三 朝食

ピピピピッ--目覚まし用のアラームが鳴り響いた。

ずっと遠くで聞こえていた音が、意識を掴んで引っ張り上げるように徐々に近づいてくる。

まだ、もう少しさまよわせてほしい。

遠ざけようと身を捩った。



「春。もう目が覚めたんだろう」



声がした。そんな大きな声でもなかったのに、完全に聞き取れた。それはもう、眠りの世界から出てきてしまったということ。

春はゆっくりと上体を起こした。


「おはよう、春」

「……おはよう、クロ」


柔和な笑みを浮かべているのは、和服姿の青年--黒斗くろと。少し長い黒髪を結い上げた、穏やかな雰囲気を纏った美青年である。


そうだ、アラーム。と、春はまだ鈍い頭を動かす。

寝起きは悪い方ではないが、昨日のことを思い念のためにスヌーズ間隔を一分毎にしておいたのだ。またすぐに鳴りだすはず。と思ったが、どうやら黒斗が止めてくれたらしい。枕元に置いたスマートフォンが再び鳴り響くことはなさそうだった。


大きなあくびをしながらベッドから足をおろす。



「黒斗君、春君起きた?」


ガチャ、と突然開いたドアからベタにお玉など持ち顔を覗かせる少女。

否。


「……母さん、年頃の息子の部屋だぞ。ノックもなしで開けんなよ」

「あらら、起きてた? 無理かなと思っちゃった」


ごめんごめん、と謝る母はまったく悪いと思っていない様子。

春は呆れたようにため息をつくが、そんなのん気な顔に安心して頬は緩んでしまった。

「ご飯できてるよ」と去り際に言葉を残した母に返事をして立ち上がる。


「あれでも心配してるんだよ」

「わかってるよ」


黒斗の言葉に、春は笑みを向けながら頷いた。


「春、気分はいいのか」

「ああ、眠いだけだ」


それなら平気だな、と黒斗は微笑みスッと姿を消した。

黒斗は元々この世に留まっていた侍の幽鬼で、今は母に仕える式鬼として側にいる。

母の話では、春がまだ赤ん坊だった頃に見つけてきたとか。

春にとっては、小さな頃から面倒を見てくれた兄のような存在だ。


「ねむ……」


あくびを噛み殺しながら、ぐっと背を伸ばした。



*****



身支度を整えた春は、香ばしい匂いを漂わせているテーブルに目を落としながらイスに腰かけた。

ことり、置かれた湯気の立つ味噌汁。今日は大根か、と鮮やかな色をした葉を見つめた。葉のついた大根がなかなか手に入らないとぼやいていたのを思い出す。


「いただきます」

「どうぞ」


向かいに座った母が笑ったのを感じながら、味噌汁を一口含んだ。

ほわ、と心に染みるような温かさ。思わずホッと息を吐いてしまう。

次にほどよい焦げ目のついた鮭に箸を伸ばすと、春はこちらをじっと見ている母に視線を向けた。


花月綾子はなづきあやこ。春の母親である彼女は、何? と聞きたそうな顔で大きな目を瞬かせる。

見つめてきているのはそちらだろうに。

春は何でもないと答えると、鮭の身を箸で割った。


傍目からはとても親子には見えないふたり。

綾子の姿は、どう見ても高校生だからだ。並んで歩けば、姉弟にしか見えない。いや、兄妹かもしれない。それは嫌だ、と思うので姉としておく。

--けれど、いつかは。

というのも、綾子の見た目は昔と変化していないからだ。

春が産まれてからずっと。彼女は少女の姿をしている。

その理由は知らない。

何かあるのなら、自分から言うだろうと思っているからだ。

それに、この母ならば驚くこともないと知っているからでもある。年をとらなくても不思議じゃない。そういう人なのだ、彼女は。

どんな姿だろうが、綾子は紛れもなく春の母親。それでいい。


ふと、春は昨日の記憶が蘇り口を開いた。


「……母さん」

「ん?」

「昨日、の……女の人は……」


口ごもる。

あの廃病院で綾子が悪鬼を祓ったあと、春は気を失ってしまった。

目が覚めたら夕飯時は過ぎていて、友人ふたりは無事に帰したと聞いただけ。まだ春の意識もしっかりしていなかったため、その後のことはよく聞けていなかった。

綾子がそっと微笑む。


「ちゃんと行くべきとこに送ったよ。彼女、あの悪鬼に捕らわれちゃって、誰かに気づいてほしくて飛び降りてたらしいの」

「そうか……」


助けてほしくて、誰かに気づいてほしくて。

けれど、助けられなかった。春は拳を握った。


「……気づいてくれてありがとう。そう伝えてほしいって」

「……そうか」


気づいたのは藤谷だ。あの場で足を止めたから、春も気づいた。

ひとりでは何もできなかった。綾子が来なければ殺されていただろう。杉浦も藤谷も。

自分の行動のせいで危険な目に合わせてしまった。


「春君。君は、何回祓った?」

「……数えてない」

「君は特に隠の影響を受けやすいことは知ってるよね? それは仕方ないことなんだよ。君の力が弱いわけじゃない。君の力なら、あの悪鬼くらい倒せるんだから」


けど、助けられなかったし護れなかった。


「まあまあ、過ぎたことをいつまでも悔やんでもね。隠祓いは火急の時以外は避けた方がいいってことなんだから」

「祓い屋としてそれはまずいんじゃ」

「私がいるから問題なし」


何も言えなかった。

この母ならば、例え地獄の門が開き鬼たちが押し寄せたとしても、ひとりですべて解決してしまうだろう。

この母に、勝てる者など存在しない。

少しでも近づきたいと思うのだが、隠を相手に具合が悪くなる今の自分では足手まといにしかならないだろう。

母親を護れるくらいに。

昔掲げた目標だ。ゴールはもちろん見えるはずもない。


「連絡してくれればすぐ駆けつけるよ。おもに黒斗君が」

「…………ああ、うん」

「私の身体はひとつしかないんだよ?」

「わかってるよ」


式鬼を飛ばして隠を祓わせる。それがすごいことだと綾子はわかっていない。彼女にとってはできて当然のことだ。


「さ、早く食べないと遅刻だよ」


春は頷くと、ご飯を一気にかきこんだ。

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式鬼 彌子 @mukougawa

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