祭り囃子のその中で
杠葉結夜
祭り囃子のその中で
四号館六階の端。
そこが私たちの活動場所だ。
試験も学生選手権も終わり、八月下旬に差し掛かった今でも、夜は真夏の暑さに侵されている。
そんな中、夜八時をまわっても、提灯の柔らかな明かりと賑やかな祭り囃子で彩られた街は年に一度の夏祭りに活気づいていた。
その喧騒からに背を向けるようにして、私は四号館のエレベーターに乗りこんだ。迷わず六階、そして閉のボタンを押す。ゆっくりと閉まったエレベーターが上っていくにつれ、段々と祭り囃子は小さくなっていく。
ガコン、と少しだけ揺れて止まったエレベーターから降りたときには、もうほとんど聞こえなかった。
かわりに聞こえてきたのは、微かな、だけど確かな、抑揚のついた声。声の元である真っ暗な廊下の先には、ぽつんと小さく明かりがついていた。
私はそこに向かってそっと歩みを進める。
近づくにつれて声もはっきりしてきた。それと同時に畳を叩く音も響いてくる。
わずかに開いた扉の前で、私は静かに立ち止まった。息も潜める。今は入ってはいけないときだ。
「ーー夏の
バン、と勢いよく畳が叩かれる音、そしてカコン、と札が勢いよく壁にぶつかる音。それを確認して、私はゆっくりと扉を開けた。
サンダルを脱ぎ、中を覗き込む。
クーラーの効いた和室では、ちょうど札を拾い上げた彼が座り直すところだった。
「あ、
プレイヤーの再生ボタンを手にした彼が私を呼んだ。丸い鳶色の瞳が優しく細められる。
「
「いや、紗結ちゃん帰ってきたしやめるよ。さすがに疲れてきたし」
そう言って彼は綺麗に並べた札に手を伸ばした。
私たちはこの大学の競技かるた部のメンバーだ。
週に二回、この和室を借りて練習している。
部、と言っても練習のゆるさはサークルと勘違いされるほどで、正直それが売りだったりもする。でも全国大会で優勝したことがある選手もたくさんいるし、毎年初心者もたくさん入る、この大学屈指の人気部だ。
いつもは人数が集まり賑やかなのだが、今日の練習は夏祭りということもあってか、みんな六時頃には帰ってしまった。
――私も、昨日までは帰るつもりだった。
『紗結ちゃん、今日よかったら一緒に帰らない? みんなが帰った八時過ぎとかでもいいなら、だけど』
今朝、彼からそんなチャットが届くまでは。
「はい、航生。買ってきたよ、西村堂の水羊羹」
彼が札をしまい終わったのを見計らって、私はビニール袋を差し出した。ガサリと音を立てた袋には、蒸し暑い夜のせいでわずかに水滴がつき始めている。
ちょうど顔を上げた彼の表情が、咲いたばかりの向日葵のように輝いた。
「わあ、ありがとう紗結ちゃん! 二百五十円だっけ?」
「そう。今食べるでしょ? はい」
袋から彼の分を取り出すと、跳ねるように彼は私の隣にやってきた。その手には少しずつ手に馴染んできたように見える革風の財布。久しぶりに見たそれに、ほんの少しだけ口元が緩む。
「あ、ごめん、これしかないや。お釣りはいいよ、この暑い中行ってもらったんだし」
財布を漁っていた彼はそう言うが否や、私に五百円玉を差し出した。
「え?いいのに別に。お釣り、ぴったり出せるよ?」
少し首を傾けながらも受け取ろうと手を差し出すと、コロン、とまだ真新しい硬貨が私の手の上を転がった。ひんやりとしていて気持ちいい。
「気にしないでいいから。それに、紗結ちゃんも何か買ったんでしょ?」
有無を言わせぬ勢いで彼は財布をしまう。
袋、まだ入ってるもんね、と続ける彼はどこか嬉しそうだった。
ここで嘘をついても仕方ない。せっかくだから彼におごってもらおう。
「うん。せっかくだし航生と一緒に食べようと思って」
硬貨をそっと握りながら笑みを向けると、航生も私に向けて優しげな笑みを浮かべた。
「紗結ちゃんならそう言うと思った。ありがとう」
「祭り、どんな感じだった?」
生ぬるくなる前に食べよう、ということで片付けを一時中断し、私たちは畳の上に並んで座った。舌触りの良い水羊羹を口に運びながら、彼と話を弾ませる。
「ざっと見ただけではあるけど、結構混んでたよ。屋台も去年と同じでたくさんあるし、そこの商店街も便乗セールやってるし」
水羊羹を置き、便乗セールの宣伝で渡されたうちわを軽く扇ぐ。その風を航生に向けると、彼の癖のない前髪がさらさらと揺れた。
「あ、今年も変わり種のたこ焼き屋さん来てたよ。去年航生が気に入ってたおじさんのとこ」
ふと思い出して口にすると、彼の表情が再び輝いた。小さくガッツポーズをするのを見て、思わず笑いをこらえる。
航生と話すのは感情がわかりやすいから見ていて楽しいのだが、たまにこみ上げてしまう笑いをこらえることになるから大変だった。
「本当? よし、帰りに寄って夕飯にしよう」
「私も買って帰ろうかな、夕飯までの繋ぎで」
「今水羊羹食べているのに?」
けらけらと笑う航生に、私は軽く唇を尖らせた。
「二時間通学をなめないで、結構お腹すくんだから。それにしょっぱいもの食べたい気分になってきたんだもん。飽きたわけじゃないけど」
「あー、それはわかる。これ、さっぱりしてて美味しいけど、食べた後無性にしょっぱいもの食べたくなるよね。でも電車内でたこ焼きは難しいんじゃないかな」
ごちそうさまでした、と丁寧に手を合わせてから、航生がカップとスプーンを袋に放り込んだ。私はまだ半分ほどしか食べていない。
それにしても、航生の言葉はあまりに正論だった。
「……それもそうだね」
あのたこ焼きは好きだけど、改めて考えると電車内でたこ焼きはさすがに食べづらそうだ。
「よし。じゃあ、僕が今のうちに道具片付けておくからさ、紗結ちゃんも食べ終わったら一緒にお祭り行こうか。電車でも食べやすいしょっぱいもの探そうよ」
純粋に楽しみたがっているのが伝わってくる。
私は航生に向けて大きく頷いた。
「と、その前に」
そう、本当に不意に。彼が立ち上がった。
すたすたと部屋の隅に置いてあった鞄に近寄り、何かを取り出したように見える。
それを後ろ手に隠し、私の目の前に戻ってきて ――
「はい、これ」
ちりん、と。
軽やかな音色を伴って、星空模様のマスキングテープで封がされた、細長い紙袋が差し出された。
「え?」
「開けてみて」
口元をほころばせた鳶色の瞳には優しい光が宿っている。
突然のことに戸惑いながら、私はテープをはがした。
そっと開いて中を覗き込むと、金色と深い
「え……これ……」
丁寧にそれが入ったビニールを取り出す。
蛍光灯の光を受けて、夕焼け空のようにまっすぐな色をした蜻蛉玉がきらりと輝いた。金色の鈴が爽やかな音色を立てる。
「紗結ちゃん、前に簪欲しいって話してたでしょ? 僕の誕生日にこの財布くれたお礼。誕生日は実家帰ってたから祝い損ねちゃったしさ。紗結ちゃんはシンプルな方が好きかなって思って……女子に何か贈るっていうの初めてだからよくわからないんだけど。気に入ってくれたら嬉しい」
航生の顔が照れ笑いに染まる。
私は改めて手の中の簪を眺めた。
透き通った臙脂から緋へのグラデーションがかった蜻蛉玉には、夕焼け空に舞う小さな金色の蝶たちの姿が閉じ込められている。先端に付いたわずかな鎖とその先の小さな鈴は、揺れるたびに可愛らしい音色を響かせていた。シンプルな、だけど十分すぎるほどに可愛く私の好みを突いたプレゼントだ。
「――嬉しいよ。ありがとう、航生」
言葉とともに、自然と笑みがこぼれた。
「……! ど、どういたしまして」
鳶色の目が一瞬大きく見開かれ、そして、慌てたように顔を背けられた。
「何? 航生」
「な、何でもない、です……せ、折角だからさ、つけてみてよ? それつけた紗結ちゃんと一緒に回りたいな、なんて」
夕焼け色に染まった顔を口元だけ隠している彼に、何かを誤魔化されてしまった気がする。
いつもだったら追及するところだけれど、今日はやめておこう。それだけ彼の提案は魅力的だった。そっと膝の上に置きながら、私は再び笑みをこぼす。
「そうだね。折角だし、食べ終わったらつけてみるよ」
「うん。……じゃ、じゃあ僕、札とプレイヤーをロッカーに戻してくるよ。ゆっくり食べてて」
そう言うと、彼は慌てたように札とプレイヤーを掴み、走り去るようにして和室を出て行った。
「何あれ……もう、女子に対して失礼なやつ。まあ、でも」
いつの間にか最後の一口となっていた水羊羹をすくい、口の中に入れる。上品な甘さとなめらかな舌触りが心地よい。ゆっくりと飲み込むと、わずかな清涼感が喉を伝って行った。
航生と同じ袋にゴミを入れ、畳の上に置く。
そして再び、彼からのプレゼントを手に取った。
そのチョイスも、私の反応を見たときの純粋な反応も、おそらく不慣れな恥ずかしさからとっさに逃げて行ったことも。
「全部ひっくるめて航生らしいかな、なんて」
手にした夕焼け空が、涼やかな音色をたてた。
陽気な祭り囃子に紛れて消えそうなほど微かな音色。
彼と並んで回る夏祭りの中、その音は優しく私の耳を撫でていた。
祭り囃子のその中で 杠葉結夜 @y-Yuzliha24
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