 青年は沈黙しました。目を閉じているために青年の視線に無防備なマリカの横顔は、歴史に洗われた彫刻を思わせます。秀でた額の丸みとそこから伸びる鼻の稜線は、本来女神しか持つべきではない品格です。

 間もなく、幕が上りました。マリカも青年も行儀よく座り、観劇に専念しました。青年は手のひらをズボンの膝で拭いました。マリカの横に座り、自作の戯曲の上演を待つという二つの異常事態が重なったことで、青年の思考はほとんど麻痺していました。自分の心臓の速い鼓動がただ耳障りです。

 貧しい青年の生い立ちから始まる小説とは違い、戯曲は彼を巻き込む諍いから始まります。小突き回され、道端に横たわる彼。夜の街を模した背景は青黒く、沈むようです。そこに、娼婦に扮した女優が現れました。好意的なざわめきが客席から起こります。

  彼女の名を青年は聞いたことがありませんでした。高くてよく通るのに震えているような声にもすんなりとした体つきにも幼さを残した、少女といってもいいような年頃です。厚い化粧と肌も露な装いが、美しさよりもまず痛々しさを感じさせます。こんな暗い場所ではなく、日の光の下に連れ出してやりたいような。青年は配役に満足しました。

「綺麗な子ね」

 マリカは撫でるように言いました。青年も頷きました。

 物語は進みます。女優は若々しい肢体で伸びやかに舞台を動き回ります。首を傾げる仕草やちょっとした手首の曲げ方に、人を魅了する独自の方法があるようで、彼女が一つ台詞を話すたびに、観客は彼女に恋をしていくのが、ボックス席からは見えました。

 青年が書いた台詞をなぞり、彼が夢想した娼婦として彼女はそこにいます。貧しい青年に扮した俳優は恋をして、同僚を助けたことで苦境に落とされていきます。娼婦は彼の苦境を救うため、権力者に身を与えます。青黒い舞台の上で、千もの人々の視線を集め、青年の書いた物語が現実になっています。

 美しい愛の物語。

 唇で慣れた言葉をなぞり、青年は横に座るマリカを見つめます。マリカは常より前に身体を傾けて、目を細め、舞台をただ凝視しています。舞台では、貧しい青年と娼婦が、愛を囁き合っています。互いの想いを知りながら、けれど結ばれたら互いに破滅が訪れることを知る二人の、つかの間の逢瀬です。

 恋を告げあうことができない二人は、初めて会った夜と同じように、水の妖精と騎士の物語をなぞります。

――ああ、ねえ! 私を抱きしめていて! 水の中から何が呼んでも離さないで!

 うらぶれた街角。つぎはぎが当たり草臥れた服を着た男が、厚化粧と黒いドレスで派手派手しく着飾った女を抱きしめて、嗚咽がかった声で叫びます。

――離すものか! 離すものか! 水の中に引きずり込まれてもお前のことだけは離すものか!

 啜り泣きの音が、波のように客席に広がります。この広い劇場の全ての人間が一つの恋に震えています。青年の目にも涙が溢れました。

 美しい愛の物語。

 そこにあるのは紛うことなき、欺瞞でした。背景はただの書割ですし、演じているのは俳優で、それを動かす青年の戯曲も、破れた心で書いたものでした。

 けれど、それでも、そこには美がありました。どんな類の真実などなくとも、人の心を震わせる、美が。

 青年の目から、涙が零れました。舞台は暗く冷たく沈み、堅く抱きあう二人だけが一つの塊として小さな光に包まれていました。



 柔らかな春の闇と観劇の余韻が、二人の口を閉ざしていました。マリカと青年は互いに手を伸ばせば触れるほどの、けれど手を伸ばすことがないことを前提とした距離で、歩いていました。

 どこへ行くとも決めていません。青年は脚の向くまま歩いていました。マリカも、何も問わずに従います。目的のない逍遥に据わりの悪さを覚えつつ、けれど青年は沈黙を壊したくなくてただ、歩きます。かん、かん、と小さな高い音が後から追いかけてきます。マリカの足音。この三ヶ月、時折ドア越しに聞き、気に留めないよう骨を折った、その足音です。

 愛している。

 身体の左後ろに感じる気配に降伏するように青年は思いました。この女を、愛している。

 マリカの香水がみずみずしい春の空気に溶け、青年の鼻を満たします。例え他の女がマリカと同じ化粧をして、マリカと同じ香水をつけたとしても、こんな香りにはならないでしょう。そしてマリカが違う香水をつけたとしても、その香りはマリカの香りになることでしょう。

 けばけばしい看板や、客引きの声を避け、気まぐれに道を曲がります。よい芸術に触れたときだけに持ちえる胸に暖かい泉が溢れる感触と、このマリカとの親密な雰囲気を乱したくなくて、静かな方へと、青年は向かっていきます。同じ気持ちなのか、それともただ青年の意向に従うつもりなのか、マリカは歩調を合わせ、ただ付いてきます。

 どこへ行こう。

 考えながら歩きます。そして青年は、ある場所を思い出しました。距離はありますが、一度思いつくとどうしてもその場に、マリカと二人で立ってみたくなりました。どうしても急いてしまう脚に、けれどもマリカは軽やかに踵を地面に打ち付けて、付いてきます。その、二人の距離。視線も言葉も交わさず、触れ合いもしない、けれども互いの存在を感じ取り、同じ速さで歩んでいる、この距離。

 灰色の街には靄が纏いつき、街灯の黄色の光を霞ませています。石造りの建物の隙間にはちいさな闇が蟠り、道行く人々は顔を寄せ、囁き合っています。春の、街の、夜です。二十歳になったばかりの青年が、他のもの全て振り捨てるほどに魅了された、街の夜です。

 随分と長いこと歩きました。夜はすっかり更けています。帰りは車を拾わなくてはと考えながらも、はあ、と青年は荒い息を吐きました。横を見ると、マリカは常は石か花弁のように白い頬を僅かに赤くしてはいるものの、疲れた様子は少しもありません。青年の視線を受け取って、にこりと微笑みます。

「ここに、連れて来てくれたの?」

 青年は頷きました。夜にこの場所に来たのは、二年ぶりのことです。

 街のはずれにある、駅です。汽車は既に黒い車体を寝床に納め、駅員たちはそれぞれの家へと帰りついたようです。ごうごう、と街中では吹かない強い風が、マリカの髪を乱しています。彼女の細い身体をかばうように、青年は風上に立ちました。

「ほら」

 青年は指を差しました。眼前に横たわる、光の海へと。

 記憶にあるのと同じように、光は膨大で、どこまでも続いていくかのようでした。靄が出ているせいでしょうか。一つ一つの光はとろりと大気に溶け、夜の底でゆるく波打っています。偉大な光景でした。偉大で、美しい。

 青年は、この街に来たときのことを思い出していました。この美しさに恋をして、この街には素晴らしいものがあるに違いない、と信じた、あの若い日の無知な情熱を。

 彼は、間違っていました。確かにここには、美があります。人を魅了する、強大な力が。

 しかし、ただそれはそれだけのことです。街には真実があるから美しいのではありません。街はただ、美しいのです。美しさに理由などありません。

 青年は、横を向きました。マリカは手のひらを胸に押し当てて、じっと光の海を眺めていました。闇が女神めいた鼻の線を切り取っています。

 青年は、マリカを愛していました。そして、その理由を必死で探っていました。自分の愛、卑小な欲望に過ぎないものを、その根源は美しいものだと信じ、その妄想に近い願望をマリカに投射していたのです。

 無論、それは間違っています。愛は、美しいものではありません。愛はただの欲望の一種です。青年がマリカを愛したのは、美しいからでした。美に理由がないように、愛にも理由はありません。真実に近しいものなど、どこにはありはしないのです。

 それでも。

 マリカは、光に見入っています。瞳は砕いた黒水晶にも似た輝きを放ち、白い肌は街の光を吸い込んでいるかのようです。

 青年は微笑みました。幸福と呼んでもいい何かが、胸に明かりを灯します。

 美しい愛など、ありません。ただ、美しく愛することは、できるはずです。

 この欲望は、目の前のこの女をこの世に一人の女と定める心は、ただの大きな偶然の帰結に過ぎないでしょう。それは暴力にも貪婪にもなりえる欲望です。ですが、この欲望を、美しいものに、正しいものに、善いものに、成就することは、きっと、不可能ではありません。

 綺麗、とマリカの唇が動きました。共感を求めて、青年を見上げます。

 青年は頷きます。そして、マリカへと手を伸ばしました。マリカは微笑んだまま小首を傾げ、けれど素直に青年の手のひらへ手を預けました。毀れそうなほどに細く節だけが目立つ手は、植物の茎のようでした。その手を手に戴いたまま、青年はその場に、跪きました。

「結婚してほしい」

 マリカの口は丸く開き、頬には深い窪みと皺が刻まれました。普段ならば決して人目に触れさせないような崩れた表情ですが、青年の目にはその皺さえ尊く映りました。

「愛してる。結婚してほしい」

 自分の全てを差し出す言葉を口にしながら、青年はいまだ笑みを湛えていました。ふう、とマリカは息を吐き、いつもの表情を取り戻しました。青年に手を預けたまま、半ば呆れたように呟きます。

「随分、急なのね」

「いけないかな」

「急過ぎるもの。ずっと会いにも来てくれなかったじゃない。私、待っていたのに」

「君に退屈する暇なんてないだろう」

「顔、なかなか治らなかったんだもの。出かけられないし、あの部屋には誰も来ないんだもの。退屈だったわ。嫌われたのかと思った」

「君を嫌いになったことなんかない。一度も。これからも」

「素敵ね。でも、私、字も読めないわよ。部屋にいる間、本でも読めたら退屈しないのかと思ったけど」

 断りを入れたつもりだったのでしょうが、青年は言い返しました。

「妖精だって女神だって、字が読めるかなんて怪しいもんだ」

 マリカはくっ、と可笑しそうに喉を鳴らしました。行儀の悪いその笑い方を、青年はとても好きだと思いました。マリカは青年を見下ろし、ちいさな声で語ります。

「私、あなたの恋人にはいつでもなれるわ。あなたのこと、好きだもの。優しいし、男らしいし、才能がある人だから」

 マリカの言葉を聴き、青年はなるほど、自分はこう褒められたがっている人間に見えるのだな、と納得しました。優しく、男らしく、才能がある。わかっていてもなおその賞賛は青年の自尊心を擽りました。

 さらさらと後れ毛を鳴らし、マリカは首を振ります。

「でも、結婚はできないわ。知ってると思うけど、私には恋人がいるし、その人と今別れることはできないの」

「それでもいい」

 青年の語尾の強さに、マリカの眉が怪訝に寄ります。青年は繰り返します。

「それでもいい。君は君の好きにすればいい。どんな服を着て、どんな男と会おうとかまわない。誰を愛していようと、僕を愛していなかろうと。それでも僕は君のためだけを考えて、君のためだけに行動する。僕の言う結婚は、二人を結び合わせる契約なんかじゃない。僕を君に捧げるための契約だ。だから、結婚してほしい。僕の人生を君のために使わせてほしい」

 哀願と共に、小さな白い手を手のひらに握りこんで、燃える額に押し当てました。その行為に、あるいはその熱さに驚いたのか、マリカの手はぴくりと引き攣りましたが、手を抜きはしませんでした。

 目を瞑り、腹をずきずきと疼かせながら、審判を待ちます。

「いいわ」

 声の近さに驚いて目を開くと、息が掛かるほどの距離にマリカの顔がありました。甘く息がにおいます。

「いいわ。結婚しましょう。私の素敵な作家さん」

 細めた目の輝きに見蕩れていると、ゆっくりとマリカの顔が近づき、二人の唇が重なりました。

 予期しない口付けを、青年はただ身じろぎもせず受け取ります。

 マリカの唇はぬめるように柔らかく、青年の唇はほとんど痛みに近い痺れを覚えました。喉の奥が締め付けられるようで、睫が涙に湿ります。

 マリカとの口付けは、魂に触れられている心地でした。薄皮さえも剥いだ脆い臓器を、獣にまるごと差し出しているような。

 短い口付けの後、マリカは指先で青年の口に付いた紅と、頬を濡らす涙を拭うと、しゃがんだまま声を上げて、笑いました。少し歪な馬蹄の形に並んだ歯が、夜にも白く光りました。

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