注文の多い幼馴染

久環紫久

第1話注文の多い幼馴染

 夢に見たのは美少女との接吻キスだった。

 淑やかに閉ざされた瞳にある睫毛は長くくるりと上向いてきらきらしているように見えた。頬は紅潮しており、そこに恥じらいが見えて愛らしく思える。

 まるで少女漫画のヒロインだ。

 しかし、この美少女を俺はどこかで見たことがあった。

 どこか、記憶の片隅の残滓というか。

 すごく懐かしい顔のように思えた。

 そしてふと、はたと気付いた。この顔は子供のころに見ていた顔だ。

 その大きく優し気な目も、そのすらりと通った鼻筋も、ぷくりと照る唇も。よく見ればどれも幼いころの面影があった。

 まさしく十年も前にしょっちゅう顔を合わせていた幼馴染の顔だった。隣家に住んでいるものだから——自室の窓と窓の間はわずかに一メートルほどのご近所さんだったので——しょっちゅうどちらかの部屋に行ってはそのままリビングへ降りてご飯をごちそうになった記憶がある(もちろんウチも御馳走していた)。

 幼馴染の特権というやつで、毎日仲良くしていた。

 確か名前は……賢治と言った。

 賢治——と言った。

 賢——治——と言った。

 け——ん——じ——と言った。


 え?

 どう考えても男の名前だった。というか男だった。間違いなくそうだった。可愛かったけれど美少女ではなかった(可愛いと言っても周りに比べたらというか、男の中ではというか、学校全体で見ても断トツにだったけれど、いや、一般的に賢治を見て思う感想)。確実に”少女”ではなかった。

 けれども賢治は確かに女の子っぽかった。

 名前は体を表す——と時たま言うけれど、賢治はまさにそうで、宮沢賢治が好きだった。ランドセルを背負う前からとにかく読書が好きで、名に恥じない本の虫だった(たとえ読書家じゃなくとも恥じることはないけれども)。

 そんな”彼”は宮沢賢治のように辛抱する子供だった。というのも本の虫で運動があまり得意ではなかったし、当時はとにかく華奢で肌も白く、泣き虫だったことや、宮城県の田舎の我が校の女子グループのトップであったメスゴリラ(新山花恋にいやまかれん)の半分ほどの体重しかなかったりもして——総括すると女子よりも女子のようだったので男女問わず悪ガキどもからいじめられていたのだった。なので幼馴染のよしみで両手両足の指じゃあ数えきれないほどずっと守っていた。

 悪ガキを蹴散らして、担任教師や相手の親御さんたちから俺が怒号を浴びせられると、俺に変わって賢治が泣いた。俺は悪くないのに、と相手の親と担任だけでなく呼び出された俺の両親にも賢治の両親にも言って聞かせてはまた泣いていた。

 守ったはずなのに結局泣かせてしまうのが俺は悲しくて、腹立たしくてさらに悪ガキをぶん殴って大人たちから制裁を受けたこともたびたびあった(それは完全に俺が悪い)。

 兎にも角にも、俺のよく覚えている賢治の顔はそうやって俺のために泣いているその顔か、一緒に遊んで頬を緩ませたにへら顔ばかりだった。

 そんな泣き虫本の虫賢治は、小学三年生のころに東京に転校して行ってしまった。

「もう十年も前の話だというのによく覚えているな」と思われるだろうが、なにせ夏休み明けの初日、二学期が始まった一日目の出来事だったので、よく覚えている。

 その日、賢治が俺のところに迎えに来るはずの時間になってもいつものように迎えにやってこないものだから、代わりに俺が迎えに行ったのだ。すると、賢治は三年も使ったのに今だに新品のようなランドセルを背負っておらず、ただ玄関で体育座りをして泣きじゃくっていた。

 聞き取れた言葉は「嫌だ」と「ごめんね」だった。

 なんでも両親の仕事の都合で東京の方に引っ越すことになったらしい。夏休み中顔を合わせていたのに、まったくわからなかった。今思えば、遊びに行くたびに荷物が整理されているところもあったのだからそこで気付けばよかったのだが、能天気な俺は大掃除かな、と思い続けていた。

 つうかおじさんもおばさんも教えてくれよ、とも思う。


 まあそれは置いておいて。

 その賢治がおじさんとおばさんに優しくなだめられて、どうにか落ち着いたところで、俺に一冊の本を差し出してきた。

 それは宮沢賢治の『注文の多い料理店』だった。

——これを僕だと思って大切にしてほしい。と言った。

 突然の別れに困惑しながらも、俺はそれを了承した。それでもって俺も何か渡さなきゃと思い、ポケットを漁ったら見つかったビー玉を俺の代わりに賢治に渡した。

——それを俺だと思って大切にしてほしい。と言った。

 俺と賢治がよく遊んでいたビーダマンの思い出がその一球に詰まっている。突然であったが、俺なりにはよく思いついたものだった。

 今でも覚えている。思わず俺が赤面するほどの満面の笑みで大切にすると宣言された。可愛かった。いや、まあ、認める、可愛かった。

 それからおじさんとおばさんにそれなりなあいさつをされて、三人は車に乗ってびゅーんとどこかへ行ってしまった。追いかけたけれど、小学三年生の脚力じゃあすぐに追いつけなくなって、後部座席からこちらを見て何か言っている賢治の顔が小さくなっていって、終いには見えなくなった。当たり前だ。引っ越すんだもの。

 ドラマみたいだけれど、本当の出来事で、なんというか、一年くらいは心のどこかに穴がぽっかりと開いたようでガキのくせに図々しくも味気ない生活を送った。


 それから時は経ち、俺も成長し高校を卒業する歳になった。

 そして冒頭に戻る。

 今日、その賢治が可愛らしく綺麗に成長した姿で、俺の顔面にその顔面を近づけて触れ合ったところを夢に見て跳ね起きた。

 ありえない。冗談じゃない。馬ッ鹿野郎!

 そんなわけがあるかい!

 男には女子よりも強烈な声変りがあるし(同級生の田島くんなんてボーイソプラノからテノールになりやがった)、そもそも成長すれば、たいていの男は嫌でも体毛が濃くなるものだ。俺だってもう来年には大学生になるから髭の処理だってする。

 ところがあの顔はどうだった?

 夢に見た賢治の顔はどうだった?

——綺麗だった。多分、俺の知っている女性の中でも一番だった。いや女性ではない、賢治は男だ。だがこの際もういい、女性と比べても格段と綺麗だった。

 しかしなんだって俺はあんな夢を見た?

 思春期の終りに突然の性欲大爆発か?

 欲求不満か?

 だったらなおさら質が悪い。悪趣味だ。賢治は男だ。

 馬鹿かアホかおっぺけぺーか。

 何を夢見てる? いや、幼馴染との甘い恋愛なんて夢見ちゃいないが、けれども夢に見てしまった。

 疲れているんだろうか……。

 そう思ってあたふたしていると、部屋のドアが開いて、夢にまで見た美少女が入ってきた。


「宮くん、朝ごはん出来たよ! 起きて!」


 俺を”宮くん”と呼ぶ人間を、俺は一人しか知らない。

 目の前にいる、窓を開けて颯爽と入ってきて、ウチの高校の女子の制服を着たこいつがどんなに美少女だろうと、どんなに線が細かろうと、肌が綺麗だろうと、髪が絹のようだろうと、近くに来たら香水なのかシャンプーなのかボディソープなのかわからないけれど良い匂いがしようと、どきりと胸が高鳴りそうになろうと——


「宮くん、遅刻しちゃう! 早く!」


 あの日俺のあげたビー玉をペンダントのようにして大切に持っているこいつの名前は——


「宮くんってばー! もう!」やめろ揺するな。


 こいつの名前は絶対に相沢賢治だ!!


「宮くん、早く! 冷めちゃうよ!」布団を引っぺがされてしまった。


 そう、こいつは相沢賢治。なぜか女子よりも女子らしい、声変りもせず、女子のように成長した神に愛された男。高校進学を機にうちに居候してきた。

 見た目は女子だけれど、男だし、幼馴染だし、両親も娘が出来たみたいで嬉しいとのたまって(結局どっちだよ!)、簡単に戻ってきた。戻ってきたどころか我が家にすっかり溶け込んでいた。

 賢治に背中を押されて階下に行くと、親父も母さんもすでに食卓を囲んでいた。

 朝食は賢治が作っているので、朝の食卓の話題はだいたいその感想だ。親父も母さんも賢治が来てから太った。食べ過ぎなのだ。

 確かに美味いけれども。俺は学生なのでまだまだ育ちざかりのようで食べた分だけ消費するので問題はない。けれどもこれがもっと歳を重ねてからになったら、中年太りもやむなしのように思う。

 ……。…………何言ってんだ。

 手早く朝食を掻き込むと、賢治に怒られる。


「宮くん! ちゃんと噛まなきゃダメだよぅ!」


 うるせー、と軽く睨むと、親父と母さんが仁王像のように睨んでくるので押し黙ってよく噛むようにせざるを得ない。目玉焼きやらサラダやら白米やら豆腐やらを、一生懸命にかみ砕いてかみ砕いて最後に味噌汁をずずりと飲み干して、食器をシンクへ持っていく。


「ありがと」


 うるせー、それくらいは俺にだって出来るっつーの。たったそれだけのことなのに賢治はまるで勲章を与えるかの如く褒めてくる。こそばゆいし恥ずかしい。


 三人が朝食を食べているうちに俺は学校へ行く準備をする。歯を磨いて、身嗜みを整える。鬼太郎のように局所的に逆立った髪を必死に直そうとするが上手くいかない。まあ仕方ないし、今日はこのままでいいやと思って歯を磨いていると、朝食の片づけを終えた賢治がやってきて、


「もう、ちゃんと寝癖は直さないとだよぅ」


 と小言を言いながら寝癖直しを手に取った。


「いいよ別にこのままで」

「だめだよ、身嗜みはちゃんとしないといけないの。やりづらいからしゃがんで」


 仕方ないのでしゃがむ。


「お前だってスカートの丈、短いんじゃねえの」


 そもそも賢治は男なんだからなんで女子の制服なのかに突っ込めよ、と今更ながら思う。が、もう三年目だし似合っているものだからなんというか、そこを気にしてもどうしようもないので、それよりももし風が吹いてしまったり万が一のことが起きたら困る丈の方を注意してやる。


「膝上十五センチだから大丈夫だよ?」何が大丈夫なんだよ。

「でも何かあったら困るじゃん」

「何かあるの?」きょとんとすんなよ。


 まあでもいいか、何か危なくなったら俺が守ってやればいいだけだし。

 出来た、と言って賢治は鏡越しににこりと笑った。妖怪レーダーはなりを潜めたようだ。

 礼を言って、俺は自室に戻り、学生服に袖を通した。鞄を持ち、玄関に向かう。先にいる賢治が、靴を履いている俺にいつもの確認をしてくる。


「ハンカチ持った?」

「持った」

「ティッシュは?」

「持った」

「教科書は?」

「教室だから問題なし」しまった。

「問題あり」睨むな。「じゃあ体操着は?」

「持ったよ」

「お弁当は僕が持っているので大丈夫です」

「いつもありがとうございます」頭を下げる。

「いえいえこちらこそいつも美味しそうに食べてくれてありがとうございます」賢治が頭を下げた。よくわかんねえの。とその時。

「はいじゃあ行ってきますのチュー」

「いってきまーす」


 すくっと立ち上がってドアを開けて、背中越しにあいさつをする。


「いっつもしてくれない!」頬を膨らませて背中を小突かれた。

「するかボケ」

「おじさんおばさん、いってきまーす!」


 後ろから二人の声が聞こえてくる。ばたりとドアが閉まって、俺たちは歩き出した。

 学校まであと半分ほどの距離になったころ、ふと賢治が話しかけてきた。


「ねえ宮くん」


 賢治はいつの間にか立ち止まっており、俺の背中に声をかけた。振り向くと、まっすぐな瞳で俺を見ていた。なんだ、と首をかしげると、賢治は急に走り出して俺に飛びつくようにして抱き着いてきた。


「痛えよアホ」ぐわりとふらついたがどうにか持ちこたえた。

「あのね宮くん」

「なんだよ」

「僕ね、宮くんが好き」


 俺の胸元に埋められた賢治の顔は見えないが、声は震えていたような気がする。


「僕、ずっと前から宮くんのことが好きだった。だから、おじさんおばさんに宮くんの進学先を聞いて、ここに戻ってきたんだ」


 賢治がこちらを見上げた。案の定、その長い睫毛には涙がのっていた。相変わらず、なんだって泣くんだよ。


「ねえ宮くん。もしね、もし僕が宮くんの恋人になれるのならどんな言うことも聞くよ。他の女の子に引けをとらないくらい可愛くなるし、お料理も上手くなる。お掃除もお洗濯もお裁縫も家事全般も得意になるし、その、宮くんがしたいっていうならそういうことも上手くなる! あと、勉強も頑張るし、運動……は出来る限りで許してください!」


 なんつーか。美少女と呼んでも相違ない顔をした賢治(男)であるが、上目遣いでこちらを見上げて、しかもその目尻に涙が装飾されている上に、頬を紅潮させているとなると、妙にどきりとしてしまう。

 何も言わず、ずっとその顔を見ていたものだから、賢治は顔をまた伏せて突然、


「ご、ご注文は!!?」


 と言ってきた。急だ。腹筋が小さく痙攣を始めた。

 我慢できなくなって笑いだしてしまった。しょうもない、アホっぽい言葉だ。


「なんだよご注文って」

「笑わないでよぅ! 僕は必死なのに!」睨むなよな。

「ごめんごめん、なんか面白くて」

「失礼だよぅ!」

「ごめんって」

「それで、その、どうすれば……恋人になれるかな?」


 わずかに十八年ばかり生きてきて、恋人の一人もいなかった俺ゆえに恋人というのがいまいちよく想像できなかった。まあ、だったらそれで。


「お前なりに言わせてもらえば、ご注文は」

「やめてよぉ」

「特になし。今のままで十分だよ」


 賢治が驚いた顔をした。まさに鳩が豆鉄砲を食ったような。


「でもでも僕男だよ?」

「知ってる」

「男なんだよ?」

「知ってるって」

「なんで?」

「なんでって。そりゃお前は可愛いし、料理はもう十分美味いし、家事だってできるし、頭だっていいし、性格だって好きだし、運動はまあ、しかたねえよ。鈍臭いのが賢治だ」


 言ってて全身がごおっと瞬間的に燃えるように熱くなるのが分かった。恥ずかしくて汗まで出てきた。

 賢治が信じられない、と言った顔をしている。


「他の女子より可愛くなるんだろ?」

「なる」

「料理ももっと上手になるんだろ?」

「なる!」

「掃除も洗濯も家事全般ももっと上手になるんだろ?」

「お裁縫も! 上手になるよ!」ぶんぶんと首を縦に振った。

「まあなんだ、俺は他の女子を知らないからあれだけどさ」


 そんなにまっすぐこっちを見るんじゃねえよ。恥ずかしくて死にそうだっつーの。


「今の段階でも十分大和撫子だし良妻賢母になれるんじゃねえの? 少なくともうちの母さんよりはだいぶ大和撫子だ」


 泣くなよ。ていうか母にはなれねえんじゃねえかな。養子かな。……何考えてんだよ。


「じゃあ逆に俺にご注文は?」

「宮くんはイジワルだなあもう」

「なんかないの?」


 そうだなあ、と賢治が俺のことを痛いくらい強く抱きしめた。


「これからいっぱい考えることにする」


 幸せそうなその声と、見上げられたその笑顔と、学生服越しに伝わる体温が心地よくて。何でも来やがれと息巻いてみせた。


 遠くの方で祝福の鐘が鳴る。

 二人でその音色を聞いて笑い合った。

 んなわけねえよ遅刻だよ!!

 俺は即座に賢治を引っぺがし、背中に乗るように促した。

 賢治をおんぶして俺はひた走る。


「最初の注文です」賢治が耳元で言う。

「遅刻の上手い言い訳を考えてください」


 最初の注文から無理難題が過ぎませんかね。

 きっとその時の俺の顔は苦笑いしていたろうけれど、俺の背中にいる賢治の顔は、あの頃のようににへら顔だったろうと思う。

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