刻戻し《ときもどし》
桜雪
未経験の記憶と残像
「あっ、スマホ画面、割れちゃった~」
駅で歩きスマホ…自業自得といえばそれまでだ。
見事にヒビ割れたパネルに指をスイスイと這わせてみても…無反応。
初めての街、私の心も完全にフリーズしていた。
「貸してみて」
立ちすくしていた私に声を掛けてきた青年。
スッと右手を差し出してきた。
「えっ?」
途方に暮れていた私は、何も考えずに青年にスマホを差し出した。
青年は両手でスマホを挟むと深呼吸して目を閉じた。
白く長い指から青年の顔へ視線を動かす。
静かに青年の
気恥かしくてすぐ視線を逸らす。
「はい」
と青年がスマホを返してくれた。
さっきまで割れていた画面がキレイに直っている。
(えっ…)
「もう落とさないでね…相変わらずドジだな…なみ…」
「…はい…ありがとうございました…」
呆気にとられてしまい、かろうじてお礼が言えた。
青年は私に微笑みかけて、そして去っていった。
少し悲しそうな笑顔…そんな気がした。
(なみ…って言った)
名前を呼ばれたことに気が付いたのは、引っ越し先のアパートに着いてから。
長い入院生活、半年間、私は入院していたらしい。
らしいというのは、記憶が無いのだ。
スポーンと入院生活の記憶が抜けている。
両親から聞くに、病名は忘れたが、なんか不治の病っぽい病気で危なかったようだ。
奇跡なんだそうだ…急に完治したらしい。
再発なんかの恐れもあるので、しばらくは検査通院することになり、
務めていた会社も辞め、病院のある、この街に引っ越してきたのだ。
確かに呼ばれた名前…なみって言った。
私の覚えている病院の記憶…
屋上で抱きしめられていた…とても心地よい。
小さく呟くように
「さよなら」
そう言って去っていく後姿…思えば、あの青年と重なる…あれは…あの人は…。
小高い丘からアパートの窓を見つめる青年の視線。
悲しそうに微笑む白い顔、頭上には大きな新月。
「ほんとにドジだな…相変わらず…」
そう呟くと、彼女との思い出に心を泳がせる。
出会いは半年前…
病院で点滴をひっくり返した彼女を見かけて、つい点滴の時間を戻してしまった。
手品だとはしゃぐ彼女が不治の病だと知るのは、話しながら屋上に移動してからだ。
そんな身体だというのに、屈託なく笑う彼女に惹かれた。
それから毎日のように逢いに行った。
彼女と逢える時間は限られている、検査やら投与の時間が長く、一緒に話せるのは院内で夕方からの数時間だけ…。
だからこそ1日も無駄にしたくなかった。
子供の頃から、この能力を多用してはいけないと思っていた。
最初は面白がって使っていたのだ。
怪我をした友達の時間を戻して怪我をする前の状態に戻す。
そう数秒前に戻してやればいいだけ。
ある日、友達の母親が病気で長いこと入院していることを知った僕は得意気に治してやると病院へ向かった。
病気は治った…というより病気になる前に戻した…。
その子の母親は、病気になっていたことを忘れていた、いや知らないのだ。
時間を消し飛ばしたのだから、覚えてないというより経験してないのだ。
しかも母親は若返っていた。
5年ほど入院していたためである。
我が子の成長していく過程の記憶もない。
退院はしたが、母親と家族の溝は埋まらなかったのだろう別居、離婚と繋がってしまった。
それ以来、僕はこの能力を人に使ったことはない。
もちろん、自分が怪我をしても、目の前で親しい人が死んでも使わないと決めた。
いつからか、他人を遠ざけるようになり関わりを絶っていた。
でも…なのに…僕は、なみを屋上で抱き寄せた。
(治せば僕との思い出も消える)
そう思うと一瞬ためらった。
でも、痩せた身体を通して伝わる弱い鼓動をこのまま止めることは出来なかった。
僕は……………………。
時間を戻すと、なみの顔色が良くなっている。
少しふっくらとした頬に軽く唇をあてて
「さよなら」
と告げた。
あれから半年、
なみはこの街に戻ってきた。
逢ったのは偶然…運命と思いたいが…僕はそんな気持ちを抑えて、今、なみのアパートを眺めている。
なみの部屋のカーテンが開いた。
なみが大きな新月を見ている。
僕も振り返り頭上の新月を見つめる。
「綺麗な月…」
なみは窓から大きな新月を微笑みながら見ていた。
「さよなら…」
僕は溢れる涙で歪む大きな黄色い新月を見ていた。
視えるはずない新月…視えない
刻戻し《ときもどし》 桜雪 @sakurayuki
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