深泳

柚緒駆

深泳

 小生しょうせいが生まれたのはいつであろうか。そも生まれるとはどの瞬間を指して言う言葉であろう。一個体として、他の存在と別の物として峻別しゅんべつされた瞬間であろうか。それとも確固たる意思をもった瞬間であろうか。小生にはわからぬ。ただ一つわかっている事は、小生が生まれたのは、熱く焼けた鉄板の上であったという事である。小生は、たい焼きであった。

 たい焼き屋の店主は、不思議な男であった。自らが生み出したたい焼きが意思を持ち、言葉を放ったというのに驚く事もなく、さも当然の様に受け入れた。よもや天地の創造主たる唯一絶対神をでも気取っていたのであろうか。小生にはそれが気に入らなかった。いら立ちはある朝、限界を迎えた。小生は店の主人と口喧嘩をすると、鉄板の上を脱した。店の前には紺碧こんぺきの海原が広がっていた。その青き世界に、小生は逃げ込む様に飛び込んだのだ。

 言うまでもなく、海の底は小生にとって初めての経験である。だが何故であろうか、泳ぐ事が出来た。小生にひれは無い。鰭の形をしたくぼみが焼き付けれているだけである。水中を推進する為の骨も筋肉も持たぬ。不思議であった。だがその不思議さもすぐに忘れた。すこぶる気持ちが良かったからだ。水分を吸収した身体、そして体内の小豆あんは重さを感じさせたが、無限に続くかと思われる広大な世界にのぞはずむ心の前にあっては、そんな重さなど有って無きが如しであった。その時の小生の興奮をどう言い表そう。海底の水流に触手を揺らす桃色の珊瑚さんごが、自分に向かって手を振っている様に見えるほどであったのは間違いない。



 それから幾日かが経った。毎日が新鮮で、楽しい事ばかりであった。しかし、如何いかに楽しいからといって海底を延々と泳ぎ続ける訳にも行かぬ。暮らして行くには定住場所を決めねばなるまい。それはさしずめ小麦と小豆、大地に根を張り、実り、収穫された、自らの出自にしばられた、宿業しゅくごうの様なものであったのやもしれぬ。幸い、近くに難破船が沈んでいたので、ここを仮の住処すみかとした。

 毎日が楽しいからといって、それが安楽である事とイコールではない。この海域にはときどきさめが姿を現した。小生の身体は鮫の餌としては適していない。それは鮫たちも嗅覚でわかっていたはずである。だが何故か鮫たちは小生をいじめるかのごとく追いかけ回した。当然、逃げねばならぬ。鮫の鋭い歯を喰らわされては、この柔らかい身体など一撃で粉砕されるであろうから。けれどそんな逃亡劇のスリルすら快感と感じるほどに、小生は海の生活に耽溺たんできしていた。

 ただ一方この頃から、身体に異変を感じる様になった。腹の辺りに締め付ける様なえぐられる様な感覚があるのだ。空腹感である。不思議であった。小生は生物ではない。食品である。小麦粉を焼いて固めて小豆の餡を包んだだけの、たい焼きである。胃も腸も持たぬ。それが何故空腹を感じるのか。だが事実感じるのだ。あまりの空腹感に目が回る事さえあった。こうなっては何かを食べねばならぬ。しかし一体何を食べれば良いのか。とにかく口に出来そうな物は何でも口に入れてみた。貝、フジツボ、ヒトデ、ナマコ、どれも無理であった。この水を吸った柔らかい口でかじれる物もみ千切れる物も、海の中には何も無かった。そんなとき、岩場である生物が目に入った。エビ。硬い殻に身を包まれた甲殻類である。考えるまでもなく、我が口で齧れようはずなどない。理屈としてはそうである。しかしそのとき、小生はあまりに空腹が過ぎ、とても正常な判断など出来なかった。だから大きく口を開け、そのエビをくわえ込んでしまった。さくり。軽い音を立てて、エビの殻が口の中で砕けた。なんと、エビを食べてしまえたのだ。いや、エビならば食べられたと言う方が正しいのか。とにかくエビを食べる事に成功したのである。不思議であった。しかし不思議がってばかりはいられない。小生はエビを見つけては食べ続けた。空腹が満たされる快感。幸福の絶頂であった。

 そして今日も、小生は日がな一日泳ぎ続け、空腹を感じていた。夕刻、食事場として決めているいつもの岩場にやって来た。さあ、今日はどんなエビを食べてやろうか、と岩場の周りを回っていると、一匹の、丁度手頃な大きさのエビを見つけた。しめしめ、本日の最初の食事、そう思ってエビを口にした。その瞬間。のどの奥に何かが刺さった。水面方向に引き上げられる感覚。頭の中に天啓の如くひらめいたある言葉。釣り針。

 小生はもがいた。全力を振り絞り、もがきにもがいた。喉の奥になど小豆の餡しか入っていないはずなのに、引っかかる物など無いはずなのに、だがどんなにどんなにもがいても、針は喉から取れなかった。水面が近付く。波の音、陽光のきらめき。やがてこの身は水面を飛び出し、宙に浮かび上がった。浜辺で見知らぬ人間の男が、釣り上げられた小生を見て驚いていた。



 しかしそれも束の間、男は唾を飲み込むと、小生の身体にかぶりついた。この何日も海の中を漂い、水を吸ってぶよぶよになった、いそ臭いこの身体を、美味そうに食べたのだ。薄れゆく意識の中で、小生は叫んだ。何と恐るべきかな人間!恐るべきかな!

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深泳 柚緒駆 @yuzuo

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