第6章 日本国

 電源ボタンを押すと、年代物のブラウン管はブオンと低音を立て、ゆっくりと明るくなった。同時に、テレビ台代わりにされていたVHS専用のビデオデッキが、がちゃがちゃと奇妙な音を立てる。


 そこには、氷川きよしの出演番組を録り溜めたビデオが入っているはずなのだが、どうやら内部で磁気テープが絡んでいるらしく、取り出すことができなくなっていた。


 しかし、それももう、1年以上も前からのことだ――奥山一彦はため息をつき、くたびれたネクタイを緩めた。


 彼が帰宅したのは、いまどきは貧乏学生でさえ敬遠するであろう、風呂無し1Kの狭苦しい部屋。駅から徒歩20分、洗濯物を干すベランダもなく、唯一の窓からの景色は、手が届きそうなほどの距離に建つビルの壁という物件だ。


 だからこそであろう、このぼろアパートの家賃は、彼が母親と住み始めた30年前と変わらず、驚くほど安かった。いや、それともこういうことかもしれない――一彦は、このアパートの一番の古株であるのだから、大家が気を利かせて賃料を据え置いてくれているのだ。


 他の店子たなこと交流のない彼に、それを確かめる術はなかったが、一彦はそう考えることで満足していた。ともあれ、彼は床に散らかったゴミをかき分け、着ていた背広をハンガーに掛けると、XLの部屋着に着替えた。



 東京は暑い。その上、この頃は、以前と比べて10キロも太ったのだから仕方がないことではある。


 六十近い年で「中年太り」もないとは思うが、最近では通勤電車に乗ると、若者があからさまに自分から距離を取るのがわかる。


 毎日の着用で汗をたっぷり吸った背広は、着ている本人にも少し臭うほどなのだから、他人にはよほど臭うのだろう。


 彼は、床に転がっていた除菌消臭スプレーを、丹念に背広に振りかけた。風通しの悪い部屋に充満した強烈なアロマ臭に、大きなくしゃみが出るが、しかし、これで汗の臭いは消えたはずだ。


 色の変わった敷布の上に座り込むと、コンビニ袋から、まだほのかに温かい焼き肉弁当を取り出す。割り箸を割るのももどかしく、中身をせっせとかき込み始める。



 彼の勤め先は清酒のビン詰め工場で、仕事はベルトコンベアで流れてくるビンの倒れてしまったものを、手で立て直すというものだった。


 工場では作業着が支給され、勤務中はその着用が義務づけられている。だから、あの汗臭いスーツは、彼の通勤着であった。


 スーツで出勤し、ロッカーで作業着に着替える彼を、工場に入ったばかりの、二十歳そこそこの若い同僚たちは笑っていた。それは知ってはいたが、長年の習慣は変えられるものではない。


 いまさら普段着のままラッシュアワー時の電車に乗るのは、肩身が狭かったし、それに昭和一桁生まれで、漢字もろくに書けなかった母親は、彼がスーツを着ているという、それだけの事実で、息子がちゃんとした勤めへ出ているのだと安心したものだ。


 母は毎日、このぼろアパートで一汁三菜の夕飯を支度して一彦の帰りを待ち、彼のスーツの皺を伸ばしながら、お前を大学へ出した甲斐があった、と何度も言うのであった。


 しかし、その母親も、半年前に亡くなった。八十九であった。



 一彦は弁当を食べる片手でノートパソコンを開き、起動した。こちらはおんぼろのブラウン管と違い、瞬時に鮮やかな光で彼の顔を照らし出す。


 一縷の希望とその真逆の感情を抱きながら、タッチパッドの指を動かし、ピンクの封筒形をしたアプリケーションを開く。期待した新着メールは――なかった。苛立ち、何回か続けて「メールチェック」ボタンをクリックする。しかし、やはり来ていない。


『はぁい、今日も始まりました、新感覚シミュレーションクイズ、当たってQ――』


 唐突に女性の声が耳に入り、一彦はテレビ画面に目をやった。


 パステルカラーのセットの中、若い男女が楽しそうに拍手している。どうやら、目当ての番組ではないようだ。


 彼は、急いでチャンネルを変えようとゴミをまさぐった。そうしてから、今日もまたリモコンを買うのを忘れたことを思い出し、舌打ちをする。


 パソコンで何でも済ませてしまう一彦がテレビを見ることは珍しく、この昔ながらのブラウン管と、動かなくなったビデオデッキは、複雑化していく電子機器に対応できなくなった母親専用の道具だった。


 そして、そのリモコン――まるで親鳥が卵を抱くように母が抱えていたそれは、彼女の死後、ゴミのどこかへ消えてしまった。一彦は、仕方なく重い体を移動させ、テレビ前面のスイッチでチャンネルを切り替えた。



『きよしくんのビデオが見れなくなったんよ』


 死ぬ何ヶ月か前、母親はおずおずと切り出した。


 「きよしくんのビデオ」を見ることは、年でパートへ出られなくなった頃からの、母の唯一の趣味で、生き甲斐だった。それを知らない一彦ではなかったが、彼は無視を決め込んだ。


『古いから、壊れたんかね』


 おもねるように、もう一度母は言ったが、それも一彦は無視をした。そうするのにはわけがあった。自分では何もできない母親は、彼にとって軽蔑の対象だった。


 壊れたビデオデッキを直せ、とまでは言わない。しかし、再起動してみるとか、説明書を読んでみるとか、その気になれば、彼女にもできることはあるはずだ。


 加えて――それはこのときばかりではなかったが――彼は、母親が床についたあとの自由な時間を待ち望んでいた。


 ただでさえ、狭い部屋だというのに、母親と同居するのは息が詰まる。


 その息抜きにと起動したノートパソコンの画面上では、既に一糸まとわぬ白人女性が一彦に悩ましげな目線を送っていた。あとは、邪魔な母親が眠りに就くのを待つだけという状態だった。


『……仕方ないよね』


 息子が答えないことを知った母は、それ以上は何も言わず、部屋の隅の布団に横たわった。


 一彦は待ちきれず、彼女に気づかれぬよう、ズボンの中に手を差し込んだ。そして、欲望がすっきりしたあとは、母の言葉など忘れてしまっていた。



 いま思い返せば、あのとき新しい機器を買ってやれば良かったかもしれない、と彼は思う。


 母の死後、ネットで見かけたビデオデッキは五千円もしないものだったし、そうすれば、今際いまわきわに母が呼んだ名前は、あんな演歌歌手のものなどではなく、息子の名だったかもしれなかった。


 いや、しかしそうとも限らない。新たにデッキを買ってやっても、あの頭の悪い母親は使いこなすことはできなかった可能性のほうが高いのだ――接触の悪いスイッチに苦労しながら、一彦は考えを改めた。


 スカイツリーが建ち、地上波が切り替わってからもなお、母は割り振りの変わったチャンネルに慣れずに死んだのだ。新しいデッキなど豚に真珠、猫に小判だっただろう。



 砂嵐の混じるチャンネルをようやく切り替えると、一彦は手を止めた。そこには見覚えのあるシルエットが映し出され、胸にじわりと染みるような懐かしい歌が聞こえた。


 Mの歌だ。この歌は――そう、『LOVE&PEACE』だ。瞬時に理解し、一彦は満足げな笑みを漏らした。


 この歌は、題名の陳腐さもさることながら、歌詞すら陳腐な歌である。


 愛だの平和だの世界だの、まるで手垢の付いた言葉だけを意図的に選んだかのような、あまりに平凡な曲だった。けれど、俺には彼の思いが理解できる――一彦は焼き肉を咀嚼しながらにやけた。


 その言葉が陳腐になるほどかしましく、人間は愛だの平和だのと歌っている。しかし、だというのに、どうだろう。現実の世界はちっとも変わらない。


 これはそんな変わらぬ世界を皮肉った歌であった。


 少なくとも、彼にはそう聞こえた。そして思っていた。世界広しといえども、ここまで彼を理解しているのは俺だけだろう、と。



 始まったばかりのその番組は、亡くなってからそろそろ一ヶ月が経とうという、Mの追悼特集だった。スタジオには彼のファンだという芸能人たちが集まり、神妙な顔つきで生前のMの姿を眺めている。


 そして『LOVE&PEACE』が終わると、カメラは涙を流す、若い五人組アイドルの一人を映し出した。


「わたし、実は前から、すごいファンだったんです。ホントにすごい大好きで、だからすごい悲しくって……」


「自分、若いけど知ってんねや」


 オレらの世代ど真ん中の人やで――年配のお笑い芸人が驚き顔を作る。すると、泣いているのとは別のアイドルが、


「知ってますよお。ってか、3年前ですよね、アルバム出したの。あたしが小学校六年生の頃ですけどぉ、あれ、またダウンロードランキング上位に上がってきたんですよ」


「そうなん?」


 司会が身を乗り出すと、今度はその隣の少女が澄ました顔で言った。


「ってか、Mさんって年齢不詳すぎて、うちらとしては、逆におじいちゃん世代が知ってることのほうがオドロキですよ」


「おじいちゃんて……、やかましいわ!」


 わはははは、その突っ込みに、スタジオが笑い声に包まれた。


 どうせやらせの効果音だろう。一彦は鼻白んだ。芸人の発言は特に面白くもなかったし、実際に観覧者が笑ったとも思えなかった。


 何より、可愛らしいアイドルが、一彦よりも年下のその芸人を「おじいちゃん」と呼んだのは不快だった。この感覚は、同じ年代の視聴者なら誰しも感じるところだろう。


 思ったことはそのままにはしておけない性格だった。早速、テレビ局に苦情のメールでも送ってやろうとノートパソコンを開いたとき、胸に突き刺さるようなエレキギターの音が飛び込んできた。


「それでは、聞いていただきましょう。80年代に発表されたMさんの最大のヒット曲です。どうぞ」


 『ANGER』だ。何十年ぶりかに聞くその曲に、一彦は思わずいきどおりを忘れて聞き入った。


 その題名が示す通り、激しい怒りを歌った歌。


 スタジオでなお目を潤ませている、あの尻の青い小娘が、いくら彼のファンだと言い張ったとしても、この曲の意味など欠片もわからないに決まっている。すべての曲は、時代と密接な関わりを持っている。そして、このような名曲は、残念ながら、その時代を生きた人間にしか理解することができない。


 かといって、いまのような時代――無感情な若者が跋扈ばっこする時代には、理解もへったくれもないような、ちゃらちゃらしたアイドルソングがお似合いだった。


 しかし、一彦が若い頃は違ったのだ。


 曲には確固とした背骨があった。『ANGER』がいい例だ。この曲は、彼の若かった時代――東西冷戦の真っ只中に生きたMが、その時代と己の限界を重ね合わせた歌なのだ。


 だからこそ、この歌が伝えるものはあの時代を生きた者、同じ戦いをした者にしかわからない――いや、同じ時代に生きても、わからない者にはわからないのだろう。


 事実、Mはこの曲を理解しない世界に怒り、一度は引退も危ぶまれたほどなのだ。



 何十年かぶりに、胸に染みこむ彼の歌に、一彦は酔いしれた。若さ故の焦りと、国家主導の時代の流れ、絶望、そして葛藤――時代の走馬燈が、肺にきつい煙草を入れたときのような恍惚感をもたらした。


 Mは一彦の分身だった。


 そう思えるほど、彼はMの歌う歌詞の意味を深く理解することができると思っていた。


 違いとしては、彼が日本の一般庶民で、曲を製作する代わりに、日がな倒れたビンを起こし続けていることだったが、彼に言わせればそれは道を諦めざるを得なかった事情のせいであり、才能のあるなしではないのだった。



 俺は結局、大義よりも母親を選んだってことだ――工場での休憩時間、一彦は事あるごと、聞かれもしない話をしてみせた。


 ――マルクスもケインズも原書で読んだ。そのときの仲間には、公安に逮捕されたやつもいる。『神田川』って歌、知ってるか? あの歌に出てくるような四畳半のアパートで、仲間と徹夜で議論を戦わせた経験も、何度あるかしれない。


 できることなら俺はあのまま大学へ残り、残りの人生を研究へ捧げるつもりだった。しかし、大学四年の年に父親が死に、そのショックで母親までもが倒れちまった。一人息子の俺は、そんな母親を見捨てることができなかったってわけさ――。



 貧しい農家に生まれた一彦の母は、ひらがなも覚束おぼつかないような、学のない人間であった。学がないばかりではない、根から愚かで、暴力を振るう父親から逃げることさえしなかった。


 それなら、父親が死ねば自由になるかといえばそうでもなく、迷惑なことに自分まで倒れ、息子の未来を押し潰した。


 世界が争うのは、資本主義経済のせいであり、それを選んだ人間のせいである。そして、それこそが現代の原罪である――それが一彦の信念であったというのに、母親のために就職を選んだ彼は、もはや他の人間たちと同様、原罪に加担する罪人であった。


 彼はMの歌を聞くことをやめた。就職が決まると、大学の専門書もMのレコードもすべてを燃やし、青春を過去に押し込めた。それが、一つの魂を共有しているとまで感じたMとの訣別の儀式だった。



 しかし、それから一彦の人生が順調に進んだかと言えばそうではなかった。大体、一言居士いちげんこじの彼に、サラリーマンなど務まるはずがなかった。最初の会社は、ふた月で首になった。相手が上司であっても引き下がらず、真正面から議論を挑んだからだ。


 そんな彼を評して、母親は我慢が足りないと言った。


 たとえ、それが劣悪な労働環境であっても、酒席で上司に宴会芸を強制されたとしても、彼女はそれを黙って受け入れるべきだと考えていた。このような考えを持っていたからこそ、彼女は夫からの暴力に甘んじたのだろう。


 しかし、一彦はといえば、違う考えを持っていた。


 長いものに巻かれるのは、彼の最も嫌うところだった。結局、彼は9回も会社を変わり――四十の声を聞こうというあたりになって、いまの職場、ビン詰め工場に辿り着いた。


 工場のオーナーが、かつて学生運動に身を投じた同志だということもあり、働き口を提供してくれたのだ。初めて己を認めてくれる雇い主に出会った彼だったが、けれど、それで若い頃の熱情が戻ったわけでもなかった。


 気づけば一彦は年を取っており、その短いとは言えない時間に、彼の信念は抜け殻となってしまっていたのだ。


 彼は工場で働いた。昔話を英雄譚のように語るだけの、屍と化していたのだ。



 Mの訃報ふほうが飛び込んできたのは、そんなときだった。


 母親の死後、放ってあったテレビをつけると、緊迫した声のアナウンサーが、彼はテロリストに射殺されたのだと伝えていた。続いて、訳知り顔のジャーナリストが「彼の死で、アメリカはアラルスタンへの攻勢を強めるでしょう」と話すVTRが流れる。


 それから、Mの棺に泣きすがる、彼の黒人の従兄弟が映し出された。


 おんおんと泣きむせぶ彼を見て、「白い黒人」という、Mのデビュー時に騒がれた、奇妙な言い回しを思い出す。黒人の母親から白人が生まれるなど、遺伝子とは不思議なものだった。


 確か、Mは白人の女優と結婚し、すぐに離婚をしていたが、もし彼に子供がいたら、その子供の肌は何色であったのだろう。彼自身が黒人の血を引いているのだから、まるきり白人の子供が生まれるということはないのだろうが……。


 MとMの家族――その家族写真のようなものを一彦は少し想像し、しかしすぐに頭から追い出した。



「それにしても、Mの代理人って誰なんやろなあ。どう思う?」


 歌が終わると、テレビの中で芸人が聞いた。


 『Mの代理人』とは、彼の死後、世界へメッセージを送り続ける、正体不明の人物の名前だった。するとその問いに、中年の俳優が勢い込んで言った。


「最初、インターネットにその――Mさんが倒れる動画を上げたのは、その代理人ですよね。で、今度の彼の遺言っていうのも、その人が……」


「10日後に放送されるって予告があった、Mさんの遺言な?」


「そうですそうです。普通に考えて、Mさんの近しい人……、友人の方とか、マネージャーさんとかだとは思うんですけど。あと、未だに連絡が取れないっていう、Mさんの元妻の――何て方でしたっけ? まあ、でもここまで正体が明かされないってちょっと不気味ですよね」


「でも、遺言って世界で一斉に生放送されるらしいじゃないですか? すごくないですか?」


 アイドルが口を挟む。


「普通、そんなことできないですよね?」


「そりゃ、世界のスーパースターやからできるんやろなあ。テレビもラジオも一斉に、しかも生放送て。はー、誰も真似できんわ」


「というか、普通に人は、万が一のことを考えて遺言を残しとくなんてこと、しませんよねえ」


 俳優がうなずく。


「もちろん、彼だから必要なんでしょうけど。友人関係とか、遺産とか、いろいろ……、どんな気分なんでしょうねえ」


「えっ、そっかそっか。生きてるうちに、死んだ後のこと考えるってことですもんね。やだあ、怖い。あたし、絶対遺言なんてしたくない!」


「しなくっても大丈夫やろ。君も俺も、遺言せんといけんほどの財産はありませんからね」


 一瞬後、あ、そうかも、というアイドルの奇妙な納得と、スタジオの笑いが重なった。


「はい、それではここで、そのMの代理人さんによる、全世界一斉生放送が行われる時間なんですが――」


 笑顔で芸人の横に突っ立っていた女性アナウンサーが、大きなフリップを取り出した。


「アメリカで夜の11時からですから、日本時間では午後の――1時になりますね。ちょっとお昼の時間からは、ずれちゃってるんですが」


「でも、見逃す手はないですよ。みんなどうにかして見るんじゃないですか。ワンセグとか、電気屋とか」


 俳優の発言に、スタジオに笑いが起こる。普通は仕事中だぞ――一彦はいまいましげに画面を睨む。


 しかし――とすぐに考えを巡らせた。確かに生放送を見逃す手はない。だから、その日は休憩を長めにとればいいだろう。長く勤めているのだ。そのくらいは許される。


 一彦は、いままでも遅刻や無断欠勤を繰り返していたが、それでも彼が注意されることはなかった。その自信が、一彦の態度を増長させていた。



 500ミリペットボトルのコーラをほとんど一気に飲み干し、一彦は大きなゲップをした。あんなにボリュームのある弁当を食ったというのに、腹はくちくなかった。


 自然と手が、弁当と一緒に買ったポテトチップスに伸びた。一袋すべて食ってしまうのは、体によくないとわかっていた。けれどその習慣をやめることはできなかった。


 それは、散らかったこの部屋も同じで、彼は毎朝、今日こそは溜め込んだゴミを捨てようと思うのに、結局何もできないのだった。



 不健康に太っていく体に、彼は為す術がなかった。


 認めたくはないが、変化は母親が死んでからだろう。彼女が生きていた頃は、この部屋は清潔で、豪華ではないが、素朴な飯が毎日きょうされていた。


 だから――これは一彦自身も気づいていなかったが、彼の空腹はコンビニ弁当やポテトチップスで癒されるものではなかった。


 それは誰かのつくった料理――例えば、母のつくる、かさ増しの大根入りの肉じゃがや、粗末なものを刻んで混ぜただけのかやくご飯でなければ、いつまでも腹は減るのだった。



 母のことを思い浮かべると、家族、先ほど打ち切った想像が再びじわりと頭を侵した。いままで生きた五十余年、一彦には恋人と呼べる相手ができたことはなかった。何度か見合いをしたことはある。けれど、ことごとく振られてしまったのだ。


 それは、母親との同居と、家族を養うに十分とは言えない工場の賃金のせいであろう。けれど、そんなことが理由で断る女性など、こちらから願い下げだった。


 独身でも、不自由を感じることはない――強がり半分で彼は思っていた。彼は子供に興味は無かったし、性欲の処理なら一人でも――一人が味気ないというのなら、風俗にでも行けば良いと、深く考えたことはなかった。


 だから一彦は、「早く結婚せんと」、そう急かす母を無視して、見合いをすべて放り出した。独り身に不自由を感じなかったのは、結局は、身の回りの世話をしてくれる母がいたせいだと気づいたときには、もう後の祭りだった。



 しかし、一度孤独に気がついてしまうと、彼は突然寂しくなった。話し相手はいうまでもなく、部屋の掃除をしたり、飯や風呂を用意してくれる人が欲しいと思った。


 現実世界に伝手のない一彦は、ネット上で相手を探し始めた。気に入ったのは、世界中の人と出会えるという謳い文句の、メールのアプリケーションである。


 若いときに覚えた英語とロシア語を役立て、彼は手当たり次第に相手を探した。日本ではなく、外国の女性ならば、という期待があった。そして、期待通り、素晴らしい女性と出会うことが叶った。


 その女性はまるでモデルのような美しい顔をしたロシア人だった。


 バストショットなので下半身は分からないが、すらりとした体にたっぷりとした胸を抱えている。プラチナブロンドの髪は見るだけで良い匂いが立ち上ってきそうで、妖艶な目つきは彼の男性を否応なくいきり立たせる。


 彼は、一目で彼女の虜になった。


『私だけじゃ恥ずかしいわ。あなたの写真も見せてくれる?』


 そう言われたが、相手とは30も年の差があった。ためらっていると、


『私が容姿なんて気にすると思ってるの? メールを通じて分かってるわ、あなたは男らしくて、心のきれいな人だって』


 その言葉に舞い上がった一彦は、携帯で自撮りをした写真を送った。返事はすぐに来るはずだった。しかし、それから既に一ヶ月――いままでは日を置かず返事をしてくれていた彼女からのメールは、完全に絶えていた。


 勇気を振り絞った結果だけに、一彦はどん底へ落ちた。純粋に好きだと言ってくれた彼女にみさおを立て、その写真を使っての自慰さえ我慢していたというのに――。


 一彦はとうとう、彼女を汚す決心をした。


 袋菓子を空にすると、満たされぬ食欲に指をねぶりながら、彼は画像フォルダを開いた。その中から一枚を選ぶ。彼女の写真だ。開いただけで、びくりと下半身が反応した。一彦はごそごそとズボンを下ろし、固くなったペニスをしごきはじめた。


 彼女にコケにされたという暗い思いが、美しいものを汚してやろうという欲望を加速させた。抑圧されていたものは、早すぎるほど早くほとばしり、


「マルカ!」


 彼女の名を叫び、彼は果てた。


 自分の鼓動と、荒い息づかいだけが大きく聞こえ、一気に虚脱感に襲われる。ティッシュで股間を拭い、ゴミの中に寝転ぶ。首を少し傾けると、ちょうどモデルハウス見学会のチラシが目に入った。


 優しそうな両親に、楽しそうな兄妹、それから小さな茶色い室内犬。すなわち――家族。こんなもの、幻想だ。一彦はそう切り捨て、目を背けるように固く閉じた。


 家族など、実態のない、幻想であるはずだった。そんな幻に惑わされ、一軒家など買った日には、地獄のローンに喘ぐ日々が待っているに違いない。だから、一彦が結婚をしなかったことは、結果、人生最良の決断であったはずだった。



 まぶたの裏の闇に、他に思い浮かべる友人さえいない彼は、やはりMのことを考えた。Mも一度は結婚はしたものの、すぐに離婚をしていたではないか。


 憎しみあっての離婚ではない、などとワイドショーは彼の言葉を伝えていたが、その葬儀――従兄弟が棺にすがりつくあの映像の中に、離婚した元妻の姿はなかったではないか。


 それが何を意味するか、そんなことは子供でもわかる。「Mの代理人」が彼女だという話もあるが、それもただの憶測だろう。


 とどのつまりはそういうことで、家族など、所詮、赤の他人なのだ――一彦は満足げに口を歪まると、怠惰たいだにズボンをずり上げた。それから、この部屋の何よりも臭う、丸めたティッシュを部屋の隅に放り投げた。

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