姉の遺骨
鳥海勇嗣
第1話
ほら、早く立ちなよ。せっかくこうして待ってるんだから。どうして誰も動こうとしないんだい?そこの店員さん、わざわざ警察に通報しやすいようにここから立ち去らずに待ってるんだよ、僕は。ほら早く動けよ、お前たち。
姉を壊したこの男を、僕は大して恨んじゃあいないはずだった。ただせめてものケジメのつもりだったんだけど、どうも潜在意識というやつの中ではこいつを相当許せなかったのかもしれない。僕よりも体が華奢なこの男の鼻の真ん中を、何の躊躇なく思い切り殴ってしまったのだから。鼻がフライドチキンの骨を毟ったみたいに嫌な音を立てた直後に、こいつは「みぃみぃ」だとか産まれたての子猫みたいに可愛い泣き声と一緒にうずくまってしまった。あ~あ、姉さんこんな男の一体どこが良かったんだい。顔を抑える手の隙間から、赤い汁がこぼれ落ちてるよ。お店の人が困るじゃないか、まったく。この店はセルフサービスなんだから、きちんと後で掃除しておきなよ。ホントだらしないなぁ。
「あいいへんだお!」
冷静なつもりだったけど、周りに対して「何見てんだよ!」って言いたかったのに変な言葉が吹き出してしまった。きちんと立っていたはずの左足は貧乏ゆすりをしたようにカクカク震えている始末だ。本当に、世の中ってのは思い通りにいかないものだよな。さっきから世界が動いて欲しいのに、まだ時間は止まったままだ。一体、何秒、何分、何時間こうしていればいいのだろうか。もしかしたら、もう一回コイツに何か危害を加えてあげればどうにかなるんだろうか。刃物でも持ってくりゃよかった。
姉さんはいつも儚げだった。そう考えていたのはもしかしたら僕だけだったかもしれないけれど。
彼女の眼にはいつもここではない荒野が映っているんじゃないだろうか、僕はそう考えていつも姉さんの目を覗き込んだりして、でもその度に「やめてよ涼」と、姉さんは恥ずかしがりながら目を背けていた。姉さんは髪を若い女の子らしく染めたりはせずに、濡れて重くなったような黒髪を背中まで垂らしていて、化粧っ気もなかったけれど彼女の肌はとても綺麗だったからそんなものはかえって邪魔だっただろう。少し受け口の感があったけど、そのおかげで笑うと必要以上に笑顔に見えたし、そんないつも幸せそうにしている姉さんを見て僕もとても幸せな気分になったんだ。絵画が好きだった姉さんは、いつも図書館で借りた画集を見せてくれて、特にミュシャが好きでイラスト画集を開いては彼の魅力をよく僕に語ってくれていた。だから誕生日なんかには、姉さんが喜ぶと思ってミュシャのポストカードをプレゼントしたりしたんだ。いや、誕生日以外にもあげたこともあったな。僕もミュシャを好きになって、その時代のことを色々調べたり、美術館の情報を検索して自分で足を運んだりもした。それ以外にも、父さんや母さんが心配するほど僕はいわゆる「お姉さんっ子」だったらしく、この世界と僕をつなぐ窓口はいつだって姉さんだった。きっと僕はあの女からじゃなくて、姉さんの影から生まれたんだよ。きっとそうさ。姉さんが嫌いだというグラビアアイドルを本気で憎んだし、彼女が好きな音楽は僕にとってことさら心地よいものに感じた。実際そうだったんだ。姉さんが嫌いなものは本当にこの世で憎むに足るものだったし、好きなものは絶対に世界中の人がこれを好きになるべきなんだという確信すらあった。どうして父さんや母さん、世間は彼女にそう関心を払わないんだろうか。
姉さんは中学校の時には学校に行くことがほとんどなかった。家にいることが多くて、そんな姉さんを両親は悩みの種にしていたけれど、一体何が問題だったのか僕には全然わからなかったね。姉さんは外で汚れないようにしっかりと自分を守っていただけだったのに。僕は知っていた。姉さんにとって外の世界は汚すぎたんだ。
同じクラスの奴から、姉さんがイジメにあってるってことを言われた時は、とりあえずそいつの髪の毛をつかめる分だけつかんで引っこ抜いてやったもんさ。まったく、こんな汚れた奴らばかりなら姉さんだってそりゃあ外に出たくはなくなるよ。そんな外の世界で姉さんが汚れていくのなんて僕は見てられなかったから、僕は姉さんが過ごしやすいようにいろんな工夫をしてあげた。本やCDを持ち込んだり、いかに外の世界が汚いかをよく言い聞かせた。両親は何とか姉さんを外に出そうとするから、僕はそんな彼らに対して怒りの矛先をよく向けたものだった。そしてそれは姉さんのためでもあったんだ。彼女が両親に怒りを向けられない分だけ、僕が代わりに彼らに対して怒りをぶつけてあげていたんだ。なのに彼らときたら、その原因が姉さんにあるのだと勘違いして、より一層姉さんを外に出そうと躍起になっていた。頭が悪い父さんは、一度無理に姉さんを引っ張って外に出そうとしたことがあって、もちろん姉さんは嫌がって泣き叫んだよ。悔しいかな、それを止めようと僕も頑張ったけれど、父さんの力はぼくなんかより全然強くて、何度彼を抑えようとしても「お前は引っ込んでろ!」と何度も弾き飛ばされちゃったよ。せめて姉さんを励まそうと「姉さん、出なくていいよ。外は姉さんに向いてないんだ!」と、必死に声をかけるのが精一杯だった。うざったらしいのは、その後ろでひたすら母さんが泣いていたことだ。まったく本当に、この人はどうして同じ女なのに姉さんの気持ちが分からないのだろうか。僕の彼らに対する憎悪は募るばかりだった。結局玄関を出たとたん、姉さんは昼ご飯を全部戻してしまった。仕方ないことだ、いきなりあんな臭い外の空気を吸い込んだのだから、誰だってそうなってしまう。子供だって分かることなのに。
けれども日常で過ごす時間は、学校に行ってしまう僕よりも彼らの方が長かったせいで、姉さんは中学卒業後に定時制の高校に通うことになってしまった。彼らが僕のいない間に、どんな言葉で姉さんを追い立てたのか分かったもんじゃない。僕は「無理しなくていいよ」と言ったのだけれど、姉さんは「大丈夫、私頑張るから」と、いつもの笑顔で僕に応えてくれた。だけれども、そんな姉さんの笑顔はいつもより儚げだった。今思うと、あの時から姉さんは消え始めていたんじゃないだろうか。
僕はたまに姉さんの部屋で昼寝することがあった。居間のソファーよりも姉さんの部屋の方がずっとずっと落ち着くからだ。いつもはそんな事をしていて姉さんに見つかっても、姉さんは「もう、涼ちゃん……」と軽く叱る程度だったのだけれど、ある日いつものように昼寝をしていたら枕の下に手帳が隠してあったのを見つけてしまったんだ。そこには姉さんの日々の思いが詩になって
困ったことに、そんなことを考えながら空想にふけっていたせいで、帰宅した姉さんが後ろで立っていることに僕は全く気づかなかった。手帳を手につっ立っている僕を
次の日から姉さんは暫くまた学校を休んだ。きっと新たに自分の宇宙を練り上げるために、自分を高めようとしたのだろう。
姉さんが高校に進学してから三年経ったある日、学校から帰ると両親が機嫌よく僕を迎え、テーブルに姉さんの好物のクリームシチューやアボカドのサラダが並んでいた。どうやら姉さんが大学に合格したらしいのだ。彼らは今までにない笑顔を浮かべていたけれど、僕はこいつらはこんなことをしないと姉さんを認めようとしないのかと、一人腹立たしくなってしまっていた。姉さんも彼らに応えて作り笑いを浮かべていたけれど、僕には彼女が無理にをしているのがありありと分かった。食事の最中に「本当にこんなことが姉さんのしたかったことなの?」と問いただしたんだけれど、父さんは「いいかげんにしろ!」とそんな僕に難癖をつけてきた。姉さんは「いいの涼、これでいいの」と、何とかその場を取り繕おうと努力して、そんな姉さんの彼らに対する慈悲にも近い優しさが僕にはあまりのも悲しかった。だってそうだろう、姉さん。そんなところに行ってどうしようっていうのさ。ただ貴女を蝕もうとする下品な奴らが、指をくわえて待ってるだけじゃないか。あんな両親を救うために、どうして姉さんが犠牲になる必要があるのさ。ゴルゴダの丘の大工の息子、そんな表現が姉さんにはまさにぴったりだった。
大学に入って二年くらい過ぎた頃、姉さんにいわゆる彼氏が出来た。姉さんに彼氏?僕は、彼女にとってあまりにも不釣合いなその言葉に頭が混乱しそうになった。だけれども、姉さんは僕の知る限りでは一番いい笑顔をその当時は浮かべるようになった。僕にすら「涼にも早くいい人が見つかるといいのにね」なんて言っちゃう始末さ。服装も変わり、髪も染め始め、似合わない化粧まで始めてしまった。聴く音楽も読む本も僕の知らないものばかりで、かといってそれを僕に教えてくれるようなこともなかった。姉さんはやはり損なわれてきていたんだ。本当にそういうものは水面下で進む病気のようなもので、僕以外の誰もが姉さんの死に至る病を理解しようとしていなかった。そう、姉さんでさえも。いや、姉さんに分かるはずもない。だって姉さんはひたすらに純粋な人なのだ。外の邪な意図なんかとは世界で一番無関係で、免疫だって出来ちゃいない。けれど僕もひたすら無力で、ただ姉さんが死に向かっているのを見ているより他になかった。
一体誰が僕の苦しみに共感できただろうか。世界で最も尊いものが、自分以外誰も知れずに壊れていくのだ。何度も姉さんが寝ている寝室に入り込んで、僕が姉さんが終わってしまう前に僕の手でそれをやってしまおうかと思いながら、何時間も姉さんの顔を眺たりしたことだってあった。
そんな日々が続いたある日、姉さんが誕生日にとうとう彼氏を家に連れてきてしまったんだ。けれど、僕がそれに関してどうこうする事なんて出来やしない。たとえ彼氏が憎くても、姉さんのためには最大限にそいつをもてなす他仕方ないんだ。なので母さんに夕食のための食材を頼まれたついでに、僕は姉さんがどういう人なのか彼氏にも少しは分かってもらおうと、頼まれたものとは余分に果物を買ってきたやったんだ。僕が得意気に、ケーキやプレゼントが並ぶテーブルにその果物を置くと「あれ?涼、何その果物?」と姉さんが訊いてきてくれた。本当は彼氏に聞いて欲しかったので、僕は彼氏を見ながら「
姉さんがまた外に出なくなったのは、それからしばらくしてからだった。けれども、今度は自分を高めるとかじゃなくて、本当に外の世界に恐れをなしているようだった。せっかくあの悪い虫がいなくなってくれたと思った矢先だよ。あれから姉さんは完全に損なわれてしまった。そして最期の場所としてあの部屋を選択したのかもしれない。
姉さんは両親が言うには「過食症」というものだったらしいけど、僕は違うと思う。姉さんにとってあれは儀式だったんだ。姉さんは朝から晩まで食べ続けた。母さんが食べ物を出さないと、姉さんは自分で料理をした。いや、料理ともいえるものじゃなくて、ゆで卵を大量に作って丼に盛り込み、それを塩もマヨネーズもつけずにひたすら食べ続けた。彼女の華奢な体にはもちろんそんな大量のものが入るわけもなく、食べては吐き食べては吐き、それを繰り返してだんだんと姉さんはやせ細っていった。さすが姉さんだ。普通の人にとっては体を作るための食事を、自分を壊すためにし続けたんだ。毎日姉さんは壊されていき、両親はそれを必死で止めようとしたけれど、姉さんの崇高な行動を、凡人のアンタらが止められるわけないじゃないか。僕はそんな姉さんをどんな時の姉さんよりも愛おしく見つめ続けたよ。「ああ、姉さんが終わっていく」ってね。
姉さんの努力の甲斐あって、彼女の心臓は止まった。ほとんど肉の無くなった姉さんの体だけど、相変わらず肌は大理石みたいに綺麗で張りがあって、そんな彼女の姿を見た時、凡庸な僕にもようやくわかったんだ。姉さん、姉さんはここに来ようとしていたんだね。ごめんね、姉さん。僕は貴女を理解しているようで、まるでわかってなかったよ。驚くほどに軽くなった姉さんは、体重と一緒にこの世界のあらゆるものから解放されて、ようやく本当の自由を手にすることができたんだ。天使の残骸とはこのことを言うんだよ、きっと。そんなにも美しくなってしまった姉さんを、寝ずの番で二人きりになった時、僕は何度も何度も抱きしめてキスをした。そして何度も後悔したさ、どうして姉さんが生きている間にこうしてあげられなかったのかって。彼女は僕を受け入れてくれたに違いないのに。僕は姉さんを愛している以上に尊敬していたから、素直に気持ちを表現しようとするとき、いつもつっかえみたいなやつが働いて、僕を臆病にしやがったんだ。けれども本当はそれで十分だったのかもしれない。だって姉さんはいつだって無口で、それでいて雄弁に僕に対して語っていたのだから、あの一晩で僕らは人類の誰もが成し遂げることのできないくらいに多くの言葉を交わしたことになるんだ。
翌日の姉さんの葬式を含め、その後は全てが白々しかった。天気はいつもの天気で、雲が純銀に光を反射させるだけ、新聞はいつもの紙面、街にはいつもどおり顔を亡くしたような奴らがうろついているだけだった。あいつらは姉さんが死んだなんて全く興味なかったんだよ。身内もひどいもんで、姉さんの死の意味を理解しない両親はいちいち葬式で泣いて、くだらない言葉を姉さんの遺影に投げかけ続けた。こんなにも美しい彼女がその下にいるのに。けれど、僕は姉さんを焼くことだけには同意してやった。炎なんかで彼女を損なうことなんて出来やしないと思ってたからさ。ところがだよ、なぁ知ってるかい?最近の火葬場ってのは煙が出ないんだ。姉さんを焼いた炎は彼女をここに留めたんだ。姉さんは天に上らなかった。あの姉さんがだよ?この下らない焼却用の機械が、彼女をここに縛りつけようってのさ。まったく、どいつもこいつも。
引き出された姉さんは、僕が思ってた以上に形をとどめていなくて、それを葬儀場の奴が「娘さんは過食症でしたから、骨が脆くなっていらっしゃってたようですね」なんて説明しやがった。あまりにも本質を理解していない低脳野郎だったから、鼻で散々笑ってやろうと思ったけれど、そんなことをしたら姉さんが悲しむだろうと我慢してやったよ。間違いなく、あの七三分けは姉さんに感謝すべきだよね。両親が真面目に話を聞いている間、僕は姉さんの残った骨を見つからないよう、こっそりポケットにしまった。
姉さんのいなくなった部屋。そこで僕はもう二度と彼女を横たえることのないベッドで横たわったり、彼女の残り火が消えないように毎日掃除をしたり、洗濯物だってやってあげたりした。母さんは嫌がったから、仕方ないんで僕が姉さんの下着を洗濯したんだよ。あの部屋は姉さんが死んだ時と同じ状態を保っていなければいけないんだ。だから、少しでも埃が積もったりしちゃあいけない。もちろん、あいつらの手垢何かが付くのは以ての外さ。だから僕は誰も入ってこれないように姉さんの部屋に新しく鍵をつけて、母さんと父さんに念入りに忠告をしてやった。子供を二人も失いたくないだろうってね。さすがにそこまで言ってやればあいつらも観念したようで、僕に何か言ってくるようなことはしなくなった。
そんな変化を許さない姉さんの部屋の中で、一つだけあの頃と違うものがある。それが姉さんの勉強机の上にある彼女の遺骨だ。厚めの和紙を買って、それを綺麗に四角に切ってから、その上にちゃんと格好がつくように遺骨を飾ったのさ。僕はこの部屋にいればいつだって姉さんを感じることができるけど、あくまでシンボルとして置いたんだ。姉さんの心はあっても体はなかったからね。そしてこの遺骨をこの部屋に置いたとき僕は確信したね、この部屋はもうただの部屋じゃないんだ、って。言ってみれば一つの神殿だよ、ここは。姉さんを祀るための神殿。そもそもこの世界でひっそりと尊くあった姉さんだから、神殿の一つでもなければおかしいんだ。もちろん誰もここの大切さなんて分かりゃしない、ただ僕と姉さんが通じ合うための場所さ。もしいつかあの両親が姉さんのことをちゃんと理解するようになったら、その時はここでお参りをさせてあげてもいいんだけどね。
ある日我慢できなくなって、姉さんの遺骨を口に含んでみたけれど、てっきり口の中でラムネみたいに溶けてなくなると思っていた姉さんの遺骨は、全然形を保ったままで一向に溶けようとしなかった。「骨だけはしっかり残すなんて、そりゃないよ姉さん」
僕は姉さんの遺骨を飴みたいにしゃぶりながら、もう通じなくなった姉さんの携帯電話から履歴を探し出して、姉さんが終わるきっかけになった作ったあの男に連絡を入れることにした。姉さんはアドレス帳の記録を全部消してしまっていたから、数回間違って関係ない人に連絡を入れちゃったけれど、何とかあの姉さんの「彼氏」だった小日向って奴を見つけ出しメールでやり取りすることができた。そういえばこいつは姉さんの葬式にも来なかったな。まぁいいや、来たところで姉さんも喜ばなかっただろうし、何より僕がどういう危害をそいつに与えたか分かったもんじゃない。
『件名:
お久しぶりです。
メールを打ち終わると、僕は手のひらに姉さんの遺骨を吐き出した。吐き出された遺骨は所々僕の口の中を傷つけて血を
痛いなぁ、姉さん。
姉の遺骨 鳥海勇嗣 @dorachyan
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