タベルナの宴

鳥海勇嗣

第1話

「今何時?」

 理恵は携帯を持っているにもかかわらず、隆に訊く。

「7時……45分だね。」

 隆は律儀に、自分の腕時計で時間を確認し答える。

「そう、もうそろそろね。」

「そうだね。」

 少し緊張している隆に対して、あまり理恵にはそれが見られない。彼女は頬杖をついて、店の壁に飾ってある外国の風景が描かれた絵を見ている。

 あまり理恵とは会話が弾まないことを知っている隆は、手持ち無沙汰になっていたため、何とはなしに髪をかき上げた。露になった隆の額、右の眉毛の少し上の方には、うっすらと浮かんだ古傷がある。

「それ、どうしたの?」

 古傷を見た理恵は、一欠片の好奇心も言葉には含めずに訊く。

「え?」

「そのおでこの傷。」

 隆はその傷を、鏡を見るときでも自分自身あまり気にはしていなかったので、最初は理恵が何のことを聞いているのかわからなかったが、「ああ、この傷ね。小さい時、もう10歳の頃かな、チャンバラをやっていた時にやっちゃったんだよ。拾った木の棒でね。」すぐに傷のことを思い出し、別にたいしたことでもないという風に答えた。しかし、訊いた理恵の方はそれでは済まなかったようだ。

「誰とやってたの?そのチャンバラ。」

「うん……、近所に住んでた年上の子だね。」

「だから誰よ?」

「……覚えてないよ。誰っだたかな?」

「年上っていうことだけは覚えているのね?」

「……うん。」

 それを確認した理恵は、何かを掴み取ったような顔をして言う。

「やっぱり忘れてるみたいね……。あのね、その傷をつけたのは、実は私なの。」

「え?」

 周囲を気にして声を抑えたが、隆は思わず素っ頓狂な声を上げる。

「それはないよ、だって相手が男だったことは覚えてるし、大体……」

「私よ。忘れてるのよ、あなた。チャンバラをやるのは男の子だって思い込みがあるから。」

「……。」

「昔はね、ほら私の方が背が高かったじゃない?それに私、結構男勝りだったから、しょっちゅうあなたをいじめてたでしょ?」

 もうこうなってしまった理恵には何を言っても無駄だと知っている隆は、そのまま流れに身を任せることにした。確かに、理恵は身長が170cm近くあり、女性にしては背は高く、それに太っているわけではないが筋骨がしっかりしているので、言っていることにはそこそこ納得がいく。しかし……、

「あの時ね、私もやっぱり子供だったから、ついつい力を入れすぎちゃったのね。狙うつもりはなかったんだけど、あなたの頭に当たっちゃって……」

 理恵は何か、それこそ繊細な赤ん坊の肌を母親が指でなぞるように、妙な慈しみを込めて過去を

「結構強く当たっちゃったのね……。かなり酷く血が出てたじゃない、覚えてる?」

 隆は「適わないな」という顔をしながら、笑って首を振る。

「まだ子供だったからさ、人の頭からあんなに血が出るのを見たのって初めてだったのね。私、てっきりあなたが死んじゃうんじゃないかって思ってさ……必死に神様にお願いしたのよ。「隆を助けて」って……。でもあの頃といったら「どちらにしようかな、天の神様の言うとおり」ぐらいしか、神様を意識しないじゃない?だから本気で何に祈っていいか分からなくって、そしたらどんどんもっと悲しくなってきて……。」

 そこまで言い終わると、理恵は虚空に視線をやり、口を半開きにして少しほうけたような顔になった。開いた唇が少し揺らいでいる。隆は一瞬、「この人はセックスの時にもこういった顔をするのだろうか」と考えそうになったため、慌ててそれを打ち消し目を逸した。すると突然、理恵は手を伸ばし、向かいに座る隆の前髪を掴んだ。恐らく彼女の恋人も、未来に授かるかもしれない彼女の子供もやられないような独特のやり方で。

「そしてね……この傷を見るたびに私は思い出すの。あなたに対するほんの少しの罪悪感を。」

 理恵はまっすぐに隆を見る、髪を鷲掴みながら。隆もまっすぐに見返す。髪を鷲掴まれながら。

「でもね、同時にこうも考えるわけ。この傷はあなたと私を繋ぐものだっ……てね。」

「……そろそろいいかな?セットしてあるんだよ、こんな髪でも一応。」

「ほぉんとに?ごめんねっ。」

 理恵はそう言いながら手を離し、その手のひらに整髪料がついていることを確認する。

「拭く?」

 そう言って隆はまだ使用していないお手拭きを渡そうとした。

「別に良いわよ、汚い物ってわけでもないんだから。」

 理恵はそれを断ると、再び頬杖を付き、店の内装に目を遣り始めた。隆も隆で、再び腕時計を確認する。

「もう55分だよ。そろそろ来ても良いはずなんじゃない?」

「そうね。」

「……すっぽかされたんじゃない?」

「それは無いわよ……多分。まぁぎりぎりか、少し遅刻してくるんじゃない?時間にルーズそうな男だったから。」

 多分って、本当に大丈夫なんだろうか、と隆は不安になってきた。まったく、この人の根拠のない自信はいったいどこから来るんだろう。

「どんな人なの?その、時間にルーズっていう以外の特徴として。」

「……そうね、とりあえず、スーツとネクタイさえしていれば人前に立てると思ってるような男よ。」


                 *


 目覚ましが鳴る。隆はそれを掴んで時間を確認した。4月の頭でまだ寒い。暫く布団の中にうずくまっていたが、手をグーパーさせて体のリズムを整えると、隆は勢いよく布団から起き上がった。

 朝食を取るためキッチンに行き、棚からコーンフレークを出すと隣の理恵の部屋から人の気配がするのを感じた。

「?」

 隆は玄関を見て靴を確認した。男物の靴は隆の以外は無い。数回ノックして理恵の部屋を開けると、そこには百年の恋も覚めるのではというくらい、無様な寝相を晒している理恵がいた。

「仕事大丈夫?もう9時過ぎてるよ?」

 しばらく返事がなかったので、息を軽く吸い込んで少し大きめに同じ言葉を繰り返す。一緒に昨晩の男の匂いも吸い込んでしまった。

「……今日は遅出。」

 顔を枕に埋めたまま理恵が答える。

「そう、もうすぐ俺は出るから。遅刻しないようにね。」

「朝ごはん作ってよ……。」

「コーンフレークだよ?」

「作って。」

「はいはい。」

 台所に戻り、隆はもう一つボールを用意してコーンフレークを注ぎ牛乳をかけた。

「出来たけど。」

 コーンフレークにいちいち「出来た」という言葉を使うのも変だな、と思いながら再び理恵を起こす。

「起こして。」

 理恵はそう言うと仰向けに体を反転させ、両手を隆に差し出した。隆はその腕を決して自分の首に回すことなく、手首を引っつかみ少し乱暴に理恵を起こした。理恵は頭をカリカリかきながら乱れた頭をさらに乱れさせてテーブルに着く。

「なにこれ?」

 寝ぼけたまま、しかし少しきつめにテーブルの上のコーンフレークを見ながら理恵が言う。

「何って、コーンフレークだよ。ドッグフードにでも見える?」

「そうじゃなくって、何でもう牛乳がかけてあるの?ふにゃふにゃになっちゃうじゃない。」

 お前は帰国子女かよ、というくらいに身振りを加えて理恵は愚痴る。隆はその身振りを普段は面白く見ていたが、流石に今日はそうはいかなかった。人に朝飯(コーンフレークだけど)を用意させて愚痴るなんて失礼にも程があるだろう。

「人に用意させといてそれはないだろ?」

 隆が少しきつめに言うと理恵は「……ヨーグルトとって。」と、結構しおらしくなった。

 隆は冷蔵庫からカップ入りのヨーグルトを理恵に渡すと、彼女はそれを無造作にコーンフレークにかけ、かき混ぜずに口に運ぶ。

「次からは牛乳はかけずに置いといて、直前にかけてサクサクしたまま食べたいの。」

 わがままな言い方だが、それを聞いてあげないと、そのまま理恵は小さな氷の欠片みたいに、溶けて無くなってしまうんじゃないだろうか、というくらいに不安定なものを隆に見せつける。

「あのさ……」

「なに?」

「彼氏をさ……」

「彼氏じゃないわよ、は。」

「……どっちでもいいや。男を連れ込む時はさ、前もて連絡してくれって言ってるじゃん。」

「仕方ないでしょ、急に来ることになったんだから。」

「……どうかと思うけどね、とっかえひっかえってのも。」

 半分独り言のように隆がつぶやく。

「ちょっとぉ、干渉しないでよ。」

 プラスチック製のスプーンをパチンとテーブルに軽く叩きつけて隆をにらむ理恵の口調は、もういつもの調子に戻っている。

「まぁ、単にルームシェアをしてる人間同士ならいいんだろうけど。俺たちは……ほら、「姉弟」なんだからさ。」

 隆がそう言うと、理恵は勢いを抑え少し思案して言う。

「そうね……でもどうなのかしら。こういう時何か弟は姉に意見するわけ?」

「さあ、訊いてみるよ。」

「「訊いてみる」。」

 理恵は嫌味ったらしく隆の発言を復唱する。そして「訊くって、一体どなた様がこういったことをご教授してくれるのかしらん?」と、寝起きとは思えないくらい表情豊かに理恵は付け加えた。目を細め、たしなめるように軽く首を振る、そんな理恵の仕草が隆には妙に色っぽく見えてしまう時がある。

「……友達とか彼女とか、あと先輩とか?」

 理恵はコーンフレークを口に運び、モグモグ動かしたまま首を傾けた。「どうかしらね」と言いたいようだ。次に理恵は野菜ジュースの入ったマグカップを取り、口に付ける前に「彼女いたんだ。」と訊く。理恵は食べながら話すのが上手い。食べることだけではない、部屋を片付けるときも料理を作るときも、彼女は口を動かしながらも必ず動作は滞らない。

「いたよ。言わなかったっけ?」

「さぁね、覚えてないわ。」

 隆は頬杖をついていた肘が外れてずっこけそうになった。

「どんな人?紹介しなさいよ。」

「ああ、まぁそのうちにね。」

「私が鑑定してあげる。」

「鑑定って……、」

「姉の特権よ、」

「そんな特権あんの?」

「それも「訊いて」みたら?」

 理恵は張り付いた笑みで嫌味ったらしくまた言う。隆は「もういいや」と席を立ち学校に行く用意をし始めた。

「怒った?」

「別に。」

 服を着替えると夜シャワー派の隆は、軽く顔を洗って、髪には簡単にワックスを付けて整え、もう出かける準備を終わらせた。バッグを引っ掴めば外には出られる。

「私ね、前から憧れてたんだ。」

 準備をしている最中の隆に理恵が話しかける。ここ数ヶ月の共同生活で、隆が余裕を持って出かけることを理恵は知っていた。

「何に?」

「弟の彼女にね、オネエサンって呼ばれたら、「貴方にオネエサンなんて呼ばれる筋合いはないわ」って言ってやるのにさ。」

「……絶対紹介しない。」

 そのままバッグを手に取り隆は外に出て行った。

「冗談よ。」

 閉まったドアに理恵は言った。


                  * 


 理恵の父親は、世間一般的には理想の父親だったといえるのかもしれない。彼は一流の私大を卒業し大手外資企業に勤めていた。まだ四十代を手前にして新興の住宅街に家を建て、同じく教養のありそうな妻を娶り、1男1女の子にも恵まれ、何不足ない家庭を築いていたように周囲には見えていたことだろう。そんな理恵の家庭に変化が訪れたのは、彼女が十二歳の時だった。父・向井久夫が浮気をしていたことが発覚したのだ。しかし、もともと理恵は自分の家庭が冷めたものだということを子供心に理解していた。「私の父は人を愛せない」そう彼女は自分の中で結論づけていたのだ。だから父親が浮気をし、母が父と別々の部屋で寝るようになった時、理恵はようやく自分の家庭は本当の姿を取り戻したのだとさえ思っていた。理恵にとってこの家は、役目を振り分けられた役者が各々役を演じに来ている舞台であり、にも関わらずあの父と母が同じ寝室で一夜を共にし、あまつさえ性行為に及ぶという事が不自然に思えて仕方なかったのだ。それはきっと理恵の父も同じだったのだろう。何せ彼は、遠縁の親戚の冠婚葬祭の時などは、探偵を雇って自分の身代わりとして出席させるくらい、家族の縁というものを着脱可能な記号にしか考えていたなかったのだから。しかし今でも理恵が疑問に思うのは、そんな父がなぜ浮気をしたのかということだ。人を愛せないはずの父が、あの歳になって「真実の愛(笑)」などに目覚めたというのだろうか。

 理恵にとっての屈辱はまさにそこにあった。

 いよいよ本格的に向井夫妻の離婚が決まって、理恵が母親に、孝司が父親に引き取られることになり、そこで最後の晩餐ということで、母を除いて子供たちが父と夕食を共にすることになった晩のこと、その帰り道、芳香剤のキツイ父の車の中で、理恵は弟の孝司が寝ていることを確認すると、挑発的に浮気相手のことを父に訊いてみた。

「どんな人?」

「誰が?」

「浮気相手。」

 自分の娘にこんなことを言われて、流石にいつも冷静で且つ作り笑いの得意な父、向井久夫も驚きを隠せなかった。そしてそんな父を見た理恵は、少し勝ち誇ったような気持ちになれた。サイドシートから父を眺めながら、いつもきっちりとオールバックにまとめ上げられた父の髪が、『黒火が危機一髪』みたいにボンっと逆立つのを想像すると、彼女はバレない様にほくそ笑んだ。

「どんでもない我侭な人だよ。感情的でね。」

「ふーん。」

 父は何とか答えたが、それでもまだ理恵は自分の中に有利なものを見ていた。しかし……

「とても強いというか……激しい人だね。うん、そうだな……、理恵に少し似てるかな。」

 父はいつもの張り付いたような笑顔ではなく、本当に柔らかな笑顔を理恵に見せて言った。万年雪が解けて、その露になった地表からよく肥えた土が覗く情景を思わせるような笑顔だった。

 その時、彼女はどこか深く、寒く、暗い何かの底に叩きつけられてしまった。彼女の屈辱と絶望はこの時始まり、そして同時に、彼女の何かが決定づけられたのだ。

 昨晩彼女を抱いた男の車の中は、きついレモングラスの香りがした。煙草の匂いを消すためのものであるが、到底そんなものでそれは誤魔化しきれるものではない。しかしその匂いが、消せるはずのないものを不器用に消そうとする、その男の性格そのものを象徴していた。彼女の父のように。


                 *


「どうかなぁ……、普通はあんまり口出ししないんじゃない?」

 隆は律儀にも、自分の彼女、美希に今朝のことを相談していた。

「やっぱりそんなもんか。」

 因みに、彼女は隆と理恵の関係を正確には知らない。そもそも、誰に話してもふたりの関係は理解されるものではないし、特に彼女には大きな誤解を招くに決まっているのだ。

「なに?そんなに隆のお姉さんって男にだらしないわけ?」

「まぁ、俺の知るだけでも……この三ヶ月に三人かな。しかも昨日の男なんて彼氏じゃないなんて堂々と言っちゃってるし。」

「ふぅん。『恋多き乙女』ってわけじゃなくて?」

「違うよ。何ていうか、その、とりあえずって感じかな。分かる?」

「間つなぎ。」

 美希はランチセットのコーヒーに角砂糖を二つ入れる。

「どうだろう。」

「とりあえず、数をこなしてしっくり合う人を、それこそ『運命の人』みたいなのを探してるんじゃないかしら?」

 美希はまっすぐに隆を見ながらコーヒーを啜る。

「でも、それにしてはなんていうか……タイプが同じっていうか。」

「どんなタイプ?」

「まぁ、取りあえず俺はお友達になれそうにないね。」

「ああ、なるほどね。」

 隆は見透かされたように言われたので、少し意外に思った。

「分かんの?」

「何ていうか隆ってさ、そこそこ社交性はあるんだけど、合わない人とはとことん合わないって感じがするもの。」

 人を見透かしたように話すが、しかし理恵とは違い本当に僅かな機微だけで、美希は自分の感情を隆に伝える。

「そんなこと言ったら、誰だってそうだろ?」

「違うの……、他の人達はある程度いくと、仕方なしに妥協していくのよ。同じ世界に住んでるからね、ただ隆は……そもそもそういう人達とは違う世界に住んでるのよ。」

「違う世界?なにそれ?」

 ずいぶんと奇妙な言われ方をするので、隆は混乱し始めた。美希は理恵と違うところで人とずれているように思われるところがある。理恵が何か感覚のズレなら、美希はロジックのズレと言えるかもしれない。

「違う世界というか、違う世界の見え方って言った方が良いかもしれない。違う世界の見え方……、それは同時に違う人の見え方でもあるわ。」

 何か占い師に占ってもらっている最中のように、神妙な態度で隆は美希の話を聞いていた。

「で、美希はその俺とは違う世界の住人っていうのが分かるわけ?」

「これだけ一緒にれば何となく、ね。」

「何となく、か……。」

「それで、お姉さんのことなんだけど、」

「ああ、そうだよ。」

 完全に別の話にシフトチェンジしていたことに隆は気づいた。

「ほら、隆の家ってさ、ご両親が早くに亡くなったじゃない?」

 その瞬間、隆は硬直してしまった。何かに射すくめられたようになったが、しかし確実に幹から視線を逸した。

「ああ、うん。」

「あ、ごめん。あまり言わない方が良かったかな?」

 美希は隆の変化に、流石に恋人だけあって気づいたようだ。しかしその変化の意味は、正確には読み取れていない。

「いや、良いんだ。……で、それが関係あんの?」

「うん、まぁ一般論になっちゃうんだけど、エディプスコンプレックスってやつなんじゃないかな?」

「ああ、なるほどね。うん、それだと一番分かりやすく説明がつくな。でもそういうのって、年齢が離れてる場合じゃない?」

「そうとも限らないよ?年齢に限らず、父親の何かを想起させる……、キーのようなものがあればね。」

「そう……か。」

 少し落ち着きがないように、隆はブラックのコーヒーに口を付ける。

「……最近よくお姉さんのこと相談してくるよね、隆。」 

「え、そうだっけ?」

「うん。だって私、少し前まで貴方にお姉さんがいることすら知らなかったんだから。」

「ええっと、ほら急に二人暮らしする事になったからさ。」

「そうか、うん分かる。確かに私も、実家にいる兄と二人暮らしをする事になったら、改めて考えさせられることがあると思うもん。そうね……そう考えるとどうなのかしら、以外と異性関係に口出しすることがあるかもね。私も兄がとっかえひっかえ女の人を家に連れ込んだら、物申すかもしれないし。」

「だろ?」

「でも、どうかな。やっぱり兄弟のあり方なんて人それぞれなんだから、あんまり人に聞いて答えの出るものでもないと思うな。それこそ答え無き問いよ。」

「……だな。」

「ただ、どんなになってもどこかで気遣っちゃうっていうのはあるんじゃないかな?どんな兄弟でも。」

「え?」

「ほら、基本は家族なわけじゃない?隆と私は、今はこうだけど……結局は他人なのよ。結婚して子供をつくったりでもしない限り、法的にも倫理的にも私たちを繋ぎ留めるものなんてないわ。でも、隆とお姉さんはどんなになってもその縁は切れることはないじゃない。」

 この美希の意見は最もなものである、一般的には。しかし……、

「う……ん。」

 隆にとってこの最もな意見は同意のできないものであった。そしてその不自然な隆の反応を美希は見逃さなかった。

「……?ね、会ってみたいな、隆のお姉さん。」

 テーブルからやや身を乗り出して、子供のような好奇心を含ませて美希は言う。

「え?いい……けど。」

「何かある?」

「う~ん。今朝さ、アネが一度でいいから『弟の彼女にお姉さんって言われたら、あなたにお姉さんなんて言われる覚えはありませんって言い返すのをやってみたい』とか言ってたから、何をしでかすか心配だってのがあるんだよね。」

 もちろんそれだけではない。隆にとって理恵は、常に爆弾を抱えたテロリスト、いや爆発物そのものに置き換えられるくらい、扱いに用心の要る存在なのだ。

「面白い人だね、やっぱり会ってみたいな。」

「まぁ、そのうちにね。」

 そう言うと、隆は、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。そして、美希は隆がなるべく「姉・お姉さん・姉貴」という言葉を使わずに会話を組立て、かつ「姉」といざ使った場合には、非常にぎこちない言い方だったことを見抜いていた。美希は思う、彼は何か一番大事なことを私に隠しているんじゃないだろうか、と。


                  * 


「ねぇ、バイト君。」

 某保険会社の忘年会の騒がしい中、理恵は隆に話しかけた。基本は社員だけの飲み会だったのだが、普段から仕事ぶりがまじめで愛想がよく、かつ数人の女性社員が、冗談めいてだが、隆を狙っていると発言していたことから、隆と仲のいい男性社員が面白半分にバイトの彼を誘っていたのだ。しかし、いざ忘年会が始まってしまうと、社員達は「若いねぇ、大学生はいいねぇ」等と簡単に絡んだだけで、後は仲のいいグループで完全に固まって飲むようになってしまった。一人、周囲と浮いてしまった隆は、いきなり帰るのも失礼だと考え、仕方なしにビールをチビチビとやって、さらに余った料理をこれまたチビチビ食べていた。そんな隆に声をかけたのが理恵だった。

「はい、何でしょうか?」

 普段、何かと会社での奔放な立ち振る舞いから、せっかく男受けする外見であるにも関わらず、周囲に敵を作っていた理恵から話しかけられたので、隆は若干戸惑った。隆は極力敵を作らないために、最大限の努力をするタイプだったからだ。

「名前なんていうの?」

「向井隆です。」

「え?」

 隆は理恵が周囲の騒々しさから、自分名前を聞き取れないのだと思った。

「む・か・い・た・か・し・です。」

「それは分かるのよ。字はなんて書くの?」

 字?それが何か重要なのだろうか?隆は疑問に思ったが、取り敢えず答えておいた。

「向井は普通のやつですよ。お向かいさんの向かう、井戸の井、隆はえっと……、」

「考えるに司るって書くの?」

 なぜかとても大切なことのように理恵は訊く。

「いいえ?違います。ええっと、「隆起する」とかのリュウですね。」

「そう。」

 考えるに司るの方のタカシじゃなかった時点で、理恵は幾分か興味を失っていたようだ。

「えっと、お名前は?」

 隣に座るこの女性の名が吉沢、ということは覚えていたが確信がなかったので念のため隆は訊いてみた。

「ああ、ゴメン。知らなかったっけ?吉沢理恵っていうのよ、よろしく。」

 そういって、理恵は手を差し出した。何か妙に堂々とした握手の差し出し方に奇妙なものを覚えたが、すぐにその手を握った。改めて考えると、隆は女性と握手するのは初めてだった。

「お姉さんとかいる?」

 いきなりその質問から普通入るだろうか。先程から理恵の一つ一つに、他の人間とのズレを感じながら、隆は彼女と会話をする。

「いいえ?それが何か?」

「うん、良いのよ別に。」

「はぁ……。」

 隆はこの僅かな会話のやり取りで、理恵が人を振り回す人間なのだということを、改めて理解し始めてきた。しかし、隆にとってはそんな理恵でも、物言う木々のように完全に風景となってしまっている、酔っ払いの面々よりは幾分か体温を感じる対象でもあった。そしてそれは理恵も同じだったのかもしれない。

「ねぇ……、」

よりいっそう理恵は隆の耳に近づき、話しかける。

「はい?」

 隆はその接近に僅かながら緊張する。

「二人でもっと静かなところ行かない?」

 一瞬で隆は真横の理恵の顔を見ることが出来ないくらいに驚いて硬直した。何ともまぁ、ありがちな誘い文句なのだが、隆にとっては女性からその申し出を、しかも会話が全く弾んでいない理恵から言われたため、思考が完全に停止してしまっていた。

「……どう?いやなら別にいいんだけど。」

 その一言で何とか隆の硬直は解け、首だけを回して理恵を見た。隆の見た理恵には、何故か彼には存在もしない姉を思わせた。

「……良いですよ。」

「じゃ、行こっか。」

 隆は理恵に促されるまま居酒屋を後にした。恋愛とはどこで発展するのか分からないものだな、と幼い勘違いを抱いたまま。

 暫く繁華街を二人で歩いていたが、あまりにも理恵が無言で歩き続けたので、流石に隆も痺れを切らしてきた。二人きりになるどころか、だんだん人通りが多く、賑やかな場所になってきている。

「すいません、どちらまで行くんですか?」

「座って話せるところよ。そうね、あそこが良いわ。」

 そう言って理恵が指差したのはマクドナルドだった。隆は期待を捨てる準備をした。

 そこまで食欲のなかった二人は各々コーヒーを頼み、一応追加でつまみ代わりとして、隆はナゲットを注文する。

「何か……、特別にお話があるんでしょうか?」

 席に着きながら、先に座っていた理恵に訊ねた。理恵は細長いピアニッシモに火をつけながら聞き流す。

「……ねぇ、向井くんってさ、誰にでもそんな口の利き方なわけ?」

 少し自意識過剰な振る舞いで理恵は隆に訊く、隆の問いを無視して。

「というと?」

「なんかさ、敵を作らないようにし必死って感じ。」

「まぁ、でもそれが一番理想的じゃないですか?人として。」

 確かに言われてみればそうかもしれないが、何故この人はいちいちそんなことを取り立てて指摘するのだろうか。もう隆は面倒くささすら感じていた。

「うん、でも君の場合さ、良い人っていうよりも、臆病者って感じがするんだよね。」

「それはあるかもしれませんね。言われてみれば確かに。」

 この時点で隆は、完全に彼の得意とする「うまく切り抜けるモード」になっていた。ことさら反論せずに、かつ決して感情的にはならない。あわよくば謝罪する準備すら出来ていた。

「……ムカつかない?こんなことろくに話したことない人間に言われて。」

「腹が立たないと言えば嘘になりますよ。でも、吉沢さんの言われている事が正しい可能性がある以上……、」

「私についてどう思う?」

 隆の話を最後まで聞くのが怠かったのだろう、理恵が途中で遮った。

「どうって……、バイト先の人?」

「それは情報ね。そうじゃなくてどう思ってるかよ。」

「ちゃんと話したのはついさっきですからね。何とも……、」

「だから、その僅かな間の会話でも良いわよ。それでも難しいなら……、ほらあなたって結構周りの人を観察してるでしょ?」

「え、……まあある程度は。」

 これは隆も意識していただけに、先ほどの臆病者だという指摘よりも隆を驚かせた。隆はある特定の個人と接触を図る前に、その当人が他の人間とどういう会話をしているかをなるべく観察するようにしていた。これは本来人付き合いが得意ではない隆の処世術といってよかった。

「でしょ?そこら辺踏まえてさ、私のことどう思う?」

 理恵は一連の動作が台本に書いてあるように、特徴的な煙の吐き出し方をした。

「……そうですねぇ。奔放な人かな、というくらいなんじゃないですか?」

「つまんない。」

「え?」

「もっと気の利いたこと言ってくれるかと思ったら、『奔放な人かな』ってたいしたことない観察眼ね。それともこの期に及んで私の心証を良くしようってわけ?」

 理恵はタバコを指揮棒みたいに振り回しながら隆を挑発する。

「はぁ……、じゃあ、あくまで僕が見た限りですが。……吉沢さんてなんかわざと敵を作るような振る舞い方をしてませんか?」

「……ふぅん。」

「敵を作って判断しているように思いますね、周囲の人間のことを。」

 理恵はコーヒーにミルクと砂糖を入れてかき回しながら相槌を打つ。このとき初めて理恵は隆から目を逸した。

「確かにそれだと敵を作ってしまう……、でもそうすることで、何だろ……。一番の味方を判断しようとしている。一番の味方というか……、」

「はずれね。」

「はい?」

「はずれよ。」

「そう……、ですか。」

 理恵の強引な話の運び方に隆はもうこれ以上言葉を重ねることができなくなったが、一方で彼は理恵が何か妙に嬉しそうな顔をしていたのを見て取った。

「はずれだけど面白い見方じゃない。どこでそう考えたの?」

 隆は、多分こういう風に彼女が聞いてくるということは、あながち自分の読みは完全には外れていなかったのだろうと思ったが、彼はいちいち人に説明をするために分析をしているわけではないので、何を言っていいか分からなくなった。

「……まぁ、フィーリングですかね。」

「『フィーリング』。」

 理恵は隆の言葉をただ重ねた。

「はい、それ以上は何とも。」

 あまり根拠はないので、良い答えではないと思ったのだが、何故か理恵の方は満足したようだった。

「向井君ってさ、彼女いるの?」

 この問いは一体何を意味するのか良く分からなかったが、隆は一応「いますよ。」と、無難に答えておいた。しかし、実際には隆にはその時には「とても仲の良い女性」がいるだけで、彼女はいなかった

だが隆はもうこの時点で、理恵と何か良い関係に発展しようという気はさらさら無かったので、嘘をついてこれ以上話がややこしくなることを避けようとしたのだ。

「ふぅん、どんな人?」

「どんな人って……、」

 もう嘘だとバレたのだろうかと少し詰まった。

「私には似てない?」

「全く。」

 これには即答できた。

「そう……。」

 それにも何か理恵は満足そうな顔をしていた。

「ねぇ、」

 何かとても面白い遊びを思いついた子供のように、理恵は瞳に光を宿らせて隆に顔を近づけた。

「はい。」

「君とさ……、隆と試したいことがあるんだけど。」

 この時の理恵の隆に対する提案は、おおよそ一般の人ならば断ってしまうようなものだった。しかし、隆と話し始めた時点で、いやオフィスで彼を見ていた時から、理恵はもう既に隆に何かを見出していたのかもしれない。隆の「フィーリング」などというものを超越するくらいの、それこそ霊感と言い換えられるくらいのものに。


                 *


「心配はない。おじさんが隆君の面倒はきっちり見るから。」

 父と母の葬式で、ただ生気を失って立ち尽くす隆に、伯父は隆の肩を掴み、真っ直ぐに彼の目を覗き込んで熱っぽく言った。

 全くもっての不幸、父と母を同時に交通事故で失った隆だが、その不幸中の幸いか、彼には親戚も多く、加えて親戚同士の仲は良好なものだったので、隆は天涯孤独の身になるようなことはならなかった。さらに彼を引き取ると申し出た彼の伯父、向井大樹氏は勤務先で、その人柄から周囲の尊敬を集めるほど「よくできた人間」だった。隆を彼が引き取ると他の親戚に申し出たのも、蝋人形のようになった隆を励ますのと同時に、これが先立った自分の弟のためであり、かつ自分の使命だと根拠のない善意に突き動かされたためであって、打算的なものは何一つなかった。 

 しかし、隆はその善意を素直に受け止めることができなかった。彼は伯父の人間性をよく知っていたし、その気持ちに嘘偽りがないことも見抜いていた。しかし隆は、両親を亡くしたと同時に、人並みな愛情の感じ方そのものも喪失したのかもしれない。伯父が自分の為に何かをしようとすればするほど彼はそれに反発した。伯父に感謝しながらも、その感謝の仕方、行動はいつも隆の気持ちとは裏腹なものばかりだった。とはいえ直接反発したくても、保護者として非の打ち所のない伯父に対しては何も出来なかったので、ただ不登校になったり、たまに登校したと思えば学校で級友を殴って問題を起こし、伯母を学校に呼び寄せたりしていた。 

 そんな隆に対しても伯父は諦めず、自分の子供の面倒を見る一方で、隆を気にかけ高校にも進学をさせ、彼の大学進学さえも視野に入れていた。もし、弟が生きていたなら、この子にはこれくらいのことをやっていてあげていただろう、という思いから。しかし隆は高校に進学したものの、やはり余り授業態度は真面目だとは言えず、ただ彼の中の残された時間を潰していくだけだった。伯父とは違い、隆に対して伯母とその娘は接し方に戸惑いを覚え、そして彼女たちの態度がより一層、彼に矛先のわからない怒りを溜めさせた。だが、そんな隆の人生に二度目の転機が訪れる。 

 伯父夫婦の離婚である。 

 その時隆は、初めて自分の存在が彼らにとって重荷であったことを知った。自分さえいなければ向井家は何も問題を抱えることはなかったのだと。いや、もっと正確に言うといつまでも自分たちに反発する隆が問題だったのだ。隆はその事実に、うすうすは感じてはいたが、しかしそれがこの家庭を崩壊させるまでとは思ってはいなかった。だが離婚が決まった際、従姉から「疫病神」と言い放たれた時、彼は一度目は運命によって、そして二度目は自分の手で家族を失ったことを知った。 

 俺は自分の手で改めて家族を壊さなければ、何も理解できなかったのか。隆は帰る場所を自ら放棄し、さらには自分にはそれを手に入れる資格すらないのだと自分で思い込むようになった。もう自分はただ一人、周囲とうまくやり取りし、波風を立てずにひっそりと生きるべきなのだ。理恵と出会うまでは、それが隆の生き方を決めていた。


                 *


「ユトリロだね。」

 隆は理恵と目線を同じくして呟いた。

「何が?」

「あの絵だよ。」

 さっきからあの絵を理恵が見ているので、てっきり興味があるのだと思い隆は説明した。

「ふぅん。」

 しかし当の理恵は頬杖をついたままで、余り興味がないようだった。

「詳しいの?絵。」

 目だけを隆に向けて理恵は訊く 

「人並みにね。」

「私は知らないんだけど?じゃあ私は人並みに知識がないってことね。」

 理恵はニヤリと笑い顔を隆に向け、顎を突き出した。

「そういうわけじゃ……、」

「冗談よ。」

 理恵の冗談は冗談だと分かりにくいものがあるが、慣れてくるとそこらへんの女の子のそれと同じくらい他愛もないものだと分かってくる。理恵が男と長続きしないのは、彼女にとっては何気ない行為の一つ一つが、相手にとってはそう感じられないからなのかも知れないな。隆は美希と会話する時とは違う感覚を、理恵との会話に見出し始めていた。

「なんていうのかな、あの人、ユトリロの絵が個人的に好きなんだよ。他は別に詳しくない。」

「そう。……あの絵ってさ、」

 再びぼんやりと壁に掛けられている絵を見ながら理恵が呟く。

「うん、」

「生理中に見える景色みたい。」 

「はぁい?」 

 隆はグラスに口をつけてなかったことに感謝した。理恵が余りにもさらりと言うので、シャレ抜きで驚いてしまったからだ。

「陰鬱。」

 表情を変えずに理恵が付け加える。

「……あそ。」

 これは冗談じゃなく理恵の真面目な感想だった。隆はユトリロを見ながら苦笑した、男には分かんないだろ。

「どこの人?」

「ユトリロ?確かフランスだよ。」

「ふぅん。」

 理恵は少し眉毛を吊り上げた。 

「何で?」 

「この店の名前ってさイタリア語なんだよね。」 

「ああ、そうなんだ。タベルナだっけ?」 

「そう、タベルナ。イタリア語で『食堂』って意味。」 

「へぇ、食堂なのに『たべるな』なんだ。」 

「面白いでしょ。しかも飾ってるのはフランス人の絵。」 

「そうだね。」 

 二人はようやく共通の笑顔を見せた。 

「……よく来るの?この店。」 

「ううん、初めて。」 

「初めてって、こんなことをするのに?」 

 隆は改めて、理恵の無計画というか、無鉄砲さには驚かされた。 

「別に、なんか名前が面白かったからさ。それに逆に顔見知りなんかいないほうが良くない?こういう場合。」 

「まぁ。じゃあどんな料理が美味しいか分からないんだ。」 

「イタリアンなんてどこも同じじゃない。ピザとパスタで。」 

「そりゃあ……。」 

 それを店員に聞こえるくらいの声で言うなよと思いながら、隆は店員に目をやった。 

「うん……、それにしても来るの遅いね、なんか頼んじゃおうよ。」 

「そうね、じゃあメニュー……なんか豊富ね。」 

 サイゼリヤ程度に考えていた理恵は、メニューの豊富さはさることながら、名前の意味の分からなさにめんを食らってしまった。 

「だね。取りあえずパスタとピザって分けにはいかないね。」 

「決めて。」 

 目論見がはずれても、それすら楽しんでいるように理恵はメニューを隆に放った。 

「お酒飲む?」 

「任せる。」 

「じゃあワイン。何にする?」 

「だから任せるってば。」 

「だからいっぱいあるんだよ。」 

「赤か白。」 

「……他に何があんの。青?」 

 なぜか得意げな笑みで、理恵は隆のその反論に応えた。 

「本当に、何でも飲めるから。……でもそうね、記念になるようなものが良いわ。」 

「記念……、じゃあこのバル、バレスコ・リゼル、ヴァ……で。」 

「なに?」 

「ばるばれすこ・りぜるば」 

「だから何?」 

 笑いを堪えながら理恵が訊いてくる。 

「ばるバレスコ・リゼルば……だよっ。」 

「だから言えてないんだってばっ、見せて。」 

 理恵は隆からメニューを取り上げた。 

「バルバリスコね。何でこれにしようと思ったの?」 

 お前も言えてないじゃないかと隆は言いたかったが、面倒臭そうだったので「味に癖があるって書いてあるからね、思い出になりやすい味かなって。」 

 素直に理由を言った。 

「ふぅん、カクテルにしない?」 

 人に任せるといって、最終的には自分で決める。これが理恵なのだということを隆は改めて認識した。 

「青ワイン、本当にあったら素敵ね。私ならきっと頼んじゃう。」 

 この数ヶ月、振り回され続けているにもかかわらず、そういった理恵に隆は不快な気持ちは決して感じず、何故か懐かしささえ感じるようになっていた。それは伯父夫婦にも、従姉にも感じなかった独特のものだ。恐らく反発することが目的だったかつての自分、隆は理恵にはそんな自分の過去を投影しているのかもしれない。自分は自分を曲げることを選んだ、他でもない自分が間違っていたからだ。しかし理恵は……。 

「ねぇ。」 

「なに?」 

 隆は理恵の後方に見える、店の入り口で誰かを探している中年男性に気づくと、理恵に囁いた。 「あの人じゃない?」 

 理恵が入り口を見ると、その男は「ああ」という表情を浮かべた。 

「来たわね。」 

 同時に「始まるわよ」という含みを持たせて理恵は隆に囁いた。 

 理恵の後方に見える男は、確かに彼女の言うとおり、スーツとネクタイさえしていれば人前に立てると思っているような男だった。


                  *


「見つけたわよ。」 

 朝食の目玉焼きにソースを掛けながら、理恵は隆に言う。 

「……何を?」 

 箸で器用に目玉焼きを切り取り、得意げにそれを口に運びながら理恵は答える。 

「私たちのお父さん。」 

「え?お父さん。」 

「勿論お父さんじゃなくても良いわよ。パパ、親父、……ダディ?」 

 真剣な隆と違い、理恵はかなりの冗談口調だ。 

「ううんん、整理しよう。俺たちのお父さん?」 

「そうよ。」 

 いまいち理解できずに言葉につまり、隆はただ理恵を見るしかなかった。話を整理しようにも何から整理したら良いのか全く分からなかった。いや、整理はつく。ただ問題は、この共同生活の中で余り口にしたくないことから口にしなければならないということだ。 

「まず……俺たちの血は、」 

「繋がってないわね。」 

ひとつ重要なことを確認した。 

「戸籍上も、」 

「何ら関係ない。」 

 またひとつ、 

「俺の父親は、」 

「……亡くなられてるわね。」 

 これに関しては、さすがの理恵も冗談めかしては言えなかった。 

「ネエサンの父親は、」 

「どこかで生きてるかもね。死んでても良いんだけど。」 

 そういうと理恵は今度は下品な感じで、目玉焼きを箸で。 

隆は「うん」、と間を置いてそれらを確認し、改めて問い直す。 

「それはやっぱり、ネエサンのトオサン……?どちらかというと?」 

 隆は自分でも何を言っているのかだんだん分からなくなってきた。 

「違うわ。」 

 かなりきつめに理恵はそれを否定した。 

「昔ね、私のが自分の代理を立てたことがあるのよ。向井家の家長として。」 

「うん。」 

「その人。」 

「……え?」 

 それは話をはしょりすぎではないかと隆は驚き、しかしその後に何か理恵の言葉が続くのだろうと隆は考えしばらく待ったが 

「それだけ?」 

 理恵は何も言わなかった。 

「それだけで十分じゃない?そもそも私たちは……、」 

「分かってるよ。」 

「全く無関係って訳じゃないんだから。そこらへんのオジサンに頼むよりましでしょ?」 

 いや、あんまり変わらないんじゃないか。 

「そうかな。で、彼は何の代理だったの?」 

「結婚式。遠すぎる親戚だったからね、二度と会わない人間もいたから、向井家家長・向井久夫として探偵に身代わりを頼んだのよ。昔、そのことを得意げに話していたことがあったから。」 

「結婚式の代理?」 

「知らない?そういうのもやってんのよ、あの人ら。後、別れさせ屋とか。」 

 余りにも飄々と理恵が応えるので、隆はそれが正しいことなのかと思うようになってきてしまった。しかし、まだいくらも疑問の余地がある。 

「他にいなかったの?」 

「それは父親候補ってこと?」 

「そうだよ。」 

「まぁそうなるかしら。少なくとも『私たちにとって都合の良い』父親はいなかったわ。」 

 まるで何かの悪だくみのように理恵は言う。 

 子供たちの選ぶ『父親候補』とはいったいどんな世界で生成される言葉なのか、隆にとって理恵との会話は、平均台を歩いているようなものだ。社会の、常識の、隙間とも言えない隙間に繋がれた実に危うい平均台。 

「……世間一般ではこういうことをなんていうんだろ。」 

 もう自分が平均台の上を歩いているのか、落下中なのか分からなくなってきた隆は呟く。 

「家族よ。」 

「……これが?」 

「そう、家族。」 

 そう言って隆を見る理恵の瞳は余りにも真っ直ぐだった。戦場カメラマンが写す、どんな状況でもその希望を失わないというくらいに力強く、生命力に溢れる戦地の子供たちの瞳。隆は、理恵のその根拠のない自身を孕んだ瞳を見るたび、何か自分にも自身が分け与えられるような不思議な力を感じていた。きっとこの人は自分のやることに何一つ恥じることがないと信じているのだろう。しかし同時に、その力強さが実に不安定なものであることも隆は知るようになってきた。写真に写し出される子供たちの瞳は力強くても、その体は濁った瞳を持つどこぞの国のそれよりも、はるかに頼りないのだから。 

「そもそも家族って何かしらね?血の繋がり?それだったら、中世なんて日本も西洋も養子なんて当たり前に取っていたわ。農村社会なんてもっと血なんてどうでも良かったし。夫婦にいたってはどこの世界にだって血の繋がりはない。世間で常識なんていわれていることなんて、歴史を通してみればごくごく短い期間のものだし、皆が数ある何かから、自分たちに都合の良いものを選び取っているだけじゃない。」 

 理恵はたまに無茶な持論に含めて、きちんとした教養を引き合いに出すことがある。そういった一面があるため、隆は容易に理恵に意見することが叶わなくなってしまう。 

「だからね、私たちも選んでやればいいのよ。私たちに都合の良いものをね。」 

 しかし、ここら辺が理恵だといえる。最後の最後に飛躍するのだ。 

「……ところでさ、血の繋がった人はどんな人だったの?」 

「一応の父親?」 

 そこで一応といってしまうのか。隆は目伏せをして笑った。 

「……そのバター、」 

「これ?」 

 隆がバターのカップを差し出すと、理恵はバターナイフをバターのど真ん中に突き立てた。 

「端から綺麗にバターを掬わないといちいち怒るの。」 

「ふぅん。」 

 いまいち要領を得なかったが、隆にとって突き立てられたバターナイフは、とてもよく理恵を象徴していた。隆はそのバターナイフを抜いてバターを掬い、トーストに塗り始めた。ここ数ヶ月よほど忙しいとき以外は、隆と理恵は二人で朝食をとるようにしている。家族とは一緒に食事をするものだという、二人の同意の下でのことだった。晩でも良いのではと理恵は提案したが、隆が「何となく朝が重要」と反論覚悟で言ってみると、理恵は思いのほか素直にそれに従った。理恵には理屈だの理論よりも、感覚が大事らしい。 

「そういえば、どうやってその探偵を見つけたの?もう十年も近く前の話だろ?」 

 理恵は食べる動作を、敵が近づいてきた草食動物のように止めた。そしてゆっくりと丁寧に親指で口についたバターを拭い、正面に座る隆を改めて見直しながら首をかしげ威嚇するよう、そして一言一言を喰い千切るように言った。 

「探したのよ、隆。しらみっ潰しに、金に糸目を付けずにね。」 

 何か一瞬、ひんやりと甘みを含んだ狂気が、隆の骨の髄を駆け抜けた。  


                 *


 家族というものは強固な結束があるようで、その実脆いものだ。斉藤は二〇年以上の探偵生活を通してそれを痛感していた。 

 たった一つの疑惑が不信感に、さらにそれが憎しみに発展する。疑惑が確信に変わる事実を提出すれば簡単に家庭は崩壊し、もしその事実を提出しなかったとしても、その家庭はすでに火事場になってしまっている。事実が在るか無いかなど、その火事場に爆発物が在るか無いかの違いでしかない。みんな必死にダムの亀裂に手を突っ込み、崩壊しないようにいじましい努力を続けているのだ。そんな依頼人たちを目の当たりにしていたということもあり、斉藤は家庭というものを作ることに非常に消極的であった。ある程度付き合いの長かった女性もいたし、その中には結婚を意識するような相手もいた。しかし、後一歩というところで自分が直接、時には間接的に関わり崩壊した家族をあまりにも多く知りすぎていた彼は、将来を想像する際、いかに自分の家庭が崩壊するかということにしか想像のベクトルがいかなかった。 

 斉藤はあの共同体を担保する、家族の絆だの家族愛など信じてはいなかった。いや感じられなくなってしまっていたといったほうが適切かもしれない。彼は過去の自分が育った家庭に関してすら、あれは何か『父』という役割を持った人間と『母』という役割を持った人間が、何らかの利害関係の下に作り上げた組織なのではないか、そういう感覚すら抱くようになっていたからだ。そしてその利害が一致しなくなったならば家庭など簡単に解散してしまうのだ。 

 そんな斉藤に転機が訪れたのはごく最近だった。彼のかつての依頼人の娘が、彼を探しているということを興信所の仲間から聞いたのだ。そのかつての依頼人の名は向井久夫、彼にその家族の脆さを最初に教えた張本人だったといえるかもしれない。向井久夫の依頼とは、自分の身代わり程度のものだったのだが、その後に向井久夫の家庭が崩壊したということを風のうわさで聞いたとき、それまでの浮気調査などよりも家庭の脆さを斉藤に強く印象付けた。斉藤は依頼を受ける際、向井久夫と場末の喫茶店で話しながら一つのことを理解した。この男の作る家庭は何一つ問題がない、しかし彼の作る家庭はやがて崩壊するのだろう。そんな何か得体の知れない不気味さを斉藤は向井久夫に感じ取った。そしてその時、その崩壊に直接手を下すのは他でもない向井久夫自身だ。 

 本来、過去の依頼人の関係者に会ったりすることは危険が伴うため、あまり興信所の人間は会うべきではないのだが、斉藤が理恵に会おうと思ったのは、元々の以来が些細なものだったことと、その向井久夫の娘が中々の美人であるということを、依頼人と「できちゃった結婚」を果たした知人の探偵から聞いたということがあった。要するに暇つぶしだったのだ。 

 加えてもう一つ、彼と向井久夫との彼なりのささやかな決着もつけようという意識があったのかもしれない。 

 斉藤は受付を通して自分の携帯番号を教え、喫茶店で理恵と会う約束を取り付けた。数日後彼は理恵の意図を知ると、及ばずながら協力しますと、自分でも後々不思議に思うほどすんなりと理恵の依頼を引き受けてしまった。 

「受けてくださいますか?」 

 さすがの理恵も、話があまりにも簡単にまとまったので驚いていた。 

「ええ、なんというか、向井さん、今は吉沢さんですか、吉沢さんのご家庭の問題というのは私にも責任があるように思いまして。」 

 長年の探偵行の疲れか、必要以上に老けた笑顔を見せながら、斉藤は自分と向井久夫の話を始めた。 

「あなたに責任?なぜ?」 

 その斉藤の責任という言葉に、戸惑いや心配よりも興味を抱きながら理恵は訊く。 

「……失礼ですが、吉沢さんのお父様とお会いしたとき、何となくですが感じたんですよ。」 

 一度混ぜたコーヒーを再度スプーンでかき混ぜながら、斉藤の次の言葉を待った。 

「うん、何と表現したらいいのか。……悪意ですね。」 

「悪意?」言葉にせず、ただ目の表情で理恵は聞き返す。 

「彼は最初から何らかの形で、向井家にピリオドを打とうとしていたんじゃないかと思うんですよ。それはさして何らかの意図も理由もなく、ただ子供が蟻の巣にじょうろで水を注ぐような、無邪気な悪意です。」 

 理恵はほんの少し「分かります」、といった具合に頷いた。 

「私があなたのお父様の代理を引き受けたときから、いや本当はもっと以前からかもしれませんが、 少しずつ彼は向井家というものを砂崩しのような感覚で崩して遊んいたのではないかと。……要するに私もあなたも彼の掌の上でもがいていたように思うんです。」 

「あなたも含まれるんですか?」 

 ようやく理恵が声を出した。 

「はい、私も演者の一人ですよ。彼にとっては。」 

 理恵は思案しながらピアニッシモを取り出し、細長い独特の形状のライターで火をつけた。斉藤はその仕草で、理恵が何と言っていいか分からなくなっているのだということを、長年の経験から理解した。 

「もちろん、そこには責任なんて生じようがないかもしれません。でも強引に言ってしまえば、責任なんてものは誰彼が勝手に引き受けることで成り立っちまうもんですよ。」 

 理恵はただ黙ってタバコを吸い続ける。 

「ま、早いというか簡単な話、些細な悪意でこちらを振り回してくれた、あんたがたの親父さんに対して、ささやかな善意で対抗してやろうってことですよ。うん、それこそ善意とも悪意とも呼べるかどうかも分からないささやかな……、」 

「お遊び。」 

 理恵は斉藤の口調の変化に乗るような形で砕け始めた。 

「悪戯、……嫌がらせ?」 

 その斉藤の言葉に反応した理恵は、少し強めにタバコを吸い込むと、その煙を口笛を吹くように横に噴出して言った。 

「いいわね、そういうの。けっこう好き。」 

 理恵を送る途中の車の中で、彼女は妙に満足したような顔になっていた。 

「まだ、この試みが成功するとは限らないんだよ?」 

「そうじゃないの。」 

 そうではない、そのことは理恵が一番よく知っていた。理恵にとっての一番の収穫は自分が何をしたかったのか、それが具体的に形になったことに他ならなかった。それまでは、洗っても落ちない、父・向井久夫のつけたヤニのようなものが、彼女の魂にまでベットリ張り付き彼女をしつこく悩ませ続けていた。しかし、理恵はそれをどう解消していいか少し分かったのだ。私はあの男に復讐ができる。理恵の喜びはまさにここにあった。 

「しかし、君のお父さん。中々の曲者だったんじゃないかな。たぶんうまく家庭が崩壊するように、伏線、キーのようなものをそこらにばら撒いていたような気がするんだが。」 

 理恵はタバコと芳香剤の匂いのする斉藤の車内で鼻をすすりながら、また一つ何かを理解したような気がしていた。 

「さすがじゃない、名探偵。」 

「皮肉にしか聞こえないね。あてずっぽうだよ。」 

「あら、推理小説ってのは、あてずっぽうをそれらしく聞かせているだけだと思ってたんだけど。」 

 斉藤は「ちがいねぇ」と呟くと、少しアクセルを強めに踏んだ。


                 *


 S県T市大江町にあるイタリアンレストラン『タベルナ』。「食べるな」と言っているが、イタリア語で「食堂」という意味である。店主の間違ったこだわりにより休日はセミプロのジャズミュージシャンがライブをやり、店の奥一番目立った壁にはユトリロのコピーが飾ってある。そんな町の隠れ家的な店に、3人の男女が入店してきた。父親とその子供たちぐらい年齢は離れているが、顔はまったく似ていない。服装のこだわりもどこか攻撃的なヒクイドリを思わせるような若い女性と、「大学の帰りに寄りました」というくらいにカジュアルな若い男、そして「取り合えずネクタイを締めたので入店してもよろしいですよね」というくらいの申し訳なさでスーツに着られている中年男性、共通項があまり見当たらない3人だったが、各々グラスを手にとり、 「家族に」 と乾杯をしたとき、周囲の客も店員も、

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タベルナの宴 鳥海勇嗣 @dorachyan

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