最終章 ブラッドライン

 近く、アメリカ軍がテロリストを狙い、大規模な空爆を行うらしい――そんな噂が、黄色い風の中を流れていた。その死の匂い漂う噂に、ひっそりとした暗闇の住人であったアリーの母は、重い腰を上げ、テ・ダク村を離れる決意をした。


 すなわち、娘の胴体だけが埋まった土饅頭から離れ、アリーと赤ん坊と共に他の村に住む親戚を頼ることにしたのだ。


 アメリカの爆弾がどこに落ちるかなど、誰も知るよしもなかったが、その親戚の住む村はここよりもずっと田舎で、狙われる確率も少ないだろう思われた。


「……ラジオ、つけてもいい?」


 前を歩き始めた母親に、アリーは聞いた。今日はいつもの政府の放送ではなく、あの不思議なアメリカ人の――Mの遺言が、ラジオで流される日だった。


 母親が無言で頷くのを見て、少年は苦労しながらラジオのつまみを回した。母の両腕は、身の回りの荷物と赤ん坊を抱えるだけで精一杯だったため、ラジオと彼のサッカーボールは、彼の小さな両腕の中にあったのだ。


 砂が落ちていくような音が続き、それを辛抱強く待つと、しばらくして、午前8時を知らせる時報が鳴った。


 と同時に、Mの話すアメリカ語が聞こえた。ボールをもらったときの、その一度きりしか聞いたことのない声だというのに、なぜかとても懐かしい声だった。アメリカ語のあとに、アラルスタン語の通訳が流れた。


『――こんにちは、僕のいない世界』


 ひゅう、と音を立てて風が舞った。おかしな挨拶だな、とアリーは思った。


 あの青いだけの空の向こうから――そうでなければあの流れる雲の隙間から、死んだはずのMがひょいとこの世界を覗き、にっこりと笑っているような気持ちがした。


 母も同じ思いでいるんじゃないかと、アリーはちらと顔を上げたが、しかし、その背中は何の感情も表していないようだった。


 通訳が言葉を訳し終えると、声は再びMのものに変わり、淡々とアメリカ語を話し始める。今度は少し、長い言葉だ。理解の手がかりもないその言葉に、アリーはじっと耳を傾けた。


 この黄色い砂地に何を目印としているのか、母親は赤ん坊を抱きしめ、黙々と道を歩き続けている。長い服の裾が生き物のようにはためき、砂に不明瞭な跡を残す。


 決して後ろを振り向かなくとも、その雰囲気から、彼女の耳がMの言葉に傾けられていることを理解したアリーは、再びつまみをいじり、ボリュームを大きくした。


『……まず、いま僕の声を聞いてくれているすべての人に言おう、ありがとう。君たちのおかげで、僕は世界に声を届けることができる』


 歩みは止めることなく、母親がふと空を見上げた。何の変哲もない霞んだ青。いつもと同じ青空が、足元の砂地と競争するように広く、広く、どこまでも続いている。


 そういえば、今日の空はやけに静かだった。まるで、世界中の人々が、ラジオから聞こえるMの声に耳を澄ましているんじゃないか、そう思わせるくらいに。


『僕のいない世界は、どんな世界なんだろう』


 Mのつぶやきは、その青い空に吸い込まれていくようだった。


『僕のいなくなった世界を、死んでしまった僕は見ることができない。当たり前だよね。……でも、想像することはできるよ。僕の死に、世界中のたくさんの人たちが悲しみ、涙を流してくれたはずだ、ってね。同時に、そう思うことが自惚れなんかじゃないことを、僕は良く知ってる。だって僕は毎日、世界中の皆からの愛を感じてたんだから』


 僕のために祈って欲しい――その言葉通りに祈ったことを、アリーは思い出した。その彼のための祈りは、そのまま彼への愛に繋がったのだろうか。彼が感じた愛には、アリーのそれも含められていただろうか。


『僕は皆に愛されていた。僕の歌を聴いてくれた人、僕の言葉に共感してくれた人、僕の死に祈りを捧げてくれた人――それだけじゃない、きっと大統領は僕に弔辞さえ述べてくれたはずだ』


 母の背を追うアリーを置いて、Mの声は茶目っ気たっぷりに、アメリカ大統領のファーストネームで呼んだ。


『――そうだろ、トム?』





 呼ばれたバチェラー大統領は、咳払いをし、首をすくめた。平静を装ったつもりではあったが、顔は赤かった。


 それも無理はないだろう。世界のスーパースターが残した、世界中に流れる特別な遺言に、自身の名が呼ばれたのだ。誰だって悪い気はしないに違いない。


 腕時計の針は、午後11時過ぎを指していた。


 ここは国防総省の軍事作戦室――かの9・11の損傷から改修された新しい一室である。楕円形の机を囲み、大統領以下、副大統領に国防省長官、国土安全保障長官、テロ対策担当官たちが揃っている。


 それだけの面々が集まったのには重大なわけがあったが、しかし、いまは口を開く者はいない。昨今のテロ活動の激しさに加え、Mがアラルスタンのテロ組織に殺されたというが追い風となり、作戦は先ほど、全員一致で決されたのだ。

 

 つまり、アラルスタンのテロ拠点への、核弾頭搭載ミサイルの発射である。


 歴史に残るであろう決断は下された。その決断は、一度はテロの卑劣な攻撃に屈したこの場所で下されるに、誠にふさわしいものであった。あとは作戦決行のとき――アメリカ時間の午前0時。そのときを待つだけだ。


 まだ時間があるのなら、暇つぶしにMの遺言とやらを聞こうじゃないか――そう言いだしたのは当の大統領であった。


 幸い、不謹慎だと言い出すような石頭はいなかった。早速作戦室にはテレビ用モニタが持ち込まれた。皆、それぞれに興味があるらしく、じっとMの映る画面を見つめている。


『きっとあなたは僕のために、ネクタイの色を変えてくれたね? 黒……じゃなくて、あなたの目に似合う、薄いグリーンだ』


 どう、当たったかな――ウインクしてみせるMに、皆の口元も思わず緩んだ。笑顔などほとんど見せたことのない、国土安全保障長官までが口角を上げている。


「さすが、何でもお見通しですな」


 バチェラーも笑顔で薄い頭に手をやり、それにしても、と独りごちた。世界的な有名人ともなると、万が一、自分が死んだときのことを考えて、こんなものまで用意しておかなければならないものか。


 生きているうちに、死後に流すビデオを撮っておくなんて用意がいいことこの上ないが、それにしても、このとき彼は自分がどんな死に方をすると考えていたのだろう。まさか、こんなややこしい騒ぎになるとは考えてもみなかっただろうな――微笑みを浮かべたまま、バチェラーは考える。


 しかし、次にMの口から発せられた言葉は、そんな彼の考えを裏切るものだった。


『トム。僕は、あなたに辛い質問をしなくちゃならない。どうか嘘をつかずに教えて欲しい』


 一呼吸置いて、Mは言った。


『僕を殺した銃弾は、どこの国のものだっただろうか』


 ――それは戦場で使われることがない9ミリ弾であった。けれど、そのアメリカにとって都合の悪い鑑定結果は、闇に葬ったはずだ。まず、バチェラーの脳裏をよぎったのは、その事実を自らに確認するような思いだった。


 それから数秒おいて、気がついた。


 


 顔を上げると、卓についた全員の視線がバチェラーに向けられていた。彼は慌てて、


「いや、銃弾の鑑定結果に間違いはない。あれは、あの銃弾はアラルスタン側のもので――」

『――銃弾はアラルスタン側のものであった、アメリカ大統領はそう言っただろう』


 画面の中のMの声が、まるで図ったようにバチェラーのものと重なった。気まずい沈黙が作戦室を支配した。


 こいつは死んだはずだ――バチェラーの額を汗が伝った。


 Mの死、それは確かだ。遺族も確認したし、歯の治療痕も照合し、念のためDNA検査すらしたのだ。それなのに、なぜ彼は生前撮ったビデオで、バチェラーの言葉を言い当てることができたのか?


「大統領、まさか……」

「私が鑑定結果を改竄かいざんしたとでも?」


 国防長官が何か言いかけるのを、バチェラーは遮った。


「いいえ、そこまでは言っていませんが……」

「死んだ男の言うことよりも、私を疑うというのか、アッカー国防長官――」


 しかし、その威厳あるバチェラーの言葉は、次の瞬間、あまりに脆く砕け散った。


『これを見て』


 一瞬、天地が逆さになり、映像が乱れた。Mが目の前のカメラを掴み、自分の足元を映したのだ。あっ、と誰かが声を上げた。頭の回転の早い者は、すぐにその意味に気づき、そうでないものもただならぬ予感に息を呑んだ。


 画面に映し出されたのは、地面の黒い染み――黄色い砂地に延々と続くブラッドラインだったのだ。


「これはまずいぞ――」


 誰かのつぶやきが、作戦室に小さく漏れた。





 ピンク色の端末越しに、本物のMが語りかけてくる。


 もうとっくに登校時間を過ぎているというのに、リーリヤはその画面を涙を流しながら見つめていた。インターネット上にリアルタイムで配信されている動画、その右側にゆっくりと流れていくコメントは、いまこの瞬間、この映像を見ている人たちの感想だ。


 多くはMを懐かしんだり、追悼の意を表すもので、リーリヤも「M、あなたにもう一度会いたい」と一言、祈るようなコメントを投稿していた。


 けれど、カメラの視界からMが消え、一瞬、地面が映し出されたそのときだった。その緩やかなコメントの流れに、わっと加速度がついた。


「え、なに?」


 リーリヤはたじろいだ。


 ただ悲しみの中にいた彼女には、地面が映された理由も、それを見た人たちの反応もよく理解できなかった。だから、その瞬間映ったものがブラッドラインであることを知ったのは、流れの落ち着いたコメントを拾い読みした後だった。


 ――ブラッドライン。


 Mが死んだ地だ。それはわかったが、共に書かれた、計画だ、とか、騙されてた、というコメントの意味は、まったく見当が付かなかった。Mがブラッドラインに立っている――それはわかった。しかし、その事実は何を意味するのだろう。


 幼い彼女の思いをよそに、Mは端末越しに、けれど真っ直ぐにリーリヤを見つめた。


『ひとつ、教えて欲しいことがあるんだ』


 その視線とは裏腹に、口調はごく軽かった。


『世界中が愛してくれた僕が死んで――世界は何か変わっただろうか。平和を願った僕のために、世界は少しでも平和のほうへ、傾いてくれただろうか』


 刹那、リーリヤの小さな胸はずきり、と痛んだ。


 それは、いま、初めて感じる痛みではなかった。父親の勤める会社が、世界中で人を殺す銃を生産しているという事実を知ってから、長く続いている痛みである。


 あの日のマルカの指摘通り、彼女の父親は人殺しの道具を売ることで、報酬を得ていた。知らなかったこととは言え、彼女はその金で生活をしていた。学園の高い学費も、日々の美味しい食事も、父親からのプレゼントも、すべてがその金で支払われていた。一度それを知ってしまうと、この家のすべてが汚らわしく思えた。


 高価なブランドバックも、テレビも、端末も、柔らかなクッションも、彼女の体には大きすぎるこのキングサイズのベッドも、そのすべてが嫌で、何より彼女はその元凶である父親を嫌った。


 あれから彼女は、一度も父親と口を利いていなかった。それどころか、視線を合わせることすら拒否していたのだ。


「……リーリヤ、今日も学校はお休みかい?」


 彼女の機嫌を損ねないよう慎重に、その父親がドアの隙間から声を掛けた。


「……違う」


 ずいぶん久しぶりに、リーリヤは彼の言葉に反応した。ようやく機嫌が直ったのだろうか、そう思った父親は、ドアの隙間をほんの少し広げ、部屋を覗き込んだ。そして、いつものように猫なで声を出した。


「違うって、じゃあどうしたんだい? 何か欲しいものでも見つけたかな? それなら早速、会社の帰りに買って――」

「違うの、そうじゃないの」


 リーリヤは声を荒げ、Mの映る画面を彼に向けた。


『教えてほしい。……戦争は終わった? 争いはなくなった? 知らん顔して武器を輸出し続ける国は、その武器で理不尽に命を奪われる人たちはいなくなった? 平和っていうのは、そういうことだろう? 戦争や紛争に怯えることのない世界――』


 その言葉を聞き、父親は眉をひそめた。


「難しい話を聞いてるんだね、リーリヤ。でもこれがどうしたって――」

「お父さんの会社は武器を作って売ってる、そうでしょう?」


 目の縁を赤くして、リーリヤが父を見上げる。その眼差しに、父親は素直に驚いた。


 彼女は母親に似て、何かと我が儘な娘だった。その娘が、今度は何が気に食わなくてだんまりを続けているのかと思っていたら、世界平和など、まさかそんなことを考えていたとは。


 彼は緩む頬を押さえ、彼女の隣に腰掛けた。そうして、自分を見つめる青い瞳を愛おしむように、頭を優しく撫でた。


「ああ。うちの会社は確かに武器も売っている。……しかしね、リーリヤ。父さんは、いまは会社全体を見る役員だし、そうなる前も人事部といって、雇用を管理する仕事についていたんだ。だから、お前が思うような武器なんて作ったことがない――」

「でもお父さんがもらっているお金は、武器を売ったお金よ、そうでしょ?」


 涙を流し、リーリヤは訴えた。


「そんなのって最低だわ。お父さんの会社が作った銃が人を殺すなら、お父さんだって人殺しよ! もちろん、人を殺したお金で生活してるあたしだって、おんなじ人殺しなんだわ! でも、お願い、お父さん。あたしは人殺しなんかしたくない。だからそんな会社、辞めてちょうだい」

「おやおや、そんなことを言ってはいけないよ、リーリヤ」


 父親はたしなめるように人差し指を立てた。


「お父さんはお前との生活を守るために、毎日一生懸命働いているんだ。いいかい、お前のためだ。それに、武器を作っている会社というのなら、他にも数え切れないほどたくさんあるし、うちの会社だって何百人もの従業員がいる。お父さん一人が辞めて済む話じゃないんだ。それに――」


 この小さな娘に理解できるものだろうかと、父親は言葉を選ぶように続けた。


「少し難しいけど……民生転用という言葉を知っているかい? 軍事技術は、何も戦争だけのためじゃない。日常を豊かにするのにも一役買っているんだ。例えば、缶詰の技術が生まれたきっかけは戦争だったって知ってたかな。それから、お前のこの端末だって――」

「あたしはそんなこと言ってるんじゃない!」


 張り裂けそうな胸を押さえて、リーリヤは叫んだ。


「そうじゃないのに、どうしてわかってくれないの!」


 戦争から生まれたと指摘された端末を放り出し、泣き崩れる。その、まるで聞き分けのない幼児のように泣き伏した娘を、父親は困り切った顔でじっと見つめた。


 この年頃の女の子は難しく、男親の手には少々余った。けれど――父は無意識に微笑み、泣き続ける娘をそっと抱き寄せた。


 その時代を過ぎた者にとって、思春期の正義感は、まるで光そのもののように眩しかった。けれど、思春期はいつか終わる。皆、そうやって大人になっていくのだ。


 だから、いまはそれでいい――父はそうつぶやいた。すると、その小さな声が届いたかのように、放り出された画面の中のMが言った。


『わかってる。僕の言っていることは綺麗事だ。残念なことに、戦争は僕たちの生活に根を張りめぐらせていて、そこから逃れることは誰にもできない。どんなに関係ないと思っていても、君だって戦争の一端を担ってるんだ』


 そして、寂しそうに微笑んだ。


『もちろん、この僕だって』





 先進国。そう呼ばれる国の人々は、何も特別な生活をしていなくても、生きているというそれだけで、戦争の一端を担っているに等しい――。Mの意見に、ウマルもまた同じ考えを持っていた。


 なぜなら、彼はこの黄色い砂地の生活だけでなく、世界一の大国、アメリカの日常を知っていた。アメリカには、ありとあらゆるすべてが溢れていた。


 道行く人間は豚のように太り、だというのに食べ物はゴミ箱に溢れ、日用品は一度きりの使い捨て、壊れれば躊躇ちゅうちょなく捨てる電化製品に、毎年新しいデザインの出る自動車。


 この素晴らしき消費社会。


 彼らの、この便利で豊かな生活を支えるには犠牲がいる。その光景を一目見れば、そんなことは明白だった。


 それは例えば、貧しい国の人々が少ない賃金で彼らのための食料をつくること。また、なくなっても誰かが飢えるわけではない、嗜好品をつくること。洋服を縫製すること。性を売ること。ダイヤモンドを掘り出すこと。


 そして例えば、この黄色い砂地に埋蔵されている石油を得るため、そこに住む人々を殺し、パイプラインを建設すること――。


『その豊かさが、誰かの犠牲の上に成立してるだなんて、アメリカに生まれた僕は、考えたことすらなかった。だから、世界のスターと呼ばれる立場になったとき、僕は臆面もなくこう考えた――世界中に歌を届けられる僕ならば、世界を平和に導けるはずだ、ってね』


 ローマ法王さえ成し遂げていない偉業だ、自嘲気味にMが笑う。ウマルは足元に転がったアメリカ兵をちらと見た。


 彼は見る影もなくやつれていた。


 その瞳はうつろで生気が無く、わざわざ彼に聞かせるために持ってきてやったラジオの音声も、その耳には入っていないようだ。死なない程度の食事は与えているから、尽きたのは気力であろう。


 仲間が来て、必ずお前たちを殺す――彼がそう喚いていたのは、たった四週間ほど前のことだというのに、いまはもう何を言っても――その脇腹を蹴飛ばしてさえ、彼は拷問の傷をかばいもせず、死体のように横たわっている。


 バチェラー大統領の宣言通り、彼らは、一軍人――ケネスの命で動くことはしなかった。


 テ・ダク村の外れに位置する、この地下アジトを、彼のお仲間とやらは一向に嗅ぎつける様子はないし、それならば何をしているのかと言えば、未だ「調査」と称しては、女子供しかいないような村々を襲い、虐殺を続けている。


 つまり、ウマルがケネスを捕らえたことは、何の意味もなかったのだ。彼は見捨てられ、人質としての価値は無に等しい。


 けれど、それでもウマルは絶望などしていなかった。いま、彼の手には、冷たい銃が握られていた。ケネスの命に価値がないというのなら、その銃を使い、彼を始末するだけだった。


 ケネスの命は、ヤウームが世界にその主張を届けるための一手段にすぎなかった。ウマルがよく選択する他の手段――自爆テロも、爆弾テロも、その意味では同じである。人の命を、主張を届けるための一手段と言い切る彼は、果たして、とんでもなく冷血であろうか。


 けれど、ウマルの国を、人間を、アメリカはあまりにもひどく壊した。そのせいで、彼はもう壊れることへの恐怖も、壊すことへの慈悲もなくしてしまったのだ。


 さらに言うなれば、ヤウームの行うテロも、アメリカが仕掛ける戦争も、人を殺すという点においては、同等だった。テロは無差別で、戦争が悪しか滅ぼさないと言うのなら、それは戦争に夢を持った人々の戯言ざれごとである。


 世界はあまりに大きく、力ない者の主張には、誰も耳を貸さなかった。


 こちらがテロで殺せるのは、せいぜい何十人かにも関わらず、彼らが殺す人々の数は数千、数万、数十万と、桁違いに多い。だというのに、彼らはヤウームを悪と呼ぶ。


 ――それが力の強弱というものだ。


 強い者の主張にしか耳を傾けない、彼らのための「世界」しか、この世界には存在しないことになっているのだ。


 しかし、少なくともMという男は違った。


 ウマルは、まだ自分が表舞台に立っていた頃――貿易会社の役員としてMと知り合った時代を思い出した。


 あのとき、彼の目は、既に本物の世界を見つめていたように思う。ウマルの故郷、このアラルスタンをも地図に記した、本当の世界を。


『……法王さえ実現していない世界をつくるため、僕は思いつく限りの行動を取った。平和の歌を歌い、世界中を回って慈善活動をした。学校のない土地には学校を建て、水のない場所には井戸を掘った。平和のためなら多額の寄付も惜しまなかったし、楽曲の放送権すら譲った』


 一語一語をゆっくりと、Mは言った。


『けど、それでも世界は争い続けた』


 足元のケネスがひくりと動き、瞬時に、ウマルは銃を向ける。しかし、筋肉が痙攣したようなその動作以上に彼が動くことはなく、定められた銃口は再び地面を向く。


『どうしてなんだ、僕は憤った。ここまでしても争いを続ける人を憎み、攻撃的になった。何をしても変わらないなら、慈善活動なんてやめてしまおうかとも思った。ヘレナと出会ったのは、そんなときだった――』


 肌の色を隠すような薄闇の中で、ウマルは小さく息をついた。


 何十年も肌身離さず身につけているにも関わらず、手の中の銃は冷たく、いつまでも彼の体温に馴染むことを拒否しているようだった。





『彼女とのことは、僕よりもゴシップ誌のほうがはるかに詳しいはずだ。僕たちは出会ってすぐに結婚し、そして――すぐに別れた。それだけのことだけれど……』


 モニターに映ったMが、歯切れ悪く言うのを、ヌールはうんざりしながら眺めていた。


 まったく、このアメリカ人は何を言い始めるのだろう。

 

 この遺言がブラッドラインで撮影されたものだとわかったときには、局内はどよめいたが、それ以降、彼はその件に触れる様子を見せない。それどころか、話は脱線に脱線を重ね、いまは、元妻との離婚話に突入しようとしている。


 世界中に流す遺言に、結婚のごたごたを弁明するつもりなのだろうか。近しい友人のそれですら気が滅入るものなのに、ゴシップになど興味がないヌールにしてみれば、的を射ない上司の説教よりも退屈なものだった。


『彼女と結婚して、気づいたんだ――』


 その元妻とやらに配慮してなのか何なのか、いやに歯に物が挟まったような言い方で、彼は続けた。


『僕は、世界を変えたいだなんて、大それたことを言えるような器じゃなかった。僕にはコンプレックスと呼ぶべきもの――それは誰かを傷つけてしまうから詳しくは言えないけれど――があって、それは乗り越えられないまでも、向き合っていける、そう思っていたことだった。けど、結婚生活が始まって、初めて気づいたんだ。僕はそれを受け入れることができなかったんだって……そして、そんな自分に愕然とした。本当にどうしてなのかわからなかった、まさか、僕がそんな感情を持っていただなんて――』


 まったくもって、つかみ所のない話だった。いままで気がつかなかったけれど、結婚生活をするにあたって発見した、自分のコンプレックス? で、そのために、彼は妻と離婚した? 


 それで? と聞き返せることならば聞き返したいような話である。


 まったく、この映像がもっと早くに届いていれば――ヌールは周りに気づかれぬようため息をついた。事前に内容がチェックできれば、冗長な離婚話など聞かずに済んだのだ。もちろん、放映するかしないかは局長判断で、ヌールのような下っ端ができるわけもなかったが。


『とにかく――その内容はどうにしろ、僕らは言い争い、傷つけ合った。一度はあんなに愛し合った二人が、別れを決意するまでにね。そうして……彼女と別れ、苦しみ続けていたある日、僕は気がついたんだ』


 そのとき、ふと、サングラスの向こうの瞳に光が宿った――ように見えた。


『愛した人とも許し合えないのなら、世界が平和にならないのも、当然だ、って。そうだろう? そう思わないか? 僕たちは隣人はおろか、一生を共にすると誓った相手さえも、愛することができないんだ』


 そして、矢継ぎ早に続けた。


『と言うと、個人の争いと、戦争は違うって、反論する人もいるかもしれない。けど、少し考えてみて欲しい。一つの国があるとする。国民は皆、家族や隣人とも争うことなく暮らしている。互いに相容れないことがあっても、認め合い、許し合うのが当然だと考えている。そんな国の王様が、ある日「隣の国と戦争がしたい」と言う。果たして、その国は戦争するだろうか』


 戦争がしたい――いくらそう言っても、王様一人では戦うことはできない。戦には兵隊が必要だし、そのためには国民の理解が不可欠必要だ。それに何より、争うことをよしとしない国民が、彼の頭の王冠をそのままにしておくだろうか。


 Mは言った。


『僕たちの国は――先進国と呼ばれる国は大抵、民主主義だ。多数決の論理で動いていると言っていい。ということは――つまり、戦争を決断するのは王様じゃない。だから、もし、あなたの国が戦争をしているのなら、それはあなたたちのほとんどが、戦争を望んでいるからなんだ』


 戦争を望んでる? そんなの、冗談じゃないわ――あまりの暴言に、ヌールはこぶしを握った。


 ラザン独立国は民主主義の国だった。同時に、戦争の最中にある国だった。しかし、彼女は。彼女の知り合いにも、争いを好む人間など一人もいない。


 ラザンが戦争状態なのは、ただ隣国がアラルスタンであるという不幸のためだった。彼女たちはテロ攻撃に苦しみ続ける被害者だった。それは決して民主主義の成果ではなかった。


 怒りのあまり、ヌールが奥歯を噛み締めたときだった。Mがふと歌を口ずさんだ。聞き覚えのあるメロディーに、隣に座る同僚が重ねて口ずさんだ。


 それは、エンドレスという曲だった。無料であるがために放送されすぎて、歌に興味のないヌールですら覚えてしまった、あの曲。


『憎しみの始まりを 君は知らない それなのに 渡されたそれを 君は次の人へと手渡していく――』


 そのどこか懐かしいようなメロディは、ヌールの脳裏に、あの日、飛行機から見渡したブラッドラインを浮かび上がらせた。


 あのときの、何かが体の奥底から沸き上がってくるような感覚。そして、あのときの声――かつてここに私たちの血は流れたのだ――そう訴える先祖たちの声が、強く耳に蘇った。


 いや、


 頭の中の映像と彼のその歌を結びつけることを、ヌールは瞬時に拒否し、かぶりを振った。


 彼女は争いを望んでいなかった。けれど、同時に彼女は。先祖を殺し、その血で国境を引いたアラルスタンが滅びることを――。


 いけない――ヌールは半ば本能的に思ったが、時は既に遅かった。あらわになった本心は、彼女にその胸の真実を教えた。


 彼女は、争いを望まないのではなかった。彼女が望まないのは、同胞の死であり、故郷の争乱であった。そして、その思いは、歓迎するべきものとしての隣国の人々の死と、表裏一体であったのだ。


 呆然とするヌールの背後で、頑丈な金属扉がそっと開かれた。


 扉から入ってきたのは、入館証を首に提げ、重たそうな荷物を抱えた女性だ。映像に集中するスタジオで、誰もその気配に気づかぬ中、ヌールだけがその音に気づき、ほうけたように振り向いた。





『――その日、僕は初めて自分に失望した。豊かな国に生まれ、戦争の一端を担う自分に、またそれ以上に、多くを考えないまま、争いを選択してきた自分に。平和のための活動は、その後も続けたけれど、結局、僕にできることなんて何もないのかもしれないと、そんなことを思い始めた』


 工場の休憩室に設置されたテレビ画面の中で、Mは穏やかに話し続けていた。


『この世界には、何十億という人々が暮らしている。その一人一人が家族や、隣人や、友人とさえ傷つけ合わずに、お互いを尊重し合って生きることは可能だろうか――。僕は考えた。それは気の遠くなるような考えだった。考え続けるうちに、僕の存在は本当にちっぽけなものなんだということを理解した』


「奥山さん、この人の言うことぉ、よくわかんないんすけどぉ。だって戦争とかぁ、日本はいま、戦争してないじゃないですかぁ」


 若い同僚たちが、にやにや笑いを浮かべながら茶々を入れる。しかし、Mの言葉に聞き入る彼の耳には、そんな雑音は入らなかった。


 一彦はいま、長らく閉じていた目が開けた思いだった。


 平和というものを、これほどまで身近に感じたことはなかった。Mの言葉は、一彦の骨の髄まで届いていた。


 すなわち、家族を愛さずして、遠い国の誰かを愛せるだろうか。自分の殻にこもりきりでいて、誰かが自分を愛するだろうか。否、そんなことがあるはずはないのだ。


 彼は、死の間際、演歌歌手の名を呼んだ母を思った。日常のことすら学ぼうとしない彼女は、とても愚かな人間だった。


 彼はまた、そんな母に暴力を振るった父を思った。弱いものに当たり散らすことしかできない彼もまた、とても愚かな人間だった。


 けれど、それなら――一彦は今度は自身を振り返った。


 俺はそんなに立派な人間だっただろうか。父を許さず、年老いた母の願いも聞かず、自分自身の思いすら――自らの志さえ曲げた、この俺は。


「おい、とっくに休憩は終わってるぞ」


 そのとき、怒りを含んだ声が聞こえ、無遠慮に休憩室のドアが開け放たれた。工場長だ、やべぇ、と小さくつぶやきながら、同僚たちがぞろぞろと出て行く。しかし、一彦は一人、テレビを見つめたまま、立ち上がろうとはしなかった。


 一彦が勤めた当時から代替わりした若い工場長は、一彦を見て、これ見よがしにため息をついた。


「奥山さんも、早く業務に戻って下さい」

「いや、俺は戻らない」


 一彦は即答した。


 Mからの遺言はまだ続いている。いまこのときに彼の言葉を胸に刻まずしてなんとするのだ――使命にも似た思いが彼の胸を焦がしていた。


「1時間も2時間も続くわけじゃない。あとほんの少しだ。それくらい、いいだろう」

「あのねえ……」


 工場長は苛立ったように頭を掻いた。


「それを決めるのは、奥山さんじゃなくって、オレなんすよ。オレがここ仕切ってるんですから」

「それがどうしたんだ」


 一彦は、彼を振り向きすらせずに言った。


「この放送が終わるまで、俺はここを動かない。表立ってわからないだけで、日本だって戦争に加担しているんだ。俺たちは、いまこそ世界のことを考えなきゃいけないんだ」


 すると、工場長はあからさまに一彦を馬鹿にするような顔をした。そして冷たく言った。


「いままで、オレが奥山さんの行動に目をつぶってきたのは、親父の顔を立てたからです。けど、その親父も死んだ。オレはあんたをクビにもできるんですよ」

「……そんな脅しには屈しない」


 視線を動かさず、一彦は言った。テレビでは、Mが自らが癌であったことを告白したところだった。


『それも治る見込みのない、末期癌だったんだ。……ここまで話せば、もう気づいた人もいるだろう――』


 Mが笑う。ほんの少し上がった口角が、年相応の皺をつくる。一彦の胸がじくりと痛んだ。


 なぜ、彼がブラッドラインに立っているのか、最早その理由は明白だった。彼は、一彦のように諦めたりしなかった。最後のその瞬間まで、世界に貢献しようと考えていたのだ。


 そんな彼の覚悟に比べれば、工場長に逆らい、職を失うことなど何でもなかった。一彦はぐっと全身に力を込めた。


「何度言っても無駄だ。俺はここを動かない。誰にも、俺の志は曲げさせない」

「志って……たかがテレビを見ることでクビにされてもいいって言うんですか?」


 工場長が笑う。


「たかがテレビじゃない」


 一彦の声は、思わず大きくなった。


「いいか、一生を平和に捧げたMの言葉だぞ。何をおいても、耳を傾けるべきものだ。君も、それからここで働いている皆も――」

「奥山さん、あんた、何を言って……」

「そうだ、皆が見るべきなんだ」

「わっ」


 ドアを塞ぐように立っていた工場長を押しのけ、一彦は作業場に向かって走った。


 途中からでも、いまはその意味がわからなくても、一人でも多くの人に、彼の言葉を聞かせなければならない。Mの言葉にはその価値がある。人間が生きていく上で、何よりも大切な言葉がここにある。


 駆けながら、一彦は初めて、素直に意志に従い、行動している己を知った。何やら叫びながら、工場長が追いかけてくる。その声をどこか遠くに聞きながら、彼は抑圧されていた喜びが体中を駆け巡るのを感じていた。


 一彦と工場長がいなくなり、空っぽになった休憩室では、そのテレビ画面に映ったMが、まるでそこに誰もいないことを知っているかのように、小さな声でつぶやいた。


『だから――僕の死は、自殺だ。僕はいまから、このブラッドラインで自殺する』





 元夫の告白に、ヘレナは全身の血の気が引いていくのを感じていた。


「大丈夫よ」


 彼女の味方であることを誇示するように、この番組のホスト役、ジョアンナがヘレナの肩を抱いた。


 Mの遺言が世界中に生放送されるという事態に、アメリカのみならず、各国の番組がヘレナをスタジオに呼びたがったが、彼女は結局、元ルームメイトの番組を選んだ。ジョアンナズ・ショウである。


 計算高い彼女が旧友の番組に出演したのは、決して友情を重んじたからではない。単純に、ジョアンナズ・ショウが一番高いギャラを提示したからである。


 そうはいっても、彼女はそのギャラに見合う仕事はしているつもりだった。彼がヘレナの名を出したときには、一言一句聞き逃さぬよう、息を潜めたし、癌だったという告白には、予定通りの涙を流して見せた。


 けれど、彼の口から自殺という言葉が飛び出した途端、その涙は引っ込んでしまった。代わりに、ひどいめまいが彼女を襲った。


 それでも、カメラ映りを気にし、気を確かに保とうと努力をする彼女に、Mは茶目っ気たっぷりに続けた。


『そう、だから、この事件のすべては僕が仕組んだことなんだ。もちろん、君たちが探しているだろう、Mの代理人の正体も僕だ。何? ――僕は死んでるからできるはずがないって? スーパースターをなめてもらっちゃ困るな。スターっていうやつは何だってできるんだ、そうだろ?』


 憎らしいほど落ち着いた様子で、彼が言う。ヘレナはジョアンナに支えられたまま、それを唖然と見つめた。


 自殺? 事件を仕組んだ? それは一体、何のために? 何のために、彼はこんなにも世界中を騒がせたのだ? 


『それなら、僕がなぜこの事件を仕組んだのか』


 ヘレナの動揺が収まるのも待たず、Mは続けた。ごく軽い調子だった。


『僕は、押しも押されぬ、世界のスーパースターだった。そんな僕が、この紛争地帯――ブラッドラインで射殺されるんだ。皆は悲しみ、やはり争うのは良くない、戦争は止めよう、そんな議論が巻き起こるんじゃないだろうか。そして、世界が一つになり、平和へと向かうんじゃないだろうか――』


 ――まさか、そんなことのために? 三度のめまいに、ヘレナは今度こそ倒れそうになった。


 彼は、自らの死に、世界を変えるほどの価値があると思っていて、それを理由に自殺したとでもいうのだろうか。


 すると、そんなヘレナの胸の内を読んだかのように、Mは笑った。


『――という希望も、実は捨てきれずにいたんだ。それは認める。だって、さっきも言ったように、世界中のすべての人間がお互いを尊重することができたなら、世界平和は実現可能だと思うから』


「そんなこと言って、あなただって――」


 思わず口走ったヘレナに、ジョアンナが肉食獣のように食いついた。


「あなたって、M氏のことよね?」

「ええ、いえ、そうじゃなく……」


 こんなこと言うつもりじゃなかったのに――唇を噛むヘレナを、ジョアンナは容赦なく問い詰める。


「M氏は平和を希求してた。そうよね? この遺言に従えば、彼は平和のために命を捧げたってことになる。けど――」


 ネタを頂戴ちょうだい――ジョアンナの瞳がぎらぎらとした光を放っている。


「彼はこうも言ってたわ。――あなたと傷つけ合ったことで、お互いを尊重することの大切さを理解したのだと。それなら、彼はあなたを傷つけたことについて、謝罪をしたのかしら。そして、その謝罪をあなたは受け入れたのかしら。汝の隣人を愛せって、そういうことでしょう?」

「それは――」


 思わず目を逸らし、ヘレナは口をつぐんだ。しかし、ジョアンナは恐るべき嗅覚で、彼女が最も恐れていた問いを投げつけた。


「あなたたちは最後まで、離婚の原因について話さなかったわね。この映像でも、あなたとのこととなると彼は言葉を濁した。それはどうして? あなたたちが離婚に至った、そのきっかけって何だったのかしら?」


 質問に、ヘレナは体を強ばらせた。


 だって、彼は生まれてくるかもしれない黒い肌の子供が愛せなかったのよ――素直にそう叫べたら、どんなに胸がすっとしただろう。重苦しい秘密を吐き出し、表立って彼を責めることができたら、それはどんなに楽だろう。


 いままで考えに考えたことを、ヘレナは再び胸に問うた。考えた。


 Mがレイシストと知れれば、彼の名声は地に落ちるだろう。それを人々はまるでゴミのように扱い、彼のすべての功績は輝きを失い、歴史の中に埋もれるだろう。


 もし、彼がこの遺言通り、たった一つの命を平和のためになげうったのだとしても、レイシストの証言はそれを打ち砕くに十分な力を持つはずだ。


 いまこの瞬間、輝かしい彼の名は、完全に彼女の手中にあった。プライベートの彼がどんな人物であったのか、告白をするのなら、いまが最後のチャンスに思えた。


 ヘレナはためらい、顔を上げた。すると、そこには彼がいた。


 スタジオの大きなスクリーン、その光の中から、真正面に彼女と向かい合う、懐かしい人がいた。


 彼はいつものように穏やかな表情で、いつものように薄い色のサングラスの向こうから、いつものようにヘレナを見つめていた。


 出会ったときよりも、ずっと年を取り、皺も増えていたけれど、どんなにその外見が変わろうとも見間違いようもない彼がそこにいた。微笑み、手を繋ぎ、抱きしめ合い、キスをした、夫であった人の姿が、そこにあった。


 彼は死んでしまったのだ――突如、激しい悲しみがヘレナを襲った。彼は死んだ、もうこの世界のどこを探しても彼はいない、もう二度と、彼女はあの優しい人に会うことができないのだ。


 心臓に、ナイフで突き刺したような痛みが走った。


 そこから吹き出すべき鮮血の代わりに、頬を伝って、ぽろりと一粒、涙がこぼれた。続いて、もう一つこぼれた。三つ目もこぼれた。そうするともう歯止めが利かなかった。ヘレナは泣き崩れた。彼女は、二人の子供がいなくなってしまったことがわかった、あの夜ほど泣いた。


「どうしたの? ちょっと、ヘレナ……」


 ジョアンナの声が遠く聞こえる。それでも彼女は泣き続けた。泣きながら、どうして自分が彼の名を汚すことができなかったのか理解した。なぜなら、彼女はずっと彼を愛していた。別れてしまってもなお、ずっと愛し続けていたのだ。


『……けど、世界が平和になればいい、そう願う一方で――そう、僕もわかってるつもりだ。寂しいけれど、僕の命にそこまでの価値はないんだってことを』


 彼女が泣いていることを知らないがゆえに、映像のMは話し続けた。


『だから――そうじゃない。僕が死んだ理由は違うんだ。そうじゃなくて……皆、最初の質問を覚えているだろうか? 僕の死で世界は変わっただろうかって、聞いたことを』


 そう言って、ことさら寂しそうに笑った。


『けど、教えてもらわなくても、僕は問いの答えを知ってる。その答えはね――』




 その声は世界中に流れていた。




 小学校では、教室のテレビで、特別に彼の言葉を流していた。


 配達途中のドライバーは車を止め、主婦は家事の手を休め、農夫は流れる汗を拭き、山羊飼いの男は山羊を追いながら、濁った井戸水を汲む列に並ぶ少女は、空の瓶をその胸にしっかりと抱きながら。


 テレビやラジオを通し、その声を聞いている人々、そのすべてがMの言葉に興味があるわけではなかった。


 それは、彼の歌い続けた歌も同じだった。


 その歌を聴いたことはあっても、意味を知らぬ者もいた。意味を知っていても、平和なんてどうでもいい、けれどこの曲は心地よいと言う者もいた。


 彼の訴えたものは人々の耳に届いた。それで何かが変わったわけではないが、ただ届くことには届いていたのだった。


『その答えはね――』


 聞く者、そして聞かざる者、そのすべての人々を包み込むように、Mは言った。


『きっと、変わってない。わかるよ』


 ざわざわ、と世界は揺れた。けれど、それもやはり、世界を変えるという大事の前には、あまりに微力なものだった。


 それすらも知っていたかのように、静かにMは続けた。


『そう、僕が死んでも、世界は何も変わらない。でもいいんだ。僕は、何も世界を変えた英雄になりたいわけじゃないし、そんな大きな存在になんて、望んでもなれないことをちゃんと知ってる。だから、僕は決してそんなことのためにこの事件を仕組んだんじゃないんだ。じゃあ、何でこんな映像を残したかって言うとね――長くかかってしまったけれど、いままで話したことは全部、前置きなんだ。いまから僕は本当の遺言をする。これが僕の残す、本当に本当の最後の言葉だ。だから――そうだ、声だけに集中できるように、映像はここでおしまいにしよう』


 同時に、世界中のテレビから映像が消え、画面は真っ黒になった。間を置かず、その闇の向こうから、Mの声が聞こえた。


『準備はいいかな? じゃ、言うよ。でも、ものすごく小さな声で言うから、聞き逃さないようにじっと耳を澄ませて欲しい』


 Mが深呼吸をするように息を吸い込んだ気配がした。それから、彼はゆっくりと息をつき、最後の遺言をした――






 アメリカ国防総省の軍事作戦室は、息をすることさえ憚られるような沈黙に包まれていた。


 Mの最後の遺言、その一言一句を聞き逃さないよう、バチェラーをはじめとして、部屋のすべての人間が耳に神経を集めた。それは、チッ、チッ、腕時計が秒針を進める音すら鮮明に聞こえるほどの静寂だった。


「……これで終わりかね?」


 最初にしびれを切らしたのは、国防長官だった。


「何も聞こえなかったようだが」

「……確かに」


 眉をひそめて、副大統領がバチェラーを見る。大統領は慌てて咳払いをした。そして、もっともらしく言った。


「放送トラブルが起きたのかもしれないな」

「最後の最後で、ですか?」


 副大統領は腕組みをしたまま、椅子にふんぞり返る。わざとらしく腕時計を見る。それから、子供のようにくちびるを尖らせた。


「それにしても、あのMって歌手の行動は、けしからんにもほどがありますな。あんな場所で自殺をして、政府まで騒ぎに巻き込むとは……まるでテロリストのような手法じゃないかね」

「しかも、あれはどう考えてもアメリカ批判だ」


 テロ対策担当官が口を挟んだ。


「弔辞など、必要なかったんじゃないですか、大統領」

「それはそうかもしれないが、言ってしまったものは仕方がない」


 飛んできた火の粉を避けるように、バチェラーが首をすくめる。と、国土安全保障長官が怒ったように、


「そのやり方も最悪だが、それより、彼はテロリストを擁護するような発言をしていたじゃないか。あの発言については、何らかの処分に科すべきかもしれませんな。例えば、国家反逆罪や――」

「まあ、それは世論の動きも見て、おいおい決めるとして」


 バチェラーは咳払いをすると、円卓をぐるりと見渡した。


「ところで、我々は予定通り、核ミサイルを発射していいのだろうか」


 予定は予定だが――Mがこれだけ世界平和を訴えた直後なのだ。作戦自体を中止することはないかもしれないが、延期をしたほうがいいのではないだろうか、バチェラーとしてはそう尋ねたつもりだった。


 しかし、そう言った途端、厳しい視線が彼に向けられた。アメリカを侮辱したMの発言を、そのファンであるがゆえに、大統領は許すのかとでもいうような視線である。


「いやいや」


 慌てたバチェラーは、顔の前で手を振った。


「いや、もちろん彼の妄言に付き合うというわけじゃない。そうではなく……そう、ただの進行の確認だ。そもそもこの作戦は、彼がテロリストに殺されたという前提があってのものだったし――」

「彼の死は、いわば後付けの口実だ。何とでもなる」


 国防長官が鼻を鳴らす。その隣のテロ対策担当官も、


「この機を逃せば、テロはのさばるばかりです。再び9・11の悲劇を――」

「確認だと言っただろう」


 大統領の威厳を押し出し、バチェラーがもう一度、強く言うと、彼らはようやく疑いの眼差しを逸らす。それならばと、腕時計を見やった副大統領が促した。


「大統領」

「わかっている」


 バチェラーは差し出された受話器を掴んだ。ミサイル発射の信号を送る、無線基地直通のものである。


「はい」


 すぐに、やや緊張した声が応えた。バチェラーは深呼吸し、明瞭な声音こわねで言った。


「アメリカ合衆国大統領の命令だ。核弾頭搭載ミサイルの発射を許可する」

「……了解しました。コードの確認をします――」


 受話器を置いてしまえば、あとは事務的なやりとりだけだった。さいは投げられた。死んでしまったMはもとより、もう誰にも止めることはできない命令は下された。


 作戦室の時計が、正確に時を刻む。


 ミサイルの目的地点への予想着弾時間まであと15分――14分59秒――14分58秒――





 アメリカの核ミサイルが発射された、ちょうどそのとき、ロシアの少女リーリヤは、ベッドに顔を伏せ、声を上げて泣いていた。


 彼女の部屋に所狭しと並ぶ贅沢品は、すべで戦争の一端を担うものだったし、それに彼女の父親は娘の言葉に耳を貸すことなく、今日も世界で一番、人を殺した銃をつくる会社へと出勤していってしまったからだ。





 アラルスタンの地下アジトで、ウマルはケネスのこめかみに突きつけた、銃の引き金を引こうとしていた。けれど、Mの言葉を聞いた後では、その銃の冷たさは、ウマルの手の中で際立つばかりだった。


「……命拾いしたな」


 ウマルはそう言ってケネスの牢を後にした。しかし、それは彼を殺すことを諦めたという意味ではなかった。今日できなかったことは、明日やるだけだったし、それもウマル自身が手を下す必要もなかった。


 彼は部下に後を任せ、テ・ダク村のアジトからヤウームの本部のある北へ向かった。彼を乗せたトラックは黄色い埃を舞い上げ、あっという間に地平線の彼方へ消えていった。





 ラザン国営放送局のスタジオに入ってきた女性は、局長が採用した新人だった。


「あなた、出勤は明日からだと聞いていたけど」


 近づいたヌールに、大きな荷物を抱えた女性はぎこちなく振り向いた。その表情は、まるで声を掛けられることなど、予想していなかったとでも言いたげだった。けれど次の瞬間、女性は手に持っていた荷物を床に置き、叫んだ。


「アラルスタン、万歳!」


 ヌールの目を、白い閃光が焼いた。彼女の意識は、それ以上何も感じることはなかった。





「おい、みんな手を止めて、休憩室に入れ!」


 唸り声を上げてビンを流すベルトコンベアに負けないくらいの大声で、一彦は叫んだ。


「生放送でMの遺言がやってるんだ。聞いて、世界のために自分に何ができるか考えよう! そうする義務が俺たちにはある!」

「奥山!」


 敬称をかなぐり捨てた工場長が、鬼の形相で一彦の肩に掴みかかった。


「てめえ、何やってんだ、コラ!」


 しかし、工場長ともみ合いながらも、一彦は叫び続けた。


「工場のビンが倒れたって大したことじゃない! そもそもビン詰めの酒がなくったって誰も死なないし、戦争は起きない! そうだろ? いいか、俺たちは生きてるんだ、何だってできるんだ、その一度しかない人生を倒れたビンを起こすことで消費する気か? 違うだろ、もっと有意義なことが、有意義な時間の使い方があるはずで――」


 けれど、どんなに一彦が叫んでも――いや、叫べば叫ぶほど、工場の同僚たちはぽかんとしたような顔で、あるいは笑いを堪えきれないといった顔で、遠巻きに彼を眺めるだけだった。


 叫び続ける一彦は、工場長の呼んだ警備員に引きずられ、ゴミのように、屋外のアスファルトへ投げ出された。





「悲しいのは分かるわ、でもヘレナ、顔を上げて」


 ひきつけを起こしたように泣きじゃくるヘレナを、ジョアンナは必死になだめていた。


 彼女の泣き声で、Mの最後の遺言とやらはまったく聞き取ることができなかったし、このまま泣き続けられても、番組は生放送だ、支障を来す。それに、彼女には高いギャラを払ったのだ。それ相応のコメントをしてもらわないと、プロデューサーもいい顔をしないに決まっている。


「ヘレナ、ねえ」


 一体ヘレナがどうしてしまったのか、ジョアンナにはわけがわからなかった。


 彼女がいまさらMの死を悲しんでいるとも思えない。番組が始まる前の打ち合わせで、ヘレナは毅然とした未亡人を演じてみせるわ、などと軽口を叩き、笑っていたのだ。それがどうしてこうなってしまったのか――。


「ねえ、さっきの私の質問が嫌だったなら答えなくてもいいわ。だから、ヘレナ、どうか――」


 内心うんざりしながらも、ジョアンナは番組のため、彼女を慰め続けた。




 世界は、元通りに動き始めていた。




 一時は日常を断ち、Mの言葉に耳を傾けた人々も、いまはその続きへと戻り、その間に得た感情を、まるで物語のページをめくるように、過去へと押し流していく。


 小学生たちは退屈な算数の問題に戻り、ドライバーたちはあくびをすると、再び、車のエンジンをかけた。主婦は中断していた家事を再開し、農夫は草刈りに、山羊飼いは声を上げて山羊を追い、瓶いっぱいに水を汲んだ少女はふらつきながらも帰路についた。


 黄色い砂地で、Mの最後の言葉に耳を澄ませ、歩みを止めていた母親とアリーも、放送が終わったことを知ると、再び足を動かし、真っ直ぐな道を進み始めた。


 そうして、しばらく先へ進んでから、赤ん坊を抱えた母親は、まるで独り言のようにつぶやいた。


「最後の言葉って、何だったのかしらね」


 風が泣いていた。天気は良いのに、嵐が来るような気配がした。すると、アリーが驚いたように聞き返した。


「お母さんには聞こえなかったの?」

「あなたには聞こえたの?」


 母親が驚いて聞き返すと、息子は力強く、うん、と頷いた。


「じゃあ、何て言ってたのか、お母さんにも教えてくれる?」

「うん。あのね……」



 お母さんたら、おかしなことを聞くんだな、アリーは小さく首をかしげた。


 Mの最後の言葉――それは彼の耳には、はっきりと聞こえていた。それなのに、どうして母親には何も聞こえなかったのだろう、彼はそれを不思議に思ったのだ。


 それはなぜだろう、考えていると、何だかとてもおかしくなって、彼はころころと声を立てて笑った。あまりに楽しそうに笑う息子に、母親も思わずくすりと笑った。それを見て、腕の中の赤ん坊もけらけらと笑った。


 乾いた空に、三人の笑い声が吸い込まれていく。


 死んでしまった妹も、空のどこかで笑っているかしら、笑いながらアリーは思った。妹が生きていたら、きっと、彼女にもMの最後の言葉が聞こえただろうと、彼は思った。


 ひとしきり笑うと、彼は母を見上げた。そして、内緒話をするように囁いた。


「ぼくに聞こえたのはね―――」































 アリーが聞いたのは、静寂だった。


 それは、ほんの少しの間だけではあったけれど、世界のどこからも、大砲の音や銃の音が聞こえない、そんなひととき。


 彼が生まれて初めて耳にした、それは心が安らぐような静けさだった。


 きっと、あのアメリカ人はその一瞬のためだけに命を捧げたのだろう――誰に教わることもなく、少年は自然とそう思った。


 そして、こうも思った。


 きっと、この静寂はすぐに遮られてしまうだろう、けれど、そんなことすら、あの人は知っていたに違いない、と。



 そのとき、彼の正しさを証明するように、彼方から飛翔するミサイルの音が空に響いた。テ・ダク村を中心に、その半径2キロ圏内を焼き尽くすアメリカの核爆弾である。


 それは平和を願った一人の人間が、世界に与えた静寂を引き裂く、戦争の音であった。


【完】

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ブラッドライン 黒澤伊織 @yamanoneko

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