おまけ編:或る夏の一日


「あつー……」

 そう呟いたきり、言葉が出てこない。

 というよりも、先からずっと、口を開けばこの言葉しか出てこない。

 師の調査旅行に同行してニホンという国に立ち寄ったシェプリーは、この東西に細長い島国の丁度真ん中あたりにあるナゴヤという街の一画で、岸に打ち上げられた魚のようにぐったりとしていた。

「シェプリー、だらしない格好はやめなさい」

 宿の二階、窓辺に置いてある藤の椅子に腰掛けていたエンジェルが、それまで眺めていた本から顔を上げ、弟子の行動をたしなめる。

「でも、先生。ここ、暑すぎます」

 日陰となった奥の部屋のタタミも良かったが、一番気持ちがいいのは廊下だった。窓から入り込むぬるい風だけでは、とてもではないが涼がとれない。暑さに耐えかねたシェプリーが朦朧とした意識で思い付いたのが、こうして廊下の床板に張り付いて寝ることだった。

 幸い、宿には自分達以外に客はおらず、このような紳士にあるまじき格好を見られることはなかった。

 まかないの女中もガイジンと接触するのは苦手らしく、遠巻きに眺めはするものの、必要以上に近寄ろうとはしない。彼女達がこちらに用がある時は、後ろの階段を上がって来るしかないので、音が聞こえたら起きだして道を空けてやりさえすれば何も問題はないのだ。が。

 エンジェルは眉間に指をあて、軽い溜め息とともに小さくかぶりを振った。やはり、お気に召さないらしい。

 焼け付くような日光はひさしに遮られ、直接室内へと差し込むことはないが、窓から見える景色は外気温の上昇とともに霞みはじめていた。シェプリーなどは窓の側に近寄るだけでも熱気に負けるのに、しかしどういうわけか、エンジェルはダレる素振りを見せるどころか、それ以前に汗ひとつかいていなかった。

 彼は襟元まで締めたシャツのボタンにネクタイ、更にきっちりとベストまで着こんでいた。まるで、いついかなる時でも紳士たれとでもいうかのように。

 ――そういえば、この人はアデンの時もそうだった。

 中東の焼け付く砂漠の中でも、五月の芝生を散歩でもしているかのような涼しい顔でラクダに揺られていた師の姿を思い出し、シェプリーは唸った。

「フォスター先生は暑くないんですか?」

「『心頭滅却すれば、火もまた涼し』」

「何です、それは?」

「ニホンに古くから伝わる、サムライの言葉だよ。心を無にして精神を集中させれば、どんな苦痛も苦痛と感じることはない」

 それってつまり、裏返せば単なるやせ我慢という意味なのではないかと、暑さに弛んだシェプリーは言いそうになったが、すんでのところで思いとどまった。

 言えば言ったで、今以上の圧力プレッシャーがかかるに決まっている。例えば――そう、例えば、地理もろくに知りもしないこの街で、炎天下の中を使いに走らされるとか。

 聞くところによると、ナゴヤ近辺は特に蒸し暑い地方なのだそうだ。今だって、表の往来を誰かが歩いている気配はない。皆、あまりの暑さに外出すら控えているのである。こんな場所でそんな事態になりでもしたら、まず間違いなく行き倒れとなるだろう。新聞の見出しは「外国人、炎天の異国の地で倒れる」とか何とか。

 自分の想像にぞっとしたシェプリーは、思わず姿勢を正した。

 エンジェルはシェプリーを気遣ってはくれるが、決して甘やかしたりはしないし、「やる」と言ったら本当に実行する人物である。シェプリーがこの世に生を受けて18年と約半年。病弱だった幼少時代を乗り越え、ようやく普通に動ける身になったばかり。まだ死にたくはない。

 軒先の風鈴はチリチリと涼し気な音を立てているものの、それで本当に気温が下がるわけでもなし。むしろ、それを遥かに凌ぐ勢いで鳴き喚いているセミの存在が鬱陶しくてたまらない。それも、一匹ではない。道路脇の樹木やら庭の塀やら、果ては建物の壁などにまで、奴等は何匹何十匹とへばりついているのだ。

 あのように小さな昆虫が、一体どうしたらこれほどまでに盛大な音を出すことができるのだろう。しかし今のシェプリーはそのことを不思議に思うよりも、押し寄せる波濤はとうにも似た狂気めいた合唱がただただ恨めしくて仕方がなかった。


 そんな弟子の様子を思案顔で眺めていたエンジェルだったが、彼は不意に何かを思いついたかのように頷くと、おもむろに口を開き、こう切り出した。

「……そうそう、この国では暑い季節に涼をとる方法が幾つかあってね。折角だから、試してみるかい?」

「はい!」

 師の提案に、シェプリーは即答した。ただ気温が高いというだけならともかく、湿気も加わったこの粘るような熱気には、いい加減、辟易へきえきとしていたところだったのだ。

「で、どんな方法なんです?」

 それまでのうだり具合とは全く別人のように顔を輝かせる弟子に、エンジェルは告げた。

「『カイダン』」

 師の言葉を受けたシェプリーは後ろを振り返り、廊下の突き当たりにあるものを見た。

「いや、そのカイダンではなくて」エンジェルは本を閉じて椅子から立ち上がると、廊下で慣れない正座をしている弟子の前まで歩み寄り、そして、目線を合わせるようにその前に屈みこんだ。

「stairではなく、ghost storyの方だよ」

「えっ――」

 シェプリーはぎょっとして身を引いた。

「ゆ、幽霊ですか? 怖い話……ラフカディオ・ハーンのような?」

 動揺のせいか、声が上擦っている。

 シェプリーは怖い話が苦手だった。自身は霊媒体質のくせに、特に幽霊・お化け・妖怪の類いは全く駄目なのだ。

「そう。ニホンでは丁度今くらいの時期の夕べに、皆で集まって怖い話をしあうというのがあってね」

 エンジェルのどこか夢見るようなうっとりとした笑顔。その美しさと優雅さは、老いても尚健在であった。彼という人物の中身を知りもしない婦女子がここに同席していれば、確実に頬を染めて恥じらっていたであろう。

 が、シェプリーは男であった。幼少の頃から彼についてあらゆることを学んできた。彼がこんな表情をしたときに、内心で何を企んでいるのか嫌というほど知っていた。

「――そんなに暑くてたまらないというのなら、幾つか話してあげよう。実は、とっておきのがあるんだよ」

 逆光で見る天使の笑顔以上にそら寒くなる事があるだろうか――否、おそらく、無い。

「いいいいいえいえいえ! 結構です! 遠慮しますっ!」

 今ので充分にきもが冷えた。シェプリーは必死に首を振って拒否の意志を示したが、

「まぁ、そう言わずに」

 相手にそれが伝わることは決してなかった。


 それから夜が更けるまで延々と怖い話を聞かされたシェプリーが、布団の中で一晩中ガタガタと震えていたということについては、またいずれ、別の機会にでも。

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ソナドラ番外編 不知火昴斗 @siranui

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