二 悪鬼

廃病院の窓から落ちた女性は、この世の存在ではない。死んでしまった人間の霊--幽鬼だ。

病院で命を落としたか、さ迷っていたところ病院の雰囲気に惹かれてしまったのか。

どちらにせよ、一瞬でも、本来見えないはずの藤谷の目に映った。偶然見えてしまうということは、あるにはある。それならいいが、もしあの女性の力が増し生きているものに影響を与えているようなら放っておくわけにはいかない。一度見えてしまった藤谷に憑いてしまうこともあり得るだろう。


「悪鬼になったら……人を襲ってしまうしな……」


呟いた春は、立ち止まり廃病院を見上げた。嫌な空気が渦巻いている。

心霊スポットとして時々メディアに取り上げられるこの場所は、定期的に見回りに来ては悪いものを祓っている。

春は深呼吸すると、敷地内に一歩踏み入れた。

ぞわり。身体に得体の知れないものが絡みついてくる感覚。

これはまずいかも、と汗が頬を伝う。

一度戻るか、このまま進むか。

迷う春の目に、病院の入口の端で何かがくすぶっているのが見えた。

あの場所は。ハッとして近づいてみると、赤かったはずの式鬼札が真っ黒に染まり蠢いていた。

結界が張ってあるおかげでこの場に留まってはいるが、力が膨れると結界を破り飛び出すこともある。


「この間祓ったばかりなのに……焔」


ぼっと炎が上がった。

結界のおかげで隠の感情はある程度遮断されるが、それでも肌が粟立つくらいには不快感が春の中に渦巻く。

いい加減これにも慣れなくてはと思うのだが、どうにも苦手だ。

しかし、ここの式鬼札がこうなっているという事は、他に仕掛けていた場所も同じはず。すべて燃やし、また新しく設置しなくてはならない。

春は拳を握ると、先へと進んだ。


「焔」


ロビー、受付の中、診察室、廊下。一定間隔に置かれた式鬼札が炎を上げた。

そこを駆け抜け、階段も一気に駆け上がっていく。

あの女性がいたのは三階。春は壁に手をつき、覗きこんだ。

廊下の先が歪み、ひやりと冷気が漂う。

この感じ。間違いないだろう。


「悪鬼……」


先ほどの女性が悪鬼になってしまったのだろうか。

春は懐の式鬼札を確認し息を深く吐くと、重苦しい廊下を進んだ。



「やっぱり雰囲気あんな~」

「こういうのって勝手に入ったらまずいんじゃないの?」



背後から聞こえた声に振り向けば、杉浦と藤谷が辺りをキョロキョロと見渡していた。

春は思わず出そうになった声を抑え、杉浦の肩を掴む。


「何でいるんだよ」

「お前が急に走り出すから気になって。まさか一人で肝試しなんてことねーよな? もし不良に絡まれてんなら友達として助けてやらねーとと思って」

「正義感の強い友達をもって幸せだよ。だから帰れ。不良には絡まれてないから」

「じゃあ、何しに来たんだよ。こんなところに」


花月、と杉浦が真剣な目を向ける。

お祓いしに来ました、なんて言えるはずもなく。春は言いよどんだ。

どうにか二人を帰さないといけない。無理やり押し出すか、一度一緒にここを出て改めて来るのが一番いいか。

考えを巡らせていると、おぞましい呻き声が廊下に響いた。

腹の底を抉られるような息苦しさを感じる。


「え、ちょ、何今の!?」

「う、呻き声……?」


人が立ち入ったことで刺激してしまったか。春は舌打ちする。

早く帰ろうと、怯える藤谷が杉浦と春の腕を掴んだ。

--瞬間、誰かが勢いよく叩いているように、廊下の窓ガラスが激しい音を立て弾けるように割れた。


「藤谷!」


春は叫び、藤谷の頭を抱えるようにして床に伏せた。

散らばるガラスに気をつけながら上半身を起こし、藤谷を見る。恐怖か驚いてか、気を失っていたが怪我はないようだ。

杉浦を見れば顔は真っ青で呆然としている。

春はポンと軽く杉浦を叩く。


「大丈夫か?」

「なんだよ……今の……」

「杉浦、藤谷を連れて早くここから出た方がいい」

「出た方がって……花月……」

「俺はやることがあるから」


急げ、と杉浦に背を向けた時だった。

何かが横を通り過ぎ、それが嫌なものであると認識する前に。


「がっ……!」

「杉浦!?」


吹っ飛ばされたように、杉浦の身体が壁に叩きつけられた。

駆け寄ろうとするが、立ちはだかるモノのせいで身動きができない。

形のはっきりとした、巨大な真っ黒な鬼。長い廊下に合わせたかのように下半身は蛇のように伸びていた。



「……オマエ、祓い屋か?」



男とも女ともつかない声に、春は思わず目を剥いた。

言葉を話せる。知能もそれなりにあるということか。春の頬を嫌な汗が伝った。

この廃病院に隠が吸い寄せられてきたとしても、ここまでの悪鬼になるにはそれなりの時間が必要なはず。ましてや、つい最近お祓いしに来たのだ。ここで育ったわけではないだろう。となると。


「どこからきた……?」

「ククッ……」


悪鬼は笑う。空気が震え、地獄の門でも開きそうだと春もひきつるような笑みを浮かべた。



「ガァッ!」



突然の咆哮。

春は咄嗟に身構えたが、風圧で吹っ飛ばされ扉のない病室に身体を叩きつけながら転がる。視界がぐるぐると変わる中、見えたのはキラリと光る何か。崩れた壁の向こう側--隣の病室に女性がぽつんと立っていた。

窓から飛び降りていたあの幽鬼。

キラリ、光っていたのは涙だった。


ずるずると、悪鬼の蛇のような長い体が床を這う音が響く。


「ぐ……焔……!」


痛みに顔を歪めながら春は叫ぶ。応えるように炎が幾つか浮かんだ。

呼吸を整え、炎が螺旋状になる様をイメージする。


「炎舞!」


パチン!

春が指を鳴らすと、イメージしたように炎が悪鬼の体を包んだ。


「グガァ……!」


悪鬼は悶え体をくねらせる。

あの女性は。杉浦は。藤谷は。

焦る春の喉元に衝撃が走った。息が詰まり、一瞬意識が飛んだ。

首を絞めていたのは、涙を流しているあの女性。すでに悪鬼になりかけていた。


「だっ……だめだ……そう、なって……しまったら……!」


なおも力は増していく。


「ククッ……集中力が足りなかったか?」

「お、まえ……!」


ニタリ。蛇のような悪鬼が笑った。炎によるダメージはほぼないようだった。

クソ、と春は音もなく漏らす。

この女性や杉浦、藤谷のことが気になって集中できていなかったのは確かだ。

きちんと炎が操れないのなら術をかけるなと、そう何度も言われていたのに。

目の前の女性はあの悪鬼に同調しつつあり、簡単には祓えない。

せめて、杉浦と藤谷だけでも助けなければ。

そう思うも身体からは力が抜け、声はもう出せない。


--やば……。


意識も遠のきかけた、その時。


「ギャッ!?」


女性が何かに弾き飛ばされた。


「ゲホッ……!」


苦しさから解放された春は、酸素を取り入れようとしながらその場に倒れ込む。

まともに開けていられない目を何とかこじ開けると、春の前に少女が立っていた。

肩先で揺れる金色の髪。凛とした背中。


「か--!」

「よく頑張ったね、春君。あとは任せなさい」


ニコッと可愛らしい笑みを春に向けると、少女は右手を上げた。


「オマエも祓い屋か。ならばその少年の次に喰ってやろう」

「あらそう」


楽しげに言った少女の目が細められた。


「焔!」


一瞬で炎が部屋を覆った。燃え盛る炎は業火。

悪鬼が目を剥く。


「炎舞!」


パチン。少女が指を鳴らすと、炎は渦になって悪鬼を襲う。まるで踊るように揺れ舞う炎は光り輝く龍にも見えた。


「アガァァァ!」


春のものとは比べものにならない熱量に悪鬼は断末魔の叫びを上げた。

思わず呆けてしまうほど、あっさりと悪鬼の体は消えていく。

これでは、雑魚相手に苦戦していたみたいではないか。春はぐっと拳を握った。

いや、実際そうだ。少女にとっては雑魚も同然。この程度の悪鬼なら片手でひねり潰せる。

自分と少女の力の差などわかっているけれど。


少女が振り返る。可愛らしい容姿のこの少女--だが、少女ではない彼女は。


ぐらり、めまいがして春は頭を押さえた。


「休んでていいよ。あとはやっとくから」


優しい声が降ってきた。緊張が解け、安心してしまう声。



「母さん……」



にこり。少女の姿をした母親が、息子を見守る母の顔で笑った。

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