第7章 フランス領ニューカレドニア

 自家用飛行機の窓から遠ざかっていく美しい島に見向きもせず、ヘレナ・エインズワースは小刻みに膝を揺らしていた。島は彼女の所有する無人島、南太平洋に浮かぶニューカレドニア本島からセスナで1時間弱という、まさに地上の天国と呼ぶべき場所である。


 大空に透明な海、真っ白な砂浜、静かな風そよぐ椰子の木陰。


 大昔の神殿を思わせる、荘厳華麗な別荘を取り回すのは、料理人やメイドなど、必要最低限のスタッフのみ。外界とのコミュニケーションは遮断され、騒がしい外界の情報は一切入ることがない。


 つい先ほどまで、ヘレナは自らの専有するその天国に、交際を始めて数ヶ月の自分よりも15も年下の若い男――エルミニオと、二人きりの甘い時間を楽しんでいた。



 恋を楽しみたいのなら気取ったフランス男、けれどセックスなら情熱的なイタリア男に限る――そう言ったのは、あの頃、同じ女優を目指していた昔のルームメイト、ジョアンナだったか、それともそれは懐かしい映画の台詞だったか。


 いずれにせよ、四十過ぎのヘレナから見れば、まるで少年のような容貌をしたエルミニオも、ベッドの上では立派な男で、期待以上に彼女を楽しませてくれた。彼は、主人の望むことならば何事も厭わない従順な飼い犬で、ヘレナはこの一ヶ月、その黒い瞳の恋人をペットのように慈しんで止まなかった。


 けれど、いま――その飼い犬はといえば、ヘレナの隣ではなく、二つ離れた後ろの席でじっと息を殺している。いま主人に甘えようものならば、どんな怒りが向けられるものか、彼の動物的な本能は敏感に察知しているのだろう。


 そして、彼の対応は正解だった。感情の渦の中心にいるヘレナは、話しかけられようものなら、相手が誰であろうと怒声を上げ、完膚なきまでにやり込める自信があった。その話しかけてきた人間が、たとえ合衆国大統領であったとしても、だ。



 その原因は、バカンスの終わりに彼女たちを迎えに来た、操縦士の一言だった。


 彼は、ヘレナが天国での一ヶ月間、テレビも見ず、誰かに電話やメールさえすることもなかったというのに、その話題を彼女が当然知っているものと決めつけた上で、まるで軽い世間話をするかのように話しかけてきたのである。


 M氏のこと、ご愁傷様でした――と。


 耳がその言葉を聞き、数少ない手がかりから脳がその意味を推測したその瞬間、目の前の美しい景色が、ぐるりと回った。


 演技を仕事としているにも関わらず、ヘレナは自分がいま、どういう表情をしているのかすら、分からなくなった。


 けれど、それはひどい顔をしたのだろう。エルミニオが一歩後ずさる気配がして、目の前の操縦士の顔が強張った。


『当然、ご存じかと――』


 彼は言い訳めいた言葉をつぶやいたが、それはヘレナの叫びにかき消された。


 有無を言わさず、彼女は操縦士の携帯電話を奪い取った。覚えている限りの番号に電話をかける。それから、それが悪い冗談などではないことを確かめると、今度は嵐のように怒り狂った。


 バカンス中は何があっても連絡をしないで、そう念を押したのは、確かに彼女自身である。けれど、他でもないが死んだのだ。誰かが気を利かせるべきに決まってる。やり場のない怒りに、彼女は気が狂いそうになるのを懸命に堪えた。彼女には、その事実を誰よりも知らされる権利があり、その怒りは正当なものと言えた。


 なぜなら、彼女は、彼のめとった唯一人の妻だったからである。




 Mと彼女が出会ったのは、ある映画のオーディション会場だった。


 そのとき、ヘレナはカンザスの田舎町から出てきたばかりの小娘で、持っているものといえば「女優になりたい」という、その場にいる全員が持っているような、代わり映えのしない志と、それから――手製のグリーンピース・パイの入った包みだった。


『あなたじゃないわ。わたしの手を引くのは、運命よ』


 待ち時間の間、ヘレナは何度もオーディション用の台詞をつぶやいた。それは、友人も恋人も、何もかもを振り捨てて町を出るヒロインの台詞だった。


 大丈夫、きっとうまくやれる――彼女は自分を励ました。このヒロインと同様、彼女は何もかもを捨てニューヨークへ出てきたのだ。込められる気持ちは、他の応募者の何倍も強いはずだった。


 広大なカンザスの地で、彼女が育ったのは、どこにでもあるような畜産と農業の町だった。しかも、とても小さな町だ。ヘレナのニューヨーク行きは、あっという間に噂になった。


『町の子供らの中で、牛を追うのが一番うまかったあのお転婆が、女優だって?』

『どうすんだ。都会の真ん中じゃ、牛は飼えねえぞ』


 多くの人が笑ったが、けれど、バカにされても笑われても、どのみち彼女は平気だった。いつか主演の映画が何本もあるような、立派な女優になる、それが彼女の夢であり、自分の運命であると信じていたからだ。


 しかし、現実はそう甘くなかった。彼女は何度も書類審査で落ち、やっと面接までこぎ着けたのが、このオーディションだったのだ。


 オーディション会場の案内通知に、ヘレナはルームメイトのジョアンナと共に喜びを分かち合い、その日に向けての準備を始めた。


 彼女が手に提げている、お手製のグリーンピース・パイは、その「準備」のうちの一つだった。裏庭で取れた豆を使って、田舎の母親がよく作ってくれた、世界一美味しいレシピである。


 実は、この映画には、ヒロインが故郷の味であるコーン・マフィンを食べ、涙する場面があった。


 だから、彼女にとってのコーン・マフィンは、私にとってこのグリーンピース・パイなんです――ヘレナは審査員たちにそうアピールするつもりだった。ニューヨークで新鮮な豆は手に入らず、グリーンピースは缶詰めのものだったが、おいしいと言ってもらえるようにきちんと味見もしてある。



『121番から130番まで、中へ』


 思いに耽っていると、厳しい目つきの女性が廊下に顔を出した。いよいよだ――ヘレナは勇んで会場に入ろうとした。と、女性が彼女を止めた。


『127番、荷物は持って入らないように。失格になりますよ』


 有無を言わせぬ眼差しと声に、ヘレナはたじろいだ。しかし、懸命に声を張り、


『これは必要だと思って持ってきたんです』

『必要?』


 すると、女性は鼻で笑った。


『必要かどうかはあなたが判断することじゃないわ。あなたがこの映画に必要かどうかもね』


 皮肉に、顔がかっと熱くなった。思いがけず涙がこぼれた。


『で、でも、私、田舎から出てきたばっかりで、やっとここまで来られて……』


 ここで負けちゃいけない、何とか言葉を継いだヘレナだったが、女性は眉一つ動かさずに言い切った。


『そんな人、ここには大勢いますよ。さあ、あなたはもう帰って。次はこんな馬鹿な真似をしないことね』

『待ってください!』


 閉じられようとするドアに、無我夢中に体をねじ込もうとして――彼女の手からグリーンピース・パイの包みが飛んでいった。


 包みはほどけ、中のパイが床に無残に飛び散った。女性が忌々しそうに舌打ちをする。彼女は惚けたようにそこにへたり込んだ。


 中身が飛び出し、ひしゃげたパイは、彼女の心そっくりだった。もう終わりだ、これは神様がカンザスへ帰れと言っているのだ、そう思った。そのときだった。


『これは、君がつくったの?』


 それは、映画の主題歌を歌うMだった。


 審査員として、会場に呼ばれていた彼は、ゆっくりとした動作で崩れたパイに手を伸ばすと、皆が見守る中、ぱくりと一口、口にした。そしてなぜか、くすりと笑った。


『おいしいよ』


 そこから、どこをどうしたのか、運命は彼女とMをあっという間に結びつけた。気がつけば、無名どころか女優志望というだけの彼女は、純白のドレスに身を包み、世界一有名な歌手に見つめられていた。


『会った瞬間に分かったよ。君は僕のフライヤだ』


 ヴェールを上げながら、Mは彼女に囁いた。


 イギリス訛りの牧師は何のことかと不思議そうな表情を浮かべたが、ドイツ系の彼女は、その女神の名に顔を赤らめた。そして、お決まりの牧師の誓約の言葉に、はい、と答えた。


 娘が有名人――それもMと結婚するなど、式が終わるまで信じられないというような顔をしていた両親も、教会を出た彼女を涙で祝福をし、Mの黒い肌をした母親も彼女のことを娘として抱きしめてくれた。


 当時、二人の結婚は、20世紀最大の衝撃とまで呼ばれた。Mの妻として、一躍有名人の仲間入りをしたヘレナは、新婚旅行を終えたその日からテレビで引っ張りだことなった。


 最初に出演契約をしたのは、コメディ番組で活躍を始めた、かつてのルームメイト、ジョアンナとの共演だった。トーク番組に出た二人は、カメラの前で再会を喜び、下積み時代の出来事を面白おかしく語ってみせた。そして、いかに自分が幸せであるかを語り尽くした。


 ただでさえ、曲の製作やコンサートで忙しい夫は、さらに恵まれない国への慈善活動に熱心だったため、彼女と過ごす時間は少なかった。けれど、その少ない時間が二人の絆をより強くしていた。


 誰が何と言おうが、彼は世界中のどんな人間よりも完璧だった。優しく、思いやりに溢れ、それから彼女のつくったグリーンピース・パイを食べてくれる、最高のパートナーだった。



 その幸せを後押しするような出来事が判明したのは、結婚から1年経った頃だった。


 妊娠だ。


 とはいっても、つい先日にわかったそれはまだほんの初期で、妊娠検査薬を片手に慌てて産婦人科へ走ったヘレナに、医師は、また来週来て下さい、と言った。赤ちゃんの心音が確認できたら、予定日に入院の予約をお取りしましょう、と。


 その2回目の検診の日だった。今日こそあなたに会えるわね――ヘレナはいまは平らな腹を撫で、心の中で囁いた。そうしたら、あなたのお父さんにも伝えなくっちゃ。今日の夜、帰ってくるのよ。


 コンサートツアー中のMは、この二週間あまり、家を空けている。ヘレナは妊娠のことを、まだ彼に伝えていなかった。


 こんなに素晴らしい出来事を、メールや電話で伝えるのは味気ない。顔を見て、その目を見てきちんと伝えたかったのだ。彼女は身支度を済ませると、うきうきしながら病院へ向かった。



 しかしその夜、久しぶりに帰宅したMが見つけたのは、広いダブルベッドの上で泣きじゃくる妻の姿だった。


 なぜ妻が泣いているのか、心当たりはなかっただろう。けれど、彼は何も言わず、涙であらかた化粧を落としてしまった彼女を抱き寄せた。どうしたんだ、優しくそう聞いた。


 やはり彼は完璧で、申し分の無い夫だった。だから、彼女は悲しみをそのまま、彼に伝えた。


『私、流産してしまったの』


 夫の胸に顔を埋め、彼女は小さな悲鳴のような声を上げた。


『先週、検査薬が陽性になって、でも今日病院に行ったら、胎ほうが育ってなくて、心音も聞こえなくって――』


『妊娠?』


『ええ、あなたを驚かせようと思って、黙っていたの。けど、だめだったのよ。私のお腹に、赤ちゃんはもういないの』


 そう言って、ヘレナは彼の顔を見上げた。



 彼女自身、それはそうしてから初めて気づいたことだったが――人は、自分でも無意識に、そこにあるべき表情を期待するものであった。


 とはいっても、何も特別なことではない。喜びには喜び、悲しみには悲しみ、ただそれだけのことである。


 ヘレナが優しい夫に期待したのも、そんな平凡なものであったはずだった。それなのに、見上げた彼の顔に浮かんでいたものは、彼女の期待とはまるで別のものだった。


 彼女の目には涙が溢れ、その視界は歪んでいた。だから、はじめはそのせいで夫の顔が奇妙に見えるのだと思った。けれどそれはどうやら違うようだった。


 窺うような妻の視線に気づき、すぐに彼は表情を変えた。彼女と同じ、悲しみの仮面を被ってみせた。しかし、その一瞬の表情は、ヘレナの心に焼きついた。それは完璧な夫に浮かび上がった、不気味で恐ろしい染みだった。


 彼女が夫に見たもの――それは安堵あんどの表情だった。その表情を見て、彼女は夫の気持ちを手に取るように理解した。つまり――


『子供は、なくったっていい』


 心の内を悟られたと知った彼は、ひどく弱々しくつぶやいた。


『君と、僕が二人でいられたら、それ以外は何も望まない』

『……どうして? なぜ、そんなことを言うの?』


 涙を忘れ、そう聞いたが、彼は口を閉ざしている。彼女は混乱した。


 彼は恵まれない国の子供たちのために、チャリティーを開き、莫大な寄付をしているはずだった。親がない子供に施設をつくり、食料を届けているはずだった。


 それは、子供好きな人間の優しい行動に見えた。世界はその愛に感動していた。それなのに、彼は二人の子供は欲しくないのだという。そんなことがあるだろうか。


 黙りこくった彼の代わりに、考えつく限りの答えを彼女は問うた。


 それは、世界中で可哀相な子供たちを見たからなの? 自分たちで子供を産むよりも、施設の子を引き取って幸せにしてあげたいからなの? それとも一体どうして、なぜ――? 


 そのときは、結局彼女が彼の本心を言い当てることはできなかった。


『もしもこのことで……万が一、君が望むなら、離婚をしてもいい』


 彼はうめくようにそう言った。


『けれど、僕は君を愛している。愛してるんだ。その気持ちに嘘はないということだけは理解して欲しい』



 しかし、そう言われても、彼の態度を知ってしまった以上、ヘレナはこれまでと同じに過ごすことはできなかった。けれど、かといって、愛する彼から離れることはできない。


 葛藤は続き、その間も子供の問題は徐々にヘレナの中で膨らんでいった。


 彼はどうして子供を拒否するのだろう、彼女はその理由を知りたいと思い、同時にその秘密を知ることを恐れもした。


 彼の秘密がさらけだされたとき、二人を固く結んでいた運命の糸は、儚くも解けてしまうだろうという予感があった。そして、現実はその予感の通りとなって、彼女の前に立ちはだかった。




 胸が疼くような記憶から目を逸らし、ヘレナは機内に用意された新聞や雑誌を、手当たり次第につかみ取った。引きちぎるような勢いで、ページをめくる。そうして目に飛び込んできた内容は、彼に関するものばかりだった。


 彼は死んだ。


 そして、その彼の死を世界中にいる彼の友人やマネージャー、製作に関わったプロデューサーといった、そうそうたる顔ぶれが語り、嘆いている。その中に自分の名が無いことに苛立ちながら、彼女はむさぼるように記事を読んだ。


 ブラッドラインでの彼の死、彼を殺したテロリストの銃弾、そして、どうやらアメリカ政府は彼の死を口実にテロリストへ攻勢をかけようとしているらしいということ――そこまで読み進め、ヘレナは鼻で笑った。


 世界平和に尽力した彼の死が、結果的に大きな戦争を呼び込もうしていることを、皮肉に感じずにはいられなかった。生前、彼が何を叫んでいたとしても、その死はすべてを消してしまうのだ。


 さらに記事を読み進めると、彼が殺される場面の映った動画のこと、これから公開されるという遺言の話――そこへ突如として現れた「Mの代理人」という名に、ヘレナはおもむろに席を立った。迷うことなく通路を進むと、コックピットへ続く扉を開け放つ。


「これは誰なの?」


 突然の声に驚いた操縦士が、ぎょっとしたように振り向いた。


「ミズ・エインズワース、そこを開けては――」

「ミス、よ」

「ミ、ミス・エインズワース、その扉を開けられては困ります。すぐにお席に戻って――」

「そうじゃなくて、質問に答えなさい。一体この人は誰なの、と聞いているの」

「ええと、この人、とは……」


 引く様子のないヘレナに、渋々操縦士が聞き返す。彼女は苛立って、


「だから、『Mの代理人』よ。誰が彼の死を利用して、こんな茶番を始めたわけ? 私の許可も得ずに」


 操縦士は何度か目を瞬いた。それから、彼女の機嫌を伺うように、控えめに言う。


「その……世間ではあなたのことだと言っていますよ、ミス・エインズワース。何しろ、彼が亡くなったというのに、妻であったあなただけが、どのメディアにも出ないわけですからね。けれど、それがあなたではないというのなら、私は――」


 ヘレナは、頭に何人かの彼の友人を思い浮かべた。何も彼女に頼らなくとも、信頼のおける友人など、彼にはごまんといるのだ。


 そう思うと、彼女は、張り詰めていた怒りが空気が抜けたようにへなへなと萎んでいくのを感じた。元妻という肩書きが、それほど意味のないものだということを認めるのは、辛いことであるような気がした。


 しかし、そんな彼女の様子に気づくことなく、この機会にとばかりに操縦士は続けた。


「いえ、あなたはその、M氏と離婚したのですから、こんなことを聞くのはどうかとも思っていたんですがね。私はもちろん、家族全員が彼の大ファンでして、その……、プライベートのM氏って、どんな方でしたか」


「プライベートの、彼?」


 ええ、そうです――嬉しそうに答える操縦士に、ヘレナは口を開きかけ――しかし、それを飲み込むと、さっさと踵を返して席へ戻った。


 思い切り腰を下ろすと、そのはずみで飲み込んだ言葉が胸につかえた。




 離婚の際、彼はたくさんの慰謝料を彼女に払った。


 にも関わらず、彼はそのプライベートや離婚の理由について、彼女がメディアに話すことを制限しなかった。だから、彼女は大スターのあれこれについて、望むままに話すことができるはずだった。


 けれど、彼女は離婚からいままでの間、それらを誰にも話さなかった。


 思い出すのが嫌だったわけでも、話す機会がなかったわけでもない。むしろその反対に、世界中の人間がこぞって彼女の話を聞きたがったし、その話に途方もないギャラを提示する人間は後を絶たなかった。しかし、それでもやはり、彼女は無言を貫いた。


 その理由を強いて挙げれば、ヘレナは自分の中から彼の痕跡を消し去ってしまいたいのかもしれなかった。そんな思いを裏付けるように、彼女は結婚指輪を排水溝に流し、受け取った慰謝料を、そっくりあの美しい南の島につぎ込んでいた。


 彼がおいしいと言ったあのグリーンピース・パイも、もうつくることはなかった。思えば、二人の出会いになったその料理は、別れのきっかけにもなったのだった。



 例の子供の問題で、ぎこちなくも、まだ二人を絹糸のように細い愛情がつなぎ止めていたあの夜、ヘレナは田舎の母から届いた荷物を開けていた。


 中に入っていたのは、手紙と写真と――それからビン詰めのグリーンピース。母が裏庭で採れたものを、水煮にして送ってくれたのだ。


『きれいな色……』


 彼女は思わずつぶやいた。


 夫の心を見失ったあの日から、ヘレナはグリーンピース・パイをつくっていなかった。二人の愛の印を、その愛に迷いのある心でつくりたくはなかったのだ。


 けれど、その透明な瓶の中に詰められたグリーンピースは、色鮮やかで美しく、まるでエメラルドのような輝きを放っていた。


『久しぶりに、つくってみようかしら……』


 ヘレナは固く締まった蓋を開け、スプーンでそっと、その愛らしい粒をすくった。丸い粒はころころと銀の上で転がり、何とも言えない、新鮮な匂いが立ち上る。


 彼女は幼い頃、裏庭で母親とグリーンピースを収穫したときのことを懐かしく振り返った。膨らんで弾けそうな鞘を割り、宝石のようなそれを取り出したときの喜び。思い出が鮮明に脳裏をよぎる。と、そのときヘレナは、とあることを思いつき、はっとした。それから、背筋が薄ら寒くなるような感覚を覚えた。


 それは単純な思いつきだった。しかし、それだけに恐ろしい思いつきとも言えた。


『どうしたんだい?』


 ややあって、キッチンへ姿を現した夫が、黙ってグリーンピースを見つめるヘレナの肩を抱いた。


『君の故郷の味だね。おいしそうだ』


 その瞬間、胸の中で何かが弾けた。


 彼女は自分でもよく分からないままに、激しく彼の手を撥ねのけた。その拍子にビンが倒れ、緑の粒が白いテーブルの上にぶちまけられる。それを構わず、彼女は叫んだ。


『あなたが子供が欲しくない理由は――』


 言ってはいけない、と頭の中で声がした。これは彼の苦しい秘密で、口にしたら最後、この幸せな結婚生活は終わってしまうだろう、と。けれど、それがわかっていてもなお、一度飛び出した言葉を止めることはできなかった。


『子供が欲しくないのは、あなたが――いいえ、あなたのお母様が――』


 さすがにその先が彼女の口から出ることはなかった。自分が言い出したにも関わらず、ヘレナは祈るように夫を見つめていた。どうか、自分のこの言葉を否定して欲しい――心はそんな思いで破裂しそうだった。


 しかし、夫は――完璧な世界のスター、Mは、黙って彼女を見つめ返した。その悲しげな眼差しで、ヘレナは自分の言葉が正しいことを知った。声もなく、彼女はその場に泣き伏した。



 ――それは遠い遠い幼い日、母親と収穫していたときのことだった。そのグリーンピースに、丸い粒と、しわの粒があることに、彼女はふと気がついた。


 どうしてがあるの――そう尋ねる小さな娘に、母親はさもおかしそうに笑った。そして言った。


 ああ、私の可愛いヘレナ。お前と同じことに気がついた神父さんが、昔々にいたんだよ。その人はね、遺伝っていって――そうだね、わかりやすく言うと、親と子供は似るってことを、初めて発見したんだよ。


 優しく教えてくれた母に、あのとき少女だったヘレナは何と言ったのだったか。お母さんと子供が似てるだなんて、そんなの当たり前じゃない――そう言って、母の腕に抱きついたのか、そして、そんな無邪気な娘を、母は世界で一番大切な物に触れるようにそっと抱きしめたのだったか。



 ヘレナは目の前の夫を見つめた。ごちゃまぜの感情が喉元へこみ上げ、それは確固とした言葉になるまでの短い間、ぐるぐると色を変え続けた。


 「白い黒人」である彼は、黒人の母親とは似ても似つかなかった。


 もちろん、彼らは本当の母と子であることに間違いはない。それでも、その肌色の違いは、彼を混乱させ続けているのか。いや、きっとそうに違いない。だから、彼は子供が欲しくないと言ったのだ。


 彼が恐れているのは、彼の中に流れる黒人の血だった。夫婦の間に生まれるかもしれない、黒い肌の子供だったのだ。



 最低だわ――ようやく、その形を成した言葉が、ヘレナの口をついて出た。


 ――このレイシスト、偽善者!


 一旦それが迸ると、罵倒の言葉は尽きなかった。あとからあとから湧いて出た。ヘレナのお腹で育つことのなかった子供、その子以上に彼を傷つけなければ、自分の精神を保っていられないような気がした。


 けれど、口では罵りながらも、一方で、彼女はわかりすぎるほど彼の胸のうちを理解していた。彼はもちろん、本当にレイシストであるはずがなかった。その行いは最低でもなかったし、偽善者という指摘は的外れもいいところだった。


 なぜなら、彼は正しい意志を持ち、真っ直ぐに人を愛する心を歌ってきた。


 「白い黒人」と、そう揶揄やゆされることはあっても、そんな差別は間違いだと、世界中が手を取り合うべきだと声高に叫んできた。何より、黒人の母親を愛していた。肌の色など関係なしに、世界中の誰をも分け隔てなく愛していた。


 けれど――いくら正しく、理性に基づいた行動をしていようと、彼の中にはきっと、生まれながらに白人の彼女には理解することができないが存在するのだった。完璧な彼でさえ、決して乗り越えることのできない、恐ろしく困難な何かが。



 あなたは最低よ――最早、自分でも意味も分からなくなったその言葉を何度目かに喚いたとき、ヘレナは彼の目から涙がこぼれ落ちるのを見た。


『……すまない』


 彼は息継ぎをするかのように、一言だけ、そう言った。


 叫び続けていたヘレナは、ようやく口を閉じた。まるで100メートル走でもしたように、息が荒かった。そうしてはじめて、彼の愛で満ちていたはずの自分の中身が、空っぽになってしまったことに気がついた。


 彼女は椅子に座り込んだ。夫はその間も静かに涙を流し続けていた。


 その夜が明け、朝が訪れたとき、二人は離婚することを決めた。愛はガラス製ではないにしろ、一度割れてしまえば元に戻らないものであった。



『僕は、まだ彼女を愛しています』


 離婚後、彼はマスコミ向けに、一言だけコメントを出した。


『けれど、僕は彼女を不幸にしてしまった。だから、離婚の責めは僕が負うべきです』


 発言の真意が取り沙汰される中、ヘレナは沈黙を守り通した。


 あの人は表向きは善人のような顔をして、裏では黒人差別をしているのよ――時々、そんなふうに何もかもぶちまけてやりたいような感情に駆られることもあることにはあったが、それもあの夜、彼が見せた悲しそうな涙を思い出すと、衝動はいとも容易く窄んでしまうのだった。


 けれど、もう彼は死んでしまった。いまさら何を憚ることもないだろう。



 ヘレナは過去の感情を押しやると、マネージャーへかける電話の内容を思いあぐねた。


 手元の記事によれば、全世界で一斉に彼の遺言が放送されるという日まで、あと何日も残っていなかった。


 彼とのプライベートが金となる、その最高値はまさにいまだろう。そろそろ心許なくなった貯金を、再び築き上げる絶好の機会が目の前に転がっている。彼女がすべきことは、単純だった。


 彼女は、ただ彼について語ればよかった。彼と離婚をした理由、それからそんな元夫の死に、どんなに自分が悲しんでいるか――。


 と、記憶の中の夫を思い浮かべた瞬間、何か熱いものがまなじりから滴り落ちた。涙だ。ヘレナはそれを見て呆気にとられたあと、その滑稽さに笑った。


 この涙を見て、世界中は悲しみに暮れるだろう。彼女はたった一人、Mに愛された女として、そしてMを愛した女として、表舞台に返り咲くのだ。それがもし可能なら、彼の親戚に交渉し、Mの生涯を描いた映画に出演するのもいいかもしれない。とにかく、この機会を利用すれば、残りの一生、何をしなくてもいいだけの財産が手に入るに違いない。


 金の算段に思いを巡らせると、心の痛みはどこかへ飛んでいた。


 残ったのは、カメラを向けられた瞬間、誰よりも美しく涙をこぼせるという、自信に満ちた思いだけ。君は僕のフライヤだ――あのとき彼が囁いた、愛を司る女神のように、その横顔は毅然きぜんとした美しさに満ちていた。

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