幻肢痛の人
木尾
幻肢痛の人
「ハァ、死にたい……」
無意識に考えている事が口から出ていた。しかしなにも本当に死にたいわけじゃない、日本人によくあるやつだ。ちょっと良くない事があるとすぐに「死にたい死にたい」って言う、国民の口癖みたいなものだ。
しかしこんな事をこの赤道直下の国まできて言うとは思っても見なかった。まあ、完全に僕の不注意のせいなのだが。それにしても状況が悪い、ぼやきたくもなる。
それはそろそろ日本へ帰ろうかという時の出来事だった。残りの旅費のほとんどが入った鞄を盗まれたのだ。
幸い、鞄と分けて隠し持っていたパスポートと僅かな現金は盗まれずに済んだが、日本に帰るには心もとない金額だ。残念ながら、この国に頼れる知り合いもいない。
僕はいわゆるバックパッカーというやつで、日本でアルバイトをして旅費を溜めては興味本位で諸外国を旅していた。主に物価が安い東南アジアが中心だ。今回の旅も、東南アジアのある国だった。
だんだん旅慣れてきていたこともあって、油断していたのかもしれない。だからこそ余計に自分の甘さが身にしみて、精神的なダメージも大きかった。完全に油断していた。
首都からはほど遠い町のバス乗り場で、僕は途方に暮れていた。長かった日も、もう暮れようとしている。
治安が悪い国ではなかったが、こんなところで外国人が野宿なんてしようものならさすがにそれは自殺行為だ。繰り返しになるが、僕は本当に死にたいわけじゃない。一晩の宿代と首都までのバス代くらいなら残っているし、とりあえず宿を探そうと歩き出した。
幸いな事に、町に入ると宿らしき店はすぐに見つかった。身振り手振りで一泊したい事を伝えると、店主は快く応じてくれた。
これも過ぎてしまえば旅の笑い話になるだろう、明日首都まで戻ってしまえばなんとかなるだろうと気楽に考える事にして、せっかくなので宿の付近を少し散策に出てみる事にした。観光客が夜間に見知らぬ土地をうろつくのは危険だと聞いていたので、気晴らしに宿の付近を少しだけのつもりだった。
付近の商店を軽く冷やかした後、屋台でぬるいビールと聞いた事の無い名前の麺類を食べていると、年老いた浮浪者が話かけてきた。この手の連中には関わらない方が良いとわかっていたし、恵んでやる物も何も無かったので最初は追い返そうとした。
しかし、金銭をせびる様子も無かったので少し様子を見てみると、僕はすぐにこの浮浪者に興味津々になった。
よく聞けばなんとその浮浪者が喋っていたのは片言の日本語だったのだ。
心細い中で不意に出会った母国の言葉にほのかな安心感を覚え、その浮浪者の話し相手になってみることにした。
浮浪者は僕が日本人だと確認すると、片言で身の上話を始めた。戦争のこと、日本兵の捕虜になり日本語を学んだこと、その時知り合った日本兵と戦後この国でビジネスを立ち上げようとしたが失敗したこと。浮浪者は懐かしそうにしながら様々な面白い話を聞かせてくれた。
僕はすっかりその浮浪者に気を許してしまい、今度は自分の身の上話を始めた。日本で大学を出たけど就職が上手く行かなかったこと、アルバイトで金を貯めては現実逃避気味に海外を旅していること、そしてさっき旅費が入った鞄を盗まれて困っていること。
かなり愚痴が多い話になってしまったが、浮浪者は僕の話をとても興味深そうに聞いてくれた。屋台の店主は嫌そうな顔をしていたが、僕がなけなしの金で浮浪者にビールを一杯ふるまうと何も言ってこなかった。
思わぬ長話をしてしまったことに気がつき、そろそろ宿へ帰ると言うと、浮浪者は最後にこう言った。
「おかね、なんとかしてくれる人教える。明日の朝、またきなさい」と。
金をなんとかしてくれる人を紹介してくれると言うのだ。さすがの僕もいくらなんでも怪しい気がして、一晩考えてみるよと伝えると浮浪者はにっこりと笑って頷いた。
宿へ帰りシャワーも浴びずに横になると、さっきの出来事が脳裏に蘇ってきた。さすがに怪しいが、何かあったとしても取られるものはもう何も無いのだ。行くだけ行って、ヤバければ逃げれば良い。それに万が一本当にお金がなんとかなるのならそれに越したことはない。そんなことを考えながら、僕は眠りについた。
翌朝、宿を出ると昨晩の浮浪者がにっこりと笑みを浮かべながら待っていた。明るいところで見るとその浮浪者はとても人が良さそうな顔をしていることがわかった。だが、一度怪しいと思ってしまうとその笑顔がただの親切心の現れだとは思えなかった。
しかし結局、僕はその浮浪者について行くことにした。正直なところ、不安よりも何が起こるのだろうというワクワクした気持ちの方が大きかったのだ。何が起こっても良い武勇伝になるだろう。ヤバくなれば逃げれば良いのだ。
僕から質問するまでもなく、浮浪者は歩きながら片言で説明を始めた。
「これからアサマカのところ行く、アサマカはシーを買いとってくれる。もちろん、嫌なら売らなくて良い」
アサマカとはなんだろうか、人の名前だろうか。シーとはなんだろうか。氏、紙、死。日本語の【し】に当てはまる言葉をいくつか連想するもどれもしっくりこない。まさか詩だろうか。
「アサマカってのは何ですか? あとシーってのは?」浮浪者に質問する。
「アサマカはふしぎな人、ずっとなにも食べないで生きてる。わたしは、アサマカに困った人連れてくるよう、言われてる」
浮浪者の説明は片言だったせいもあり今ひとつわかりにくかった。ずっと何も食べないで生きている人間だって? 何か、呪術師のようなものだろうか。考えていると浮浪者は続けてシーについての説明を始めた。
「シーはシー、わたしもよくはわからない。じっさい何をすればいいか、アサマカが教えてくれる」
何をすれば、ということは、何かモノを売るというよりは労働などの対価でお金をくれると言うことだろうか。だとすれば、いったい何をやらされるのだろうか。しかし、だとすれば買い取るという表現をわざわざ使うだろうか。
考えても仕方がないと思い、その後は浮浪者の後ろを黙ってついて行った。浮浪者は相変わらずのにっこり顔で、時折振り返りながら僕を先導した。
炎天下の中を数十分ほど歩いた頃だろうか、浮浪者は町外れのあばら屋の前で立ち止まった。
「ここ、アサマカがいる。怖いか? 心配いらない」
浮浪者は僕の不安を見抜いたかのように言い、あばら屋の扉を開けて僕を中へとうながした。
「おじゃまします……」
うながされるがまま中へと入ると浮浪者は外からゆっくりと扉を閉めた。やはり騙されたのだろうかと背筋に緊張が走る。
あばら屋は窓も照明もなく、壁の隙間から差し込む光だけが室内を照らしていた。酷く蒸し暑い。六畳ほどの狭い室内には家具のような物は何も無く、ただ奥の壁際に、件の【アサマカ】と思わしき人物が座っているだけであった。
どうしたら良いのかわからず戸惑っていると、アサマカと思わしき人物はガリガリに痩せた手で僕に座るよう指示した。その腕は木の枝に人の皮を貼付けただけに見える程細く、動かす度にきしむ音が聞こえたような気さえした。
座ってよく見れば、アサマカは腕だけでなく全身がミイラのように痩せこけていた。その干涸びかけている体からは生気が感じられず、さらに膝から下が無かった。顔を見ると、濁ったガラス玉のような瞳からはなんの感情も読み取れない。僕はまるで死体を前にしたかのようにゾッとした。
僕はすっかり怖じ気づき、逃げ出す事を考えていると、アサマカの枯葉のような口がわずかに開いた。
「シを売ってくれるのか」
驚いた事に、アサマカの口から発せられた言葉も日本語であった。
「シを売ってくれるのか」
アサマカが繰り返す。その低くかすれきった声は、まるで質の悪いスピーカーの音声を思わせるようで、それでいて頭の中に直接響いてくるような生々しさも併せ持っていた。
「ぼ、僕は日本に帰る金がなくて、あいつにここにきたら助けてもらえるって聞いて……」日本語が通じる事に一抹の安堵感を覚え、僕はこのミイラのような男と会話を試みた。
「シを売ってくれ、カネは払おう」アサマカはそう言うと枯れ枝のような腕で懐から札束を取り出して僕に見せ、再び懐に戻した。日本に帰るには十分すぎる金額だ。
「どっ、どうすれば良いんだ?」僕が問うと、アサマカはその不気味な声で説明を始めた。
「これにお前のカミを三本、チを少し、セイエキを少し入れてもってこい、それでシを貰う。このカネはやる」そういうとアサマカはフィルムケースほどの小ビンを僕の足もとへ転がしてきた。
髪と血と精液、まるで呪術だ。やはりこのアサマカという人物は呪術師なのだろうか。不気味ではあるが、それだけであの金を貰えるのなら安い物だ。それで何をするつもりなのかわからないが、どうせ二度と会わないし僕には関係ない。僕は小ビンを拾い上げ、アサマカにすぐに戻る事を伝えるとあばら屋を後にした。
外へ出ると、浮浪者がにっこり顔で待っていた。その手にはナイフが握られている。一瞬ゾッとしたが、浮浪者がそのナイフを黙って僕へ差し出すと、すぐにその使い道を理解できた。
受け取ったナイフで軽く指先を突いて、小ビンに少し血を採った。念のため持ち歩いていた絆創膏を貼り、すぐにその場で髪を三本引っこ抜き丸めて小ビンに入れた。問題は精液だ。こんなところで自慰を行うわけにもいかず、どうすべきか考えていると、浮浪者が小ビンを渡すように言ってきた。
まさかこいつの精液を入れてくるわけじゃないだろうなと思いながらも、大人しく小ビンを渡すと、少し歩き出して僕に手招きをした。どうやら僕をどこかへ案内してくれるらしい。
黙って浮浪者について行くと、民家のような建物へと連れてこられた。ここはどこかと尋ねると、浮浪者は黙ってにっこり顔で振り向くばかりだった。
浮浪者はノックもせずに中へ入り、僕もその後に従った。中は散らかり放題で、内装は廃屋同然だった。住んでいる人はいるのだろうか。まさか、この浮浪者の住処だろうか。
そのような事を考えながらついて行くと、ある一室へと案内された。その部屋は散らかり放題の他の部屋とは異なって、中央に置いてある椅子の他は何もない殺風景な部屋だった。
「ちょっと、まってなさい」
浮浪者はそう言うと僕を残してどこかへ行ってしまった。これから何が起こるのだろうという不安もあったが、精液を採取する為の何かを手配してくれるのだろうという期待の方が大きく、逃げ出そうとは考えなかった。
椅子に腰掛けて数分待っていると、廊下から足音が聞こえてきた。あの浮浪者の引きずるような歩きではない、コツコツと響く足音だ。
やがて足跡が扉の前で止まり、ドアノブがゆっくりと回りだした。不安と期待で脈が早まり、自分の心音が聞こえてくるようだった。そして扉が開き、足音の主が入ってきた。
足音の主は若い女だった。地元の人間だろうか、独特のエキゾチックでハッキリとした顔立ちの美人で、身長は高く、シャツの隙間から見えるウエストは色っぽくくびれていた。そしてなにより、シャツの上からでもハッキリと形がわかるほどの豊満なバストに僕は目を奪われた。
僕が見とれていると、女は微笑みながら僕の前にしゃがみ、何も言わぬまま僕のベルトを外し始めた。逃げなくて正解だった。僕はもどかしくなり自分からジーンズおろしてペニスを露出させた。
すでに勃起している僕のペニスを見て女はにっこりと微笑むと、現地の言葉で何かを呟きながらやさしく撫で回した後で、ペニスの先端を口に含んだ。
女の舌技は素晴らしく、僕は二分と保たずに達してしまった。大量の精液を女の口へ放つと、女はゆっくりとペニスから口を離した。
そして女はポケットからあの小ビンを取り出すと、僕の精液を口から直接小ビンの中へと移した。
女は小ビンのフタを閉めて僕に渡すと、最後ににっこりと微笑んで去って行った。僕は快楽のあまりしばらく動く事ができなかった。
十分後、ようやく我にかえり、ペニスを拭ってからジーンズを履き直した。アサマカに言われた物は全て揃った。これで本当にあの金がもらえるなら最高だ。
民家の廃屋を出ると浮浪者がにっこり顔で待っていた。
浮浪者はアサマカのあばら屋へ僕を連れて行きながら「どうでしたか」などとニヤニヤ笑いながら聞いてきた。なんだか気味が悪いがこいつのおかげで良い思いをしたのは確かだし、あの金が貰えるならと思い、黙って小銭をくれてやった。
アサマカのあばら屋へたどりつき、今度は自分で戸を開けて中へ入った。中の様子は変わらず、何も無い部屋の中にミイラのような男が座っている。黙って小ビンを差し出すと、アサマカは懐から札束を取り出した。受け取り、代わりに小ビンを持たせる。
アサマカはそれっきり、まるで電池が切れたかのように動かなくなった。小ビンを受け取ったままの姿勢で固まっている。僕はなんだか怖くなり、札束をポケットにねじ込んであばら屋を飛び出した。外はまだ明るく、太陽が地面を強烈に照り焦がしていた。浮浪者の姿は、すでにどこにも見当たらなかった。
三時間後、僕は首都行きのバスにゆられながら昨日今日の出来事を反芻していた。鞄を盗まれた事、浮浪者の事、アサマカのこと、女の事。
そういえばシーとは結局なんだったのであろうか。浮浪者はシーと言っていたがアサマカはシと言っていた、やはり呪術的な物だろうか。日本に帰ったら調べてみるとしよう。
それにしても、あの女は何だったのだろうか。売春婦だろうか。バックパッカーをやるなかで現地の女とセックスすることは数度あったが、あのようなフェラチオは初めてだった。売春婦だったのであれば、アサマカから貰った金で一晩買っても良かったな。そのような事を考えているうちに僕は眠りに落ちていた。
目を覚ますとバスは終点の首都目前で、空はすっかり暗くなっていた。他人の目に注意しながらアサマカから貰った札束を確認すると、帰りの飛行機代を差し引いても十分に余るほどの金額だった。
その日は首都で一番良い宿を取り、調子に乗って高級な売春婦を手配したが、やはりあの女のフェラチオの快楽には到底及ばなかった。
翌日、朝一で空港に向かうとあっさりと帰りのチケットを手配でき、その日のうちに日本へ帰る事ができた。
それから数日は日本の友人に会うなどして過ごした。今回の旅は特大の土産話のネタがあったので非常に楽しかった。不思議な体験だったが、過ぎてしまえば笑い話だ。
僕の奇妙な体験を皆ゲラゲラ笑って聞いたが、皆に話している中で結局シーとは何だったのかがわからずじまいになっていた事に気がついた。
その後インターネットを用いて検索してみたが、正しいスペルもわからず、情報も少なすぎるため残念ながらそれらしい答えは見つからなかった。アフリカに精液を用いて対象を不幸にする呪術が存在する事がわかったが、どうもあまり関係なさそうであった。
帰国してから一週間程が経った夜、僕は高熱にうなされて目が覚めた。節々が酷く痛み、体を動かすのも辛い。
ふと手を見れば、びっしりと斑点状に赤黒い腫れ物ができているではないか。痛みの正体はその腫れ物のようだった。痛みをこらえながら上体を起こすと、手だけではなく全身にその腫れ物ができている事がわかった。
すぐに救急車を呼び、到着までの間、朦朧とする頭で何が原因か考えた。まさか例の呪術か? そんな馬鹿な。もともとオカルトに興味はあっても信じているわけではなかった。だからこそあんな怪しい取引に応じたのだ。
やはり旅先で何か感染症を貰ってきたのだろうか、それとも日本に帰ってからだろうか。熱が酷く、体も痛い。死にそうだ。
再びおとなしく横になっていると、すぐにサイレンの音が聞こえてきた。救急車がきたのだ。僕をみた救急隊員は酷くゾッとした様子だった。程なくして、僕は病院へと運ばれて行った。
病院へつき、朦朧とした意識を奮い立たせ医者に症状と経緯を話すと、僕はすぐに隔離されてしまった。詳しい事はわからなかったが、やはり感染症の疑いがあったのだろう。
血液検査の結果、やはり僕は何らかの感染症だった。しかし、どういうわけか原因となった微生物が特定できないらしい。未知の微生物の可能性もあるそうだ。
解熱剤と抗生物質を打たれたが効果はあまり無く、その日は熱と痛みで眠れずに朝を迎えた。
当然僕は入院する事になり、それからは隔離された病室での生活となった。医者達は防護服を着て僕を見るようになった。彼らの話だと、ほぼ間違いなく旅の中で感染したようだ。それが長い潜伏期間の後発病したらしい。
病は急速に僕の体を蝕んで行った。腫れ物は増え、熱も下がらず、節々の痛みも増した。満足に寝る事すら叶わない。食事も喉を通らないため、栄養摂取はもっぱら点滴で賄っていた。
病床で僕は何度も何度も旅の事を思い返していた。原因はなんだ。まさかあの女が原因だろうか、いや、だとしてもあの女の皮膚に異常は無かったはずだ。もしや地元の人間だけ抗体でも持っているのだろうか。そんな映画のような話が実際にあるのだろうか。
……いや、わかった。おそらくあれに違いない。あれだけ怪しい体験をしたはずなのに、女と金にばかり気をとられていた。もっと怪しい出来事があったじゃないか。
おそらく、あの時血を採る為に指を突いたナイフだ。あのナイフに何か塗ってあったに違いない。怒りと悔しさで目から涙があふれた。
しかし、今さら感染源がわかったところで僕にはどうする事もできなかった。もう痛みで体が思うように動かせない。今からまたあの国へ行ってあの浮浪者とミイラ男を殴ってやる事もできない。それどころか、病はすでに僕の声帯までも蝕んでいた。そう、声が思うように出せないのだ。
せっかく感染の原因と思われる出来事を思い出しても、僕はそれを医者に伝える事すらできなかった。僕は喉から声にならぬ音を漏らしながら泣いた。涙が顔の腫れ物にしみて痛んだ。
医者を含め、病院の人たちはとても良くしてくれたが、僕は辛くて仕方なかった。今度は本当に「死にたい」とさえ思ったが、舌を噛み切ることすらままならなかった。
家族はどうしているだろうか。帰国して会った友人には感染していないだろうか。どちらにせよ、おそらくこのまま僕は誰とも面会は不可能だろう。なにせ未知の感染症の疑いがあるのだ。
感染症の正体は未だに判明していなかった。おそらく未知のものだという話だ。僕はそのような話を聞いても、ただうなずく事しかできなかった。
ある日、右足の違和感に気がついた。痛みはあるが、妙に軽いのだ。痛みをこらえて上体を僅かに起こして自分の足を見た僕は声にならない悲鳴をあげた。
足首から先が繋がっていなかったのだ。間接付近の肉が腐っていた。
その事に気がついた瞬間、足に激しい痛みを感じた。いつからこうなった、なぜこうなるまで気がつかなかったのだろうか。腕を伸ばし、ナースコールを押す。
駆けつけた看護師と医者は僕の足を見て驚愕しているのが防護服の上からでもわかった。彼らはすぐに患部に何らかの処置を施していたが、数日してそれは無駄になった。それは決して彼らの怠慢などではなかった。病が、さらに急激に進行したのだった。
恐ろしい事に、その日から僕の四肢の関節が次々と腐って行った。右足首の次は左足首、右ひざ、左手、右手、右ひじ。僕は体の末端から少しずつ、少しずつ失っていった。
この部屋に鏡が無くて本当に良かったと思う。もしも鏡をみたら僕はすぐに正気ではいられなくなったはずだ。薄々そんな気はしていたが、この病はもう治ることは無いだろう。
多量の痛み止めを投与され、激痛は楽になったが四肢には鈍い痛みが残った。失ったはずの四肢にだ。幻肢痛というのを聞いた事がある。事故などで手足を失った人が、失ったはずの手足が存在しているかのように痛む事があるという。僕も同様だった。
それからも失った手足は、何も変わっていないかのように痛み続けた。さらなる激痛が走るわけでもなく、痛みを感じなくなるわけでもなく、腫れ物が与えていたのと同じ痛みを僕に与え続けた。それはとても奇妙な感覚だったが、おかげで四肢が無くなっている事を強く意識せずにすんだ。
意識はハッキリしているもののすでに僕は植物人間に近い状態で、ただ痛みだけを感じていた。どうせ助からないのだ。いっそのこと、この病がさっさと進行して僕を殺してくれないかと願っていた。
この恐ろしい症状が胴体まで進行するのはそう遠くの出来事では無かった。僕が完全に四肢を失って数日、胴体も徐々に腐臭を放ちながら腐っていった。まだ生きているのが不思議なくらいだ。
そしてある日、ついに僕は自分の心臓が止まったのを感じた。病室に心停止を告げるブザーが鳴り響く。ああ、僕はようやく死んだのだなと思った。だがすぐにおかしな事に気がついた。僕は自分の心臓が停止したブザーを、自分の死を知らせる音を今しっかりと聞いているのだ。全身の鈍い痛みも相変わらず感じる。失った四肢の幻肢痛もだ。
……そしてようやく全てを理解した。僕はあの時、大金と引き換えにアサマカに【シ】を売ってしまったのだ。僕が売ってしまった【シ】は間違いなく、【死】だったに違いない。
病室に防護服の医師達が駆け込んでくる。僕を囲んで、電気ショックで蘇生を試みている。心臓に電気ショックを受ける度に、鋭い衝撃を感じる。しかし心臓は再び動き出す事はなかった。
四肢が無い上にところどころ腐っているのだ。誰がどう見ても僕は死体だ。いくら僕に意識があっても、それを伝える事はもうできなかった。
防護服の医師達は僕をどこかへ運ぶ準備をしている。死体袋というやつだろうか。僕は持ち上げられ、その寝袋状の袋に寝かされた。そしてそのまま袋のジッパーを閉じられてしまった。
はたして僕は今、自分の目でこの光景を見ていたのだろうか、目が閉じているのか開いているのかすらわからなかった。肉体はもう死んでいるとすれば、目も機能しなくなるのではないのだろうか。脳も機能を停止してしまうのではないか。だとすれば、僕は今、どこでものを考えているのだ。考えれば考える程気が狂いそうだった。叫びたかったがもちろん声も出ない。体はぴくりとも動かない。腐った体はただ、痛みだけを僕に与え続けた。
僕を入れたまま袋はどこかへ運ばれて行く。ガラガラとしたキャスターの音が響き、振動が背中越しに伝わってくる。
今後途方も無い時間をかけて肉体が朽ちて行くのを、この痛みを感じながら見届けると思うと僕はゾッとした。それにはどれくらいの時間がかかるのだろうか。そしてもしも肉体が完全に朽ちたら、今ものを考えている僕の精神はどうなってしまうのだろうか。
やがて僕を乗せた台が止まった。袋は閉じられていたため周りの様子はわからなかったが、酷く寒く感じた。やがてこの寒さは、僕の体温が失われていっているためだと気がついた。
何も見えず、寒く、痛みだけを感じる。そんな時間が長い事続いた。眠る事は叶わず、不安に押しつぶされそうだった。
死なせてくれ。意識を消してくれ。それだけを考えていた。アサマカはなぜ僕にこのような呪いをかけたのだろうか。死を奪ってどうしようというのだ。いくら考えても答えは出なかった。
どれくらい経った頃だろうか、再び袋が開かれた。防護服の男達がいる。ここは、映画で見た死体を解剖する部屋のように見える。首も動かせず、おそらく目も閉じられているはずだったが、僕には不思議と周りの様子が見えた。音も聞こえる。奇妙な感覚だった。
僕は硬い台へと乗せられた。死んだはずの体は、台のひんやりとした感触を僕に伝えてくる。
防護服の彼らは、僕をこれから解剖するらしい。なにせ未知の感染症の患者だ。重要なサンプルとなるだろう。
良くない事に、僕の意識は台のひんやりとした感触でより明瞭になってきた。自分の肉体が解剖されるのを見るはめになるとは思わなかった。肉体こそ死んでいるが、僕はこれから意識があるまま解剖されるのだ。
防護服の男達が淡々と準備を進めている。自分が寝ている台の横に並べられた様々な機具を見て、僕は人間が生きたまま解剖されるホラー映画を思い出した。たしか狂った科学者が人体実験と称して生きた人間の脳を交換したりしていた。当時はゲラゲラ笑いながら見ていたが、当然自分が体験するとは思っても見なかった。ましてや僕の体は死体だと思われている。麻酔など使ってくれるはずも無い。痛みを訴えるすべも無い。僕はただ、この体が痛みまで僕に伝えてこない事を祈った。
防護服男がメスを手に取り、僕の首のつけねにあてがった。直後、僕は焼けるような痛みを感じた。まぎれも無く、刃物で体を裂かれた痛みだ。もがこうとするが、当然体はぴくりとも動かなかった。体はただ、痛みだけを僕に伝えてくる。痛みの中で、体液が腐った腹をつたってたれて行くのを感じる。酷く気持ち悪い。
続いて彼らは骨を切断する為のカッターを取り出した。モーターの恐ろしい駆動音が聞こえる。彼らがそれを肋骨にあてがうと、骨を通じて激しい振動と酷い騒音が頭まで響いた。そして少し遅れて、焼けるような激痛がやってきた。もがき苦しみ、口を金魚のようにパクパクと動かしている、そのつもりだったが僕の体は一切動かない。気絶したかったが、やはりそれは叶わなかった。
防護服の男は僕の肋骨をすべて切断し取り外すと、体内に手を突っ込んできた。強烈な異物感を感じる。文字通り内臓をかき回されている感覚だ。男は慎重な手つきで肺を取り出した。肋骨切断の激痛で、もはや肺を外された痛みは感じなかった。僕の肺は本で見るようなピンク色ではなく、グロテスクな暗い赤色をしていた。自分の肺をまざまざと見せつけられるのは相当なショックだった。
次いで、彼らは僕の心臓を取り出した。やはり酷く濁った色をしている。これがいままで僕を活かしていた器官であり、その活動停止と共に僕も死ぬはずだったのだ。それが取り出された今、なぜ死ねないのだ。叫びたかった。そこの防護服の男を問いつめたかった。もちろん声は出なかったが、僕を見ていた防護服の一人が小さな悲鳴をあげた。他の防護服も僕をみて、驚いているのが伝わってくる。
「口が……開いた」
「さっきまで閉じてたよな?」
「表情も、こんなに苦しそうだったか?」
彼らの会話が聞こえてくる。僕の口が開いたというのか、表情が変わった? まだ僕は動くのか? 助けてくれ! 助けてくれ! もうやめてくれ! 僕は必死に声を出そうとしたが、やはり声が出る事はなく、体が動くこともなかった。
彼らは恐る恐る作業を再開した。淡々と状態を口述しながら臓器を取り出して行く。そのどれもが、健康な状態では無い事が素人目にもわかった。恐ろしい激痛にも徐々に慣れてきたが、体内に手を入れられる猛烈な異物感には慣れる事が無かった。
そしていよいよ脳を取り出す時がきた。電動カッターのモーター音が響く、ゆっくりと額に押し付けられる。頭蓋骨が削られる酷い振動と音、なにより激痛が僕を襲った。やめてくれ! やめてくれ! 叫びは声にならなかった。
電動カッターが頭蓋骨を一周し、頭が蓋のように外される。脳がむき出しになっているのが感覚でわかる。酷く気持ち悪い。防護服の男が脳を取り出そうと指を差し込んできた。強烈な異物感を感じる。脳が引っ張られて行く。すでに無いはずの胃から吐き気がこみ上げてくる。
脳はすでに機能していないはずだが、僕のこの意識はどこにあるのだろうか。外されたら意識はどうなるのだろうか。
ずるり、べちゃり、僕の脳が金属のトレーに乗せられる。空っぽになった頭蓋骨が見える。まるで幽体離脱したかのようだ。僕の意識は、脳の方にしがみついていた。だが不思議と、体の感覚はまだある。幻肢痛だ。全身の幻肢痛を感じているのだ。それは酷く痛く、気持ちが悪いものだった。
台の上の自分の体を見ると、額から上が綺麗に無くなっている。そしてその表情は酷く苦痛に歪んでいた。
思えば隔離されてから自分の姿を見ていなかった。四肢はすでになく、体は開かれてしまっている。残された皮膚は、あの憎い腫れ物が覆い尽くしている。
変わり果てた自分の姿を見て、僕は絶叫した。当然声にはならなかったが、悲しみ、怒り、悔しさ全てが入り交じった感情を声にならぬ声で叫んだ。
同時に、金属トレーに乗せられた僕の脳が爆ぜた。
あたりに薄ピンク色の肉片が散らばる。防護服の男達は何が起こったかわからないといった様子だ。それは僕もだ。自分の意識はその脳にあるものだと思っていた。今、僕の精神は何にも宿っていなかった。全身の感覚と、痛みだけはある。
僕はいよいよ、幽霊にでもなってしまったのだろうか。
精神が肉体から完全に放り出されても、感覚は何も変わらなかった。目も見えれば耳も聞こえた。そして全身の幻肢痛も。激しい痛み、不快感を感じる。こんなものは死じゃない、僕は生きている。死なせてくれ。はやく死なせてくれ。死にたいんだ。
僕の精神は解剖室の床に転がっていた。さっきまで入っていた肉体は未だに台の上にある。酷く苦しい。首を絞められたような、息苦しさに近い感覚だ。時間が経つに連れて、体に入っていた時よりも苦しみは増して行った。
防護服の男達は、あのような出来事があったというのに、あっというまに片付けを済ませてしまった。片付けが済んだ後、僕の体もどこかへ持って行かれてしまった。
誰もいなくなった後、精神だけとなった僕は移動を試みた。幻肢痛のみの存在となった手足を必死に動かした。酷く苦しく、床を這うようにしか動く事ができなかった。少し動く度に、床に触れた部分から激痛を感じた。また、ものに触れる事はできても、動かす事はできなかった。
死にたい、消えたい。叶わぬなら、せめて再び肉体に戻りたかった。痛みはあれど、これほどの息苦しさは無かったからだ。
声にならぬうめき声をあげながら床を這い回った。もしかしたら、やはり世間で言う幽霊とは僕のような、死ねなかった精神なのではないだろうか、痛みの中でそのような事を考えていた。
必死に床を這いながらもがいていると、解剖室のドアが開いた。誰かが入ってきたのだ。当然僕の存在には気がつかないようだった。
白衣の男だ。忘れ物だろうか、机から何かを取ってポケットにねじ込み、すぐに出て行こうとする。待ってくれ、置いて行かないでくれ。僕も連れて行ってくれ。そいつに向かって必死に存在しない手を伸ばした。
僕の存在しない指先がそいつの足首に触れると、息苦しさがフッと消えた。僕は無我夢中で白衣男の足にしがみついた。そして引きずられるような形で、解剖室の外へ出る事ができた。
廊下に出ても必死に白衣男の足にしがみついていると、一瞬痛みが消え、突然生ぬるい感覚に包まれた。体温を感じる。脈を感じる。僕はこれまでの事は全部夢で、たった今自宅で目が覚めたところである事を期待した。
しかしそうでは無かった。いつのまにか僕は白衣男の中にいたのだ。白衣男の体温を感じ、白衣男の脈を感じていた。白衣男の目を通してものを見て、白衣男の耳を通してものを聞いていた。一瞬消えた鈍い痛みはすぐに戻ってきたが、白衣男の中に居ると、意識だけ投げ出されていた時よりもいくらか楽だった。
白衣男は病院の屋上へときた。ポケットからタバコを取り出し、口にくわえ火をつけた。白衣男の喉、肺を通して煙の感覚が入ってくる。あいにく僕は生前から喫煙者では無かった。他人に強制的に煙を吸わされたような、初めての感覚にむせ返りそうになる。酷く苦しい。やめろ! やめてくれ! 僕の精神は煙に対して強い拒否反応を起こした。
すると白衣男の体が不自然に動いた。一瞬大きく痙攣したかと思うとタバコを口から落とし、喉を抑えて苦しみだしたのだ。それは完全に僕の動きだった。僕はこの白衣男を操る事ができるのか!
僕は必死に歩こうと、白衣男を歩かせようと試みた。しかし白衣男も抵抗しているのがわかった。体が勝手に動こうとするのに必死に抵抗しているのだ。
「クッガッアアアアアアアアア!」
白衣男が苦しげに叫ぶ。呼吸が荒くなり、脈も早くなって行くのがわかる。僕は強く強く念じた。歩け! 歩け! 歩け!
ついに白衣男が一歩踏み出した。僕は白衣男の体を操るのに成功したのだ。直後肉体の抵抗が激しさを増した。僕にはもうそれ以上白衣男を操る気力は残っていなかった。
急に白衣男に働いていた他人の意思、僕の意思の力が抜ける。僕の力から開放された白衣男は抵抗していた反動で大きくバランスを崩し、転倒した。白衣男は後頭部をしたたかに打ち付ける。激痛。後頭部から生暖かい感触、流血している。
……死んだ?
白衣男は即死していた。打ち所が悪かったのだ。もうこの体には僕の意識しか入っていないのがわかった。死んだ肉体はどれだけもがいても動かなかった。
白衣男が死んだ瞬間、投げ出されていた時と同じ酷い息苦しさと痛みが戻ってきた。苦しい、痛い、死にたい、死なせてくれ! 死なせてくれ! 死なせてくれ!
白衣男への申し訳なさは一切感じなかった。むしろ僕は彼が羨ましかった。なぜ彼はこうも簡単に死ねるんだ。死んだ彼の意識はどこへ行った。一緒に連れて行ってくれたらよかったじゃないか。
白衣男の体から熱が奪われて行く。気持ちが悪い。男の体からはい出しながら僕は決意した。どうせ死ねないのなら、もう一度アサマカの元へ行ってみようと。
途方も無い時間がかかった。気が遠くなる程の痛みと苦しみを味わった。しかし死ぬ事はもちろん、発狂する事すらできなかった。
僕は他人の体を乗り継ぎに乗り継いで、再びあの国を目指した。最初の頃は白衣男と同じような事故で大人を五人、老人を六人、子供を三人程死なせてしまった。罪悪感は微塵も感じなかった。心から彼らを羨ましく思った。
女の肉体に入り、元々自分に無い臓器からの感覚に耐えきれずに暴れて車道に飛び出してしまった事もあった。
また、老人の体は比較的操りやすい事にも気がついた。意思が希薄なのだ。その分体も脆かったが。
とはいえ他人の体を操るのは途方も無い労力を必要とした為、目的地へ行きそうな人間に取り憑いては離れ、取り憑いては離れを繰り返した。
そしてついに、あの国のあの町、あのバス乗り場まで辿り着いた。僕をそこまで運んだのは、皮肉な事に僕と同じ日本人のバックパッカーだった。
ふと背後に人の気配を感じた。僕はなぜか居ても立ってもいられなくなり、バックパッカーの肉体から飛び出して背後の気配に飛びついた。バックパッカーの背後には確かに人がいた。忘れもしない、あの時の、浮浪者だ。
浮浪者の手には、そのバックパッカーの鞄が握られていた。盗んだのだ! 僕は全て理解した。僕のときもそうだったに違いない、自作自演だったのだ! 怒りが込み上げてきた。僕は体を操りこの浮浪者を殺そうと思った。だがその時、浮浪者はにっこりと笑い、まるで独り言のように、ブツブツと、喋りだした。それは明らかに、僕へ向けた言葉であった。
「シーを買いにきたのでしょ? シーが欲しいのでしょ?」
僕は浮浪者を操ろうとするのを止めた。そうだ、ここでこいつを殺しても僕の苦しみは永遠に続く。僕は死にたい。この意識を消して欲しいのだ。
「……アサマカのところに行きましょね」
僕が操るのを止めた事を肯定と受け取ったのだろう。浮浪者は歩き出した。ようやく僕は死ねるのか。泣いた。僕は声にならぬ声をあげて泣いた。ようやく、この苦しみから開放されるのだ。僕の感情に呼応して浮浪者もその場に崩れて泣いてしまった。
あのあばら屋はすぐに見えてきた。辿り着くまでに浮浪者に言われた事は一つだった。
ただ、「アサマカに入って、同じように」と。
アサマカはまだそこに同じように座っていた。アサマカの中に入った僕は、浮浪者の言うところを理解した。アサマカの中は空っぽだった。しかし、肉体は死んでいるわけではない、僕と逆だ、これは精神だけが死んでしまった人間の成れの果てだ。あの時僕が死を売った相手も、今の僕と同じような存在だったのだ。
浮浪者は僕が入ったアサマカの懐にバックパッカーから盗んだ金の約半分をねじ込むと、どこかへ行ってしまった。おそらくは、あのバックパッカーの所だろう。そして翌日、彼を連れてくるはずだ。
アサマカの中で一晩過ごした。彼の中は酷く苦しかった。殆ど水分が無く、その体は下手に動くと簡単に折れてしまいそうだった。しかし翌日には僕は死ねるのだ。ようやく、眠りにつけるのだ。そう思うと痛みも苦しみも、もうそれほど気にならなかった。
そして翌日。あばら屋の扉が開いた。あのバックパッカーだ。死を売ってくれ、死を売ってくれ、死を売ってくれ! 死を売ってくれ!
「シを、売ってくれ」
僕の声は、アサマカのカラカラの声帯から質の悪いスピーカーのような音で発せられた。バックパッカーも、滑稽な程僕と同じように、金を見せると死を売る事を快諾した。
そして僕、アサマカは小ビンを取り出しながら、忘れもしない、あの台詞を繰り出す。
「これにカミを三本、チを少し、セイエキを少し入れてもってこい……」
数時間後、バックパッカーは戻ってきた。きしむ腕をもどかしく動かし、札束を差し出す。早く! 早くそいつをくれ! 死なせてくれ! バックパッカーは僕から札束を奪い、乱暴に小ビンを持たせ立ち去った。
しかし僕の意識はまだ途絶えてはいなかった。これを、これからどうすれば良いのだろう。考えていると、あばら屋の扉が開いた。浮浪者が大きな包みを抱えて入ってくる。
「早く、早く死なせてくれ」
浮浪者に懇願する。浮浪者はにっこりと笑うと、僕から小ビンをひったくって中身を美味そうに飲み干した。そして、僕の目の前でその大きな包みを開いた。中身を見た僕は絶句した。中身は、アサマカとそっくりな、膝から下が無いミイラだった。
浮浪者は僕が入ったアサマカを軽々と抱えて退かすと、新たなアサマカを僕がいたところへ置きなおした。そして再びにっこりと笑って、今度は僕が入ったアサマカを包んだ。
「早く! 早く死なせてくれ!」
僕は続けて懇願した。カラカラの声帯が破れそうだった。浮浪者は僕を包んだまま担いでどこかへ運んでいるらしい。一体どこへ、これから死なせてくれるのだろうか。
やがて僕を包んでいる布越しの光が途切れた。建物に入ったらしい。階段を降りる音が聞こえる。空気がひんやりとしている。おそらく、どこかの地下だ。そして急に包みが解かれた。蝋燭の灯りに照らされた室内を見て、僕は再び絶句した。
アサマカだ、アサマカとそっくりな、膝から下が無いミイラがびっしりと並んでいる。そして口々に叫んでいるのだ!
「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」「早く死なせてくれ!」
浮浪者は僕をその中へ降ろして並べると、にっこりと笑って部屋を出た。
完
幻肢痛の人 木尾 @kioyu
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