マリカのために

古池ねじ

第1話

 愛を信じる全ての人々へ



 あるところに、小さな下宿がありました。街の片隅、いかがわしい賑わいが夜になっても尽きないたぐいの場所にある、小さな、古い下宿です。

 そこには十人に満たない下宿人がいましたが、そのうち一人は、青年でした。細い指や時折不安げに揺れる視線に、少年の心細さを残した、年若い青年です。

  彼は遠い土地の、古い裕福な家の生まれでした。優しく穏やかな両親、四人の兄と二人の姉に囲まれ、およそ健やかな人間に必要な全てを与えられて育ちました。けれども彼は、固い革で出来た上等の靴を自分で脱ぎ履きすることさえできないほどに幼いころから、それに安穏としない自分に気付いていました。少年と呼ばれる年頃にはすでに自分を、生まれながらの芸術家だと考えていました。彼にとって自分を囲む暖かく安心な愛情など、まやかしに過ぎないのでした。彼が求めたのは、小説の中にあるような冒険や情熱や闘争、あるいは絶望や恋でした。そういうたぐいのものだけが、本当の「真実」だと思っていたのです。それら全て、彼が生まれながらに与えられた場所にいる限り、決して近づけないものでした。

 故郷のどこにも具体的な不満などありませんでした。春には色とりどりの花が零れるように咲き乱れ、蜂の羽と馬の蹄が立てる音が混じりあい青い空に吸い込まれる丘。そこにある町は、小さくはありましたが活気があり、人々はいつでも青年に親切でした。地位ある者に対する屈託のない崇拝、権力をあたかも自然が齎した序列のように受け止める昔ながらの考えが生きていました。彼のために一番甘い林檎を取っておいてくれましたし、彼が転びでもすれば皆狼狽して、丁寧に手当てをしてくれたものです。何の懸念もなく、明るく、余りにも明るく、何もかもが見通せてしまいます。幼かった彼にとって、しかしその明るさは空虚と同じことでした。

  矢も盾もたまらず、二十歳になるやいなや、青年は家を出ました。両親や兄たちや姉たちは、優しい諦めに満ちた微笑で、情熱に燃える彼らの小さな坊やを見送りました。いっそ罵ってくれればいいのにと胸を悪くしながら、彼は都へと向かいました。そこになら、彼が本当に求める全てがあると信じたのです。紙とペンに、一揃いの上等な下着を詰めた鞄と、両親が持たせてくれた十分に重たい財布、そして制御できない情熱を宿した若い身体。それだけが彼の持ち物の全てでした。

 汽車が街についたとき、時刻はすでに夜でした。彼は慣れない長旅に軋む身体に鞭打って、駅へと降りました。鉄と油の匂いまじりの乾いた風が、前髪を額に打ち付け、ごう、と聞きなれない音を立てて通り過ぎていきました。それだけで、ふっくらと果実めいて紅かった彼の唇は色が褪め、鑢をかけたように艶を失いました。彼の灰色の目の上に、涙が薄い膜を作りました。感傷のせいではありません。ただ、暖かな丘陵地帯で育った彼に、街の風は冷たすぎたのです。ふと、彼は目を街の方へと向けました。

 そこには、光の海がありました。

 乾いた灰色の闇に、いくつもの光が、暖かく浮かんでいました。纏っている涙のせいで光は淡く滲み、帯のように繋がって流れました。瞬きをすれば涙は乾き、柔らかな光の一つ一つが見えました。数え切れないほど、彼の常識ではとても受け止め切れないほどの、膨大な光。それが眼前に、無造作に広がっています。とても大きな何かが、善いものを自分だけに分け与えてくれたかのような光景でした。一つ一つの光が、彼に対する祝福であるかのような。

 美しい。

 疲れ、冷え切った彼の頭に、その言葉だけが浮かびました。風の中、乾ききった頬が痛いほどに熱くなり、喉が痺れて震えました。

 たったそれだけで、彼はこの街に、恋をしました。この街で暮らすことに、言い知れないほどの喜びが沸き起こり、上着の衿を立てると、風にぶつかっていくように足を速めました。この街にはきっと、何かがあるに違いない。今までの安穏とした生活では得られなかった、何かが。歌うような思いで、彼は街へと足を踏み入れました。

  その日は故郷の学校で知り合った友人の家に泊まり、さらにその友人の紹介で、落ち着く先を探しました。故郷を頼れば小言と共に援助が得られるのはわかっていましたし、そもそもかなりの現金を持ってもいたのですが、自分の力だけで生きていくのが彼の望みでしたので、とにかく安いところを探しました。そうやって、やってきたのがこの下宿でした。狭く、始終埃っぽい匂いがして、夜には屋根裏を足早にねずみが通り過ぎる音が聞こえるようなところですが、その不自由ささえ、若い彼には面白く思えたものでした。なんでもするつもりでいました。都会に身を沈め、塵芥に塗れ、その中で本当に美しいもの、善いもの、正しいもの、を見つけるつもりでいました。どれほどの辛酸の中でも、あの光の海を思い返すことさえできれば強く生きていけると思ったのです。

 しかしながら、自分で想像したより遥かに早く、彼は小説で生計を立てることができるようになりました。友人の紹介もあって、彼の最初の短い小説はすぐに小さな雑誌に載りましたし、そのあとも彼の書く物語は多くの人の口に上ることはないもののおおむね好意的に受け止められました。また、他の友人に乞われて書いた戯曲は小さな芝居小屋で上演され、その評判も悪くはありませんでした。贅沢とは遠いものの、安い酒場で友人たちと騒ぐのにはまず困らない程度の収入。それが彼が自分の情熱とペンで購ったものでした。

  故郷の両親、主に母から、時折手紙が届きました。彼のささやかな成功を祝い、健康を気遣い、辛くなったらいつでも帰ってきなさいと記されています。手紙が届けば、彼はすぐに返事を出しました。それは故郷にいた頃からの習慣でもあり、両親に対する慕わしさのせいでもないとはいえませんが、一番の理由は、後ろめたさでした。故郷にいた頃には春の日の襟巻きのように息苦しくさえ感じた両親の愛情は、遠くに思えばひどく純粋で高潔なものに見えました。自分に注がれる無条件の愛情に対する正当な対価を支払ってはいないという意識が、彼のペンを走らせました。普段の生活を少しばかり輝かしく、規則正しく演出し、両親への愛情を嘘にならない程度に誇張して返事を出し、彼は支払いを終えた人間の晴れやかさで騒々しく魅力的な酒の席へと身を投げます。これが街での彼の生活でした。

 ある日の朝の靄の中、彼は下宿へと帰り着きました。彼が懇意にしている男が、小さな雑誌を立ち上げた祝いの席が朝まで続いていたのです。息だけでなく、体中から酒が甘ったるく匂っています。不味いあくびをいくつも噛み殺しながら、おぼつかない足取りで敷居を跨ぎました。彼の部屋は二階です。ベッドまでの距離をもどかしく思いながら、のろのろと階段を登る彼の目に、光るものが留まりました。何の気もなく拾い上げて、青年は首をひねりました。余りにもその場に似つかわしくないものだったからです。

 それは、ルビーをあしらった金のイヤリングでした。青年の手の上で、場違いに豪奢に輝いています。幼い頃からこういったものを見慣れた青年には、模造品かと疑うことさえ思いつかない、正真正銘の本物のルビーでした。

 普段なら、そのまま放っておいたでしょうが、何しろ眠気と酔いで朦朧とした頭です。青年は胸のポケットに無造作にそれを放り込むと、階段を上りました。しゃらしゃら、と愛らしい抗議めいた音で、イヤリングが鳴りました。ですが青年は気にもせず、部屋へと帰り、重たい身体をようやくベッドへと投げました。

 かん、かん。と軽やかな硬い音で、彼は目を覚ましました。汚れた窓から見える空はすでに薄暗く、また一日を無為に過ごした歯がゆさと、口の中のねばつき、それから不用意に目を開くと痛むほどの目やににうんざりしながら、彼は起き上がりました。とにかく顔を洗おうと、部屋を出ます。

 そこに、女はいました。

 青年は、自分がまだ酔っているのかと思いました。女は、澱んだ空気の中、ぽつんと鮮やかで、奇妙な姿を晒していました。細い体に真っ白な化粧着を纏い、足元には折らずに歩くにはかなりの修練が必要な細い高い踵の黒い靴。おそらく彼を起こしたのはこの靴の音でしょう。そんな恰好で、女は廊下にしゃがみこんでいます。一方の肩に長いゆたかな黒髪を流し、露なうなじは手入れが行き届いたなめらかさです。見たことのない女でした。

 ドアの音が聞こえたのでしょう。女は、ゆっくりと振り返り、立ち尽くす青年を見上げました。その顔のあまりの飾り気のなさは、青年を戸惑わせました。まだ、少女といってもいいほどの若さです。決して不器量ではありません。しかしながら、薄すぎる眉や血の気のない唇と頬のせいで、色づけが済んでいない人形のような、まだ出来上がっていないという印象ばかりが先に立ちます。

 女はにこり、と音が立ちそうな笑みを、青年に向けました。感情の伴わない、ただの反射で作ったような笑みですが、その拍子に重たげなほどゆたかな頬がわずかに染まり、白い大きな前歯が覗き、女に個性の色を添えました。どこか見覚えがあるような気を起こさせる、親しみのある笑顔です。

「こんにちは。あなた、絵描きさん?」

 耳に指先で擦り付けるような、甘えた声で尋ねます。

「いいや。何故?」

「芸術家っぽいもの。朝まで飲んで、さっき起きたんでしょう? お酒くさい」

 青年は肩をすくめました。

「僕は作家だよ。君、そこで何をしてるの?」

 女は薄い眉を寄せました。

「イヤリングを探してるの」

 そう、と答えかけた青年の胸元で、しゃらり、と何かが鳴りました。

「昨日もらったばかりなのに、落としちゃったの。ここに帰るちょっと前に耳を触ったときにはあったから、多分ここか、そう遠くないところに落としたとは思うんだけど……でも、見つからないかもしれないわ。誰かがもう拾っちゃったかも」

 話している間に気持ちが高ぶったのでしょう。高い声が震えています。青年は罪悪感に胸を打たれながら、ポケットからそれを出しました。

「イヤリングって、これかい?」

 女の頬が輝きました。ルビーの光が、黒い瞳の中で赤く踊っています。撥ねるように立ち上がり、満面の笑みを浮かべます。

「それ! あなたが見つけてくれたの?」

「ああ……階段に落ちてたんだけど……悪かったね」

 女は微笑んで首を振ります。

「まさか! だって、誰かに拾われたらきっと戻ってこないと思ってたんだもの……あなた、とってもいい人ね」

 しんからそう思っているような彼女に、青年はきまずく頬をかきました。彼にとって、そんなことは当たり前のことでした。何も青年が誠実ということではなく、単に彼は金に困ったことも、金がほしいと切実に願ったことさえないだけでした。その事実は青年にとって、決して誇らしいことではありませんでした。

「いや、まあ……とにかく、返すよ。もう落とさないようにね」

 口の中でもごもごと曖昧に言いながら、彼はイヤリングを女の白い手に置きました。女はたいそう嬉しそうに笑います。

「ありがとう。本当にありがとう……もう、絶対に落とさないわ。大切にする。だって昨日もらって、今日あなたからももらったんだもの。二人からのプレゼントだわ。絶対になくせない」

 ふいに青年は、この女のことが気になりました。こんな下宿に、どうしてこんな高価なプレゼントをもらえるような女がいるのでしょう。よくよく見てみると、着ている化粧着もよい仕立てのものですし、靴も見事な光沢を持ち、ぴったりと女の足に合っています。指先や首筋も、一度人の手がかけられた、自然のままではない美しさを持っていました。化粧気こそ今はありませんが、見るからにお金のかかった女です。

 青年の疑問などまるで知らず、女は楽しそうに一つだけのイヤリングを耳にはめました。白い耳は小さく薄く、大きなイヤリングは重たげに揺れます。

「ねえ、似合う?」

 僅かに細い首をかしげ、はにかむように睫を伏せました。率直に言えば、そのイヤリングは女には似合っていませんでした。化粧もしていない、化粧着姿の女がつけるような代物ではありません。しかし、不釣合いに豪華なイヤリングを重そうにぶら下げ、剥き出しの肌を晒して笑う女を、青年は可愛らしい、と思いました。

「うん……似合うよ」

 その言葉を聴いて、女は細い肩をくすぐったそうに揺らし、ふふっ、と弾むように笑いました。耳元でイヤリングが鳴る音が、青年の耳に届きます。

「本当にありがとう。作家さん。また会いましょうね」

 そして、ひらりと化粧着の裾を翻し、女は階段を上っていきました。かん、かん、と小気味よいヒールの音が響きます。

 青年は観客のように、その音をただ聞いていました。音が消えてからようやく、顔も洗っていない自分のむさくるしい姿を思い出し、顔を赤くしました。



 それから二日が経った夕方、青年はいつものように自分の部屋で、タイプライターを叩いていました。売り物ではない、どこへ出すともわからぬ、ものになるとも知れない情熱の断片が、紙に刻まれていきます。彼は、美しい物語を書こうとしていました。美しい愛の物語を。今までにも幾度となく挫折してきた試みでした。青年は、さまざまな方法で愛について物語ろうとしました。あるときは妖精の少女と少年、あるときは貧しい少女と妻のある貴族、あるときは青年同士の恋を書こうとしたことさえありました。ですが、全て上手く行きませんでした。紙に描かれる欺瞞に、青年自身がとても我慢が出来なくなってしまうのです。

 今度こそ。今度こそ、本当のことを書こう。ひとつの物語が心に浮かぶと、そう誓って書き出すのですが、書いていくうちに、青年には「本当のこと」とは何なのか、いつもわからなくなってしまうのです。

 そもそも青年は、恋というものをしたことがありませんでした。幼い時分にはよく共に丘を駆け回って遊び、小さな花で作った不器用な指輪をふくよかな指に嵌めてあげた少女もいました。ただし幼い彼自身が自発的にしたことというより、姉や母の、それから少女の期待にこたえるため、格別いやでもなかったから、そうした、というのが正確なところでした。その少女とも年を経るにつれ会っても話す言葉も少なくなり、今ではどこで何をしているのかもわかりません。だいいち特に知りたいとも、青年には思えないのでした。

 といって青年が、女嫌いということはありません。その少女とも遊ぶのはまったく嫌ではありませんでしたし、指輪をあげたときの嬉しそうなはしゃぎ声にだってほっとしたものです。最後に会ったとき、すっかり娘らしくなった彼女のちょっと澄ました、それでいてそんな自分を恥ずかしがっているような微笑も、暖かく思い返せます。今会いたいわけではありませんでしたが、彼女が幸福であればいい、という程度には親しく思っています。

 女は、青年にとって、近しい、けれど、不思議そのものでした。美しくて可愛らしくて好ましい、けれど、よくわからないもの。女に対する欲望というものも、青年には希薄でした。若く、健康でしたので、無論のこと欲望自体は存在しました。しかし、その欲望が女の肉体に結びつくことはありませんでした。彼の欲望はただ生理的な反応に過ぎませんでした。

  彼の友人のうちには、部屋にいつ行っても肌も露な女がいる、という男がいて、かなりきわどい場面に居合わせたこともあります。そんなとき彼が感じるのはまず、興奮ではなく、羞恥でした。

  その手の冗談に必ず顔色を変える彼を、潔癖症の坊や、と言って友人たちは笑いました。彼は反論せず、一緒になって笑いました。からかいの種になるということは、誰も真剣に問題にしていないということです。一緒に笑うことで彼も自分自身の欠陥を、笑い飛ばしてしまいたかったのです。けれど徐々に、彼にとって潔癖症の坊やでいつづけることは、笑い事ではなくなってきました。

  恋をしたい、と彼は思いました。肉から沸き起こる欲求ではなく、欠陥を補いたいという理性的な要求、あるいはひどく子供じみた憧れとして。一つの生命としての彼は恋などなくとも充足していましたが、作家としての彼の自我は、恋を知らぬ自分を恥じていました。恋さえできれば、本当に美しいものが理解できる気がしていました。あの日、街へやってきた彼が見た、光の海の美しさ。恋を知らぬ彼の目にも、その美しさは曇りなく映りました。けれど、その美しさの真実、美しさの根源について、彼は何も知りませんでした。それでも青年はその若い心で、あの日の光の海を通して彼に美しさを投射した善いもの、正しいもの、が存在するのだと、信じていました。その根源を追い求めることこそ、小説を書くことなのだとさえ考えていました。

  美しい愛の物語は、その根源に迫ろうとする試みでした。何故愛なのか。青年にもわかりませんでした。しかし青年がかつて惹きつけられた物語には、決まって愛が描かれていました。愛という言葉には、どこか得たいの知れぬ不穏さと共に眩しく傷つきやすい聖性を秘めているかのようでした。青年はその矛盾を解き明かしたかったのです。

  けれど書いても書いても、少しも真実に近づいたような気はしません。恋を知らぬせいなのでしょうか。それとも、近づく資質がないから、恋も知らぬのでしょうか。その可能性に思い至ると、青年は前が見えなくなるような心地に襲われました。せめて自分がただの晩熟な、潔癖症な坊やなだけであればよいと願いました。自分が美の根源に近づく資格を与えられていないかもしれないとは、疑うことさえ嫌でした。

  青年は今、娼婦と貧しい男の物語を生み出そうとしていました。前の晩にベッドの中で思いつき、薄い眠りの後、日が昇りきらないうちから書き始めたのです。美しい娼婦が、正直で人がよすぎるあまり苦境に立たされた貧しい男を救い、身を滅ぼすという物語にするつもりでした。けばけばしく装い、放蕩な生活に明け暮れる娼婦が、実は清い魂を持っている、という思いつきを、青年は気に入りました。今までの自分の作品に足りなかったのは、美しいものに対比する醜さではないか、と青年は思いました。醜いものを書かなければ、美しいものもまた、書けないのではないか、と。

  本当のことを書こう。決意を胸に、青年はタイプライターを叩きます。本当のことを。指は熱に押されるように、快い速さで動きます。書き始めのこの急かされるような感覚が、青年は好きでした。空腹で、ずいぶん喉も渇いていましたが、席を立つことは考えませんでした。この熱を全て吐き出しきってしまうまでは何も出来ないと、笑いさえ浮かびそうなほどに高揚しています。

  ノックが響いたのは、そのときでした。

  短い躊躇の後、ため息をつくと、青年は立ち上がりました。無視、という行為は、彼の発想にはありませんでした。それでもいつもよりやや乱暴に返事をしてドアを開けると、そこには女が立っていました。

  黒いつやつやとした髪を複雑に結い上げ、黒いドレスを華奢な身に纏っています。二の腕や長い首、胸元までも露で、白い肌は濡れているかのように光り、指で押すとどこまでも沈んでいってしまいそうでした。堅気の女にはとても見えません。

  たった今まで書いていた小説から、抜け出してきたのかと馬鹿げた思い付きに瞬きをしますが、そこに立っているのはやはり、現実の女でした。耳元で豪奢なイヤリングが揺れ、しゃらりと可憐な音を立てました。

「久しぶりね?」

 紅い小さな唇の端をくっきりと持ち上げて、女は楽しそうに青年を見上げました。まばたきに不自由がありそうなほどの濃い睫の下で、黒い瞳が煌めきました。その目に、青年は見覚えがありました。

「ああ……あのときの……」

 よく見ればその女は確かに、先日青年がイヤリングを渡してやった化粧着の女でした。耳に揺れているのはまさしくそのルビーです。装って大変華やかですが、よく見れば重たげなふっくらとした頬と、小さな唇から覗く大きい前歯に面影がありました。

「ねえ、今夜、お時間ある? あのときのお礼をしに来たの」

「え? ああ……」

 反射的に頷いてから、しまった、と思いましたが、仕方がありません。嬉しそうに女は笑い、青年の服装にちらりと視線を走らせ、乱れてもいない髪を耳にかけるように指を動かしました。

「食事に行きましょう。素敵なお店を知っているの。私、ご馳走するわ。着替えてもらえる? もう少ししたら、もう一度ノックするわね。私、上の部屋に住んでるの」

「上に?」

「ええ。一度部屋に戻るわね。じゃあ」

 小さく手を振り、片目をつぶり、女はくるりと背を向けました。なにやら眩暈に似たものがして、青年は大きく息を吐きました。



 女が青年を連れて行ったのは、下宿からほんのすぐそこにある、想像に反して品のいい、けれどよすぎない店でした。女のなじみの店なのでしょう。給仕に軽く挨拶をすると、約束が出来ていたのか、すんなりと奥の席へと通されました。

「作家さんは、嫌いなものってある?」

「いや、特に」

「そう。じゃあ、任せましょう」

 注文を済ませると、女は青年を見て、にこり、と笑いました。初めて会ったときにも見た、反射的な笑顔。素顔で浮かべると愛らしかったそれは、化粧で彩られた顔をいっそう華やかに見せました。大きい白い前歯がきらりと光り、欠点というより彩りのようでした。女の顔は、整っているわけではありません。ドレスを纏った肉体も、貧相といわれてもおかしくないほど、痩せすぎていました。鎖骨の下には肋骨が浮き、胸の真ん中には窪みが出来ていますし、肩や肘には関節がぼこりと突き出しています。ですがのびのびとした動作と屈託のない表情、大胆な化粧と装い、それに加えしっとりと光る白い肌のおかげか、その小さな身体の全てが上手く調和し、引き立てあい、なんともいえない華やかな雰囲気を作り出していました。

「作家さんって、まだ若いのね」

 顔に触れられたのかと疑うような、恋人に使うような話し方でした。青年はつい身を引きそうになりますが、無礼を恐れて平静を装います。

「若いかな。二十二になるけど」

 ふふ、と女は笑います。

「若いわ。最初会ったときはほら、あんな恰好だったから、おじさんなのかと思った。お髭だって伸びていたし」

 青年は、そういう女はいくつなのだろうと思いました。もう記憶もおぼろげな素顔は少女のようでもありましたが、振る舞いや雰囲気は成熟しきっています。つい探るような視線を向けてしまったのでしょう。女は咎めるように眉をしかめます。

「私の歳は言わないわよ」

「ごめん。君も、この間と全然感じが違うから。不思議になって」

「あっちのほうが好き?」

 青年はどう答えていいのかもわからず、いや、と曖昧に口の中で言いました。女はおかしそうに笑います。

「ごめんなさい。ついそんなふうに話しちゃうの。よくないわね」

 いや、と青年は、もう一度言いました。そして、そんなことしか言えない自分が恥ずかしくなりました。

 食前酒が運ばれて来ました。青年の故郷近くで作られる、林檎を使った甘い酒です。特別に高いものでもありませんが、青年が普段行くような店では出てくることのないものでした。騒ぐために飲むのではなく、雰囲気を味わうための酒。

 女は細い指でグラスを持ち上げます。

「乾杯。出会いと今日の夜に」

「乾杯」

 懐かしい香りと味は、青年の心を少しほぐしました。目の前に座る女は美しく、店は清潔で居心地がいい。このときを楽しもう、という気分になってきます。

 ふと青年は、自分たちがまだ名乗りあってさえいないことに気付きました。

「君、名前は?」

「マリカ」

 マリカ。何故か本当の名前ではないのだろうなと直感しましたが、異国的な響きは、とても女に似合っていました。青年も名乗りました。

「素敵な名前」

 マリカは笑い、グラスを口に運びます。お世辞でしょうが、本当にそう思っているかのように言うので、青年はいい気分になりました。

 食事は、和やかに進みました。

 マリカは口数が多くはありませんが、気まずくならない程度に言葉を挟み、料理が来ると控えめではあるものの嬉しそうな感嘆の声を上げます。ナイフとフォークの使い方は青年からすると拙いものでしたが、背筋を綺麗に伸ばし、美味しそうに食べます。

「君は、どうしてあんなところに住んでいるの」

「どうしてって?」

「もっといいところに住んでいそうだからさ」

 マリカは微笑みます。

「あれでもいいところだと思うわ。まあ、最高の部屋とは言えないでしょうけど。私、住むところにお金ってかけたくないのよ」

「あんまり治安もよくないだろう。あそこは」

「そう? 気にしたことがなかったわ」

 そんなことがありえるのだろうかと疑いながら、青年はスープを口に運びます。海老や野菜をたっぷり使ったスープは、腹にしみる美味しさでした。

 マリカが何をしている女なのか、今更ながら青年は気になりました。ドアを開けたときは書いていた小説のせいもあって娼婦としか見えませんでしたが、女優や、歌手ということも考えられます。それ以外の何かとは思えません。マリカの美しさは、金のかかった、そして記号的に誇張された美しさでした。くぼんだ胸元のすぐ下の乳房は形よく大きく整えられていますし、腰は余りにも細く絞られています。唇はあくまで赤く、眉は黒く濃く、睫は長く、素顔の時にはなかったほくろが目尻には描き加えられています。こういう化粧は、容貌を資本としている職業の女でなければするものではありません。

  娼婦でなければいい。そう青年は思いました。こんなに気持ちよく笑い、気持ちよく食べる彼女の肉体が誰かの手で汚されることを、想像したくはありませんでした。

「作家さんは、一体どんなお話を書いているの?」

 そう言って青年の目を、マリカはまっすぐに覗き込みます。その黒い瞳の深さと強さに目を逸らしたくなりましたが、もうしばらく、マリカの瞳を見つめていたくもありました。

「美しい話を」

 どうしたわけか、そんなことを口走っていました。そういった質問には自分が出版した短編や戯曲のことに触れるのが常で、書きかけては捨ててしまう物語のことなど、誰にも話したことはなかったのです。

「美しい話?」

 青年の動揺に気付かないのか、マリカは先を促します。

「この世の綺麗なものを、小説にして閉じ込めておきたいんだ」

「綺麗なもの?」

 マリカはぴんとこないようでした。首を傾げます。

「たとえば、夜の街の灯が、ずっと続いているような、そういうものを見たときの、「ああ、綺麗だ」って気持ちが起こるような、そういう話が書きたいんだ」

「本当に見るだけではだめなの?」

 単純に不思議に思っているようなマリカの質問に、青年は虚を突かれました。

「……考えたことがなかった」

 馬鹿だ、と青年は自分に言いました。こんなときにすぐに答えが出ないなんて、とても作家とは思えません。

 けれど、マリカは柔らかく微笑んで言いました。

「きっとあなたには当たり前のことなんでしょうね。考えたことがないってことは」

「考えておくよ」

 マリカはぱちぱちと瞬きをします。青年は繰り返します。

「考えておくよ。ちゃんと君にわかってもらえるように」

 そこで、気付きました。青年は、マリカにわかってもらいたかったのです。

 マリカは、微笑みました。そして、青年をまっすぐに見つめて言いました。

「待っているわ」

 さざめきのような話し声と、ごく低い音楽が流れています。青年の前には美しい女がいました。白いなめらかな肌と黒く豊かな髪、煌く黒い瞳、そして白い大きな前歯と、ふっくらと重たげな頬、痛々しいほどに突き出した肩の骨に、胸の真ん中にある窪み。目に快いものと、奇妙なものが、一つの人間の上で絶妙に釣り合い、マリカという耳新しい名の女が出来上がっていました。

  そこに、美がありました。華やかなだけでも目新しいだけでもない、深く、胸のうちで小さく、けれど絶えることなく光り輝くような。売り物ではない、他の何とも似ていない、マリカ独特の、美が。目を凝らし、その根源を見極めたいと思わせるものが。

  青年はマリカの瞳を、じっと見つめました。そこに、青年自身が映っていました。ごく小さなその自らの顔に、かつて見たこともない表情が浮かんでいるのを、青年は認めました。

 驚きのような、ためらいのような、哀願のような。奇妙な熱に浮かされ、打ちのめされ、呆然としている、見たこともない男の顔を。



 その夜二人はゆっくりと食事と酒を楽しみ、秋風で上気した頬を冷ましました。マリカの部屋の前で、二人は微笑み合い、また、とごく軽い約束を交わし、青年は部屋へと帰りつきました。

 久しぶりの上質の酒の酔いと、心地よい腹具合が、そのままベッドへと彼をいざないたがりましたが、彼はドアの前で、どうしたらよいかもわからず立ち尽くしていました。マリカの気配が、まだまといついています。マリカはあまり濃く香水をつけてはいませんでしたが、それでも近づけば白粉やなにやらが鼻を淡く擽りました。不用意に動いてしまえば、ごく薄い靄めいた香りの記憶はあっけなく吹き払われてしまいそうでした。

 マリカ。

 青年は、声に出さずに唇でその名をなぞりました。

 マリカ。

 目を瞑り、手のひらで顔を覆います。瞼の裏に、マリカの姿を思い描こうとします。

 マリカ。

 薄い闇の中に、白い腕が浮かびます。さらさらと光が滑るように、腕は瞼の裏で踊ります。腕が、火を灯していくように、光がぽつりと浮かびました。暖かく、丸い、いくつもの灯が。それはいつか見た、光の海でした。その中に、マリカの腕が、白く光に濡れています。

 マリカ。

 陶然と、青年はその名を呼びました。すでにそれは一人の女の名前ではありませんでした。それは美そのもの、善そのもの、真実そのもの、の名でした。

 熱いものが青年の手の平を濡らしました。喉が震え、まともに息が出来ません。嗚咽と共に、青年は、魂を吐き出すように、彼女の名を呼びました。

 マリカ。



 それから、青年は書きかけの小説の執筆を中断しました。常のように自作の欺瞞に、そして何より娼婦を書くことに、耐えられなくなったのです。けれど何故だか、いつものように、捨てることができませんでした。胸に不快な引っ掛かりを持ちながら、青年はその書きかけの紙束を、無造作に棚に突っ込んでおきました。

 その後は、新しい物語を書こう、といつものように思いましたが、どんな構想もまったく浮かびません。浮かぶのは、マリカのことばかりでした。二度会っただけの、名前と部屋しか知らない、堅気ではない、だが、美しい女。

 この青年の状態を表現する言葉を、もちろん皆様ご存知でしょう。ですが、青年はその言葉を認めたくはありませんでした。潔癖症の坊やという呼び名を的外れに感じていても、二十二歳の、苦労を知らない青年は、まごうことなく呼び名通りに潔癖症の坊やでした。この歳まで誰にも明け渡すことなく秘めていたものを、こんな形でどこの誰ともわからない女に、見返りを望めもしないのに奪われるとは、認めがたいことでした。醜いものを書こうと決意してはいたものの、敬虔な両親に良識というものの大きな存在を常に意識させられて育った青年にとって、やはり娼婦やそれに纏わるものは、身に迫った現実ではありませんでした。ごく近くに存在することは知っていて受け入れてはいても、自分とは交わらないもの。

 マリカに浸りたがりながらもマリカから自由になろうとするという若さゆえの二律背反に置かれながら、強いて平静を装いました。注文の小説を納期までに書き、パンやハムの切れ端という粗末な食事を取り、夜には酒を飲み、友人にも会いました。そんな中、意に反してマリカについて考えてしまうのは、味わったことのない苦しみでした。自分を奪われているような、けれどマリカを想うことこそが自分自身であるかのような、鈍く引き裂かれる苦痛です。もうやめよう、マリカのことは忘れよう。青年の理性はそう告げますが、元来情熱的な性質の持ち主です。理性の枷が緩む瞬間、彼の心はマリカを求めました。タイプライターを叩き続け感覚が鈍くなった手を温めているときに。行きつけの店で酒を楽しみ、火照った頬を外気に晒した瞬間に。眠る直前の、曖昧なまどろみの中に。マリカの香りをかいだ気がして、青年ははっと身を硬くします。

 これでは、駄目だ。

  時間を置いても減ることのない情熱に疲弊した青年は、一度マリカへの想いと向き合ってみることに決めました。マリカが一体どんな女で、何を生業としているのか、そのぐらいは知ろうと思ったのです。

  青年は、自分をこの下宿に紹介してくれた友人に会いに行きました。がっしりと頑丈な骨組みと、濃い髭に覆われた厳しい顔立ちのせいで一見恐ろしげですが、明るい笑顔と気性の持ち主です。人と話すのが好きで、街の表にも裏にも通じていました。青年より一つ歳嵩ですが、故郷では同じ学校に通っていた、昔からのなじみです。青年が街へ出てきたのも半分は彼の影響でした。少年期、肚に鬱屈した情熱と周囲への不満を詰め込んでいた青年は、この友人のおかげでどれほど救われたことでしょう。

  友人の家は、青年の下宿よりも街の中心から離れた、少し不便なところにありました。静かなところではありますが、閑静というよりも、不穏なものが息を潜めているかのような静けさです。青年は背筋を伸ばして足早に、話しかけられる隙を作らぬように友人の家へ向かうと、古びた呼び鈴を鳴らしました。

  ドアを開けた友人は、青年の顔を認めると、あけっぴろげな笑顔を見せました。青年も釣られて微笑みます。

「今、いいかい」

「ああ」

  友人は小さく古い家を一つ借り、好きなように使っていました。絵描きをしているので、壁にも床にも描いた絵がてんでばらばらに飾ってあり、古びた外観からは想像もつかないほど色鮮やかです。ものに決まった位置というものがなく、食器も絵の道具もまぜこぜに置いてあります。乱雑かつ無軌道な友人の家に、青年はとてもこんなところでは暮らせないと呆れながらも、友人そのもののような散らかり方にどうしても惹かれるのでした。うすうす自覚していましたが、青年は貧しさならともかく、無軌道には決して耐え切れない人間でした。

  青年はまた増えた絵を一瞥しました。カンバスの上に荒っぽく華やかな筆致で描かれているのは、明るく、美しいものばかりです。花や果物や風景もありますが、一番多いのは女性、それも裸婦でした。友人の絵の女は、必ず笑っています。ある絵ではまどろみながら、ある絵では挑むように。顔が描かれていない絵でも、その背中や尻が、笑っていました。青年は、友人の描く絵が好きでした。技巧的にどう優れているのか青年にはよくわからないのですが、友人自身を好きなように、友人の絵が好きでした。もっとも、友人の絵が売れたという話を聞いたことはありませんが。

 朝に食べたか、あるいは昨日の夜、いや、もっと前かもしれませんが、とにかくパン屑らしきものが散らばった皿がまだ置いてあるテーブルに添えてある木箱に友人は座り、青年は来客用の椅子に座りました。途端にかたんと乾いた音が響いて身体が僅かに傾ぎます。力のかけ方に工夫しないと、ぐらぐら揺れてしまうような粗末な椅子です。友人が来客にそれを勧めて自分は木箱に座るのは、気を使っているのではなくむしろ木箱のほうが楽だからではないかと青年は疑っていました。

「こっちに来るなんて珍しいな」

 確かにその通りでした。たいがいの夜、友人は青年の下宿の近くの店のどこかで飲んでいます。現にほんの二日前にも一緒に飲んだばかりです。また、二人で話したいときは、友人のほうから青年の部屋へやってくるのが常でした。

「そうかな」

 マリカのことを言い出しあぐね、青年は言葉を濁しました。友人はたいして気に留めていないように笑います。

「まあ、お前も大人になっちまったみたいだからな。色々聞きたいこともあるだろうさ」

 友人の言いたいことを理解した瞬間、どっと頭から汗が出ました。見る見る頬を赤くさせる青年に、友人はくすぐるような視線を送ります。

「安心しろ。俺が知ってるのはマリカとお前が食事をしたってだけだ。しかしまあ、なんだってそんなはめになったんだ?」

 からかいはこの程度にとどめておいてくれるつもりだと悟った青年は、マリカとの出会いをおおむね正直に話しました。青年にとって一番大切なことは、もちろん伏せましたが。

 軽く頷きながら聞いていた友人は、青年が話し終えるとようやく口を開きました。

「お前、マリカを今まで知らなかったのか?」

「ああ」

 友人は呆れたように肩をすくめます。

「やれやれ。あの辺に出入りしててそんなやつがいるとはね」

「そんなに有名なのか? その、」

 マリカは、と言い掛けて、何故だか躊躇いました。

「彼女は」

 友人は青年の躊躇など気に留めず、頷きました。

「有名も有名だ。というか、お前だって無関係なわけじゃないんだぜ」

 青年は怪訝な顔をすることで、話を促しました。

「マリカは……そうだな、改めて説明するのは難しい。女で、美しくて、楽しいのが好きで、頭が悪くて、男が好きだ。汚い言い方をすると、娼婦みたいなものだ」

 半ば覚悟していた言葉です。青ざめた唇を噛む青年に、友人はなだめるように言い聞かせます。

「でも、俺はマリカは娼婦ではないと思う。というより、知っている。それは別に俺がマリカに純潔でいてほしいからじゃない。本当に、マリカは娼婦じゃない。少なくとも俺の基準では」

 友人は自分の言葉に考え深げに頷きました。

「うん。マリカは確かに、娼婦じゃない。娼婦っていうのは、俺の考えでは、身体を売って金にする女だ。マリカはそういうことはしない」

 まどろっこしい話に、青年はつい口を挟みました。

「じゃあ、なんなんだ」

「それなんだよな。何か、と聞かれると、一言では言えない。ただ、マリカには恋人がたくさんいる。何人なのか俺にはわからないけど、とにかく一人じゃない。そいつらはたいがい金持ちで、マリカを養ったり、宝石だの毛皮だのを貢いでる。ただ、これがマリカと娼婦の違うところなんだが、マリカの恋人には貧乏人もいるし、そいつはマリカに貢ぐわけでもない。それから、金を持っていて条件が合うからといって、マリカと付き合えるわけでもない。つまり、マリカは好きな男としか寝ないわけだ。もっとも、マリカの好きな男っていうのはたいてい金を持っているんだけどな」

 そんな説明を聞きながらも、青年は案外と平静でした。ここに来る道すがらの想像では、もっと何がしかの衝撃を受けるはずだったのにと青年自身も考えますが、その思考はつるつると感受性の表面を滑るばかりで、芯の部分には届かないのです。

「僕に関係があるっていうのは?」

 平静な彼の質問に、友人はああ、と頷きました。

「お前、あの人と面識があるんだろ、ほら、」

 友人が口にした意外な名前に、青年は首をひねりました。それは、この街一番の宝石商でした。穏やかな人柄と恰幅のいい体格が見合っている教養豊かな紳士で、青年の父親の昔からの友人です。青年も、幼い頃からずいぶん玩具や菓子をもらいましたし、今でもごくまれに食事に招待されます。青年の訥々とした話を、内心はともあれ興味深そうに聞いてくれます。

「今、マリカはあの人の恋人だ」

 さすがにそれには、青年は驚きました。宝石商には妻も子供もいましたし、色めいたところなどちらりとも覗かせたことはありませんでした。しかし、納得できることが一つありました。マリカのルビーのイヤリング。あれを彼女に与えたのは宝石商に違いありません。細工も石の質も申し分のない大変高価なものですが、彼ならたやすく手に入ることでしょう。

「ほんの最近の話しだけど、ずいぶん入れ込んでるらしい。マリカは相手からもらう以上のものを望まないから、それであの人の家庭がどうにかなったりすることはないだろうけどな」

 ふと、青年はおかしなことに気付きました。

「ちょっと待ってくれ」

「なんだ?」

「彼女は、そんな金持ちとばっかり付き合ってるんだろう? じゃあ、なんであんな辺鄙なところに住んでるんだ」

 住むところにお金ってかけたくないのよ。マリカの言葉が蘇ります。けれど、友人の話から考えるに、部屋代を払っているのはおそらくマリカではありません。

「ああ。知らん」

「はあ?」

 友人はおかしそうに口の端を持ち上げ、肩をすくめました。

「俺もおかしいと思うさ。マリカは吝嗇じゃない。店への金払いもいいって話だし、たまに、ほんとにたまにだが、一人で食事をするときは気前よく居合わせた客に簡単におごっちまう。それなのにずっとあそこに住んでるんだ。男の中にはもっといい部屋を用意しようとしたやつもいるんだが、だいたいのものは遠慮なく受け取るマリカもそれは受けようとしない」

「……変わった女なんだな」

 友人は深々と頷きました。

「ああ。変わった女だ。それに、変わった美しさだ。ああいうふうに美しい女っていうのはなかなかいない」

 閃くようにマリカの姿が青年の脳裏に浮かび、息が詰まるようでした。華やかで独特な、マリカでしかないマリカの姿。白く光る腕。今もし目を瞑れば光の海が広がると、青年は直感しました。

「完璧な、見蕩れるような美しさ、っていうんじゃない。でも見入ってしまう。ただ「ああ綺麗だ」と思うんじゃなくて、人に美しさとは何かっていうのを問いかけるような、そういう美しさだな。一体なんで美しいのか知りたくて、目が離せなくなってしまう」

 まったくその通りだ、と青年は思い、何故だか少し不本意でした。友人と自分が、芸術について似通った意見を持€っていることは知っていましたし、それを心地よく安心なことでしたが、マリカについても同じだというのは、胸がざらつくことでした。

「惚れるのは仕方がないし、ひどい女でもないからかまわんが、あまり深入りするなよ」

「わかってる」

 反射的に答え、あまりに子供っぽい自分の声に、青年は顔を赤らめ、友人は兄めいた優しい微笑みを浮かべました。



 その後、近況や友人の絵について話し合い、青年は家を出ました。日の暮れた街を、青年は歩きます。日に日に空気はしんと冷えていき、風に乱された髪の冷たさが、青年を憂鬱にさせました。街の冬は、日差しも寒さもどこか柔らかな故郷の冬とはまるで違い、骨に刺さる寒さです。故郷が恋しいわけではありませんが、成人まで暖かい故郷ですくすくと育まれた青年の肉体に、街の冬は酷でした。街にはこんなに人がいるのに、どうしてこんなに寒いのだろう、とかじかむ指を温め、子供じみた疑問を弄びながら、部屋にこもる日々です。

 ふう、と吹いた息が白いのを確認しながら、青年は足早に下宿へと急ぎます。人の流れに乗り、けれど流されぬように、街を歩きます。街へ来て二年、すっかり街の人間の歩き方を、青年も身に着けていました。騒々しいのに聞き取ることのできないざわめきと、石畳と靴底が立てる高い音が、青年の心を埋めていきます。その隙間で、マリカのことを考えようとします。ここのところ、ずっと考えていたことなのに、いざ考えようとすると少しも上手く行かないのが奇妙でした。マリカの姿は靄がかかったようにぼやけ、頭の片隅をひらひらと白い腕がかすめるだけです。その腕を捕まえて眼前に立たせようとしても、耳に当る風の冷たさと、ぶつかりそうになる他人の肩に気をとられ、マリカはますます靄に溶けていきます。

 これで、終わりなのかもしれない。青年は考えます。マリカのことを知ってしまったことで、もう終わってしまったのかもしれない。いや、そもそも始まってさえいなかったのかも、と。

 それならそれでいい。青年は歩き続けます。これで終わりなら、ここしばらくのことは些細な、けれど色鮮やかな思い出として青年の胸に刻まれるでしょう。そして、青年はそれまでの生活に戻るわけです。それなりに楽しくそれなりに充実した、それなりに退屈な日々に。

 青年の眉が不快に寄りました。その意味を考えることさえ億劫で、青年は足を速めます。

 その視界に、白い腕が掠めました。かっ、顔が熱くなり、全身が心臓になってしまったかのように、鼓動が鮮やかです。白い腕の持ち主は、道の先にいます。青年は目を凝らしました。

 違いました。

 すっと頭に上っていた血が落下し、知らぬ間に汗に湿った身体が冷えていきます。白い腕の持ち主は、黒いドレスを着て、亜麻色の髪に装飾的な筋をつけて結い上げた、若くはない女でした。街灯に背中を預け、道行く男の顔を素早く確認しています。季節はずれの薄着と夜目にも不自然に濃い化粧が、女の商いを示していました。

 青年に気付いたのか、女は目を合わせ、唇の端で笑いました。赤い唇は、何かの隠喩めいて濡れています。白い肌は緩み、闇に輪郭を滲ませています。

 青年はその瞬間、自分がこの女、見知らぬ商売女を、好きに出来るのだ、と気付きました。懐にある金のいくらかを与えれば、女は青年にその肌を許すでしょう。青年の視線を、女は肉のついた顎を上げ、青白い喉元で受け止めます。白い首には皺が何本か刻まれています。その皺を、指でなぞるのは一体どんな感触でしょうか。寒気に似たものが、青年の背を走り、乾いた唇から肉のにおいの息が漏れました。

 でも、違う。

  縫い合わせた革を引き剥がすように、青年は女から目を逸らし、半ば駆けるようにその場を立ち去りました。心臓が痩せた胸のうちで大きく跳ね回り、叫び声が喉を激しく叩いています。自分が自分の輪郭に閉じ込められてしまっていることが堪らなく苦痛で、しかしそれを吐き出す術も知らず、涙さえ零れます。

  汚い。青年は頭の中で叫びました。

  汚い。この世は、汚い。全て汚い。全部。僕もあの女もマリカもあの人も全部全部汚い。

  酔っ払いのように不器用に足を動かし、けれど人に触れるのが厭わしく汚らわしく思え、よろめくように人の波を縫い、青年は歩き続けます。早く一人になりたい。青年は思うのはそれだけでした。どんな類の人間からも今は隔てられていたい。

  息を切らし、目を潤ませ、頭を嫌悪に掻き回され、ようやく青年は下宿へと帰りつきました。扉を開けて中へ飛び込み、凭れかかる様に扉を閉めました。そのままへたり込んで、すすり泣いてしまいたい衝動に襲われながら、荒い息を整えます。

  かん、と高い音が、青年の耳に届きます。

  声を上げて泣き出したいほどの恐怖に駆られながらも、見上げざるを得ない自分を、青年は憎みました。それでもすでにその音、ほんの数えるほどしか聞いたことのないその音は、青年にとって他の何とも違う意味を持っていました。

  見上げた先に、マリカはいました。

  埃と傷にくすんだ階段に立つ彼女は扉の前にいるのが青年だと気付き、微笑みました。にこり、と反射のように浮かべる笑み。マリカはそんなふうに笑う女でした。青年は思い出します。赤く濡れた唇。剥き出しにされた白い肌。マリカは黒いドレスを着ていました。胸元には大きなエメラルドが深い碧の光を揺らめかせています。街角に立っていた女と同じような服装と、化粧です。しかしマリカの美しさは、確かに他とは違うのでした。何が違うのか、そのときの青年にはわかりません。マリカは軽やかに階段を下りていきます。ささやかな灯りを吸い込み白い肌は薄く光っているかのようです。あまやかな香りが冷えた鼻腔をくすぐります。

  マリカは青年の前で立ち止まりました。瞳に微笑を湛え、まっすぐに青年を見つめています。青年の視線に余りにも無防備に立つその女は、青年がここ暫らく夢見ていた全てであり、同時にそれを越えるものでありました。手を伸ばせば届くところに、マリカはいました。うなされるように、青年は口を開きます。

「……マリカ」

 その名を彼女に向かって呼んだのは、初めてのことでした。呼ばれて、マリカは小さく首を傾げました。自分の呼びかけに、マリカが応える。たったそれだけのことが、信じがたい奇跡でした。マリカは、青年の言葉を待っていました。何かを言わなくてはと思った青年は、身中の熱に耐えかねて、こう言いました。

「君は、美しい」

 マリカは蝶の羽のような睫をはたはたとひらめかせます。赤く濡れる唇を、重たげに僅かに開きます。

「もう一度、言って」

 促されて、青年は繰り返します。

「君は、美しい」

 マリカは首を傾げ、瞼を伏せました。下宿には人が残っていないのでしょう。あたりはとても静かでした。青年はマリカの瞬きの音さえ、自分の心臓の音さえ聞こえそうでした。その沈黙に、ぽつん、とマリカは言葉を落としました。

「不思議ね」

 そして、微笑みます。内側からそっと湧き出たかのような笑みでした。

「そんなことを言われたの、初めてのような気がするわ」

  刹那、青年は自分の心臓が灼け落ちるのがわかりました。

  もう言い逃れはできません。彼は、恋をしていました。

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