怪物たちのいる奈落で、少女は。

黒野貴宗

第1話 亡者ノエル

 結衣姫という少女は、天使だった。

 天界と呼ばれる世界で育ち、裕福な家庭で恵まれた生活を送っていた。人形が欲しいと言えば可愛らしい人形を与えられ、果物が食べたいと言えば、母が満面の笑みで、剥いた林檎を与えてくれた。食卓にはいつも笑顔が溢れていて、「幸せ」という言葉を体現した家庭だった。

 だが、結衣姫は天界から捨てられた。なぜなら、天界は天使しか存在が許されない。

 しかし、結衣姫の母親は”奈落”の怪物だった。父は騙されていたのだ。

 父は処刑され、母は煙のようにどこかに消え去った。

 父の処刑は三日三晩続いた。磔にされ、最終的には、全身を串刺しにされ、燃やされた。民衆から石を投げられ、少しずつ、少しずつ命を奪われていった。父は、それでも、結衣姫のことを心配した。真夜中に処刑場に足を運んだ結衣姫をきつく叱った。「もう、ここから逃げるんだ」。結衣姫は、父の前で泣き崩れた。鞭で打たれた傷だらけの身体。父は、しかし、絶望に暮れることはなかった。「母さんは、いずれ結衣のもとに帰ってくる」「怪物である母さんに恋をしたのは、私の罪だ」「だから、おまえまで巻き込まれるな」。父は、罪悪感に駆られながらも、結衣姫を強く見据えて言った。「お前は、私の希望なのだから」。

 そして。処刑が終わった後。

 父の残骸を前にして、結衣姫は絶望を味わった。結衣姫は、父を置いて逃げることはできなかった。毎日聞こえる父の悲痛な叫び声。耳をふさぐこともできず、悲しみと、恐れと、後悔と、憎しみと、あらゆる感情が濁流のように結衣姫に流れた。父の亡骸は、無残だった。肌は焼けただれ、骨がところどころ露出している。あんなに大柄だった父が、小さくなっていた。地面に這いつくばるようにして倒れていた。

 天使たちの長は、結衣姫を“奈落”に落とす決断をした。

 「キミのお父さんは裏切り者だ。しかし、優秀な天使だった」「だから、彼の最後の願い…結衣姫を殺さないでくれ、というものは守ろう」「だが、ルールはルールだ。天界は、天使しか存在を認めない」

 そして、結衣姫は奈落へ落ちた。


 結衣姫は、奈落の底で虚ろな顔をして黙っていた。奈落は、腐臭が漂い、骸骨が積み上げられ、血の沼が点在している。ここは天使たちの墓場でもあると言う。ならば、父もどこかにいるのだろうか。鉄錆びた地下牢のような壁を背に、どろどろの土塊の上にただ座っていた。

 奈落のおとぎ話を思い出した。

 「悪いことをした天使がね、怪物となって、永遠に争い、何度も死に、永久に救われない場所よ」

 皮肉にも、それを話していたのは母であった。

 どのくらい、過ぎたであろうか。

 結衣姫の前に、一匹の蜘蛛のような、怪物が現れた。蜘蛛を思わせたのは、怪物があまりに醜いからだ。顔も皮膚もただれ、焼け落ちている。人間の体型をしているが、犬のように4本足で立っている。いや、這っているというべきか。だから、蜘蛛なのだ。

 「あぁ……子……可哀想に………」

 蜘蛛のような怪物は枯れた声を漏らした。まるで亡者のうめき声であった。亡者。一番、しっくりと来る。………父の亡骸の様子を、思い出したからだ。

 「…寄らないで」

 結衣姫は、嫌悪を感じて、後ずさって、言った。

 「そう……か……」

 亡者も、一歩、いや、半歩、後ずさる。

 「でも………」

 なにかを言いたげに、亡者は口を開いた。が、黙って、その場を去った。



 

 結衣姫は、黙っていたが、渦巻く感情は消えない。どこかに消えた母に会いたい。そして、なにかを話したい。恨みをぶつけるかもしれない。悲しみを叫ぶかもしれない。もうどこにも行かないでと縋るかもしれない。わからない。けれど、この深い奈落の底にいるよりは……。結衣姫は、立ち、歩き出した。裸足に、土塊がからみつく。時々、もうすっかりぼろぼろになった、砂のような骨片を踏みながら、また、血の池を歩きながら、母のいる場所を、探す。奈落にいるかもわからない母。

 そして、なにもない道を1時間ばかり歩いたところで、また怪物に会う。2メートルはある、長身の、しかしとても細身の鬼だ。鬼は、後ろを向いていた。すっ、と背後を通り抜けようと思った。その瞬間。鬼は背後にいる結衣姫に拳をたたき込んだ。

 ……ぅ、と声にならないうめき声をあげる。ぴしゃり、と血を吐く。痛み。痛い……痛い!!!! 鬼は、ゆらり、ゆらりと結衣姫に近づく。

 二撃目は、肩。音すら聞こえなかった。しかし、もう結衣姫の右腕は動かなくなった。骨という概念すら、一緒に消え失せてしまったかのように。いっそ、消えればよかったのに、痛みだけが。「あ……あぁぁああああ!!!!!」

 奈落とは、こういう場所なのだ。結衣姫の視界に、もう一人、もう一人と鬼が現れる。鬼の一人が、結衣姫の小さな頭を掴んで、結衣姫をぶら下げる。力なくだらりと下がった右腕と、震える左腕。歯がカチカチと鳴る。涙が溢れそうになったその時。

 一陣の風が、凪いだ。

 それは、結衣姫が奈落の底で出会った、醜い亡者だった。

 鬼は結衣姫を投げ捨て、亡者と対峙する。かたや、2メートル越えの巨人。かたや、力なく地を這う醜い亡者。キエエエエエェ…と、鳴いたのは亡者。亡者はゆっくり、ゆっくりと立ち上がる。そして、懐から、細剣を取り出す。

 それは、亡者には相応しくない、とても高貴に輝くつるぎ。

 「我が名はノエル」

 亡者が、ハッキリとした声で、鮮明に聞こえる流暢な言葉で、名乗る。

 「我が名は邪鬼、名は無い」

 鬼が、蛇が鳴くような声で、殺意を持った声色で、名乗る。結衣姫の視界に現れていた鬼たちが、邪鬼の元に集まる。亡者ノエルは、空高く跳躍する。それは、邪鬼の一人が、ノエルの足下を薙ぐ攻撃をしたからだ。しかし鬼よりも早く、ノエルは跳んだ。もう一人の鬼がノエルの足を掴む。ノエルは身体をひねり、鬼の腕をつるぎで断つ。同時に、着地地点に立つ鬼の顔面に、足蹴りをぶつける。すごい。結衣姫は思った。なんだかわからないけれど、この調子ならば…。

 しかし、ノエルの背後に回った鬼が、ノエルを串刺した。腕だけで、である。鬼の手の先には、ノエルの心臓が握られていた。ノエルは、呆気なくその場に倒れた。鬼たちが、一斉に結衣姫に向き直る。その眼光の多さに、結衣姫は気を失いそうになった。暗闇の中に、五十の光点が揺らめいている。結衣姫は、ついに死を覚悟した。けれど、死にたくない。死にたくない。……死にたくない!! 生きて、また幸せな場所に帰りたい!! 恐怖、絶望、諦めと、わずかな、ほんのわずかな希望が葛藤していた。

 その時。

 「我が名はノエル」

 声が、聞こえた。

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