第3話

 あれから数日経ったがあの時を最後に神社には行けなかった。

 どれだけ気落ちして体調がよくないとしても、それは気分の問題であって個人の思いの問題である。行きたくないとは思ってもおじさんやおばさんをはじめとした周りの人に心配をかけたくがないために学校へはいつも通りに授業を受けに登校した。

あんなことがあった次の日は顔色の悪さから休めやら帰った方がいいなどと言われたが、こんなときだからこそ静かな場所にも一人にもなりたくなかった。


「文月ー。今日は暇かー? 遊びに行こうぜー」


「ごめん。今日はやめておくよ」

 誘ってくれてありがとう。


「なんだか文月元気ないよな」

「この間までは幸せそうだったのにな」

「どうしたんだろうな」


「……」

 そのやりとりを一人の少女は見ていた。


****


「――犀川文月くん」


心配を掛けてしまっていることは自覚している。

だけれど、笑うことが出来ないのだ。

笑って大丈夫だよということが出来ないのだ。

心配を掛けたくないのに心配させてしまう自分が不甲斐なくて落ち込んだ気分のまま靴を履きかえ、ざわざわと喧騒のなかに紛れ校門を丁度出たところで声をかけられた。

「……えっと?」

視線を向けた先にいるのは文月にとって覚えがない女性だった。

「突然にごめんなさい。少し話があるのだけれど、時間を貰ってもいいかな」

名字だけでなく名前も呼んだ時点で文月を呼んでいることは分かっていたが、呼ばれる理由も分からない。

目の前にいる知らない人が一方的に文月を知っているだけなのかと思ったが、となると、文月が覚えてないだけなのか。

なんにしてもこんなときに覚えもないような知らない人に会いたくはなかった。

知らない人は文月にとって知りたくない人ともいえるのだから。

「――文月くんに……お姉ちゃん?」

文月が戸惑っていると今度はよく知った声が文月の名を呼んだ。

だけど……、

「……お姉ちゃん?」

おかしい。彼女にお姉ちゃんなどいただろうか?

「犀川君、それから月葉ちゃんも。そのことは後日にでも私から説明するから今は別の話をさせて。……どうしても今、犀川君に伝えないといけない話だから」

目の前の人の問いに文月と葉月の二人は互いに顔を見合わせた。

「何でしょうか?」


「――今日、行かないつもりだった?」

何処へ、と彼女は言わなかった。だけど、その言葉だけで目の前の人が何を示しているのか分かってしまった。

それと同時にやっぱり彼女は本当は自分以外にも見えているのではないのか、だけどだったらどうしてはちやにはあのとき見えなかったのか。

目の前の人が嘘を言っているようにはみえないが、はちやも嘘をつくような人ではない。

もし彼女が見えているとすがりたい気持ちとあのとき見えなかった彼女に期待はしてはいけないという気持ちが何も答えを出せず、沈黙となって表れた。

「行かないつもりだったのなら、行って。今日、行って会って」

行きたい。彼女に会いたい。だけど会えない。

怖いのだ。

彼女に会って知ってしまうことが。

「……会えません」

葛藤する心はか細く声に出ることで表された。



「――今日で彼女がいなくなっても?」



「え?」

いなくなる? 誰が?彼女が?

「今日でお別れなんだって。もう会えなくなるって。だから、ちゃんと会って話をしてほしい」

会いたい。

「……っ、それでも、会えません。会いたくないんです」

逃げたい。

「それでいいの?」

会いたい。

「……すみません」

逃げたい。

気持ちが重いほど彼女に会うことが怖いと感じる。


さっきまではあんなに人が通りすぎていた門も今は、一人二人が間をあけて通りすぎていく。近くで聞こえてくる音もどんどん通り過ぎて遠くへいってしまったように、文月の耳から入ってこなくなった。

「――文くん」

ふ、と聞こえなかった音が聞こえるようになったのは聞き慣れた彼女の声。

「文くん、行かなくてもいいの? 二度と会えなくなるんだよ?」

事実を突き付けられても、それ以上に、

「会いたくないんだ」

「文くんが傷付くから?」

「……違う。俺が傷つけてしまいそうだから」

会ってしまったら、きっと彼女を責めてしまいそうになる。どうしてと、なんでと。それに、

「本当は謝りたい。会って話しもしたい。だけど、会ってしまったら離れたくなくなる。

大切な人を失うのは、もう見たくないんだ。――だから、このままでいいんだ。……このままがいいんだ」

自分で自分を笑うかのように文月は情けないほどの笑みを浮かべる。

「……なんで? 離したくないから、それが迷惑になるからって、だからってこのままさよならしてもいいの? ……ね、文くん。お願いだから、そんな顔して笑わないで。想いも何も伝えずにさよならなんて悲しいよ」

泣きそうになっても彼女の揺れる瞳から、滴はこぼれ落ちない。

「想いを伝えるのが恐いんだ。情けないけれど、終わってしまうことが嫌なんだ」

このまま知らないままでいたい。そうすれば終わったことも知らないままでいれるから。現実なんて知りたくない。現実なんて見たくない。現実なんて逃げたい。

こんなにも情けない。

でも終わりたくない。

だって初めてだったんだ。あんなに焦がれる想いをしたのは。それを教えてくれた人ともう会えなくなるなんて。

知りたくない事実も、見たくない事実も、逃げたい事実も全部忘れてたいのだ。

だって、もうさよならなんだ。


「……情けなくないよ。情けなくなんか、ない。私も同じだから。私も、同じ……」

訥々と不自然にも思える途切れた言葉のあと、彼女は何かを考えるように目を閉じる。そしてゆっくりと目を開きちらりと目の前の人を横目に見て、また文月へと視線を交わす。

彼女の目がきらきらと溢れそうに光が大きくなったことに気付き文月はハッと息を呑んだ。

「――文くん、私、文くんのこと好きだよ。文くんのことが好きなんだ。一人の人として、男の人として好きなの。……だから、文くんも琴葉さんに伝えてきて。きっと琴葉さん、待ってるから」

真っ直ぐに伝える彼女の言葉は透明だった。

今までずっと隠してきた気持ち。伝えるということが恐く、終わってしまうことが嫌で逃げていた彼女の想い。その想いは今だからこそ彼女は伝えた。今でなければ伝えずにいた。文月のことを良く知っている彼女だから、決心した想い。彼のためでなければ伝えない重い想い。

彼女にも知りたくない事実があった。だけれど、知ってしまった。でもそれでも彼女は流すことをせずに受け止めて真っ直ぐ見ていた。

それがあの溢れそうな目の正体だった。


結局は自分が傷つきたくなくて、ごちゃごちゃと濁っていた自分が浅ましくて澄んだ彼女が羨ましいと感じた。

「みつ、」

「私だって言うつもりはなかったんだよ? でも言いたくなっちゃった。その結果が辛いって知っていても伝えたくなっちゃったの、この気持ち。でも後悔はしてないよ。寧ろすっきりした! だから、文くんも、言いたいこと伝えてすっきりしてきたら?」

あの悲しい笑顔はなく、震える声を出しながら文月を見つめる。

「大丈夫。まだ間に合うよ」

すべてを伝えてそう告げた彼女の顔がとても綺麗に笑ったから。



「――ありがとう」


急げ。

彼女が押してくれた言葉を無駄にしないためにも。

急げ。

迷ってもいい。ただ後悔はしないように。

急げ。



――私が見守ってあげるから。




********



文月が息を切らして神社に着いた時、彼女はあの時と同じように音を奏であの場所にいた。

聞こえてくる音を感じ自然と耳を澄まして、自分のなかに暖かさが滲むようにゆっくりと広がっていった。それはあの時と同じように溢れ出る感情。だけれど、ただ一つ違うことは彼女を知っているということ。知らなければよかったと、求めなければよかったと、自分の中で反芻して苦しみやすっぱさを感じて。だけれど、彼女を知りたくて求めたかった思いは止めどなく流れ出て、見つけたいと願い、切なさと共に嬉しさを味わった。


初めて会ったあの時と同じ光景なのにあの時と同じ気持ちを抱くことができないことが、こんなにも彼女によって自分の感情が動かされているのだと改めて実感してしまった。


――風が吹き、音が止む。


あれだけ会いたくないと拒み聞きたくなかった彼女の音が今ではもっともっとと自分の中で欲が渦巻いている。

「……こんにちは」

「こんにちは、文月くん」

一定の距離は保ち、彼女の目と自分の目が交差する。目を見るだけで溢れる感情は止めることはできないのに、ぐつぐつと煮えたぎる中でもう少しだけ待ってくれと無理矢理その気持ちに蓋をして感情にブレーキをかける。


「文月くん。私ね、ある人を探してずっと此の世に彷徨っていたの。誰にも私は視えていなかったから、私が誰かを探してたって何をしていたって、それは他の人には関係ないと思ってた。だって、いつも誰かとすれ違い語りかけても誰も何も反応しないで通り過ぎるから。でもだからといってそれが辛いとは思わなかった。それが当たり前のことだったから。私にとって……今の私の存在にとって、普通のことだったから」

当時のことを思い返しているのか、目を伏せて言葉を一旦止めた。

何てことはないかよように告げるそんな彼女の姿が犀川には悲しく思い詰めているかのように錯覚して見えて寂しくなった。

「だからこそ、当たり前が壊れたことは私にとって凄く大きなことだった。文月くんと出会って久しぶりに暖かさに触れて。止まっていた時間が、世界が文月くんと出会ってから動き出したの。……でもなんでかな? 暖かいのに辛かったよ。暖かいことが辛かったの。

その広がっていく暖かさに戸惑うなかで、この間やっと見つけたの。ずっとずぅっと探していた人を。――嬉しかったなぁ。凄く嬉しかった。だってやっと見つけたんだもの。……でも、なのにね。嬉しかったのに、泣きそうになったの。

もしその人が苦しんでいたり悲しんでいたりしていたのなら、まだ私は存在いるつもりだったんだ。けど、その人ね、辛そうでも大丈夫だった。悲しんでいても大丈夫だったの。だって笑って前をちゃんと見てた。きつくても、倒れそうでも決して諦めたりしてなかった。それに気付いた時、私嬉しくて。もうこの人は私がいなくても大丈夫だと分かって。でも分かっていくのと同時に悲しかった。嬉しくて、辛くて、悲しかった。

結局、泣きそうになったのは嬉しいからじゃなくて寂しくて泣きそうになったんだって、甘えてすがり付いていたのは誰でもない私自身だったんだよね」

独り言のように呟かれる言葉一つ一つに重みがあって、そこにはたくさんの彼女の思いが詰まっていた。

……まるでこれが最期の出会いだと分からせるかのように。

「――文月くん。私、辛い思いをすることになったけれど、でも幸せだった。だってあんなに暖かった。文月くんに出会わなければ、あの辛さも暖かさもきっと知らないままだった。

暖かさを味わいたくて、文月くんに甘えて。だから私、一人で何も言わずに消えようと思ってた。文月くんに別れを告げたらまた甘えてしまうと思って、揺らいですがり付いてしまうと思って。……でもそれは違うって教えてもらったの。揺らいでしまうのは全てを伝えていないから、別れがくると分かっていても伝えないことが一番甘えてしまっているのだと教えてもらったの。だから、私は今ここにいる。言いたかったことを伝えてからいくことにしたの」




――私は、あなたが好きです。

 忘れてしまった暖かい気持ちも、思い出した戸惑いも。あなたがくれたものすべてが私にとっての感情でした。

 揺れ動く感情をあなたに伝えたくて、恋しくて。

 きっかけは単純なものだったのかもしれないけれど、ほかの誰でもないあなただから私はこんなに揺さぶられて泣きたくなってるんだよ。

 短な時間の中で私を見つけてくれて有り難う。 

 そんなあなたが大好きでした。



とても短い台詞のような言葉が流れていく。

だけどそれはまるで手紙のようで長く遠くから自分のところへと届いた。

手紙を読む嬉しさと読んだあとの相手へと思いを馳せる物寂しさ。

台詞のようだけれど手紙を読んでいるような錯覚を覚えるのは、この言葉には始まりと終わりが括られていないからだ。



「琴葉、さん」

行かないでとも言えずに、絞り出す言葉。引き留めたい思いが蓋をした感情からぐつぐつと吹き零れそうでも、あんなに泣きそうな顔で、好きで、好きでしたなんて言われたら、自分の思いなんて伝えられない。そうでないと彼女の思いを蔑ろにしてしまうとそう感じてしまった。



両の手を思いっきり握り、空を見上げ、大分暗くなってしまった空を見つめる。

引き留めることも言葉を返すこともしない。

だけれど一言だけ伝えたい。

最期の想いが伝わるかは分からないけれど、届いてほしい。そう強く思いながら。

「――月が、綺麗ですね」

彼女も同じように空を見つめる。

「……なにも、みえないよっ、」




――見上げる視界の中に小さな光が蛍のように儚さと切なさを残すようにゆらゆらと舞うように空へと昇って行った。

最後に聞こえた彼女の明るく震えた声が、自分が見ていたこの空と彼女が見ていたこの空が同じものだったのだと伝えてくれた気がした。



――ポタ、ポタ。ポツ、ポッ。

「あー! 雨が降ってきたー!」

どこからか聞こえてくる声は、滴り落ちる滴と共に聞こえてきて。だんだんと強くなる雨音は、頭も顔も足元さえもまるで全身が雨を降らせているみたいに自分自身をどんどん冷やしていった。


――バンッ。ピチャッ、ピチャ。

近くで聞こえる傘を開く音と近づいてくる足音。


「――文くん、帰ろう?」



******



親がなくなってから自分を育ててくれた二人は、元気がない自分を楽しませようと色々な遊びに誘ってくれた。

おじさんは自分ぐらいの子供は何が好きなのか分からなくて、本屋に行って調べてきたり、ゲームの遊び方が分からなくて自分が学校にいってる間に遊び方を必死に覚えて、おばさんはいつも美味しいご飯を用意してくれて、おかえりなさいと言ってくれた。

だけど、その日常が辛かった。

家に帰りたくて、だけど少年が今帰りたい場所はもうなくて。

思ってくれているのは感謝していても、どう接していいのか分からない。

だからどこでもない場所へ行きたかったのかもしれない。何もない場所へと。わからない場所へと。

あてもない旅は迷子のようにふらふらと歩いて歩き疲れたとき、無性に泣きたくなって立ち止まった。

そんなとき、涙を拭ってくれた人がいた。


『ふみくん!やっとみつけたー!』


『もー!おばさんもおじさんもふみくんのことしんぱいしてるよ!』


『言ってることよくわかんないけど、見えてるものだけがすべてじゃないんだよ。だってはづきのお父さん、はづきが新しく知ったことを教えるとね、いつも「へぇーそうなのか、お父さん知らなかったな。はづきは賢いなぁ」って言うの。お父さんが知らないことをはづきは知ってて、はづきが知らないことをお父さんは教えてくれるの。だからね、大人でも知らないことはたっくさんあるんだよ。

知らないことって気付いてないだけなんじゃないかな? だからね、変じゃないよ。知らないことを知ってるふみくんはすごいんだよ!賢い!』



『それにね、はづきはそばにいるよ。ふみくんのそばにずっといるよ』


『だってふみくんははづきを助けてくれたから』


『えへへ、やっぱり覚えてない? でもふみくんが覚えてなくてもはづきは覚えてるからいいの。きっと忘れてしまうくらい文くんはいろんな人をたすけてるんだよ。そういうふみくんがはづきはすきなの、だから、だから泣かないでっ、ふみくんが、ないちゃうと、はづき、はづっ、き』


――あぁそうだ。中身がない言葉はただ喋っているだけだけど、言葉にしないと伝わらないのだ。


『ふみ!心配したんだからな!』

はじめて自分の家に帰ってきたと思えた、親がなくなってからはじめて笑えた気がした。

心配してくれる人がいて、少年を大切に思ってくれてる人がいた。

泣いてる少年をみて泣いてる人がいた。

ずっと泣きたかったのは少年だけではなかったのだ。

『――ただいまっ』

だってこんなにも胸がいっぱいなのだから。



******


滴り落ちる雫を遮るのはいつも君で、知りたいと願い知り、知って知りたくなかったと、彼女を求めたことで傷付き治っていった矛盾するこの感情は、どちらが正しいのかなんて今の自分には分からないけれど、忘れたくはないと痛みで強く自分の中に刻み込んで浸透していった。


外は遣らずの雨の中、内は恋蛍のように尊いものが霞んでいく。

見上げる中に星のように人々を照す夜の明るさは見当たらなかったが、だけれど今日は惜しむくらい明るく美しい可惜夜だと文月は感じた。


――あぁ、雨ばかりの毎日は終わったんだ。

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半醒半睡 クロサンタ @tuki_hizuki

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