ニューアーバンシティ古賀

鳥海勇嗣

第1話

「それで、奥様が居なくなられたことに関して……旦那様としては心当たりがないと……」

 秋風が本格的に寒くなり始めた十月の終わり、集合マンション「ニューアーバンシティ古賀」の1120号室の玄関には二人の刑事が立っていた。高層マンションのビル風は強く、必要以上に彼らの身を切りかかるので、もう片方、玄関から離れている若い刑事は少し襟を押さえて寒さを凌ごうとした。「こんなに高いところは人の住むところじゃないな」彼は今回の件が単なる主婦の家出としか考えていなかったので、周りを見渡しながら聞き込みとは関係ないことを考えていた、20過ぎたいい大人が居なくなったぐらいで騒ぎすぎだろうと。事実、捜索願を出された後すぐに発見というか、連絡の取れるようになったケースを短いながら若い刑事はよく知っていた。しかし、話を聞いているほうの刑事はそれでもしっかりと手帳に男の話を走り書きしていた。

「はい、確かに妙なところはありましたけれど……」

「妙なところ?」

話を聞いていた刑事の口調が僅かに強くなったので、他所を見ていた刑事は玄関の方を見た。

「ええ……、妻は……少し前から子供をほしがっていたように思います」

 何だそれは?若い刑事は、後ろでこれ以上は聞いてもどうしようもないということを覚悟し始めた。往々にしてそうだ、夫というのは妻の変化に無関心なものなのだ。「まさかうちの家内が」そういって事件に巻き込まれた、もしくは事件を起こした妻に関して語る夫をいったいどれほど見たことか。若い刑事はため息を付きそうになった

「分かりました」

 そういうと、年輩の刑事は手帳を胸ポケットにしまい、

「では、こちらの方でも捜索させていただきますので……」と、早々に帰る準備をし始めた。若い刑事は結局一言も話さなかった気まずさから、口を少し歪めながら「旦那様」に会釈をした。


「迷路みたいですね」

 帰りのエレベーターを待っている間、周囲を見渡しながら若い刑事が言う。年輩の方はただ黙って聞いていた。体温も何も感じないような薄灰色のコンクリートの巨大な建物は、無機質ではあるがそれが逆に妙な生き物のような存在感を与え、内部に居るものはその生き物の胃袋に居るような感覚に見舞われてしまう。

「もしかして、このマンションに吸い込まれちゃったとか。あの奥さん」

 冗談めかして若い刑事が言うと、年配の方ははっとしたように後ろを振り返った。つられて若い刑事も後ろを振り返ると、その後ろには影の中から沸いて出たように、銀髪の老女が立っていた。その異様な風体から二人の体は僅かに硬直したが、また次の瞬間に彼女が無害なものだと判断されると、二人は簡単に彼女に会釈をした。

 その老女とエレベーターに乗った後、十分に彼女と距離を置いたことを確認した上で、若い刑事は年輩の刑事に囁いた。

「あんな人も住んでるんですか?こんな高層マンションに」

 若い刑事は仕事とは関係ないことを言っていたが、年配の刑事は「10万人」と、突然話し始めた。

「はい?」

「日本で年間に失踪する人間の数だ」

「はぁ……」

「うち1割が犯罪に巻き込まれたか帰ってこないか……」

 ほとんど独り言のように言う年配の刑事だが、今回の件を軽く考えていた若い方にはそれが自分に対する叱責のように聞こえてしまった。

「犯罪の臭いはしますか?先輩?」

 もしかしたら先輩は自分とは違う見解を持っているかもしれない。そう睨んで若い刑事は質問した。

「いいや。臭いがしない、まったく」

 調子をはずされたので、一瞬おどけた感じで話そうとしたがすぐに

「まったくしないんだ。ここには臭いが」

 逆に深刻そうに年配の刑事は付け加えた。若い刑事には、ビル風がより一層冷たく感じた。


                  *


 瞳の真っ赤な女の子

 双子の鼠を追いかけて

 見知らぬ遍路へんろに迷い込み

 宵の晩まで帰らずに

 無花果いちじく熟れて落ちるころ

 迎えにいこうと母がいい

 泣く子はいらんと父がいう

 やしろの絵馬は増え続け

 此処で待てども暮らせども

 とうとうその子は帰らずに


 聞き覚えのない歌、雅美が目覚まし時計を見ると夜中の二時だった。

「何あれ?」

「何って?」

 横で寝ている雅美の夫は体をぴくりとも動かさず、ただ布団だけを震わせて答える。

「童謡みたいなの、聞こえるじゃない」

 私がそういうと、横向きだった体を仰向けにして彼はうっすらと目を開いたけれど、またすぐに、

「テレビだろ……」と、体を横向けにして寝てしまった。

 テレビかなぁ、そう思いながら私も少しずつ眠りに落ちていった。また明日も……しなきゃ……、


 私も次の日にはそんなことを忘れ、いつもと同じ私たち夫婦の朝が始まった。そして夫を見送るといつもどおりの一人きりの部屋、一人だけれどパタパタと乾いたスリッパの音がこの新築のマンションに私の、私だけの日々を刻んでいくようで、結構心地よかったりする。


 20階建ての高層マンションだけれど、都心から外れていて駅から歩いて20分以上かかり、しかも駅の周りにはたいした店もない。大型ショッピングモールに行くなら車か電車を使わなければいけないので、家賃は見た目ほどかからなかった。いずれこの辺りにもコンビニなんかの店ができるだろうという夫の考えから、私たち夫婦は結婚5年目でここへの入居を決めたのだった。


 家事の合間にタバコを吸うためベランダへ出る。夫がタバコを嫌がるので部屋では極力吸わないようにしているのだ。こういうのをホタル族というんだっけ、でも昼間にしか光らないホタルというのも滑稽だ。買ったばかりのマッチが乾いた音を立てて炎を上げ、少し風の強いベランダなので慎重にそれをタバコに移す。着火剤の少ない私の愛飲のアメリカンスピリットは妖艶な感じで赤く先を滲ませて、私の肺に煙を送り込んだ。ぼぉっとしながら空を眺めて物思いに耽っていると、「んんっ」という咳払いとともに布団を叩く音がした。どうも上の階の人が洗濯物を干し始めたらしい。私は、はいはい分かりましたよと、聞こえるはずもないのに呟いてから携帯灰皿に、半分しか吸い終わっていないタバコを捻じ込んだ。

 まったく、酒もタバコもやらない主婦って一体何を励みに家事とかやってんのかしらと嫌味を心の中で呟いていると、幼稚園から帰ってきたのだろう子供たちがキャッキャと笑いながらマンションの中庭走り回っている姿が見えた。……やっぱり子供なのかなぁ。そう思いながら手の中の携帯灰皿を一瞥した。関係あるのかしら……。

「ほら、ミキちゃん。そっちいっちゃいダメ。ペイジンさんが出るわよ」

 ペイジンさん?誰それ?声の方を見ると、お母さんらしい人が四階のベランダから身を乗り出して子供に呼びかけていた。子供が向かおうとしていた先には、この新築の高層マンションの敷地内には似つかわしくない、古びた小さな建物があった。そういえばあれってなんだったっけ。取り立てて興味がないから気にもしなかったけれど、あのカビなのか焦げ後なのか分からない黒いシミが張り付いた、一昔前に使われてたっぽいベージュのコンクリートの建物、ぽつんとクラスの貧乏ないじめられっこみたいに建っている。一度近くに寄ったときに、もう剥がれて十年以上たつようなはめ込み式の窓からは、入り組んだパイプのようなものが見えただけだったけれど。


「ねぇ、あなた。ペイジンさんって知ってる?」

夕食のときに夫に聞くと、彼は「外人さん?」と返した。

 どうも彼も初耳らしい。昼間の親子の会話を教えると、ニヤニヤしながら彼はサラダにドレッシングをかけ、

「妖怪の類じゃない?」と、私を意識していった。

「やめてよ、私がそういうの嫌いだって知ってるでしょ。それに今時、母親が子供に妖怪使って注意するなんて聞いたことないわよ」

「ごめんごめん。何だろうね、流行のアニメのキャラクターなんじゃない?」

「アニメって……、そんなもので子供を注意できるのかしら?」

 ドレッシングをかけ過ぎた夫のサラダを見ながら私が言うと、

「……かけ過ぎだよねぇ。いやね、今も昔も本質的には変わんないんじゃない」

「本質的に変わんないって何?」

「いろいろさ……」

 そういうと夫はサラダを口に運び、ドレッシングの味で少し顔をゆがませた。

「気をつけてよね、生活習慣病とか。妖怪だとかよりそっちのほうが怖いわよ」

 私がそう言うと、彼は根拠のない笑顔を向けた。


「このマンションができる前……」

 私が食事のときの話を忘れていた頃、電気を消した寝室で、ベッドの中で彼が突然話し出した。

「ここら一体は集合住宅だったんだ、平屋が集まったようなね」

 私はただ夫の話を、彼を見つめながら聞く。

「そのころの建物だよあれは。でも、そのころから何のためにあるのかはその付近の住民でも知らなかった……。」

 私は体ごと彼に向ける。

「ある日その中の一つの家の子が夜になっても帰ってこなかったんだ……。その子の親は勿論、他の家の大人たちもその子を捜し始めたよ。いつまで経っても見つからなかったんだけど、ある家の子供がその子が例の建物の付近で遊んでいたという事を言い出したわけ。そこで、大人たちはあの建物に向かった……。先頭を歩いていた一人の大柄で頑丈そうな男、多分土建屋とかやってた人だろうね。彼が建物の中に入って暫くすると、大の大人が挙げるようなものではないような悲鳴がしたんだ。大人たちは何かとんでもないことが起こったんだと理解したけど、恐ろしくて近づくことができない。誰もが躊躇して、遠巻きにあの建物を見ているとその男が出てきた……。いや、正確に言うとその男だったはずのやつがね」

「……」

「誰もが恐怖したさ。その男は建物の中で何を見たのか、……一瞬で頭が白髪になっててね。出てくるや否や崩れ落ちるように死んでしまった。そりゃあもう、あたり一面阿鼻叫喚地獄さ。逃げ出す者、気を失うもの、行方不明になった子の親だってそこからいなくなってしまったんだ」

 私はそこまで聞くと、呆れて彼から背を向けてしまった。ほんとくだらない。

「……それ深夜でやってたホラー映画の話でしょ。一緒に観てたし」

「……ばれた?」

彼は背を向けた私を後ろから抱きしめ、首筋に口付けをした。

「やめてよ」

「ごめんごめん」

 そういうと彼は強引に私をふりむかせ、今度は口に舌を入れてきた。

「ん……また吸っただろ?」

「いいじゃない。減らしてるわよ、これでも」

「欲しいんだろ、子供。じゃあ……」

「関係ないでしょ。第一聞いたことないし、タバコ吸うから子供できないなんて」

 そう、関係ない。私がどうだとかは。そうじゃなくてもっと別のことのはずなのだから。


                  *


 エレベーターが降りてくるのを待ちながら、男は携帯電話のメールをチェックしていた。別に見るものなどはなかったが、高層マンションのエレベーターというのは運が悪いとかなり待たなければならない。暇つぶしで妻からのものをざっと見ていると、後ろから同じ階の中年女性に声をかけられた。

「あら河本さん。こんばんは」

「ああどうも、こんばんは」

 男は女性が同じ階の住人だという事は知っていたが、名前などは一切知らなかったので挨拶だけを交わした。

 二人とも暫く無言でエレベーター待ちをしていたが、不意に女性から挨拶以外の言葉を投げかけられた。

「……ねぇ河本さん」

「はい?」

「お宅って、もしかしてお子さんが産まれたりしたのかしら?」

「いえ?どうしてですか?」

 まったく意外な質問だったため男は逆に質問を仕返し、それをきくと女性は気まずそうな感じでたどたどしく話し始めた。

「いえね、詮索するようで申し訳ないんですけれど。昼間にね私洗濯物を干してたんですよ、お天気のいいもんでね。……そしたら、隣のお宅から聞こえたんですよ」

 ああなるほど、隣の住人だったのかと、今ので男は理解した。確か隣ならば「高橋さん」だったはずだ。

「何がです?高橋さん」

「ええ、最初はミャアミャアと聞こえるもんですから猫だと思ったんですけれど。まぁ別にうちのマンションはペット可ですからそこのとこは別にいいんですよ……。でも、ずっと聞いてると、それがどうも赤ちゃんの泣き声らしいんですよ。それでねぇ……」

「……テレビとかではなくてですか?」

「それにしては……、繰り返し同じ泣き声が聞こえるし。それに私もテレビをつけながら家事をしますから、テレビだったら分かりますよぉ」

 男は女性からの妙な質問に困惑し、彼女から目を離して心当たりを探ろうとした。

「いえね、別に違うんだったらいいんですよ。ただ、ほら、もしそうだとしたら何かお祝いの品をと思いましてね。でもまぁ、考えてみれば奥様のお腹もここ数ヶ月別に普通でしたから……、私の勘違いですよね?」

「はぁ……」


                  *


 私は自分の生まれ育った土地が、田舎が嫌いだった。実家から一番近かった駅は無人で、もちろん快速なんかは停まらない。それどころか通るのは、電車じゃなくてディーゼル車、それがひどいときは三十分以上も待たされてしまう。駅の周囲は夜になると真っ暗で、畑ですらない未開発の草むらが広がっていて、遠くからようやく家々の明かりが見えるくらいだった。夜中でも唯一開いていた地元のコンビニエンスストアは、そのせいで周りから大量の虫が寄ってきていて、虫寄灯は絶え間なくバチバチ音を立て、入り口付近には絨毯のように虫の死骸が沸いていた。今でも入店するときの虫を踏み潰す感覚を鮮明に覚えている。少し背伸びをして髪をほんの少しでも染めようものなら「下田さんのところの娘さん、不良になったみたいよ」などとおばさん連中から後ろ指を指され、男子からは「あいつ、夏休みにエンコーやってたみたいだぜ」と陰口をたたかれた。誰かが誰かを監視して常に互いを縛りあっている、いわゆるヘイサテキな社会だったのだ。


 町の祭りなんかもひどかった。安産祈願だとか子宝安泰のご利益があるという神社で、そこにささやかな夜店なんかを開くのだけれど、大して出ているものは美味しくないし、そもそも店をやっているのは町内会の見知った人たちだから、目新しさなんてまるでゼロ。元々はどういう祭りだったかというとそれがまたひどくて、昔は子供に恵まれない夫婦が集まって別々のクジを引いて、そこで相手を振り分けられて一夜限りのペアを作る。その後神社の広間に集合して、全員で「こと」に及んだのだという……ってスワッピングパーティかよ!それが戦後まで続いていたというのだから、自分の故郷といえど恥ずかしくて仕方ない。


 いつかこの田舎から出て行ってやる。私の青春はそれを実行するために費やされた。


 勉強して親を説得し、何とか東京の大学にもぐりこんだ。中途半端なところなら許されないから、そこそこの偏差値の有名私立、そこで今の夫と知り合ったのだ。愛しているかどうかは関係なかった。この人なら私をあの土地から遠く引き離してくれる。そのための結婚だった。結婚は今でも成功だった思っている。私はこの、私の知らない土地私を知らない土地、そこで何者にも干渉されずに、自分の人生を一から作っている。ここに移り住んでからはあらゆるものが快適だった。実家に帰るのは年に一度か二度くらい、そもそも家には兄がいるし、私はよそへ嫁いだのだから両親に気兼ねすることなんかはいらない。しかも夫も次男だから、実家のほうか口うるさい事は言われない。そう、私は自分の人生に勝ったのだと思った。あの瞬間までは。


 三年前の正月、夫方の親戚周りが終わり自分の両親に顔見せのために帰郷したとき、家族は産まれたばかりの長男を中心に回っていた。そして、よそに嫁いだ私は完全に外の人間になっていて、あれ程義姉に対して不平不満を漏らしていた母すらが、すっかり彼女と打ち解け、いやそれ以上にかつての私の実家でのポジションを消し去ってしまっていた。そんなにも子供ができるというのは大事なのだろうか。私の両親はそんな風に私に微笑んでくれたことはない。私と同い年のはずの義姉はどこか誇らしげで、正直私は彼女が妬ましかった。子供がほしいという動機にしては不純かもしれないけれど、私はそこで新しい目標が自分に課せられたことを知ったのだ。


 さて今日は買出しの日だ。周囲に店がなく、駅の周りにもたいした店がないので私は車で二駅離れた大型ショッピングモールに繰り出す。一人だと確かにきついけれど、夫は買い物だとかを人一倍めんどくさがるタチなので、休日にあわせたところで戦力は期待できないのだ。まったく、車の運転もぞんざいだし夜の生活もそう。子供ができないのは私のせいだけじゃないじゃないだろうか。申し訳程度に着飾っていざ出陣というとき、運悪くエレベーターで鍵ババアに出くわしてしまった。最悪。

 鍵ババア、このマンションであの建物に並んで得体の知れないもののとされている一つだ。歩くたびにジャラジャラと腰につけた大量の鍵がうるさいので、ここの住民にそう名づけられたのだけれど、その鍵がいったい何のために使われているのかは誰も知らない。見た目も、こんな高層マンションには似つかわしくないホームレス風のみすぼらしい格好で、いつも両手に何かで一杯になったビニール袋を持っている。噂では、鍵ババアはこのマンションが建つ前の、集合住宅からの住人だという。そしてこのマンションを建てる際、立ち退きに鍵ババアがんとして応じなかっため、仕方なしにこのマンションに家賃免除で住まわせる代わりに彼女に立ち退いてもらったのだとか。別に元々鍵ババアの土地ではないのだし、他の住人は長期の立ち退き期間を設けてもらっていたのだけれど、立ち退きの際にどうも鍵ババアと不動産屋との間できな臭いやり取りがあったのだとか。過激な立ち退き要求の際、彼女の息子が不審火に巻き込まれて死んだのだどうとか、まぁ主婦の噂の域を出ないのだけれど。

 エレベーターを出ると、鍵ババアは何もないところにつまずき、「チッ」とおおきく舌打ちをして玄関から出て行った。彼女が出て行ったエレベーターは、あんな汚い格好をしていた老婆がしばらくいたにもかかわらず、あまり嫌な臭いはしなかった。

 マンションの玄関から駐車場へ向かう途中、中庭の隅の例の建物が視界に入ったので、何とはなしに近くまで足を運んでみた。やはり以前と変わらない。何に使うのか分からないパイプの入り組んだ部屋の中、もしコンクリートではなかった建物というより小屋と行った方がいいような大きさなので、そのパイプで中のほとんどが占められている。首を入れて窓から覗こうとしたその瞬間、

「河本さん?」

 後ろから高橋さんに呼びかけられてしまった。

「あ、高橋さん。どうも」

「どうしたんです、こんなところで?」

「いえ、以前から少し気になってたんですよ。この建物何なのかなぁって」

 私がそういうと、高橋さんは少し怪訝な顔をした。

「あまり、いい噂は聞かないわよ」

「はぁ」

 ここでも噂。私たちの主成分はいったい、噂で構成されているのだろうか。

「マンションの外観に合わないし、何よりもう使わないものじゃない?建築業者の人達もね、ここを取り壊そうと何度かやってみようとしたみたいだけど……」

「だけど?」

「取り壊そうとするたびに、何らかの事故とかが起きるんですって」

「事故、ですか?」

「ええ、……重機が故障したり、作業の日に暴風雨に見舞われたり、……酷い時には作業員が急死したらしいのよ」

「……」

 高橋さんの話を聞きながら、横目でガラスのなくなった窓を横目で見た。窓からギロチンが降りてきて、覗き込もうとした私の首を切断する光景を想像しながら。

「まぁ噂よ、噂」

「そうですよね。そんな物騒なマンションなら、買い手なんか付くわけありませんものね」

 私が不安をかき消すように言うと、なぜか高橋さんの顔は少し曇った。


                  *


 帰宅してリビングに入ると男の好物の匂いがした、ハンバーグだ。女には子供っぽいと結婚当初は笑われたが、なんだかんだで現在は彼女の得意料理になっている。そういう努力を見る度に、彼女のいじらしさを男はかみ締めた。

「お、ハンバーグだね。なんかいいことあったの?雅美?」

 しかし、男のそんな言葉が聞こえていないかのように女は鼻歌を歌っていた。

「……見知らぬ遍路に迷い込み

宵の晩まで帰らずに

無花果熟れて落ちるころ……」

「……うん?何の歌、それ?」

「歌?」

「ああ、歌ってたじゃないか。童歌みたいなの」

 ネクタイを緩めながら男は聞くが、女は

「そう?テレビじゃない?」と、まるで気にならないように食卓に皿を運んだ。

「……そうか」

 テレビはついていなかった。男は同じ階の中年女性の声を、壊れたレコードのように内容は聞き取れずにただ再生していた。

「あれ、誰か来るの?」

「え、どうして?」

「だって、お皿が……」

 食卓にはハンバーグの乗った皿が三つ用意されていた。

「あ、ごめんなさい。どうしちゃったのかしら私……」

 そういうと女は暫く余分なもう一皿を眺め、そして男はその自分の妻を眺めた。少し鼓動を荒くしながら。

「……雅美?」

「ああ、うん。ほんと駄目ね。子供が食べるにはこんな皿じゃ大きすぎるし」

 女はそう漏らすと、その皿をキッチンに運んだ。

「……やっぱり、子供、欲しい?」

 片付けている女の背中に男は言った。

「どうして?」

 振り向いた女の笑顔があまりにも清々しかったので、

「いや、何でもない」

 男はそれ以上言及できなかった。


                  *


 私の化粧棚の奥には場違いなお守りがある。故郷の神社で買った「子宝を授かる」というご利益のあるやつだ。両親のすすめで足を運ばされ、私はいらないといったのだけれど、これで子供ができるなら儲けもんじゃないかと夫が購入してしまったのだ。帰りの車の中で、それが元々どういう神社で、どれほどそのご利益に意味がないかということを教えてやると、夫はニヤニヤしながら、「いやぁ、雅美のご先祖はずいぶん発展的だったんだなぁ」と、いやらしい笑いを浮かべながらいった。

「やめてよ、そうやっておちょくるの。私のおばあさんの若いころまでやってたのよ?もう飛行機だって飛んでた時代なのに。ほんと信じらんないわ」

 わざわざ地元の恥を夫に教えたことを私は激しく後悔した。不機嫌になった私をなだめるつもりだったのだろうか。夫は言う。

「いやいや、本質は変わんないよ」

 私は冷めた目で運転席の夫を睨んだ。

「本当だって。今だってやれ試験管ベイビーだの、人工授精だの、……精子バンクとかもあんじゃない?あんなのだって、十分自然の摂理を曲げてるようなもんだぜ?」

 陽一は私よりもワンランク上の大学に行っていて、しかも医学部だったこともあり、時折彼の話題についていけなくなってしまうことがある。そして彼はそんな私を少しばかり面白がっているように見える。まぁ、大学当時は精神医学をやっていたらしいのでこの話が彼の専門外だということは理解できた。

「面白がっても、絶対にまねしたりしないでよね」

「まねするって、どうすんの?」

「どうすんのって……、言わせないでよ」

「めくるめく世界だな」

「バッカ」

 たまに彼の冗談が冗談と捉えられないような、妙な寒々しさ。結婚して5年以上になるけれど、いまだ彼のそういうところにはなれない。彼の職業病というやつだろうか。


 化粧をしながら引き出しから取り出した例のお守りを眺める。お前はそういう正体じゃないだろうと毒を浴びせながら。ふいに化粧台の上をガタガタ振動させて携帯電話が鳴った。着信を見るとついこの間遊びに来た大学時代の友人、サツキからだ。

『雅美へ:この間は急に来てごめんね。裕介ったら泣いてばかりだったしね。もう、3歳になるのにまだ知らない人の家にいくとぐずったりするのよ。晩御飯まで用意してくれてたのにホントごめん。雅美のハンバーグ楽しみだったのに。また埋め合わせするからよろしくね。』

『RE.雅美へ:ううん、久しぶりにサツキにあえて楽しかったよ。裕介君もすごい可愛かったし。あんまり浮かれてたから、帰ってきた旦那に変な顔されちゃった(顔文字)。』

 携帯をパチンと閉じると、私は保険証を取り出して意気揚々と駐車場へ向かった。


 その日の晩、寝ていると少しずつ体が熱くなっているのに気付いた。ああ、「旦那様」ねと、私は体を暗闇のその男に任せた。横向きだった体を仰向けに転がされ、腕をバンザイの状態で挙げられる。……でも何かが違う。なぜ今日は髪に口づけをするのだろうか、どうして今日はこんなにも息が荒いのだろうか。そしてなぜか彼は私の両手首をシルクのリボンのようなものでベッドに縛り付けようとしている。……どうしてこんなことを?ちょっと待って、第一私の夫はタバコを吸わない。

「ちょっと……だ誰よ!あなた」

 暗闇の中で、男がうろたえる。急に立ち上がろうとして大声を出してしまったので少しめまいがしてしまった。頭の中でシンバルを鳴らされた見たいにひどい頭痛、一体何が起きたのだろうか。男がいる方向も定まらず、私はわめき散らしてしまった。

「どうしてこんなことすんの?どういうつもりよ?」

「いや、たまにはこういった刺激をと思って……」

「本気?ちょっと信じられない!」

 私は頭の整理をするため、着の身着のまま表に逃げ出た。後ろで夫の声がするがとりあえず今は彼から逃げなければ。


 エレベーターを使わずに階段で一回まで駆け下りる間に、次第に整理がついてきた。確かに夫は私の故郷の風習を面白がっていたし、人工授精などを自然の摂理に反するとは言っていた。でも、ほんとにそんなことをするなんて……。いや、そもそもあれは本当に夫じゃなかったのか、私の勘違いじゃないだろうか。

たまたま着込んだジャージのポケットにタバコが入っていたので、それに火をつけ一服していると、知らず知らずのうちにあの中庭の隅の建物のまでたどり着いたことに気付いた。火の弱いアメリカンスピリットを強引に吸い込み、ため息混じりにそいつをにらんでいると突然、その建物のパイプが

「ゴゴゴゴゴゴッ!!」と、突然鈍い音を立てて震え始めた。

 何?何で音立ててんの、これ?驚いてタバコを手から落とし周囲を見渡した。

 そのとき私は見てしまったのだ。中庭を囲んだベランダから住人たちが顔を覗かせ、いっせいに私を見下ろしていたのを。いっせいに、何かの来訪を待つかのように。


                *


 「ニューアーバンシティ古賀」の1120号室の午後、二人の刑事がリビングでお茶には手をつけず、そこの家主の男と向かい合って座っていた。


「まぁ、手詰まりですね。こちらとしては遠くに行っていないとは思っておいたんですが」

 年配の刑事が気まずそうに話し始める。

「と、いいますと?」

「奥さん妊娠していたらしいんですよ」

 それを聞くと男は何も返すことができなかった。そう、彼は知らなかったのだ。そしてそれはその刑事たちも知っていた。

「……ですから。あまり遠くにはと睨んでいたんですがね」

 男はもちろん混乱した。なぜ妻はそのことを言わなかったんだろう。確かに妊娠期の不安定な状態だったならば妻の最近の不可解な言動も説明がつく。しかし……。

「すいません……ちょっと一服よろしいでしょうか?」

「もちろん、あなたのお宅ですし」

男はポケットからタバコを取り出し、ベランダへ向かった。

「?」

「……ああ、妻にはなるべく室内で吸わない様に言っていた手前、自分がすう訳にはいきませんから」

「じゃあ、私も」と若い方の刑事が彼と一緒にベランダへ出る。

「よく吸われるんですか?」

 若い刑事は火を男に差し出した。

「……いえ、大学の頃少し吸ってたんですけど、妻と会う頃にはぱったり。でも最近ストレスがひどくて……、まぁ妻にやめるように言った手前なかなか堂々と吸えなくて、恥かしながら」

 若い刑事は分かりますと頷いた。

「お仕事は、カウンセラーでしたっけ?」

「ええ、まあ」

「不謹慎ですけど、結構面白いですよねあの分野。高校の頃『24人のビリーミリガン』を読んで、かなり興味がわいたことがありました」

 それを聞くと男は優しい眼差しを若い刑事に向けながらいった。

「多重人格障害ですね……、そういったものが本当にあると思います?」

「はい?」

「あの症状というのはですね、それを否定している医師の前では表れないんですよ」

「ほぉ……」

「つまりはまぁ、カウンセラーとクライアントの相互作用で出てくる症状と解釈されてるんです」

 それが取りあえず何かよく分からないものだということは若い刑事はよく分かった。

「……そういえば見ました?しし座流星群」

 刑事は話がつまらなくなったので話を変えた。

「ここからだとよく見えそうじゃないですか?」

「それが……」

 その日は妻が消えた日だった。

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ニューアーバンシティ古賀 鳥海勇嗣 @dorachyan

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