ブラッディメアリと白昼夢

灯音乃

ブラッディメアリと白昼夢

 壁に貼った世界地図に、次々と突き刺さるスティール・ティップ・ダーツ。このご時世にロシア連邦がCCCPだなんて、黄ばんでいかにも年季の入ったその地図は、ガーナだけ赤い丸に囲まれている。スーツの中にパジャマを着こんだ酔っ払いどもが口々に囃し立てながら、フロアに先のとがったださい靴を打ち付ける。センスないのね、なんて軽口を叩こうものならつまみ出されてしまうだろう。そもそもセンス以前に着心地は最悪なんじゃないだろうか。あんなフリースみたいな素材じゃジャケットの生地との摩擦が大変なことになりそうなもんだけど。しかし口は禍の元、沈黙は金である。余計な言葉と一緒にグラスに残ったワインの最後の一滴を胃に流し込んだまさにその時、バーテンが笑いながら、どうぞお嬢さん、とダートを手渡してきた。どうやらガーナに当たれば50点、だとか。さしずめダーツボードでいうブルのようだ。それにしたって、どうしてガーナ?

 場末の薄暗いバーの中で、密やかに高まっていく熱狂。言われるがままにダートを手に構えてみたところで、私はダーツなんてほとんど心得はないんだけれど。これ、外したらどうなるの? 隣にいたボーイに耳打ちすれば、次の的が貴女になるだけですよ、と平然とした顔で返される。それは困った。せめてソフトダーツなら。いや、そういう問題ではない。こんなところで磔にされてたら、明日の女子会に間に合わないじゃない。せっかく南青山のハワイアンパンケーキのお店、予約とれたってのに。近頃はパンケーキが空前のブームとなっているせいで、ちょっとパンケーキを扱っている店になんか入ったらスイーツなのはお前の頭だなんて言いたくなるお行儀の悪いお嬢さんがひしめいている始末である。本当は和菓子をつまみながらゆっくり温かいほうじ茶を啜ってる方が私は好きなんだけど、そんなこと言ったらきゃっきゃと盛り上がってる場の空気を壊してしまいそうだったし。

 無理よ、そう呟くとボーイは、お嬢さんにはこちらを、そう言って、私の右手のダートを取り上げて、代わりに暗い赤色の液体が波打つカクテルグラスを握らせた。あら、ちゃんと見ればなかなか好みのタイプだし、素敵じゃない。これって、もしかして恋の始まりじゃないかしら。喪女だのなんだの、口さがない友人たちにからかわれるのも辛いのよ。華がないだとか陰気くさいだとかそんなこと自分が一番わかってるって。あの子たちがこぞって付ける可愛いピンクのグロスは決して似合わない薄い唇を潤したくて、カクテルグラスを傾ける。血のように赤いカクテルはまるでルージュみたいに唇を色づけて、まるでさっきのボーイが魔法をかけてくれたみたい、なんて。シンデレラストーリーに憧れる歳でもないってのに、こんな些細なことで柄にもなくはしゃいでしまうあたりがもてない理由なのかしらね。夢も満足に見られなくなって、年を取るとは不自由なことだ。

 私が痛い妄想に浸っているうちに、ボーイの手からダートは離れ、どんぴしゃ、ガーナは射抜かれていた。続いて胸ポケットからもダートを取り出して、ガーナはどんどんめった刺し。空いた穴からチョコレートが溶けだして、甘い匂いが鼻孔を擽る。チョコレート・フォンデュはあんまり好みじゃないんだけど。カウンターの奥に鎮座している大きな冷蔵庫の扉が開いて、あれよあれよとマシュマロだのイチゴだのが床までこぼれだしてきて、酔っ払いが足を踏み鳴らすたびに、あーあ、ぐちゃぐちゃになってしまった。どうせならチーズの方がよかった。もちろん具材は焼き立てのバゲット。そういえば駅前に新しいパン屋がオープンしたらしい。店員さんにいわゆる清楚系の、可愛らしい娘がいるんですって。学科の男子たちが噂してた。男ってのはつくづく、大和撫子に弱いと思う。綺麗な黒髪で優雅な物腰で、男をたてて自己主張は控えめで、一途で純情で、ってそんな完璧な、ましてや美人なんてそうそう転がってないわよ。いたとしてもとっくに誰かのものになっているパターンに決まってる。案の定、オーナーのお気に入りで、もう手を付けられているだなんて下世話な醜聞も同時に耳に入ってきて、ほんと、うんざりしてしまう。

 そう、うんざりよ。さっきから後ろの席で煙草を吹きかけてくるあいつも、その鬱陶しい金色のピアスを引きちぎって青いお空に投げたらどこまで飛んでいくでしょうね? 晴れて澄み切った青空にきらきら光って少しは綺麗かしら。あ、でもきっとその時はちぎれた耳たぶも一緒なんだわ、折角のすがすがしさも興ざめじゃないの、いまいましい。このワンピース、お気に入りなのにお前のしみったれた煙草の匂いが染みついたらどうしてくれるのよ。これだから、こんなバーなんかに来るんじゃなかった。お酒もろくに飲めないくせに、さっきのボーイにもらったカクテル、あれはいったい何が入っていたの? 随分頭がくらくらする。一口飲んだだけだというのに。それにしたって変な味がしたような。トマトジュースにどぎついアルコールを足したような味。第一私、トマトジュースは嫌いなのよね。あのボーイときたらなんにもわかってないじゃない。だんだん苛々してきた。

 お酒ばっかりでお腹がすいたし、おつまみだけでは物足りないし、何か固形物を入れたくなって、むかついた勢いのままバーを飛び出したら寿司屋だった。あれ、バーに入ってきたときは寿司屋なんて通らなかったのに。でも、いらっしゃいませ、って快活に笑いながらおしぼりと番号札を手渡されてしまったから、もう断れる雰囲気ではなくなってしまった。あちらのぉ奥のテーブルになりますぅぅ、ドリンクはセルフサービスとなっておりますのでぇ、何かございましたら呼び鈴でお知らせくださぁい。語尾にハートマークが飛び散っていそうな、妙に甘ったるい鼻声のおねえさんに矢継ぎ早に説明を受けながら端っこの席を示された。地味に小学生時代のいじめっ子の声に似ていて、勝手にダメージを受ける。給食の牛乳を配ろうとしたらあの子、パックを開けてそのまま振りかぶってピッチャー、第一球を、ああ、トラウマが。あの子のせいで一か月くらいあだ名が牛乳雑巾になったことは許さない、絶対に。まさかあの子じゃないわよね、このおねえさん? 若干びくびくしながら振り向いてみたがもうどこかに消えてしまっていた。気を取り直して番号札の数字の席へ。各々席は縦に繋がって並んでいて、レーンの上でお寿司の皿がくるくる回りながら流れてくる。回転寿司ってそういう意味だったっけ。レーンの上を動いて店内を寿司が巡る時点で回転の意味は成立しているというのに、それでは飽き足りなかったのだろうか。出来ればおとなしく常識の範囲内で我慢しておいてほしかった。皿を取りづらいことこの上ない。

レーンの側面はイルミネーションのようにピコピコと、ずらりと並んだ小さな豆電球が光っているし、耳をすませばエレクトリカルパレードが頭上のスピーカーから降ってくる。世界で一番有名な乾いた笑い声のネズミが殴りこみにきても知らないわよ。あそこの権利関係に対する異常な執着心は目を見張るものがあるというし。正直そういった話を聞くたびに夢もへったくれもないというか。そういえば幼稚園児の頃、父が有休を使って連れて行ってくれた夢の国で、ネズミ氏の彼女に抱っこされた私はなぜかえもいわれぬ恐怖に襲われてギャン泣きしたらしい。おそらく幼いながらにあの真っ黒な目にこの世の深淵を垣間見たのだろう、と後に父は語った。その話を聞かされた中二の私より中二だった。こいつ何様気取りなんだろうと思ったことは当時は口に出せなかったが、今なら言える。馬鹿か我が親父殿。

寿司のレーンの上には別のレーンが乗っかっていて、時々おもちゃのトラックみたいなやつが厨房と客席の間を往復して、お味噌汁やうどんを運んでいた。しゃーこしゃーこと音を立てて結構なスピードを出すもんだから、時々勢い余ってこぼれた出汁が客の顔面を直撃している有様である。うわぁ熱そう。というかお椀に蓋ぐらいすればいいのに。ここの経営者もしや頭が悪いんだろうか。普通に苦情が来そうなものだけど。

 とりあえず何か口にしたい。テーブルに備え付けのタッチパネルで本日のおすすめ、というやつを押してみる。「アキレス腱の塩漬け軍艦」「人差し指のサラダ巻」「〆舌のにぎり」……これはいったいどういうことだろう。えっ人間? 人間なの? いやまさかそんな。でもこのパネルに出てる写真を見る限りえらくリアルな人間の指である。若干爪の形が悪いな。見本写真に選ぶんならもっと手タレみたいに綺麗な手を使えばいいのに。微妙に節くれだっていておっさんっぽいし、誰がこんなもの食べるんだろう。そういうマニアがいないとも限らないけれども。しかしこの流れだと「おつまみにどうぞ!」のコーナーにある軟骨のから揚げも怪しい。鶏だろうとおっさんだろうと軟骨であることは変わりないから食品偽装で訴えることも出来ないではないか。こんなの詐欺だ。

 とはいえ、から揚げイコール鶏、に限らず、そもそも食肉というものへの思い込みからして間違っているのかもしれない。食肉とは人間が食用にする肉、であって別にそれが人間の肉であってはいけないこともなかろう。偶然、人間にとって一般的に食べられる肉が牛だの豚だの鶏だのであるというだけで。人は人間が食物連鎖の頂点に立っているだなんて結局は人間様の傲慢に過ぎないと言われてしまえばそこまでの話である。動物はあなたのごはんじゃない? いいや、動物はごはんだ。動物性たんぱく質は生きていくうえで必要だ。そして何より、お肉は美味しい。牛なんて見てみろ、余すところなく全身美味しくいただかれているじゃないか。お肉を食べると元気になる。ライオンだって虎だってチーターだってそうやって本能で知っているから狩りをする、強者が弱者を駆逐する! こんなのは小学生だって織り込み済みの常識だろう。ただ、その『動物』の後ろにさらっと『(※ただし人間は除く)』をくっつけて、澄ました顔で動物の命がうんたらかんたら言うやつらには反吐が出る。動物はごはんだ。生命というのは皆等しく何かの糧になる運命なのだ。それは人間だってきっとおんなじ。人間だって誰かのごはんなのだ!

 なーんて、頭では高尚ぶった理屈を垂れ流せたところで、いざ目の前に人間がまな板の上に載せられ捌かれたものをぽんと置かれたら、生理的嫌悪感の方が先に来るっていうのは仕方のないことではないだろうか。そうこうしているうちにレーンの上には人で溢れかえっている。天ぷらにされた女性のものと思しき小ぶりな手が皿に盛られてくるくると近づいてくる。指先のあたり、衣がはがれてけばけばしいネイルアートが丸見え。ラインストーン、それ一体いくつ付けてるのよ。もはやネイルラッカーの色がわからないくらいじゃないの。いかにもギャルの爪っぽい。いつだったかワイドショーの成人式特集で、山姥の如く黒く日焼けしたどう考えても一世代以上前のギャルが、似非花魁風みたいなだらしない着こなしでこんな爪をしていた気がする。でもあれはもっと酷かったかしら。確か小さいフィギュアみたいなものまでごてごてと貼っつけていたもの。あれだと異物混入どころの騒ぎじゃないわ。そこまでいかないにしたって、せめてリムーバーで落としてから揚げなさいよ、クレームでもつけてやろうかな。でもシンナーくさい天ぷらも嫌かしら。どっちもどっち。

 しかし本当に空腹が深刻になってきた。背に腹は変えられないと、適当に流れてきた皿をとってみると、目玉とオクラの和え物が軍艦巻きの上に乗っている。視神経とオクラのねばねばが絡み合って、これこそ視覚の暴力ではなかろうか。すごく気持ち悪い。しかも無駄にオクラの緑と瞳のエメラルドグリーンが調和しているのが腹立たしい。これ素材外人さんなの? どっから調達してきたの?

 流石にこれは無理だと皿をレーンの上に戻そうとすると、入店時におしぼりを渡してきたあの店員が私の腕を掴んだ。仮面のように張り付いた快活な笑顔がいっそ怖いですよおねえさん。後、そんな細腕なのにすごく握力強いのね。そろそろ骨が折れるんじゃないかしら。再び小学校時代のトラウマが再発しかけて思わず眉間に皺が寄る。やだなあぁ先生いじめなんかじゃないですよぉぉ、ほぉらあこぉんなに仲良しですってえほらほらあぁ、その薄っぺらすぎる仲良しアピールはいいから繋いだ手をさっさと解放しろ指が折れる骨が軋む音がするからさあ放せ今すぐにだ。しかし何故教師も気づかない。世の中いつだって理不尽である。ああ無情。

 お客様、一度レーンからお取りになったお皿を戻すのはルール違反でございます。酷く冷たい声をしている。さっきまでのゲロ甘ヴォイスはどこへやら、である。掴んだ腕をそのままぐいと引っ張って、厨房の方へずるずると連れていかれる。厨房へ繋がるドアの向こうが俄かに騒がしくなったんだけど、なんでしょうね、例えるならば大きな魚が網にかかった時の漁船の上みたいな? これはどうやら、もしかして。美味しくいただかれちゃうんだろうか。気づけば先程まで能天気にエレクトリカルパレードを垂れ流していたスピーカーはしめやかにドナドナに切り替わっている。まさしく今の私は捌かれるのを待つ仔牛と同じわけね。そうとも、私だってこうやってごはんになるのね。今なら胃の中に何もないから捌いても嫌な匂いもしないし、丁度いいタイミングじゃない。明日のパンケーキが心残りだけど。でもまあ、あの友人たちのことだから、私一人いなくたって誰も心配なんてしないでしょう。彼氏が最近全然優しくないし浮気してるかもだとか、誕生日にくれたブランドバックが好みじゃなかっただとか、旦那の前戯がへたくそで気分がノらないのだとか、おしゃべりしたってそんなことしか聞かされないし、彼氏も旦那もいない私はどうせ女子会に行ったって黙って頷いてるだけだものね。ほんともー最悪ー、なんて言いながら私を前に愚痴る彼女たちの目にはどろり濁った優越感。そんなの聞かされる私の方が最悪だってのに。

 あああ嫌だ嫌だ、もういっそ早く終わらせてほしいわ。最期くらい派手に内臓飛び散らせて逝っちゃいたいものね! 飛び散った臓物はかき集めて、ぐつぐつ煮込んでスープに仕立てて、肉はステーキにしてフライパンの上でこんがり焼き色つけてくださいな。血沸き肉躍る体験なんてこの二十数年余りの人生、一度だってないのよ私。ここまで物理的な意味で叶うとは予想していなかったけれどまあいいや。

 0.1秒ですべてを諦めておとなしく連行されていると、私の目の前を、高速で何かが通り過ぎた。一直線、私の手を引くおねえさんの後頭部にそれは深々と突き刺さって、って。

 ……スティール・ティップ・ダーツ?

 それは銀色に輝くダート。ソフトダーツに比べて先の鋭利なそれは見事おねえさんの急所に突き刺さったのか、あれほど強く私の腕を掴んでいた手はゆっくりと力が抜け、ほどけた。掴まれていたところはくっきりと手形が痣になって残っている。なんという馬鹿力。いや、これぐらいでないとネタを調達するのには務まらないのかも。なんて馬鹿なことを考えている場合ではない。ばたりと倒れたおねえさんは揺さぶっても声をかけても反応しない。まじまじと顔を見てみれば、何のことはない、いじめっ子のあの子とは似ても似つかない別人だった。散々人の黒歴史を掘り起こしてくれた腹いせに、額にマジックで落書きでもしてやりたくなったけど、手元に水性ペンしかなかったから断念する。ああいうのは油性だからこそ効果を発揮するのだ。残念。

 放っておけばいいんですよ。そのうち他の従業員が片付けに来ますから。声のした方を振り向けば、先程バーでガーナを穴ぼこにしていたあのボーイが立っていた。胸ポケットには、2本のダーツ。おねえさんの頭から若干乱暴にダートを引き抜いて、胸ポケットのダーツは3本になった。寿司屋の入口の方をうかがえば、あのバーはなくなっていて、コンクリート打ちっぱなしの壁があるだけだった。日の差し込まない裏路地の道に、扉の先は繋がっているようだ。

 それにしたって。さっきといい今といい、まるで王子様のようじゃない? 私の窮地に颯爽と現れて、器用な指先から放たれるダートで私を救ってくれた。運命的過ぎる出会いじゃないか。ようやくあのかしましい友人たちを見返せるときが来たのでは。あの子たちの彼氏や旦那なんかより、この人の方がよっぽどかっこいいわ。

ねえ、どうして、ここに……? そう聞く私の震えた声は、普段なら毛嫌いする女の媚びた声になっていた。我ながら気持ち悪いことこの上ないが自然にするりとこの声色が出てしまったものはしょうがない。なんだろう、雌の本能で刷り込まれてるのかしら。男を落とす時の声は甘く高い、吐き気のするそれになるように? いいや、ばかげている。

 お客様、すっと伝票を取り出しながらボーイは言う。

 お会計がお済になっていません。

 そう言われて初めて、あのバーでお金を払わずにふらふらと寿司屋に入ってしまっていたことを思い出して、酷く顔に熱が上っていくのを感じる。これは恥ずかしい。危うく無銭飲食するところだったのか。そうでもなければわざわざ私のことなんか追いかけてこないって、少し考えればわかったはずなのに。浮かれて舞い上がって、とんだピエロだ。

 飲んだのは、最初に頼んだワイン一杯と、後はあの時ボーイに手渡されたあの変な味のカクテル。……あれは結局、いったい何だったのかしら。焦って財布を出しながらボーイに尋ねてみると、少し気まずそうに目を逸らして彼は言った。


――ブラッディメアリでございます。

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